忍者狩り

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忍者狩り
監督 山内鉄也
脚本 高田宏治
出演者 近衛十四郎
佐藤慶
山城新伍
河原崎長一郎
田村高廣
高森和子
音楽 津島利章
撮影 赤塚滋
編集 宮本信太郎
製作会社 東映京都
配給 東映
公開 日本の旗 1964年9月5日
上映時間 87分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
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忍者狩り』(にんじゃがり)は、1964年の日本映画。主演・近衛十四郎、監督・山内鉄也。製作・東映京都撮影所、配給・東映モノクロ、シネマスコープサイズ、映倫番号13577。

概要[編集]

幕府が差し向けた忍者たちと四人の浪人との無残な殺戮戦を描く「東映集団抗争時代劇」の一本[1][2]。当時の東映京都撮影所(以下、東映京都)がシリーズ化した「東映集団抗争時代劇」と「忍者映画」をミックスした[3]

あらすじ[編集]

徳川三代将軍家光は、幕府の体制を不動のものにするため諸国に散在する豊臣恩顧の外様藩取潰しに目を光らせた。おりもおり、伊予松山20万の蒲生家では、嫡子種丸の家督相続を願い出た。そこで幕府は何とか目障りな松山藩を潰そうと、徳川将軍家お墨付を奪うように甲賀忍者30余名を放つ。松山藩城代会沢土佐は、直ちに4人の腕の立つ浪人を雇い入れ、浪人4人対甲賀忍者30人による攻防戦が始まった[3][4][5]

キャスト[編集]

スタッフ[編集]

製作[編集]

企画[編集]

1964年2月に東映京都所長に復帰した岡田茂は、大川博東映社長から東映京都の合理化時代劇改革の指揮権移譲を受けて[6][7][8][9][10]、東映京都の全ての企画の決定権を握った[10][11][12][13]。岡田は前任の東京撮影所で成功した若手監督の抜擢を京都でもやろうとし[14][15][16][17][18]ギャラの高い大御所監督脚本家、大御所俳優の起用をやめ[6][15][18][19][20]、前回の京都撮影所所長時代に目をかけていた中島貞夫鈴木則文、山内鉄也、鳥居元宏、牧口雄二、掛札昌裕らを次々登用していく[14][16][18][21]。また森義雄、天尾完次、松平乗道、橋本慶一ら若手プロデューサーには「企画書なんて出さなくてもエエから、いい考えがあれば口で言え!」と伝えた[14]。このうち森義雄が出した「忍者が城に潜入するんじゃなくて、城で忍者を防ぐ話はどうでしょう」という企画を「ええな。よし題名は『忍者狩り』や!」と製作を即断した[14]。この時期の東映京都の時代劇のタイトル、『大殺陣[14]『悪坊主侠客伝』[10]御金蔵破り[22]『集団奉行所破り』[10]『大喧嘩』[10]間諜[10][14]十兵衛暗殺剣[10]幕末残酷物語[23]などが岡田の命名[10][14][24]。それまでの時代劇の題名は、もっとロマンを謳っていたが[25]、岡田が時代劇の題名を付け始めてから、全て行為そのものを前面に打ち出す、非常に即物的でドライな語感を持つ題名に変わった[25][26]。これは以降の岡田命名の東映映画のタイトルに共通する特徴でもある[27]。本作の監督には岡田が新人の山内鉄也の抜擢を決めた[14][18]。岡田は当初は時代劇復活の望みを持っており[10][26]、リストラ対策に呼応して、一人のスターにたよらない集団劇を方針の一つとして挙げていたため[28]、「集団抗争時代劇」は継続させるつもりでいた[14]

忍者映画[編集]

忍者映画は、時代劇には格好の題材として日本映画黎明期より数多く作られてきたが、子ども向けに作られた荒唐無稽なものが多く、大人にはあまり受け入れられなかった[3]。大人にも親しまれる本格的な忍者映画が作られるようになったのは、文壇で様々な忍者小説が発表された昭和30年代に入ってからで[3]映画界での忍者ブームは、1961年12月24日に公開された大川橋蔵主演、小沢茂弘監督による『赤い影法師』(東映)を嚆矢とし[3]、翌1962年12月1日公開の市川雷蔵主演、山本薩夫監督の大映京都忍びの者』が大ヒットして頂点を迎えたといわれる[3]。以降、『忍者秘帖 梟の城』や『十七人の忍者』(ともに東映)などが製作され、忍者映画はスクリーンを席巻した[3]。本作は忍者集団に挑む浪人たちに焦点を当てたことで話題を呼んだ[3]。昭和30年代に文壇と映画界に起こった忍者ブームは、テレビに飛び火し、その後大人も子どもも楽しめるエンターテインメントとして発展していった[3]

脚本[編集]

本作は脚本家の村尾昭が『七人の侍』をヒントに着想したもので、敵地で任務を遂行する忍者の活躍を描くのではなく、忍者から城を守るために雇われた四人の傭兵の活躍を描く[29]。企画がここまで決まったところで村尾が別作品にかかっりきりになったため、プロデューサーの森義雄は脚本を高田宏治に頼んだ[29]。高田は京都祇園古門前の旅館の暗い部屋で、山内鉄也監督や中島貞夫と連日徹夜でアイデアをぶつけ合った[30]。中島も東映京撮初のエロ映画くノ一忍法』で監督デビューが決まっていた[31]。また本作で全員一本立ちすることが決まった殺陣師の上野隆三や美術の井川徳道、撮影の赤塚滋、照明の金子凱美ら若手も旅館に集まり激しい議論を交わした[29]近衛十四郎扮する傭兵のリーダー・和田倉五郎左衛門は、「この人は本当に人を斬るんじゃないか」と思わせる近衛の荒々しく振るわれる剛剣を前面に押し出しキャラクターを膨らませた。高田は「大映のヒットシリーズ『忍びの者』を超えようと、喧々諤々やりながら書いたんや。とことんハードボイルドにいったろ思うてね。ラスト、霊廟の中での死闘はいま観ても、痺れるわ」などと述べている[32]。 

