日本への原子爆弾投下
日本への原子爆弾投下(にほんへのげんしばくだんとうか)は、第二次世界大戦の末期に当たる1945年8月に、アメリカ軍が日本に投下した二発の原子爆弾による空爆である。人類史上初めて核兵器が実戦使用されたものである。
- 1945年8月6日に広島市に投下された原子爆弾については広島市への原子爆弾投下
- 1945年8月9日に長崎市に投下された原子爆弾については長崎市への原子爆弾投下をそれぞれ参照。
本稿ではこの二発の原子爆弾にあわせて、投下されなかった三発目の原子爆弾について総論的に述べる。
目次 |
[編集] 投下の理由
太平洋戦争(当時の日本では大東亜戦争、アメリカでは第二次世界大戦太平洋戦線)における日本本土での直接戦(本土決戦)を避け、早期に決着させるために原子爆弾が使用されたとするのがアメリカ政府公式の説明である。
しかし、第二次世界大戦後の世界覇権を狙うアメリカが、原子爆弾を実戦使用することによりその国力・軍事力を世界に誇示する戦略であったとする説や、併せてその放射線障害の人体実験を行うためであったという説がある。豊田利幸はウランの核爆発が実験で確認できなかったためと推測している[1]。
また当時の日本軍のアジア支配への報復的措置として原子爆弾が投下されたという説がある。
[編集] 原子爆弾投下の背景と経緯
日本への原子爆弾投下までの道程は、その6年前のルーズベルト第32代アメリカ合衆国大統領に届けられた科学者たちの手紙にさかのぼる。そして、マンハッタン計画(DSM計画)により開発中であった原子爆弾の使用対象として日本が決定されたのは1943年5月であった。一方で、原子爆弾投下を阻止しようと行動した人々の存在もあった。
具体的に広島市が目標と決定されたのは1945年5月10日であり、長崎市は投下直前の7月24日に予備目標地として決定された。また、京都市や新潟市や小倉市(現・北九州市、長崎市に投下された原子爆弾・ファットマンの当初目標地)などが候補地とされていた。
[編集] ルーズベルトの決断
1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発した。ナチスから逃れてアメリカに亡命していた物理学者のレオ・シラードたちは、当時研究が始まっていた原子爆弾をドイツが保有することを憂慮し、アインシュタインとの相談によって、原子爆弾の可能性と政府の注意喚起をルーズベルト大統領へ進言する手紙(アインシュタイン=シラードの手紙)を作成した[2]。アインシュタインの署名を得たこの手紙は1939年10月11日に届けられた[3]。その手紙には原子爆弾の原材料となるウラニウム(ウラン)鉱石の埋蔵地の位置も示されていた。ヨーロッパのチェコのウラン鉱山はドイツの支配下であり、アフリカのコンゴのウラン鉱山をアメリカが早急におさえることをほのめかしている[4]。ルーズベルト大統領は意見を受けてウラン諮問委員会を一応発足させたものの、この時点ではまだ核兵器の実現可能性は未知数であり、大きな関心は示さなかった[5]。
2年後の1941年7月、イギリスの亡命物理学者オットー・フリッシュ (Otto Robert Frisch) とルドルフ・パイエルスがウラン型原子爆弾の基本原理とこれに必要なウランの臨界量の理論計算をレポートにまとめ、これによってイギリスの原子爆弾開発を検討する委員会であるMAUD委員会が作られた[6][7]。そこで初めて原子爆弾が実現可能なものであり、航空爆撃機に搭載可能な大きさであることが明らかにされた[8][9]。ウィンストン・チャーチル英国首相が北アフリカでのイギリス軍の大敗などを憂慮してアメリカに働きかけ、このレポートの内容を検討したルーズベルト米国大統領は1941年10月に原子爆弾の開発を決断した。
1942年6月、ルーズベルトはマンハッタン計画を秘密裏に開始させた。総括責任者にはレズリー・グローヴス准将を任命した。1943年4月にはニューメキシコ州に有名なロスアラモス研究所が設置される。開発総責任者はロバート・オッペンハイマー博士。20億ドルの資金と科学者・技術者を総動員したこの国家計画の技術上の中心課題はウランの濃縮である。テネシー州オークリッジに巨大なウラン濃縮工場が建造され、2年後の1944年6月には高濃縮ウランの製造に目途がついた。
1944年9月18日、ルーズベルト米国大統領とチャーチル英国首相は、ニューヨーク州ハイドパークで首脳会談した。内容は核に関する秘密協定(ハイドパーク協定)であり、日本への原子爆弾投下の意志が示され、核開発に関する米英の協力と将来の核管理についての合意がなされた。
前後して、ルーズベルトは原子爆弾投下の実行部隊(第509混成部隊)の編成を指示した。混成部隊とは陸海軍から集めて編成されたための名前である。1944年9月1日に隊長を任命されたポール・ティベッツ陸軍中佐は、12月に編成を完了し(B-29計14機及び部隊総員1,767人)、ユタ州のウェンドバー基地で原子爆弾投下の秘密訓練を開始した。1945年2月には原子爆弾投下機の基地はテニアン島に決定され、部隊は1945年5月18日にテニアン島に移動した。
[編集] 原子爆弾投下阻止の試みと挫折
デンマークの理論物理学者ニールス・ボーアは、1939年2月7日、ウラン同位体の中でウラン235が低速中性子によって核分裂すると予言し、同年4月25日に核分裂の理論を米物理学会で発表した。この時点ではボーアは自分の発見が世界にもたらす影響の大きさに気づいていなかった。
