1964年東京オリンピック

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1964年東京オリンピック
第18回オリンピック競技大会
Jeux de la XVIIIe olympiade
Games of the XVIII Olympiad
開催都市 日本の旗 日本 東京都
参加国・地域数 93
参加人数 5,152人(男子4,468人、女子684人)
競技種目数 20競技163種目
開会式 1964年10月10日開会式詳細
閉会式 1964年10月24日閉会式詳細
開会宣言 昭和天皇
選手宣誓 小野喬
最終聖火ランナー 坂井義則
主競技場 国立霞ヶ丘陸上競技場
夏季
冬季
オリンピックの旗 Portal:オリンピック
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1964年東京オリンピック(1964ねんとうきょうオリンピック)は、1964年昭和39年)10月10日(後の体育の日)から10月24日までの15日間、日本東京都で開かれたオリンピック競技大会

一般的に東京オリンピック(とうきょうオリンピック)と呼称され、東京五輪と略称される。公用文では第十八回オリンピック競技大会の表記もみられる[1]

概要

1940年東京オリンピックの開催権を返上した日本及びアジア地域で初めて開催されたオリンピックで、当時は「有色人種」国家における史上初のオリンピックという意義を持っていた。また、アジアやアフリカにおける植民地の独立が相次いだこともあり、過去最高の出場国数となった。

歴史的には、1952年のヘルシンキ(フィンランド)1960年のローマ(イタリア)に続いて旧枢軸国の首都で開催されたオリンピックでもあり、1940年東京オリンピックの開催権を返上した後に参戦した第二次世界大戦で敗戦したものの、その後急速な復活を遂げた新日本が、再び国際社会の中心に復帰するシンボル的な意味を持つとされる。

開会式は10月10日、閉会式は10月24日に行われた。開会式の10月10日は、1966年(昭和41年)以降「体育の日」として親しまれるようになったが、「体育の日」は2000年(平成12年)より10月の第2月曜日となった。

大会開催までの経緯

開催地決定を報じた読売新聞(1959年5月27日付)

1940年昭和15年)夏季大会の開催権[2] を返上した東京は、連合国軍による占領を脱した2年後の1954年(昭和29年)に1960年(昭和35年)夏季大会開催地に立候補した[3]。しかし、翌1955年(昭和30年)の第50次IOC総会における投票でローマに敗れた。

次に1964年(昭和39年)夏季大会開催地に立候補し、1959年(昭和34年)5月26日に西ドイツミュンヘンにて開催された第55次IOC総会において欧米の3都市を破り開催地に選出された。

得票数は東京が半数を超える34票、アメリカ合衆国デトロイトが10票、オーストリアウィーンが9票、ベルギーブリュッセルが5票だった。特に、総会での立候補趣意演説を行なった平沢和重(外交官)や、中南米諸国の支持を集めるために奔走した日系アメリカ人実業家フレッド・イサム・ワダ(和田勇)、当時都議であった北島義彦、「日本レスリングの父」といわれた八田一朗らの功績が大きかった。なお、和田は育った御坊市で名誉市民第1号となっている。

1957年(昭和32年)当時、日本水泳連盟会長を務め東京招致を主導していた田畑政治は、オリンピック招致費用が2013年現在の価格に換算して約1200億円かかることを懸念していた岸信介首相へ観光収入も見込めると直談判した[4]

1964年夏季オリンピック 開催地投票
都市 投票数
東京 日本の旗 日本 34
デトロイト アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 10
ウィーン  オーストリア 9
ブリュッセル ベルギーの旗 ベルギー 5

開催の決定した日本では「東京オリンピック組織委員会」(会長:津島寿一、事務総長:田畑政治)が組織され、国家予算として国立競技場をはじめとした施設整備に約164億円、大会運営費94億円、選手強化費用23億円を計上した国家プロジェクトとなった[5]

開催にあたり、組織委員会は巨大な東京オリンピック公式ポスターを都市部に設置、デザインは亀倉雄策が手掛けた。組織委員会では、津島と田畑が第4回アジア大会参加問題で1962年10月に引責辞任。後に安川第五郎が組織委員会会長、与謝野秀が事務総長となった[6][7]

実施競技と日程

各競技の詳細については、それぞれの競技のリンク先を参照のこと。

競技名 / 日付(10月) 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24
開会式
陸上競技
競泳競技
飛込競技
水球
体操
柔道
レスリング
自転車競技
バレーボール
バスケットボール
サッカー
ボクシング
ボート
セーリング
カヌー
フェンシング
ウエイトリフティング
ホッケー
近代五種競技
馬術
射撃
閉会式

公開競技

デモンストレーション

ハイライト

開会式で整列する各国競技団
マラソンで先頭を走るアベベ(甲州街道
甲州街道上り、味の素スタジアム。1964年東京オリンピックマラソン折り返し地点。調布市
甲州街道下り、小金井街道入口交差点。1964年東京オリンピック50 km競歩折り返し点。府中市緑町
閉会式
  • 10月10日
    • 開会式
  • 10月11日
    • 重量挙げバンタム級で一ノ関史郎が銅メダル獲得。日本勢初のメダル。
  • 10月12日
    • 重量挙げフェザー級で三宅義信が優勝。
  • 10月13日
  • 10月14日
  • 10月15日
  • 10月16日
    • 陸上競技、男子800mでピーター・スネルが二連覇を達成。
  • 10月17日
    • 陸上競技、棒高跳びで9時間半の熱闘の末、ハンセンが優勝。
  • 10月18日
    • 水泳競技で米国勢が活躍。ドン・ショランダーが金メダル4個。
    • 水泳競技で日本勢は最後の種目で銅メダル獲得。
  • 10月19日
    • レスリング、グレコローマンで市川政光、花原勉が優勝。フリースタイルと合わせて5個の金メダル獲得。
  • 10月20日
    • 柔道軽量級で中谷雄英優勝。
    • 体操男子は、団体で金、個人総合で金・銀。体操女子も団体で銅メダル。女子個人総合でベラ・チャスラフスカが優勝。
  • 10月21日
  • 10月22日
    • 体操男子は、つり輪で早田卓次が金メダル。
    • 柔道重量級で猪熊功が優勝。日本に3個目の金メダル。
  • 10月23日
  • 10月24日
    • 閉会式