キャスティング[編集]

主演・近衛十四郎は松方弘樹の父。1982年に松方主演、山内監督、脚本高田、音楽津島と同じチームで、フジテレビテレビドラマとしてリメイクされている[3]。近衛は目に見えぬ敵に対し、殺気で眼をギラギラさせ苦闘する姿を好演し、まさしく時代劇の追い詰められた状況を体現した[33]。病に伏せる当主に代わり、蒲生家を仕切る城代を演じた田村高廣[3]、父・阪東妻三郎が元々、竹薮だった太秦の地を切り開いて作った東映京都に帰還[34]。しかし本格的な時代劇はまだ不慣れで[3]、東映京都のスタッフに所作を厳しく教え込まれた[3]。清純派女優ながら本作で妖艶な尼僧を演じた高森和子は、初めてセミヌードも披露し、新境地を開拓[3]。後1983年1984年NHK連続テレビ小説おしん』でおしんに辛く当たる役を演じて大きな評判を取った[3]

撮影[編集]

添え物の中では低予算ながら良い方の金額で[18]、当時の東映時代劇は大体二週間程度で撮っていたが[18]、夜間撮影などもあり三週間以上の撮影だった[18]

作品の評価[編集]

映画評論』は「オリジナルシナリオでアクションシーンにずいぶんな趣向を凝らして面白かった」と評価し[25]、岡田茂も激賞したが[18]、興行は振るわなかったとされる[10][35]。その後も岡田は新しい傾向のもので時代劇の復興を試みたが、作品の良さとは関係なく興業的には凡打が続き[10]、1965年の正月映画『徳川家康』の結果を見て[10]、時代劇は全てテレビに移す決断を下した[10][19][36][37][38][39]。時代劇がテレビに移ったことで岡田の標榜する「不良性感度映画」が一層強化されることになった[37][40][41][42][43][44]

同時上映[編集]

大喧嘩(おおでいり)

ネット配信[編集]

  • YouTube東映時代劇YouTube」2023年3月企画「忍者映画特集」の一環として、3月17日16:00(JST)から3月26日23:59(JST)まで無料配信が行われている。

テレビドラマ[編集]

1982年、『時代劇スペシャル』の1篇として製作された。

スタッフ[編集]

  • 原作:高田宏治
  • 脚本:高田宏治、大津一郎
  • 音楽:津島利章
  • 監督:山内鉄也
  • 制作:東映、フジテレビ

キャスト[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ クレジットは「八左衛門」になっているが、本編中は「八右衛門」と言っている

出典[編集]

  1. ^ 忍者狩り”. 日本映画製作者連盟. 2019年11月28日閲覧。忍者狩り”. 東映ビデオ. 2019年11月28日閲覧。アテネ・フランセ文化センター/データベース”. アテネ・フランセ. 2019年11月28日閲覧。剣聖 近衛十四郎|作品解説3/ラピュタ阿佐ケ谷
  2. ^ 山根貞男「『影の軍団 服部半蔵』より『チャンバラは政治を越えて』」『シナリオ』1980年3月号、日本シナリオ作家協会、57頁。 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o DVDコレクション 2010, pp. 2–3.
  4. ^ 山根貞男「映画案内『忍者狩り』」『芸能画報』1964年7月号、サン出版社、51頁。 
  5. ^ 「忍者知略、罠、囮、奇襲、闇夜の攻防!… 文・金澤誠」『東映キネマ旬報 vol.4』2007年秋号、東映ビデオ、15頁。 
  6. ^ a b 「戦後50年 東映 岡田茂会長インタビュー『 おもしろおかしく生きて勲二瑞宝』」『AVジャーナル』1995年12月号、文化通信社、27頁。 
  7. ^ 「東映事業中心の多角経営を促進 東映、時代に則した新機構人事」『映画時報』1964年3月号、映画時報社、24-26頁。 「座談会 日本映画界はどう進むべきか? ―現代の経営路線に悩む各社―」『映画時報』1964年5月号、映画時報社、20-21頁。 井沢淳・瓜生忠夫大黒東洋士・高橋英一・大橋重勇・嶋地孝麿「〈特別座談会〉 日本映画製作批判 ーこれからの企画製作はいかに進めるべきか」『キネマ旬報』1965年7月上旬号、キネマ旬報社、16頁。 “【戦後史開封】(290) チャンバラ映画(5) 時代劇撤退次々去った東映スター”. 産業経済新聞 (産業経済新聞社): p. 朝刊特集. (1995年3月18日) 
  8. ^ 岡田茂自伝 2004, pp. 164–165.
  9. ^ クロニクル東映2 1992, pp. 5–6.
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m 渡邊 1991, pp. 139–147.
  11. ^ あかんやつら 2013, pp. 191-198、261.
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  13. ^ 「東映50周年と『千年の恋 ひかる源氏物語』 岡田茂インタビュー」『キネマ旬報』2001年12月上旬号、キネマ旬報社、42-43頁。 
  14. ^ a b c d e f g h i あかんやつら 2013, pp. 191–198.
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  18. ^ a b c d e f g h 「あゝ監督人生 山内鉄也PART1」『時代劇マガジン Vol.15』、辰巳出版、2007年1月、100-103頁、ISBN 4777803236 
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参考文献[編集]

外部リンク[編集]