1939年9月1日第二次世界大戦が勃発し、ナチスのヨーロッパ支配拡大とユダヤ人迫害を見て、ボーアは1943年12月にイギリスへ逃れた。そこで彼は米英による原子力研究が平和利用ではなく、原子爆弾として開発が進められていることを知る。原子爆弾による世界の不安定化を怖れたボーアは、これ以後ソ連も含めた原子力国際管理協定の必要性を米英の指導者に訴えることに尽力することになる。
1944年5月16日にボーアはチャーチル英国首相と会談したが説得に失敗、同年8月26日にはルーズベルト米国大統領とも会談したが同様に失敗した。逆に同年9月18日の米英のハイドパーク協定(既述)では、ボーアの活動監視とソ連との接触阻止が盛り込まれてしまう。ボーアは翌1945年4月25日にも科学行政官バーネバー・ブッシュと会談し説得を試みたが、ルーズベルトに彼の声が届くことはなかった。
また別の科学者の動きとしては、1944年7月にシカゴ大学冶金研究所のアーサー・コンプトンが発足させたジェフリーズ委員会が原子力計画の将来について検討を行い、1944年11月18日に「ニュークレオニクス要綱」をまとめ、原子力は平和利用のための開発に注力すべきで、原子爆弾として都市破壊を行うことを目的とすべきではないと提言した。しかしこの提言も生かされることはなかった。
ドイツ降伏後の1945年5月28日には、アメリカに核開発を進言したその人であるレオ・シラードが、後の国務長官バーンズに原子爆弾使用の反対を訴えている[10]
1945年6月11日には、シカゴ大学のジェイムス・フランクが、グレン・シーボーグ、レオ・シラード、ドナルド・ヒューズ、J・C・スターンス、ユージン・ラビノウィッチ、J・J・ニクソンたち7名の科学者と連名で報告書「フランクレポート」を大統領諮問委員会である暫定委員会に提出した[11]。その中で、社会倫理的に都市への原子爆弾投下に反対し、砂漠か無人島でその威力を各国にデモンストレーションすることにより戦争終結の目的が果たせると提案したが、暫定委員会の決定が覆ることはなかった。また同レポートで、核兵器の国際管理の必要性をも訴えていた[12]。
更に1945年7月17日にもシラードら科学者たちが連名で原子爆弾使用反対の大統領への請願書 (Szilard petition) を提出したが、原爆投下前に大統領に届けられることはなかった[13]。
軍人では、アイゼンハワー将軍が、対日戦にもはや原子爆弾の使用は不要であることを1945年7月20日にトルーマン大統領に進言しており[14]、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ提督も、都市への投下には消極的でロタ島への爆撃を示唆している。また政府側近でも、ラルフ・バードのように原子爆弾を使用するとしても、事前警告無しに投下することには反対する者もいた。
日本の敗戦が決定的となり、米国国務省内では、戦後日本との関係に悪影響、特に経済的関係に悪影響を及ぼすことになるとして、国務次官以下の多くは日本への原子爆弾使用に反対、軍トップも巻き込み戦争を早期終結させるための具体的な取り組みがなされた。米国は既にこの時点で、日本国民の大多数が、本心では日米戦争を望んでいないことを詳細に把握しており、戦後直ちに日本を取り込み、自由主義経済国家としてソ連(共産主義)の南下を防ぐことが考えられていた。そのため、わざわざ日本国民に反米感情を招き、それが永く続くことになる、最悪は米国の意図に反し日本の共産化につながる恐れのある原子爆弾の使用について、反対の声があがったのである。そしてポツダム宣言草稿に、日本側の求める降伏条件、すなわち天皇制護持が盛り込まれた。
しかしドイツ降伏後の欧州情勢は激変しており、長官のバーンズは欧州でのソ連台頭を抑える切り札として、原子爆弾の実戦使用は不可欠であると考えていた。また原爆開発が国民と議会に対して秘密裏に行われていた為に、20億ドルにも達する原爆の開発の発覚が政治的な苦境を招くことを危惧したのである。急逝したルーズベルトのあとを継いだトルーマンは大統領としての経験が浅く、原子爆弾をまだ単なる兵器のひとつとしてしか認識しておらず、原爆投下の非人道性と残虐性に対する想像力が欠如していた。
結果、ポツダム会談直前のニューメキシコ州での核実験(トリニティ実験)成功により、バーンズはポツダム宣言草稿から天皇制護持の条項を削除、トルーマンは原子爆弾実戦使用を最終決断、ここに全ての原子爆弾投下阻止の試みは挫折した[15]。トルーマンには原爆投下の反対論は全く通用せず、聞く耳も持たずに原爆投下を強行した。トルーマンの異論を一切認めない強引な性格は、アメリカの対日和平派・原爆反対派からの批判を受けた。
[編集] 原子爆弾投下都市の選定経緯
広島と長崎が原子爆弾による攻撃目標となった経緯[16]は、日本の各都市への通常兵器による精密爆撃や焼夷弾爆撃が続けられる中で、以下のようなものであった。
1943年5月5日軍事政策委員会、最初の原子爆弾使用について議論され、トラック島に集結する日本艦隊に投下するのがよいというのが大方の意見であった[17]。
1944年11月24日~翌3月9日 通常兵器による空爆第一期。軍需工場を主要な目標とした精密爆撃の時期。ただし、カーチス・ルメイ陸軍少将による焼夷弾爆撃も実験的に始められていた。
1945年3月10日~6月15日 通常兵器による空爆第二期。大都市の市街地に対する焼夷弾爆撃の時期。