東京オリンピックのメダル

オリンピック・メダル

東京オリンピックのメダル、造幣さいたま博物館にて展示。

東京オリンピックの入賞メダルは大蔵省造幣局の工芸官が原型を作成した。

デザインは金・銀・銅、共に、表面は「勝利者を肩車した男性の群像」、裏面は「勝利の女神」が浮き彫りにされ、また「大会名、競技名」を記載してある欄があった。

サイズは、金メダル・銀メダル・銅メダル共に直径6cm、厚さは3mm。

重さは、金メダル90g、銀メダル82g、銅メダル69g。

製造された数は、金メダル300個、銀メダル300個、銅メダル314個。

価格は、金メダル12,500円、銀メダル7,500円、銅メダル6,000円。(全て昭和39年当時の価格)と発表されたが、この価格はあくまで造幣局が日本オリンピック委員会に請求した額であり、実際のメダルの製造では1枚のメダルを製作するのにプレス加工を合計25回も繰り返すなど手間のかかったものになっていた。大会後、製造したが余ったメダルは鋳つぶされている。

参加メダルは岡本太郎(表)と田中一光(裏)によるデザインだった[9]

各国の獲得メダル

参加国一覧
国・地域
1 アメリカ合衆国 アメリカ合衆国 36 26 28 90
2 ソビエト連邦 ソビエト連邦 30 31 35 96
3 日本 日本(開催国) 16 5 8 29
4 東西統一ドイツ 東西統一ドイツ 10 22 18 50
5 イタリア イタリア 10 10 7 27
6 ハンガリー ハンガリー 10 7 5 22
7 ポーランド ポーランド 7 6 10 23
8 オーストラリア オーストラリア 6 2 10 18
9 チェコスロバキア チェコスロバキア 5 6 3 14
10 イギリス イギリス 4 12 2 18

主なメダリスト

10,000メートルで優勝したミルズ(アメリカ)
女子飛び込みで優勝したクレーマー(統一ドイツ)

競技会場

東京23区内

国立霞ヶ丘陸上競技場
国立代々木競技場第一体育館
駒沢陸上競技場
日本武道館

周辺地域

東京都(23区を除く)

神奈川県

埼玉県

千葉県

長野県

選手団

  • 各国選手団の中で最初に日本に乗り込んできたのは韓国の馬術競技の選手団である。5月31日釜山港からアリラン丸に乗り出航。6月3日に東京に到着した。その後世界各国の選手団が空路や海路で乗り込んできた。東京国際空港には各国の選手団を運んできた旅客機が並んだほか、競技用の道具や馬を運んできた貨物機も並んだ。
選手村でくつろぐ統一ドイツの選手団
  • 選手村
  • 食事[12]
    • 選手村では大会期間中、毎日7,000食もの食事が作られた。開村から閉村までの期間中に供された食事はのべ60万食にも及ぶ。
    • 選手村の選手用食堂は男女別に分かれ2箇所あった。女子向けが「富士 (Fuji)」、男子向けは「桜 (Sakura)」だった。「富士食堂」の統括担当は帝国ホテル村上信夫シェフ、「桜食堂」の統括担当は日活国際ホテルで馬場久シェフ。両名に率いられたコックは総勢306名。
    • 選手村における選手の食費は「1人あたり1日6ドル以内(1ドル360円換算で2160円)」と決められていた。
    • イスラム教徒用の食事を調達するため、日本在住でイスラムの屠殺免許と日本の調理師免許を持った人を探し出し(当時、この条件に合う人は日本で1人だけだった)、選手村でイスラム教徒向けの料理を作ってもらった。
    • フランス選手団は自前でフランス料理の調理人をフランス本国から連れてきた。
    • 選手食堂で開村から閉村までの期間中に消費された食材は、340頭、280頭、ヒツジ600頭、ニワトリ6万羽、えびヒラメ合計46トン、野菜356トン、鶏卵72万個、16トン、食パン8万6千斤、牛乳50万本だった。
    • 大量の食事をまかなうために、冷凍食品の技術や解凍法、調理法が向上した。
  • その他
    • 選手村の警備警視庁の他に陸上自衛隊も担当した。朝霞駐屯地の隊員約360名が7月16日より大会終了後まで交代で任務についた。
    • 7月9日午後9時頃に選手村246号館から火災が発生して30平方メートルを焼いた。原因はガス工事のためと推察された。
    • 選手村に百貨店で唯一の売店を松坂屋銀座店が出店し、衣料品や土産を販売[13]

参加者

アフガニスタン (12)

アルゼンチン  (28)

アルジェリア(1)

オーストラリア  (294)

オーストリア  (29)

バハマ  (4)

ベルギー  (51)

バミューダ (3)

ブラジル(44)

イギリス領ガイアナ  (4)

ブルガリア (43)

ボリビア(4)

ビルマ (11)

カナダ (92)

カメルーン (1)

セイロン (3)

チリ (33)

チャド(2)

チュニジア(9)

中華民国 (13)

コロンビア (26)

コスタリカ(2)

コンゴ共和国 (2)

コートジボワール (9)

キューバ (16)

チェコスロバキア (63)

デンマーク (31)

ドミニカ共和国  (1)

エジプト(73)

エチオピア (12)

フィジー (5)

フィンランド (71)

フランス (137)

ガーナ(33)

カンボジア(13)

ドイツ統一チーム (158)

イギリス 英国 (189)

ギリシャの共和国 (13)

ホンジュラス (3)

香港 (2)

ハンガリー 民共和国 (108)アイスランド (2)

アイルランド 共和国 (18)

インド (59)

インドネシア  (22)

イラン ペルシャ (17)

イタリア (129)

イスラエル (3)

日本 (110)

ケニア (25)

レバノン共和国(5)

リビア (0)

リベリア (4)

リヒテンシュタイン(2)

ルクセンブルク(11)

マリ連邦(2)

マラヤ連邦(32)

マダガスカル共和国(3)

メキシコ (24)

モナコ(1)

モンゴル(21)

モロッコ(20)

ネパール(6)

ニュージーランド(53)

ニジェール(1)

ナイジェリアリア連邦 (10)

北ボルネオ (2)

北ローデシア (12)

ノルウェー(22)

パナマ(10)

パキスタン (55)

ペルー (8)

フィリピーノ共和国 (39)

ポーランド人民共和国 (64)

ポルトガル共和国 (11)

プエルトリコ (10)

ローデシア(29)

ルーマニア  (44)

セネガル(12)

シンガポール (52)

南アフリカ連合 (50)

韓国 大韓民国 (35)

スペイン の状態 (6)

スウェーデン (88)

スイス スイス (9)

サイアム タイ (38)

タンガニーカ(4)

トバゴ トリニダー (0)

ジャマイカ (6)

ベトナム 南方のベトナム国 (6)

ユーゴスラビア (35)

ド西インド諸島連合(6)

トルコ (19)

ウガンダ (3)

合衆国のアメリカ (297)

ウルグアイ(21)

ベネズエラ (19)

ソビエティカ (272)

非参加国

エルサルバドル:

開催に向けての整備

岸記念体育館
五輪橋

この東京オリンピックの開催に向けて、競技用施設から選手村、公共交通機関などのインフラストラクチャーや観戦客を受け入れるためのホテルに至るまで、東京都内のみならず日本各地において種々の建設・整備がなされた。

東京オリンピックの経費は265億3400万円といわれる(組織委経費の99億4600万と大会競技施設関係費の165億8800万円[14] との合計)[15]

競技場等の施設

交通機関・道路等のインフラ

宿泊施設

聖火

トーチを手に聖火台へと向かう坂井義則
東京オリンピック聖火トーチ

計時

  • セイコー(現セイコーホールディングス)が初めてオリンピックの公式計時を担当した。セイコーは電子計時を採用、オリンピック史上初めて計測と順位に関してノートラブルを実現し、世界的な信頼を勝ち取ることに成功した。

交通規制

東京オリンピックの開催期間中は千駄ヶ谷代々木などのメイン会場の周辺はもちろんその他の広範囲にわたって大規模な交通規制が行われた。特に、10月10日の開会式では警視庁は1万人の警察官を動員して警備に当たった。開会式会場となった国立競技場の横の神宮外苑も開会式当日は一般に開放されたが、この神宮外苑も収容人数は4万人程であり、チケットのない者は神宮外苑に入ることができなかった。

そして午前10時から開会式終了後までは、この神宮外苑には警察や大会関係などの許可車両以外は一切通行が禁止された。またそれ以外に「外周制限線」と名付けられた制限区域がもうけられた。これは「新宿4丁目交差点 - 四谷見附交差点 - 溜池交差点 - 西麻布交差点 - 新宿4丁目交差点」を囲む範囲内でおこなわれた極めて大規模な交通規制で、開会式会場の警備の他に国内外のVIPなどの移動をスムーズにするのが目的であった。また、その他にマラソン、競歩自転車競技、など多くの競技で大規模な交通規制が実施された。

東京オリンピック開催が日本にもたらした影響

  • 東京オリンピックの開催期間には、1964年(昭和39年)10月14日のソ連のニキータ・フルシチョフ首相解任、10月16日の中華人民共和国(後述のとおり本大会には不参加)による初の核実験など国際的事件が次々と起こった。これにより「瞬間的に世界の注目を奪われた面もある」と考えられる一方、冷戦下の世界情勢を反映する場として注視の的になるという面もあったようである。この大会はこれらの事件とともに世界史の一つの転換点であった。
史上初の3人乗り宇宙船であるソ連ボスホート1号(1964年10月12日打ち上げ、10月13日帰還)は東京上空を飛行するにあたり、オリンピックに参加する「世界の青年に熱烈なあいさつを」送った。
キング牧師ノーベル平和賞受賞が決定したのも、会期中の10月14日のことである(実際の受賞は12月10日)。
イギリス領北ローデシアは、閉会式の日にあたる1964年10月24日(日本時間では同日午前7時)にザンビアとして独立したため、開会式と閉会式とで異なる国名となった。選手村の国旗なども、同日をもって新国旗に付け替えられた。
特に首都高速道路の建設は急ピッチで進められ、東京国際空港(羽田空港)から国立競技場までつながり(その先の新宿まで開業)、途中で銀座東京駅(呉服橋)・皇居周縁・国会議事堂霞が関官庁街など、主要施設を経由する首都高速都心環状線ルートが大会前に完成したが、用地買収の期間を省くため、日本橋川上空などが利用され、日本橋も首都高速道路の高架の下に隠れることとなり、東京都心部の親水空間は減少した。
  • 「ゴミ都市」と呼ばれていた東京に、都の主導でゴミ収集車が250台導入され、また、積水化学製のポリバケツが普及した。
  • オリンピック組織委員会が、代々木選手村の整備期間中及び大会期間中の警備に際して、警察官の人員不足を考慮して、民間警備会社『日本警備保障』(現在のセコム)に警備の依頼を行った。この民間警備会社による警備が無事に終了したことを機に、日本の社会に民間警備が認知されるようになっていく[28]
  • 東京オリンピックで、初めてコンピュータによるリアルタイムでの記録管理が行なわれたことも、地味ではあるが特筆すべき事項である。それ以前のオリンピックでもコンピュータは使われていたが、あくまで記録管理はバッチ処理により行なわれており、最終的な公式記録の確定・レコードブックの作成には、大会終了後数ヶ月を要していた。
しかし、東京オリンピックでは、プレスセンターのある日本青年館に設置されたコンピュータにより、リアルタイムで記録が管理され、全競技会場に置かれた端末で入力された各競技の記録が集められただけでなく、端末では他会場の競技結果も参照することが出来た。また公式記録の確定も速やかに行なわれ、大会最終日の閉会式において、全競技の記録を記した記録本が、当時のアベリー・ブランデージIOC会長に渡された。
同システムの構築は、日本アイ・ビー・エムが約2年半がかりで行なったもので、プロジェクトリーダーを務めた竹下亨(後に中部大学大学院経営情報学研究科教授)は、このシステム構築に関する論文をまとめた功績で、1988年(昭和63年)に山内業績賞を受賞している。
本システムの成功は、日本においてリアルタイムシステムが普及する大きな契機となり、同プロジェクトのメンバーは、その後三井銀行第一次オンラインシステムマツダの生産管理システムなど、多くのリアルタイムシステムを手がけていくことになる[29]
  • 森永卓郎(経済評論家)によると、チキン弁当は、外国人用の駅弁を考えていた時に、当時の食堂車のコックの洋食まかないを参考に考案され、福岡銘菓のひよ子も1964年に東京に進出して東京銘菓になった[30]
  • それまで社会人のスポーツは見る物だったが、ママさんバレーに代表される参加するスポーツが盛んになり、公共のスポーツ施設が各地に造られていった。