1945年4月12日のルーズベルト大統領の急死により、副大統領であったトルーマンが大統領に就任した。ルーズベルトの原子爆弾政策を継いだトルーマンには、「いつ・どこへ」を決定する仕事が残された。
1945年4月中旬~5月中旬 沖縄戦を支援するために九州と四国の飛行場を重点的に爆撃、大都市への焼夷弾爆撃が中断した。このため京都大空襲が遅れた[17]。
- 日本本土への爆撃状況について、第20航空軍が「邪魔な石は残らず取り除く」という第一の目的をもって、次の都市を系統的に爆撃しつつあると報告した。東京都区部、横浜市、名古屋市、大阪市、京都市、神戸市、八幡市、長崎市[17]。
- 次の17都市及び地点が研究対象とされた。東京湾、川崎市、横浜市、名古屋市、京都市、大阪市、神戸市、広島市、呉市、下関市、山口市、八幡市、小倉市、熊本市、福岡市、長崎市、佐世保市。
1945年5月10日-11日、第2回目標選定委員会、ロスアラモスのオッペンハイマー博士の執務室で、8月初めに使用予定の2発の原子爆弾の投下目標として、次の4都市がはじめて選定された[17]。
- 京都市:AA級目標
- 広島市:AA級目標
- 横浜市:A級目標
- 小倉市:A級目標
このとき以下の3基準が示された[17]。
- 直径3マイルを超える大きな都市地域にある重要目標であること。
- 爆風によって効果的に破壊しうるものであること。
- 来る8月まで爆撃されないままでありそうなもの。
1945年5月28日、第3回目標選定委員会、京都市、広島市、新潟市に投下する地点について重要な決定がされ、横浜市と小倉市が目標から外された[17]。
- 投下地点は、気象条件によって都度、基地で決定する。
- 投下地点は、工業地域の位置に限定しない。
- 投下地点は、都市の中心に投下するよう努めて、1発で完全に破壊する。
これらの原子爆弾投下目標都市への空爆の禁止が決定された。禁止の目的は、原爆のもたらす効果を正確に測定把握できるようにするためである。これが「○○には空襲がない」という流言を生み、一部疎開生徒の帰郷や、他の大都市からの流入を招くこととなった。
1945年6月1日、暫定委員会(委員長:ヘンリー・スチムソン陸軍長官)は、
- 原子爆弾は日本に対してできるだけ早期に使用すべきであり、
- それは労働者の住宅に囲まれた軍需工場に対して使用すべきである。
- その際、原子爆弾について何らの事前警告もしてはならない。
と決定した[17]。なお原子爆弾投下の事前警告については、BBC(ニューデリー放送)やVOA(サイパン放送)で通告されていたという説[18]もあるが、一般的に認められているわけではない。
この経過のなかで、4つの目標都市のうち京都が次の理由から第一候補地とされていた[17]。
- 人口100万を超す大都市であること。
- 日本の古都であること。
- 多数の避難民と罹災工業が流れ込みつつあったこと。
- 小さな軍需工場が多数存在していること。
- 原子爆弾の破壊力を正確に測定し得る十分な広さの市街地を持っていること。
しかし、フィリピン総督時代に京都を訪れたことのあるスチムソン陸軍長官の強い反対[19]。や、戦後、「アメリカと親しい日本」をつくる上で、京都には千数百年の長い歴史があり、数多くの価値ある日本の文化財が点在、これらを破壊する可能性のある原子爆弾を京都に投下したならば、戦後、日本国民より大きな反感をかう懸念があるとの観点から、京都への原子爆弾投下は問題であるとされた。
1945年6月14日、京都市が除外され、目標が小倉市、広島市、新潟市となる。しかし京都への爆撃禁止命令は継続された[17][20]。
1945年6月16日~終戦まで、通常兵器による空爆第三期。中小都市への焼夷弾爆撃の時期。
1945年6月30日、アメリカ軍統合参謀本部がマッカーサー将軍、ニミッツ提督、アーノルド大将あてに、原子爆弾投下目標に選ばれた都市に対する爆撃の禁止を指令。同様の指令はこれ以前から発せられており、ほぼ完全に守られていた[21][17]。
- 新しい指令が統合参謀本部によって発せられないかぎり、貴官指揮下のいかなる部隊も、京都・広島・小倉・新潟を攻撃してはならない。
- 右の指令の件は、この指令を実行するのに必要な最小限の者たちだけの知識にとどめておくこと。
1945年7月3日、それでもなお、京都市が京都盆地に位置しているので原子爆弾の効果を確認するには最適として投下を強く求める将校、科学者も多く存在し、その巻き返し意見によって再び京都市が候補地となった[17]。
1945年7月20日、パンプキン爆弾による模擬原子爆弾の投下訓練が開始された[22]。
1945年7月21日、ワシントンのハリソン陸軍長官特別顧問(暫定委員会委員長代行)からポツダム会談に随行してドイツに滞在していたスチムソン陸軍長官に対して、京都を第一目標にすることの許可を求める電報があったが、スチムソンは直ちにそれを許可しない旨の返電をし、京都市の除外が決定した[21][17]。
1945年7月24日、京都市の代わりに長崎市が、地形的に不適当な問題があるものの目標に加えられた。スチムソン陸軍長官の7月24日の日記には「もし(京都の)除外がなされなければ、かかる無茶な行為によって生ずるであろう残酷な事態のために、その地域において日本人を我々と和解させることが戦後長期間不可能となり、むしろロシア人に接近させることになるだろう(中略)満州でロシアの侵攻があった場合に、日本を合衆国に同調させることを妨げる手段となるであろう、と私は指摘した。」とあり、アメリカが戦後の国際社会における政治的優位性を保つ目的から、京都投下案に反対したことがうかがえる[21][17]。トルーマン大統領のポツダム日記7月25日の項にも「たとえ日本人が野蛮であっても、共通の福祉を守る世界の指導者たるわれわれとしては、この恐るべき爆弾を、かつての首都にも新しい首都にも投下することはできない。」とある[21]。