「テレビ・オリンピック」

オリンピック放送を観戦する市民。
その後、街頭テレビは衰退していった。

東京オリンピックは、ベルリンオリンピックで初お目見えしたオリンピックのテレビ中継技術が格段に向上したことを印象づける大会となった。衛星放送技術を始め、カラー写真・小型のコンパクトカメラの開発などもその特徴である。

東京オリンピックの衛星中継は、現地の映像をシンコム3号で日本からアメリカへ送信し、さらにアメリカが受信した映像をリレー1号でヨーロッパへ送信するという方式で行われた。また当時初めてスローモーションの画像を使い、競技での微妙な結果をその場で確認でき、その後のスポーツ中継で欠かせない放送技術になった。

東京大会の日本での中継放送は、映像は一本化された単一映像をNHKも民放も使ったが、競技実況はNHKと民放は別々にアナウンサーをおいたので、同じ映像で違う実況放送であった。民放はこのために地方局からアナウンサーを集めていた。また開会式と閉会式は各局とも独自にアナウンサーを置いて別々に実況を行った。

日本では1959年(昭和34年)のミッチー・ブーム以降テレビ受像機(白黒)の普及が急速に進み、1959年(昭和34年)に23.6%だった普及率は1964年(昭和39年)には87.8%に達した。当時非常に高価だったカラーテレビ受像機は、東京オリンピックを契機に各メーカーが宣伝に力を入れ始めた。メディアでの昭和世相史に関する記事等で「東京オリンピックの時期にカラーテレビが普及した」という趣旨の記述が見られることがあるが、1966年(昭和41年)まではカラーテレビの普及率は1%未満であり、1968年メキシコシティーオリンピックが行なわれた1968年(昭和43年)の調査でも5.4%で、カラーテレビの普及率が白黒テレビを上回ったのは1973年(昭和48年)である。

また当時、アメリカ合衆国による沖縄統治下では、当時の琉球政府大田政作主席が「早期復帰がかなわないのなら、せめて本土と同じ時間にテレビが見たい」[31] と関係各所に陳情、これによって、電電公社マイクロ回線那覇市まで延伸されることとなり、山岳回折を用いた見通し外通信によって建設が進められ、東京オリンピック直前の1964年9月1日に開通し、現在の沖縄県でも同時に放送された。なお、沖縄からは出場した選手は1人もいない。NOCを作って、沖縄として出場する案もあったが、島ぐるみ闘争の激化で「1地域としての五輪参加は、アメリカ合衆国による沖縄の恒久支配を意味する」との意見もあり、結局設立されなかった。結果的に沖縄住民の日本人意識を高め、1972年(昭和47年)5月15日の沖縄返還へとつながっていった。

デザイン

開催前年の1963年(昭和38年)、組織委員会が置かれた赤坂離宮(赤坂迎賓館)に、デザイン室が開設された。入場券、メダル、ユニフォーム、競技パンフレット、プログラム、施設の標識、案内板などを制作した。多くは20代後半から30代前半のデザイナーだった[32]

オリンピックに際して原弘が、「ノイエ・ハース・グロテスク(後のヘルベチカ)というサンセリフ体を使いたい」と大日本印刷に打診、市谷工場に導入された[33]

ポスター

東京オリンピック第2号ポスター(9万枚作成)は、歴代大会のオリンピックポスターがイラストであったのを、グラフィックデザイナー亀倉雄策のデザイン(文字は原弘)、ストロボ写真演出早崎治、ディレクター村越襄で、オリンピックポスター初の写真ポスターである[34]。ポスターは全部で4種類が制作された[35]

第1号ポスター(10万枚作成)は、縦長の全体が白地に、赤い日の丸の下に、金の五輪マークと金字のTOKYOと1964のイラスト。6人が3案ずつ提出した指名コンペにて満場一致で選ばれた[32][36][37]、亀倉(文字は原弘)の大会エンブレムと同じデザインだった。赤と金の配色は豊臣秀吉陣羽織(木瓜桐文緋羅紗陣羽織・大阪城天守閣蔵)から着想を得たともいわれる[38][39]。オリンピック史上初めて五輪の輪の5色の標準色を詳細に決定した[40]

なお、1959年の招致ポスターは栗谷川健一が手がけた通称「富士山」だった[41]

ピクトグラム

まず競技種目ピクトグラム計20種が前年に作られ、1964年に入ってから施設用ピクトグラム計39種の制作が始まった[42]

案内や誘導、競技種目表示においてピクトグラムが採用されたのは東京オリンピックが最初である。外国語(特に公用語のフランス語英語)によるコミュニケーションをとることができる者が少ない日本人と外国人の間を取り持つために開発された。制作にはアートディレクターを務めた勝見勝を中心に粟津潔ほか30名ほどのデザイナーが携わった。

競技種目ピクトグラムを制作したのは山下芳郎1人である[43]。ヨット競技のみは人間を描かず、柔道・ウェイトリフティングの2つは正面図。残りの競技は右向きの1選手を描写した(レスリングのみ2選手が組む横からの図)。サッカー・バレー・バスケ・水球のボールは、各およそ右端中段寄りに配置された。

なお、2020年東京オリンピックでは、1964年大会の競技種目ピクトグラムを先人へのリスペクトともに継承・進化させたものと位置づけて[44]、右向きに統一させず、左向きのデザインも混在させた[45]

日本選手団のユニホーム

東京オリンピックにおける日本選手団のユニホームは1964年(昭和39年)2月に国立競技場でコンテストが開催され、そこで選ばれたデザインが後日JOC総会にかけられて承認を受けるかたちで決定された。オリンピック東京大会日本選手団ユニホーム、特に開会式・閉会式で着用された式典用デレゲーションユニホームが、上半身が赤色で下半身が純白のかなり派手な服装であり、50年近く時を経た現在でもオリンピック日本選手団の公式ユニホームと言えばこの「上半身が赤色で、下半身は白色」を思い浮かべる人が多い。日本選手団の制服を松坂屋上野店が受注[13]