1945年7月25日、トルーマン大統領が原子爆弾投下の指令を承認し、ハンディ陸軍参謀総長代行からスパーツ陸軍戦略航空隊総指揮官あてに原子爆弾投下が指令された。ここで「広島・小倉・新潟・長崎のいずれかの都市に8月3日ごろ以降の目視爆撃可能な天候の日に「特殊爆弾」を投下する」とされた[21][22][17]。
1945年8月2日、第20航空軍司令部が「野戦命令第13号」を発令し、8月6日に原子爆弾による攻撃を行うことが決定した。攻撃の第1目標は「広島市中心部と工業地域」(照準点は相生橋付近)、予備の第2目標は「小倉造兵廠ならびに同市中心部」、予備の第3目標は「長崎市中心部」であった[22][17]。
1945年8月6日、広島市にウラニウム型原子爆弾リトルボーイが投下された。
1945年8月8日、第20航空軍司令部が「野戦命令第17号」を発令し、8月9日に2回目の原子爆弾による攻撃を行うことが決定した。攻撃の第1目標は「小倉造兵廠および市街地」、予備の第2目標は「長崎市街地」(照準点は中島川下流域の常盤橋から賑橋付近)であった[22][23]。
1945年8月9日、第1目標の小倉市上空が視界不良であったため、第2目標である長崎市にプルトニウム型原子爆弾ファットマンが投下された。
[編集] 模擬原子爆弾「パンプキン」の投下訓練
詳細は「パンプキン爆弾」を参照
1945年7月20日以降、第509混成部隊は長崎に投下する原子爆弾(ファットマン)と同形状の爆弾に通常爆薬を詰めたパンプキン爆弾(総重量4,774kg、爆薬重量2,858kg)の投下訓練を繰り返した。すなわち原子爆弾の投下予行演習である。テニアン島から日本列島の原子爆弾投下目標都市まで飛行して都市を目視観察した後に、その周辺の別な都市に設定した訓練用の目標地点に正確にパンプキンを投下する練習が延べ49回、30都市で行われた。
パンプキン練習作戦は、7月24日、7月26日、7月29日、8月8日、8月14日と終戦直前まで行われた。
[編集] 原子爆弾の輸送とインディアナポリス撃沈事件
並行して、完成した原子爆弾を部品に分けての輸送が行われた。損傷の修理のために戦列を離れていたアメリカ海軍のポートランド級重巡洋艦インディアナポリスは、原子爆弾運搬の任務を与えられ1945年7月16日にサンフランシスコを出港し、7月28日にテニアン島に到着した。また陸軍航空隊のダグラスC-54スカイマスター輸送機がウラン235のターゲットピースを空輸した。原子爆弾の最終組立はテニアン島の基地ですべて極秘に行われた。
このインディアナポリスは帰路の7月30日、フィリピン海で橋本以行海軍中佐指揮する日本海軍の伊号第五八潜水艦の魚雷により撃沈されている(インディアナポリス撃沈事件)。この潜水艦は、当時特攻兵器である回天を搭載しており、回天隊員から出撃要求が出されたが、「雷撃でやれる時は雷撃でやる」と通常魚雷で撃沈した。インディアナポリスの遭難電報は無視され、海に投げ出された乗員の多くが疲労や低体温症・サメの襲撃にあって死亡した。そのため、原子爆弾には「インディアナポリス乗員の思い出に」とチョークで記された。インディアナポリスの艦長はその後軍法会議に処せられたが、自艦を戦闘で沈められたために処罰された艦長は珍しい。戦後米軍は原爆輸送の機密漏洩を疑い、橋本潜水艦長を長く尋問したが、その襲撃は偶然であった。インディアナポリスが往路に撃沈されていれば、8月6日の広島市への原子爆弾投下は不可能となっていた。
[編集] 日本の対応
当時、大本営と帝国陸軍中央特種情報部(特情部)は、サイパン方面のB-29部隊について主に電波傍受によりその動向を24時間体制で監視していた。大本営陸軍部第2部第6課(情報部米英課)に所属していた堀栄三が後に回想したところによれば、第509混成部隊がテニアン島に進出したことや、進出してきたB-29の中の一機が長文の電報をワシントンに向けて打電したこと、それ以前からサイパン方面に存在していた他のB-29部隊が基本的にV400番台、V500番台、V700番台のコールサインを用いていたのと異なり第509混成部隊がV600番台のコールサインを使用していたことから、東京都杉並区にあった陸軍特殊情報部(現:高井戸の浴風会病院)では新部隊の進出を察知していた[24]。
その後6月末ごろから、この「V600番台」のB-29がテニアン島近海を飛行し始め、7月中旬になると日本近海まで単機もしくは2~3機の小編隊で進出しては帰投する行動を繰り返すようになったことから、これらの機体を特情部では「特殊任務機」と呼び警戒していた。しかしこれらのB-29が原爆投下任務のための部隊であったことは、原子爆弾投下後のトルーマン大統領の演説によって判明したとのことであり、「特殊任務機」の目的を事前に察知することはできなかった[25]。だが、事態が判明した後の長崎原爆投下を阻止しようとしなかったのかについては不明であり、付近に当時日本軍の最新鋭機の一つである紫電改を装備した第343海軍航空隊が待機していたのに関わらず、軍が部隊に出撃命令を下さなかったのかについては帝国陸軍中央特種情報部の高官が情報を握りつぶし、情報が海軍へ伝えられなかったからだと当時の関係者は近年にインタビューで答えている。
そもそも日本軍は当時の米国における原子爆弾開発の進捗状況をほとんど把握しておらず、およそ特情部においては「7月16日ニューメキシコ州で新しい実験が行われた」との外国通信社の記事が目についたのみであった[26]。もちろんこれはトリニティ実験を指した報道であったのであるが、実験直後の時点では内容は公開されておらず、当時の日本軍にその内容を知る術はなかった。それを踏まえ堀は「原爆という語はその当時かけらほどもなかった」と語っている。また特情部では、当時スウェーデンを経由して入手した米国海軍のM-209暗号装置を用いた暗号解読も進めていたが、この暗号解読作業において「nuclear」の文字列が現れたのが8月11日[27]のことであった。
当初は軍部が(主に大日本帝国陸軍)は新爆弾投下に関する情報を国民に伏せていたが、広島や長崎を襲った爆弾の正体が原爆であると確認した軍部は報道統制を解除。11日から12日にかけて新聞各紙は広島に特派員を派遣し、広島を全滅させた新型爆弾の正体が原爆であると読者に明かした上、被爆地の写真入りで被害状況を詳細に報道した。これによりSF小説や科学雑誌等で近未来の架空兵器と紹介されていた原爆が発明され、日本が戦略核攻撃を受けた事を国民は初めて知ったのである[28]。
なお、この原爆報道により、新潟県は8月11日に新潟市民に対して「原爆疎開」命令を出し、大半の市民が新潟市から脱出し新潟市は無人都市になった。その情報は8月13日付の読売報知新聞に記載された[29]。これは新潟市も原爆投下の目標リストに入っているらしいという情報が流れたからである。原爆疎開が行われた都市は新潟市のみであった。また東京でも、単機で偵察侵入してきたB-29を「原爆搭載機」、稲光を「原爆の閃光」と誤認することもあった。
8月15日終戦の日の午前のラジオ放送で、仁科芳雄博士は原爆の解説を行った。
8月15日正午、戦争の終結を国民に告げる為になされたラジオ放送(玉音放送)で、原爆について「敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル(敵は新たに残虐な爆弾を使用して、無辜(むこ)の非戦鬪員を殺害傷害し、その悲惨な損害は本当に人間の考えの及ばない程である。)」と詔があった。
正確な犠牲者数等は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)占領下では言論統制され、日本が主権を回復した1952年に初めて報道された。
[編集] 第三の原子爆弾投下準備
長崎市への原子爆弾投下後、テニアン島に原子爆弾はなかったが、プルトニウム以外の原子爆弾の部品は用意されており、プルトニウムをアメリカ本土から運んでくれば原子爆弾をすぐに組み立てて完成させることができる状態であった。8月14日にロスアラモス基地からプルトニウムが出荷され、8月20日前後には第三の原子爆弾を投下することが可能であったが、8月14日に日本から降伏通告が来たため、第三の原子爆弾が日本に投下されることはなかった。
第三の原子爆弾投下候補地は小倉市、京都市、新潟市、旧東京市など諸説あるが、1945年8月14日に投下された7発のパンプキン爆弾の愛知県への投下は、3発目の原子爆弾の投下訓練であったとされ、いずれも爆撃機が京都上空を経由した後に愛知県に投下していることから、第三の原子爆弾の標的は京都市であったと考えられる理由の一つとなっている[17]。
また広島市・長崎市に投下された新型爆弾が、新潟市にも落とされるとの新潟県知事見解により、新潟市の中心から12km以上疎開することを求めた「徹底的人員疎開」なる布告を8月10日に出したため、新潟市の中心部が17日ごろまで無人状態になった。
[編集] 極東国際軍事裁判
極東国際軍事裁判において連合国側はニュルンベルク裁判と東京裁判との統一性を求めていたが、ラダ・ビノード・パール判事は、日本軍による残虐な行為の事例が「ヨーロッパ枢軸の重大な戦争犯罪人の裁判において、証拠によりて立証されたと判決されたところのそれとは、まったく異なった立脚点に立っている[30]」と、戦争犯罪人がそれぞれの司令を下したとニュルンベルク裁判で認定されたナチス・ドイツの事例との重要な違いを指摘したうえで、「(米国の)原爆使用を決定した政策こそがホロコーストに唯一比例する行為」と論じ、米国による原爆投下こそが、国家による非戦闘員の生命財産の無差別破壊としてナチスによるホロコーストに比せる唯一のものであるとした。
同趣旨の弁論は他の弁護士によってもなされ、ベン・ブルース・ブレイクニー弁護人は1946年5月14日の弁護側反証段階の冒頭で、アメリカの原子爆弾投下問題をとりあげ、「キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、我々は、広島に原爆を投下した者の名(ポール・ティベッツ)を挙げることができる。投下を計画した参謀長(カール・スパーツ)の名も承知している。その国の元首の名前[31]も承知している。彼らは、殺人罪を意識していたか?してはいまい。我々もそう思う。それは彼らの戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。何の罪科でいかなる証拠で戦争による殺人が違法なのか。原爆を投下した者がいる。この投下を計画し、その実行を命じ、これを黙認したものがいる。その者達が裁いているのだ。彼らも殺人者ではないか」と発言した。なおこの発言が始まると、チャーターで定められている筈の同時通訳が停止し、日本語の速記録にもこの部分のみ「以下、通訳なし」としか記載されなかった[32]。ブレイクニー弁護人は、1947年3月3日にも、原子爆弾は明らかにハーグ陸戦条約第四項が禁止する兵器だと指摘した。またイギリスのアーサー・S・コミンズ・カー検察官による「連合国がどんな武器を使用しようと本審理にはなんらの関係もない」との反駁に対し、日本はそれに対して報復する権利がある、と主張した。