  • 開会式・閉会式用ユニホーム(デレゲーションユニホーム)
    • ヘルシンキオリンピックから選手団公式服装を手がけてきた神田の洋服商であった望月靖之が4年以上掛けてデザインしたもの[46][47][48][49][50]。このユニホームの名称は「1964年オリンピック東京大会日本選手団ブレイザーコート」[47]、通称「式典用ブレザー」と呼ばれ男女共に上着は真紅のマットウーステッド地に金色の三つボタン、そして左胸にはポケットが付いておりその部分に日の丸のワッペンと金糸で五輪が刺繍されていた。下半身は男子は純白のズボン、女子は純白のアコーディオン・ブリーツをスカートにしたもの。帽子は純白地に赤いアクセントの付いたものが採用されている[47]。生地は大同毛織、製作は当時結成されたジャパンスポーツウェアクラブが担当し、全て手縫いで縫製されている[47][51]。靴は男子は純白のエナメル地の紳士靴。女子は白色のローヒール。そして女子だけ純白のショルダーバッグを持つ。石津謙介がデザインしたと言うのが通説となっていたが、研究者の調査によって望月靖之がデザインしたという多数の裏付けが可能な資料の存在が判明した[47][48]
  • 選手村などで着るユニホーム
    • 開会式・閉会式用ユニホームと基本的に同じデザインだがダークカラーが採用されて地味になっている。下半身は男子はグレーのズボン、女子も色はグレーでボックス・ブリーツをスカートにしたもの。靴は男子は黒色の紳士靴。女子も黒色のローヒール。また、前述の式典用と同様に女子だけ純白のショルダーバッグが採用されている。
  • トレーニングウェア
    • 大会会場などで試合時以外に着用するトレーニングウェア。男女共に同じデザインで、赤色を基本に方から袖、わきの下からパンツの裾まで、身体の両側の側線に沿うようなラインで白い筋が入っている。そして胸と背中に白色のローマ字で「NIPPON」と書かれている。素材は100%化学繊維で出来ていた。

記録映画

東京オリンピック記録映画を撮影する車
(画像左側はアベベ・ビキラ選手)

『東京オリンピック』

『オリンピック東京大会 世紀の感動』

市川崑が総監督を務めて制作された『東京オリンピック』のフィルムを新たなスタッフが再編集・再構成し、シナリオを執筆した作品。1966年5月15日公開。市川の『東京オリンピック』に比べ、実況を含んだ解説の流れる部分が多く、「記録映画」の色彩が濃いため、いわゆる「ドキュメンタリー」に分類されている。154分。

テレビドキュメンタリー

2013年8月にNHK総合テレビジョンで3部作として放送。

テレビの関連番組

  • NHKテレビの放送開始60周年記念事業として、2013年に当時の映像記録を視聴者などから提供したもので構成した特別番組が編成されている。いずれもNHK BS1にて放送。
    • 2013年1月1日 「伝説の名勝負・東洋の魔女 世紀の金メダルロード」
    東洋の魔女と呼ばれた女子バレーボール日本代表が金メダルを決定させるソビエト戦のノーカットフルタイムの映像が視聴者から提供された。この試合に関与した選手や、その試合を観戦した著名人のインタビューを交えてその試合を振り返った。[52]
    • 2013年12月31日 「よみがえる東京オリンピック1964→2020半世紀を経て発見!20時間の競技映像」
    NHKの取材班は2020年の東京五輪開催決定前の事前取材で、1964年に行われた同大会の記録映像となる16mmフィルムを発見した。この中にはNHKのライブラリーにも残されていない映像も多数発掘された。そこで、この映像にラジオのアーカイブス音源を絡ませ、この大会に参加した選手や当事者へのインタビューを交え、1964年五輪の記憶をよみがえらせる[53]

楽曲

東京オリンピックの行事で使用された楽曲は、オリンピック東京大会組織委員会に設けられた式典運営協議会で以下の5曲が決められた[54]。これらの曲は前年のオリンピックデーで披露された[55]

「ファンファーレ」は広く一般から公募して、海外からの応募作を加えて414編の中から選ばれたもので、当時長野県在住の今井光也が作曲し、日本の伝統的音階を基調とした8小節の東洋的色調に溢れた作品で四部形式で書かれた純トランペットの曲であった[54]

オリンピック東京大会讃歌は、東京大会のみに使われた賛歌で、開会式用の(A)、閉会式用の(B)の2曲があり、聖火が灯された直後と聖火が消えゆく直前に歌われた。

選手団の入場行進曲は、世界各国の著名な行進曲12曲が選ばれて、最初と最後に使用される行進曲として「オリンピック・マーチ」を古関裕而が作曲した。1分間120の行進速度でコーダは「君が代」の旋律で結ばれている。

なおこの他に、開会式冒頭には「オリンピック序曲」(作曲:團伊玖磨)が華やかな雰囲気の中で演奏され、昭和天皇・香淳皇后ロイヤルボックスに着席する直前には電子音楽「オリンピック・カンパノロジー」(作曲:黛敏郎)が荘厳な雰囲気を醸し出していた。

また国民の五輪への関心を高めるために、日本放送協会 (NHK)がオリンピック東京大会組織委員会、日本体育協会東京都の後援で製作したのが以下の音頭と愛唱歌で、1963年6月23日に発表されてレコード会社各社から競作で吹き込み発売された[54]

これとは別に、日本ビクターが公募して日本体育協会、オリンピック東京大会組織委員会、東京都が選定し、日本体育協会、オリンピック東京大会組織委員会、東京都文部省日本放送協会 (NHK)、日本民間放送連盟(民放連)の後援で1962年5月8日に東京都体育館で日本ビクター主催「オリンピックの歌発表会」で発表されたのが以下の2曲である。

なお、オリンピックの開催時期には芸術展示として、多くの日本の芸術作品が披露された[56]

実況録音

大会終了後、日本放送協会 (NHK) から開会式や閉会式、ハイライトとなった競技のラジオ実況放送を収録した磁気録音テープが発売されると共に、その音源をもとに記録LPレコードフォノシートが製作された。またこのNHKのマラソン実況放送の音源の一部(国立競技場に戻ってきた時の円谷幸吉とベイジル・ヒートリーのデッドヒート)が、ピンク・ピクルスの歌う「一人の道」の冒頭に使用されている。

記念発行物

記念貨幣(100円銀貨)
記念貨幣(1000円銀貨)
記念乗車券(バス1区乗車券 ¥15)
  • 記念切手
    • 5+5円付加金付きが20種類、1961年10月11日三種、1962年6月23日三種、10月10日三種、1963年6月23日三種、11月11日四種、1964年6月23日四種の七次にわたり発行された。
    • 5円・10円・30円・40円・50円の五種類が1964年9月9日(5円のみ)、1970年10月10日(残り四種)に発行された。
      • 「出場記念」として東京オリンピック記念切手を発行した国としては中華民国(台湾)韓国ソ連、北朝鮮(ボイコット)などがある。
  • 記念貨幣
    • 100円銀貨が1964年9月21日(11月24日追加発行)、1000円銀貨が1964年10月2日(10月29日追加発行)に発行された。詳細は東京オリンピック記念貨幣を参照。
  • 記念乗車券