「東京裁判」も参照
またパールは1952年11月、広島市を訪問し、講演「世界に告ぐ」では「広島、長崎に原爆が投ぜられたとき、どのようないいわけがされたか、何のために投ぜられなければならなかったか」[33]など、原爆投下を強く非難した[34]講演では、「いったいあの場合、アメリカは原子爆弾を投ずべき何の理由があっただろうか。日本はすでに降伏すべき用意ができておった」「これを投下したところの国(アメリカ)から、真実味のある、心からの懺悔の言葉をいまだに聞いたことがない」、連合国側の「幾千人かの白人の軍隊を犠牲にしないため」という言い分に対しては「その代償として、罪のないところの老人や、子供や、婦人を、あるいは一般の平和的生活をいとなむ市民を、幾万人、幾十万人、殺してもいいというのだろうか」「われわれはこうした手合と、ふたたび人道や平和について語り合いたくはない」として、極めて強く原爆投下を批判した。
[編集] 被爆者への認識と対応
日本は世界で唯一、戦争における原子爆弾の直接被害を受けた国であるが、この経験は、太平洋戦争終結直後から、米国国務省内で原子爆弾の使用に反対した者たちの予想[35]にも反し、日本国民の反米感情や報復意識にはつながっていない。1946年の日本でのアメリカ戦略爆撃調査団による大規模調査結果によると、広島、長崎では19%、日本全体でもわずか12% の被調査者のみが、原爆投下に対しアメリカに憎しみを感じたという。また戦後20年間の書籍、新聞、雑誌の原爆関係記事では、おおむね原爆の悲惨さを訴えるものが多く、アメリカへの恨みはほとんどないという[36]。
救護を目的としない被爆者の詳細な健康被害調査は原爆投下直後から日本側により開始された。この日本側調査報告書は戦後直ちに米国側に全て英訳されて渡された。これは米国の提出命令によるものではなく、自主的なものであり、戦後も日本側は米国の調査に積極的に協力していたことが、米国公文書公開によって明らかになっている。これらの調査は詳細かつ執拗で、被爆者に治療とは関係のない薬物を投与し、その反応を観るといったものまでなされていた。調査結果は米国核戦略上の資料となり、永く被爆者の救済に用いられることはなかった[37]。
原子爆弾が日本国民にもたらしたものは、反米感情ではなく、放射能、放射線に対する「恐怖」であった[38]。そしてそれは戦後しばらくの間、被爆者に直接、向けられた。新聞・雑誌などにおいても被爆者は「放射能をうつす存在」あるいは重い火傷の跡から「奇異の対象」などとして扱われることがあり、被爆者に対する偏見・差別は多くあった。このため少なからず被爆者は自身が被爆した事実を隠して暮らすようになっていった。今日、日本放送協会は、これを戦後のGHQによる言論統制の影響、すなわち正しく原爆に関する報道がなされなかったために、当時、放射能・放射線の知識が一般的でなかったことと相まって、誤った認識が日本国民の間に蔓延したためであったと分析・公表している[39]。また、ラジオ中国の記者であった秋信利彦は、当時の被爆者の報道機関に対する強い反感と反発の実態について証言している[40]。この日本国民の放射能、放射線に対する「恐怖」は、当時米国が優位にあった原子力産業の日本進出を決定的に阻むものともなり、日本の主権回復後、米国は民間を中心に莫大な経費を投じ、原子力平和利用キャンペーンを日本国内各地で展開している[41]。
被爆者への救護施策は1945年10月の各救護所の閉鎖をもって終了し、以降、何の公的支援もなされない状況が長く続いた。国の被爆者援護施策は、1957年4月の「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(原爆医療法)施行より、実質的には1960年8月に「特別被爆者制度」が創設されて以降である。しかしこの被爆者援護施策は限定的で、救済されない被爆者が多く、概ね充実したのは実に1995年7月の「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」(被爆者援護法)の施行以降である[42]。
東京地方裁判所は、1963年12月7日、被爆者は損害賠償請求権を持たないとして、日本へのアメリカ軍による原子爆弾投下は国際法に違反したものであり、また同時に大日本帝国の戦争責任を認め、引き継ぐ日本国が十分な救済策を執るべきは立法府及び内閣の責務であるとする判決を下し、確定した[43][44]。以降、今日に至るまで、日本国内の被爆者関連の施策あるいは裁判において、この基本的な考え方が準用され続けている。
今日、日本では広島・長崎への原爆投下の「事実」を知らない人はほとんどいない。長年にわたり初等教育すなわち小学校より、社会科・地歴のほか、国語の説明文など、学校教育で扱われていること、毎夏、テレビ・ラジオのドキュメンタリー番組や平和祈念式典中継、あるいは新聞などで報じられることなどによる。しかしながら、「核兵器廃絶運動に関心はなく、具体的に参加したこともない」とする人が20代、30代の男女で23~25%あり、若年層の問題意識の希薄化が進行している[45]。終戦直後はともかく、こういった今日に至るも原爆投下に関してアメリカの加害責任を問うことなく、その原因と責任の全てを、おおむね日本の軍部などに求め「過去のものにする」世論は、やはり戦後のGHQによる言論統制によって形成されたものだとする意見もあるが[46]、これについては他にも類似の、あるいは全く異なる意見があり、本稿では控える。
ヒロシマ・ナガサキの悲劇は、21世紀に入った今現在においてもなお終結しているものとはいえない。他の兵器と原子爆弾による人的被害の決定的な相違は、強力な原爆放射線や放射能によってもたらされた難治性疾患や永続的な後遺症(晩発性疾患を含む)にあり、生き残った被爆者やその家族に現在もなお、現実的な労苦を強いるものとなっている。これは少なくとも全ての被爆者が亡くなるまで続く。さらに現在のところ公式には否定されているものの、被爆者を親に持つ子(被爆二世)さらに被爆三世への健康影響(遺伝的影響)が懸念されていることから、広島市では被爆二世への健康診断(任意検診)も行われている。
[編集] アメリカ側の原爆投下に対するコメント
原爆投下当初にはアメリカ側にも原爆投下を反論する意見があった。
- 「いかなる詭弁を用いようと、原爆投下の主目的が、戦闘員ではなく女子供老人などの非戦闘員の殺傷であったことを否定することはできない。そもそもアメリカは日本を挑発しなければ決して真珠湾を攻撃されることはなかっただろう。」―ハーバート・フーバー 第31代アメリカ合衆国大統領
- 「原爆投下は、米国兵士の命を救うためには全く必要のないものだった。我々は日本に原爆を投下する必要はなかった。」―ドワイト・アイゼンハワー 米第34代大統領 連合国軍総司令官
- 「日本がソ連に和平仲介を頼んだと知った1945年6月、私は参謀達に、戦争は終わりだ、と告げた。ところがワシントンのトルーマン政権は突如日本に原爆を投下した。私は投下のニュースを聞いたとき激怒した。」―連合国軍総司令官 ダグラス・マッカーサー
- 「ドイツがアメリカに原爆を落としたとしましょう。その後ドイツが戦争に負けたとします。その場合我々アメリカ国民の誰が”原爆投下を戦争犯罪とし、首謀者を極刑に処す”ことに異議を唱えるでしょうか?原爆投下は外交的にも人道的にも人類史上最悪の失敗だったのです。」―マンハッタン計画参画の科学者 レオ・シラード
- 「アメリカはこの戦争を外交的手段で終了させられた。原爆投下は不要だった。日本の犠牲はあまりにも不必要に巨大すぎた。私は東京大空襲において、同僚達と、いかにして日本の民間人を効率的に殺傷できるか計画した。その結果一晩で女子供などの非戦闘員を10万人焼き殺したのである。もし戦争に負けていれば私は間違いなく戦争犯罪人となっていただろう。では、アメリカが勝ったから、それらの行為は正当化されるのか?? 我々は戦争犯罪を行ったんだ。一体全体どうして、日本の67の主要都市を爆撃し、広島・長崎まで原爆で、アメリカが破滅させ虐殺する必要があったというのか。」―ロバート・マクナマラ ケネディ政権国務長官 元世界銀行総裁
- 「日本上空の偵察で米軍は、日本に戦争継続能力がないことを知っていた。また天皇の地位保全さえ認めれば、実際原爆投下後もアメリカはそれを認めたのだが、日本は降伏する用意があることも知っていた。だがトルーマン大統領はそれを知っていながら無視した。ソ連に和平仲介を日本が依頼したことも彼は無視した。この野蛮な爆弾を日本に投下したことは、なんの意味を持たなかった。海上封鎖は十分な効果を挙げていた。この新兵器を爆弾、と呼ぶことは誤りである。これは爆弾でもなければ爆発物でもない。これは”毒物”である。恐ろしい放射能による被害が、爆発による殺傷力をはるかに超えたものなのだ。アメリカは原爆を投下したことで、中世の虐殺にまみれた暗黒時代の倫理基準を採用したことになる。私はこのような戦い方を訓練されていないし、女子供を虐殺して戦争に勝ったということはできない!」―ウイリアム・ダニエル・リーヒ 米海軍提督・大統領主席補佐官
- 「私はトルーマンに、広島の破壊を示す写真を示した。大統領は、それを見て、我々が負わなければならない恐るべき責任について、私に吐露した。」―ヘンリー・スティムソン 米陸軍長官
[編集] 評価・歴史認識
[編集] アメリカ・イギリス
客観的な世論調査などによる、大衆認識の実態を知ることのできる資料は乏しい。しかし当時の関係者など(広島原爆投下作戦実行者など)は、60年経過後も、広島、長崎への原爆投下を「日本に無条件降伏を促すためにした」と正当化している[47]。しかし一方で今日、核兵器所有国が増加し、アメリカ同時多発テロ事件以降、国家ではなくテロリストによる核兵器使用の脅威の見地から派生して、米国政府内でも賛否両論となり、米国政府要人の平和祈念公園訪問もされるようになった[48]。Wikipedia英語版では賛成派と反対派の論争なども見受けられる。(各論のディベートはen:Atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki参照。)