その他

  • 新興国競技大会 (GANEFO) への参加選手への資格停止処分をめぐり、国際陸上競技連盟国際水泳連盟と対立していた朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とインドネシアは、組織委員会が両国の参加を実現すべく両者の間に入り調整を続けるも対立関係は修復されず、両国とも開会式の前日(10月9日)に不参加届を組織委員会に提出して参加しなかった[57][58]
  • 当時アパルトヘイト政策を行っていた南アフリカの参加をめぐって、これに反対・抗議するアフリカ・スポーツ最高会議の要請を受け、国際オリンピック委員会は南アフリカの参加を拒否。これに反発した南アフリカはオリンピック参加を辞退し、アフリカ各国のボイコットは回避された。
「オフィシャルエアライン」のロゴが書かれた日本航空のコンベア880
  • 中華民国と「中国を代表する国家」の地位をめぐって対立していた中華人民共和国は、独立したNOCとしてIOCに加盟していた中華民国の扱いへの反発から1958年にIOCを脱退していたため、当初より参加の予定は無かった(新興国競技大会の項目も参照)。また会期中の10月16日に同国初の核実験原子爆弾実験)を行ってアジア初の核保有国となっている。
  • 会期中に使用された国立代々木競技場や選手村の本村、代々木選手村は、第二次世界大戦での日本の敗戦後に日本を占領下に置いた連合国軍の一つであるアメリカ軍によって設けられたワシントンハイツが返還された跡地に建設された。選手村で新築された4階建ての中層共同住宅形式の宿舎は1965年(昭和40年)以降、国立オリンピック記念青少年総合センターとなった。
  • オフシャルエアラインには聖火も運んだ日本航空が指定され、ダグラス DC-8やコンベア880などの所有機材にロゴが書かれた。
  • 開会式では、海上で1年半もの間訓練したブルーインパルスF-86が、上空3000メートルに五色のスモークで直径1800メートル各五輪の間隔300メートルで五輪のマークを描いたことで話題を呼ぶ[19]
  • 開会宣言の前にIOCのブランデージ会長が片言の日本語で「開会宣言を天皇陛下にお願い申しあげます」と述べた後、昭和天皇が開会宣言を行った。
選手村でくつろぐ東ドイツ選手団
  • 当時、ボディビル剣道に勤しみスポーツに関心を持っていた作家の三島由紀夫が期間中のオリンピック・リポーターとして採用され、式典、各競技の感動の模様を伝える記事を毎日新聞報知新聞朝日新聞などに分載形式で連載した[59]。三島はオリンピック開会の感想として、「やつぱりこれをやつてよかつた。これをやらなかつたら日本人は病気になる」[60]、「小泉八雲が日本人を〈東洋ギリシャ人〉と呼んだときから、オリンピックはいつか日本人に迎へられる運命にあつたといつてよい」とコメントしている[60]
  • 選手村においてブルガリア人選手同士が結婚式を挙げた。これは史上初のことであった。
  • 池田勇人首相は、この前の9月に精密検査の結果ガンが見つかり、入院治療をしていて10月10日の開会式は出席したが、閉会式は欠席して、そして閉会式翌日の10月25日に辞任を発表した。翌年夏に死去。
  • 日本のお家芸と言われた男子体操団体は、ローマ大会に続いて2連覇を果たしたが、前回のローマ大会と東京大会に限って団体総合では1つしかメダルが授与されていない。東京大会では女子も団体で銅メダルを獲得したが、チームへの1つだけである。他の団体競技では選手全員にメダルが授与されているので、このようなケースは珍しい。2006年10月19日になって表彰の楯が各選手に贈られた[61]
  • 閉会式は誘導のトラブルからこれまでの慣例と違い国別の整然とした行進にならなかったが、そのために却って、各国の選手が入り混じり腕や肩を組み合って入場するものとなった。その後のオリンピックでは東京方式が採用されるようになった。ただし国別に選手が入場しなかったのは1956年メルボルンオリンピックが先である。
  • マラソン競技は全コースが生中継されたが、オリンピックのマラソン競技が全コース生中継されたのはこの東京オリンピックが世界最初である。なお、この生中継はNHKが担当したが、全コースを生中継するためにNHKはテレビ中継車7台、ヘリコプター1機、を投入し放送用カメラは全部で26台もあった。また沿道にカメラを設置し、移動中継車やヘリコプターなどを経てNHK放送センターへ画像を送るなどして見事に全コースの生中継を全世界へ送り届けた。
  • 当時の日本の報道カメラマンはモータードライブを素人の道具として否定的に捉えていたが、海外のカメラマンがモータードライブを使用しているのを目の当たりにしたことで、国内でも広まりを見せた。
  • 大会後の日本における祝勝会にはメダル取得者が呼ばれていたが、男子バレーボールチームは1964年東京オリンピックのバレーボール競技でメダルを取ったにも拘らず、連絡ミスにより参加できなかった。
  • 諸外国から来日するオリンピック関係者や各国元首たちを接待するためのコンパニオンを30名採用した。このコンパニオンは一般公募などされたが、結局コネ採用ばかりで総理大臣の次女と三女、日本オリンピック委員会長の長女、日立製作所顧問の長女など大会関係者の子女が数多く含まれていた。そのうちの一人の西村亜希子は報知新聞の企画で対談したプロ野球読売ジャイアンツ長嶋茂雄と1965年(昭和40年)に結婚した。
  • 公募で決まった公式標語は「世界は一つ東京オリンピック」。名古屋の中学生の作品。
  • 柔道会場の日本武道館には日本古来の稲藁やシチトウを用いたが敷かれた。その後のオリンピックではビニール・プラスティック素材のマットに変わる。
  • 1966年、アメリカ映画『歩け走るな!』(コロムビア映画チャールズ・ウォルタース監督、ケーリー・グラント主演)が制作・公開された。オリンピックを含めた当時の東京の様相が色濃く描かれている。
  • 日本国内ではチケットの売れ行きが好調で種目によっては徹夜で売り場に並ぶなどの現象も見られた。しかし海外におけるチケットの売れ行きはあまり良くなかった。当初の割り当て分を全て完売したのは大韓民国(韓国)のみでそれ以外の国々では競技によっては完売したチケットがあったが、全て完売した国は無かった。その理由について「チケットを買ってもホテルが予約できないので行けない」という声が多かったという[62]。なお、日本と韓国はまだ外交関係を結んでいなかったが[63]、北朝鮮と異なり、韓国は東京五輪に参加した。
  • 日本中の関心がオリンピックに集中したため、プロ野球もこれに配慮して公式戦の日程を前倒しして消化し、日本選手権シリーズの日程もプロ野球史上最も早い9月29日開幕、第7戦予定は10月7日としていたが、南海ホークス阪神タイガース関西圏チーム同士で争われた実際の1964年の日本シリーズは10月1日開幕となった上、雨天による試合延期や両チームが3勝ずつで並ぶ接戦などもあって、阪神甲子園球場で行われた第7戦はオリンピック開会式当日の10月10日の夜となり、注目度は大きく下がった[64]
  • 日本選手団は、1位の統一東西ドイツ選手団の374人、2位のアメリカ合衆国の361人に次ぐ3位の355人で、4位はソビエト連邦の332人であった[65]
  • 東西統一ドイツ選手団が金メダルの場合、国旗掲揚が統一東西ドイツ旗で、国歌演奏でなく「曲演奏」と紹介され交響曲第9番 (ベートーヴェン)が演奏された。
  • 開催期間中に国立霞ヶ丘陸上競技場の織田ポールに翻った五輪旗は、アベリー・ブランデージIOC会長から組織委員会会長の安川に寄贈されたのち、安川が母校の福岡県立修猷館高等学校に寄贈した。かつては運動会の入場行進に使用されたが、現在はレプリカを使用して現物は同校の資料館に額入りで展示されている。
  • 2005年(平成17年)に東京都石原慎太郎知事は、2016年(平成28年)の夏季オリンピック開催地に立候補する意向を表明した。1964年大会で使用した施設の中では国立霞ヶ丘競技場がマラソンコースの起点となり、代々木体育館や日本武道館も使用されるが、競技の中心は新設の東京オリンピックスタジアムなどの臨海部で開催される計画案を作成したが、2009年のIOC総会による投票で2016年のオリンピックはブラジルのリオデジャネイロで開催されることが決定された(2016年東京オリンピック構想も参照)。

脚注

出典

  1. ^ 第18回オリンピック競技大会公式報告書 上 オリンピック東京大会組織委員会
  2. ^ 夏季大会は非開催でも回次はそのまま残るため、東京は回次上では2回目の開催扱いとなる
  3. ^ 朝日新聞1954年(昭和29年)10月10日,6面.
  4. ^ 2013年8月20日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第2回オリンピック招致にかけた男たち」
  5. ^ 当時の大卒初任給は国家公務員I種で23,300円であった。
  6. ^ 大毎ニュース 603 オリンピックに時の氏神 1963.02.13 放送ライブラリ
  7. ^ JOC年表 1961 - 1970
  8. ^ この競走で3周遅れの最下位となっても棄権せず完走した、セイロン代表のラナトゥンゲ・カルナナンダピエール・ド・クーベルタンが唱えたオリンピック精神“重要なのは勝つ事ではなく参加する事”を体現したこのエピソードはのちに、背番号から『ゼッケン67』と題して小学校国語の教材になる)。
  9. ^ 所蔵品の紹介 - 秩父宮記念スポーツ博物館・図書館
  10. ^ 東京ふる里文庫11 東京にふる里をつくる会編 『渋谷区の歴史』 名著出版 昭和53年9月30日発行 p205
  11. ^ 日本オリンピック委員会ホームページ内のメモリアルプレイスの記事
  12. ^ 選手村の調理に携わった調理師のエピソードは、『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』の題材になっている(第94回「料理人たち 炎の東京オリンピック」、2002年8月27日放映)。
  13. ^ a b 2019年12月13日中日新聞朝刊16面
  14. ^ データde五輪 競技会場(3)建設整備費 当初設備投資計画では新設火2635億円 改良費98億円 - 日刊スポーツ、2015年6月22日
  15. ^ vol.3 紛糾したアジア競技大会とGANEFO。そしてインドネシアと北朝鮮の引き揚げ オリンピックを支えた募金活動 - JOC
  16. ^ 1964年東京オリンピックのサッカー競技の為に改装工事が行われた。
  17. ^ JAL's History | DC-4「City of Tokyo号」(3) - 日本航空
  18. ^ vol.1 開会式そして日本中を走った聖火リレー - 日本オリンピック委員会
  19. ^ a b c 2013年8月19日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第1回平和の炎が灯った日」
  20. ^ 運航機材の歴史 - 全日本空輸
  21. ^ その後も聖火輸送を記念して、全日空のYS-11には「オリンピア」の愛称が付けられていた
  22. ^ トラックから聖火台までの階段の段数については、文献によって163や182など複数の説がある。坂井自身は167段と聞かされていたという(小沢剛「心の聖地 スポーツ、あの日から」四国新聞2010年5月11日、20面)。
  23. ^ “東京五輪の聖火、鹿児島に今も 絶えることなく49年”. 朝日新聞. (2013年10月10日). http://www.asahi.com/special/2020hostcity/articles/SEB201310100004.html 2017年10月17日閲覧。 
  24. ^ “1964年東京五輪の「聖火の火」、4年前に消えていたことが発覚”. AFPBB News (フランス通信社). (2017年10月16日). http://www.afpbb.com/articles/-/3146915?pid=19468888 2017年10月17日閲覧。 
  25. ^ 昭和39年(1964年)に開催された東京オリンピックで行われた聖火リレーのうち、大阪で行われたリレーの様子が分かる資料はないか レファレンス協同データベース 2018年4月1日
  26. ^ 1964年東京五輪“幻の聖火ランナー”が夢再び 甲陽学院OBら「途切れたタスキつなぎたい」 産経WEST 2018年1月29日
  27. ^ 突貫工事による開業だったため、日本国有鉄道(国鉄)は路盤の安定に時間がかかるとして一部区間での徐行運転を実施し、東京駅-新大阪駅間は超特急ひかり」でも所要時間が4時間ちょうどに設定された。13年後の1977年(昭和52年)10月10日からは190分に短縮された。
  28. ^ 第7回 東京オリンピックの警備を受注 セコムオフィシャルサイト『創業物語』
  29. ^ NHKスペシャル新・電子立国』第5巻「驚異の巨大システム」(相田洋著、日本放送出版協会、1997年)pp.48 - 95
  30. ^ 「2020五輪で東京はこう変わる!大胆予測SPマル秘公開」テレビ朝日 2013年9月8日放送
  31. ^ 2011年7月25日、琉球放送「RBC ザ・ニュース アナログ放送半世紀の歴史に幕」
  32. ^ a b オリンピック・パラリンピックとビジュアルデザイン 東京デザイン2020フォーラム
  33. ^ 第28回 奇跡の普遍性 Helvetica forever: Story of a Typeface ヘルベチカ展 DNP 大日本印刷株式会社
  34. ^ 美の巨人たち|2014/07/05(土)放送”. TVでた蔵. ワイヤーアクション. 2014年7月12日閲覧。
  35. ^ 1964年東京オリンピックポスター - 日本オリンピック委員会「オリンピックメモリアル Vol.2」(文:三上孝道)
  36. ^ 亀倉雄策が東京五輪で示した、デザインの力。 2013年11月号 宣伝会議
  37. ^ 雑誌「デザインの現場」1998年No.100
  38. ^ 五輪エンブレムの知られざる歴史 NHK総合【おはよう日本】JCCテレビ 2016年4月25日[リンク切れ]
  39. ^ 東京五輪エンブレムの陰に「伝説のポスター」 巨匠・亀倉雄策の偉業 - withnews
  40. ^ 1964から2020へ オリンピックをデザインした男たち - NHK
  41. ^ 2014/10/10 『SAYONARA国立競技場 56年の軌跡 1958−2014』 181頁
  42. ^ 競技ひと目で 1964の心 東京五輪ピクトグラム 東京新聞 2019年3月12日 夕刊
  43. ^ 伊原久裕、「1960年代の日本のグラフィックデザインにおけるアイソタイプの受容」『デザイン理論』 2014年8月31日 64巻 P.9-P.22, 意匠学会
  44. ^ 東京2020オリンピックピクトグラムの発表について 東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 2019年3月12日
  45. ^ ひと目で分かる64年-20年版ピクトグラム比較 日刊スポーツ 2019年3月12日
  46. ^ 『1964東京五輪ユニフォームの謎:消された歴史と太陽の赤』(安城寿子著、光文社新書、2019年)
  47. ^ a b c d e 安城寿子 (2016年9月6日). “64年東京五輪「日の丸カラー」の公式服装をデザインしたのは誰か”. Yahoo!ニュース編集部. Yahoo! JAPAN. 2016年9月6日閲覧。
  48. ^ a b 64年五輪の公式服考案者が判明 故石津さん説塗り替え”. 中日新聞 CHUNICHI Web. 中日新聞社 (2016年9月6日). 2016年9月6日閲覧。
  49. ^ 遠山周平 (2016年9月2日). “1964東京五輪の赤いブレザーを巡るVAN石津謙介とテーラー集団の知られざる暗闘!?”. Byron. INCLUSIVE. 2016年9月6日閲覧。
  50. ^ 遠山周平 (2016年8月30日). “VOL.15 6年後の東京オリンピックを控えて 1964年の東京ブレザーをおさらいする”. NEWYORKER MAGAZINE. ニューヨーカー. 2016年9月6日閲覧。
  51. ^ 町会の歩み”. 小川町三丁目西町会 (2006年5月). 2016年9月6日閲覧。
  52. ^ 伝説の名勝負紹介サイト
  53. ^ NHK注目番組ナビ「よみがえる東京オリンピック」
  54. ^ a b c 朝日ソノラマ「オリンピックの歌」1964年9月発行 ソノシート 「オリンピック音楽作品について」NHK第二音楽部長、近藤積
  55. ^ 「オリンピック・デー クーベルタン生誕100周年記念」プログラム
  56. ^ 柴田葵「東京オリンピック芸術展示にみる対外文化戦略」 2020年11月8日閲覧。
  57. ^ 内藤陽介『北朝鮮事典―切手で読み解く朝鮮民主主義人民共和国』雄山閣 2001年 ISBN 9784803503166 [要ページ番号]
  58. ^ 井上一希 (2020年9月10日). “東京オリンピックで北朝鮮が金メダルを狙える競技とは?”. コリアワールドタイムズ. 2020年9月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年9月19日閲覧。
  59. ^ 三島由紀夫「東洋と西洋を結ぶ火――開会式」(毎日新聞 1964年10月11日)、「競技初日の風景――ボクシングを見て」(朝日新聞 1964年10月12日)、「ジワジワしたスリル――重量あげ」(1964年10月13日)、「白い叙情詩――女子百メートル背泳」(報知新聞 1964年10月15日)、「空間の壁抜け男――陸上競技」(毎日新聞 1964年10月16日)、「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」(毎日新聞 1964年10月18日)、「完全性への夢――体操」(毎日新聞 1964年10月21日夕刊)、「彼女も泣いた、私も泣いた――女子バレー」(報知新聞 1964年10月24日)、「『別れもたのし』の祭典――閉会式」(報知新聞 1964年10月25日)。33巻 2003, pp. 171–196に所収
  60. ^ a b 三島由紀夫「東洋と西洋を結ぶ火――開会式」(毎日新聞 1964年10月11日号)。33巻 2003, pp. 171–174に所収
  61. ^ 国際オリンピック委員会ロゲ会長が来日レセプションの会場にて、東京五輪日本代表男子チーム・女子チームの選手全員に対し 「シンボル・オブ・リコグニッション」を贈呈した。(日本オリンピック委員会 日本オリンピアンズ協会
  62. ^ 朝日新聞昭和39年5月19日朝刊記事
  63. ^ 日韓基本条約の締結は五輪翌年の1965年。
  64. ^ 観客数は1万5172人で、各年の日本シリーズ優勝チーム決定戦での最低観客数記録となっている。試合はジョー・スタンカの完封で南海が阪神に3-0で勝利し、南海としては最後の日本一となった。
  65. ^ 2013年8月21日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第3回1億人の勝利をアスリートたちの挑戦」

関連文献

参考文献

  • 『決定版 三島由紀夫全集33巻 評論8』新潮社、2003年8月。ISBN 978-4106425738 
  • 浜田幸絵『〈東京オリンピック〉の誕生: 一九四〇年から二〇二〇年へ』(吉川弘文館、2018年)978-4642038812

関連項目

外部リンク