1946年スティムソン陸軍長官名での原爆投下に関する論文には、上陸作戦で予想される100万人の米兵の犠牲を避け、戦争の早期終結のために原子爆弾の使用は有効であったとする旨の説明がなされていた。しかしこの論文は公開後、歴史研究者によって「宣伝のためのもの」であったことが明確にされている。
軍事戦略思想家のベイジル・リデル=ハート卿は、アメリカによる日本への原子爆弾投下について、日本の降伏は既に時間の問題となっていたので、このような兵器を用いる必要性は無かったと批判している。さらに、連合国側の無条件降伏要求が、戦争を長引かせる一因となり、何百万人もの犠牲を余分に出す結果になったとも論評している[49]
1992年5月、米国上院議員のアーネスト・ホーリングズ(Ernest Hollings)は、石原慎太郎が「日本人は(怠惰で無学な)アメリカ人よりいい製品をつくる」という発言をしたのに対して、「誰が原子爆弾を発明したのか忘れたようだから、キノコ雲の写真に“怠惰で無学なアメリカ人によって作られ、日本で試験された米国産”というキャプションをつけろ」という発言をした[50]。ホーリングスは「冗談」として発言したが、これは当時日本のマスコミでかなり非難され、のち謝罪した。
1994年11月、アメリカ合衆国郵便公社が1995年9月に第二次世界大戦50周年切手として、キノコ雲に"Atomic bombs hasten the end of war, August 1945"(原爆投下が戦争終結を早めた)と説明がはいった図案を公表した[51]。この切手に対して、日本政府などから強い反発を受け、別の図案に変更されたが、アメリカではそれに対する反発もあり、アメリカにおける原爆投下を正当化する歴史認識を垣間見せるものであった。(詳細は原爆切手発行問題を参考のこと)
アメリカの哲学者のジョン・ロールズは、1995年雑誌Dissentに掲載した論文「Reflections on Hiroshima: 50 Years after Hiroshima(原爆投下はなぜ不正なのか?: ヒロシマから50年)[52]」において、原爆投下を「すさまじい道徳的悪行」と批判した[53]。
1997年に歴史家で米原子力制御委員会主席J・サミュエル・ウォーカー (英語版参照)は『原爆投下とトルーマン』を発表[54]、「この数年公開された外交文書と当時の米政府高官の日記の詳細な分析により、なぜアメリカが原爆を使用したかが増々明確になってきた。日本本土侵攻を避ける為にも早期終戦にも原爆は必要なかったこと、原爆以外の容易な外交的手段がありトルーマンはそれを知っていたこと、原爆はアメリカの若者50万人の命を救ったというこけの生えた主張に全く根拠がない、という点で我々研究者達の意見は一致した。」とも発言している。
イギリスの哲学者A・C・グレイリング(A. C. Grayling)は、2006年にAmong the Dead Cities: Was the Allied Bombing of Civilians in WWII a Necessity or a Crime? [55](邦訳「大空襲と原爆は本当に必要だったのか」[56]を発表し、無差別爆撃への反対論 擁護論をともに検証した。
2010年8月6日、初めて駐日米国大使が米国公式代表として広島の平和祈念式典に参列した。しかし慰霊碑への献花もなく、犠牲者に対する言葉もなかった。なお式典後、大使館を通じて、未来のために核兵器廃絶に努力する旨のコメントが出された。
[編集] 中国
毛沢東は日本への原爆投下に強い衝撃を受け、以来、原子爆弾を中国も保有したいと考えるようになった[57]。のちにソ連からの技術供与で原子爆弾の保有に成功した。
詳細は「中国の核実験」を参照
中国は1985年8月、共産党代表が広島平和祈念公園で花輪を贈呈、人民日報がこれに関し、広島原爆を「米帝」の暴行として批判した。
一方で中国の歴史教科書では、原子爆弾投下を含めた日本に対する戦争行為は、「反ファシズム戦争」としてとらえて肯定する姿勢が明白である。毛沢東らの日本人民無罪論(戦争の責任は当時の日本軍部にあり、日本人民は無罪とする考え[58])を継承しつつ、アジアへの加害者は「日本国民」や「日本」そのものではなく、あくまで「日本帝国主義」「日本ファシズム」であるとし、日本国民の大半は「被害者」として扱われ、中国人民と同様な苦難を嘗めてきたとされている。すなわちアメリカによる原子爆弾投下は正当なものであったが、その結果は被爆者に多大な苦難を強いるものとなったという認識である[59]。また中国の教科書においては、日本で使われる「終戦」という言葉は容認されておらず、あくまでも「敗戦」、「日本帝国主義」「日本ファシズム」を曖昧なものにしないという姿勢が貫かれている[60]。
[編集] 韓国
一方、韓国の義務教育課程で使われる韓国史教科書は1970年代より国定教科書となっているが、この中で原子爆弾に関する「特筆」はなく「日帝」という言葉を明確に用いて、併合から独立(8・15光復)までの記載がなされているのみである[61]。『中学校 社会2』(内容は世界史)と『高等学校 世界史』には「日本に原爆が投下されて終戦」など短く書いてある。なお被爆者については、ソンジ文化社の『中学校 社会2』など、詳しく書かれている教科書もある。
韓国の場合「日本国政府の戦争責任」を問い、被爆者健康手帳の交付を申請、認められてこれを所有する在韓・在日韓国人被爆者があり、日本国内で日本人被爆者と等しく治療を受けている人がいる。
[編集] イラン
2010年2月23日、イランのアリー・ラリジャニ国会議長が衆議院の招待で来日し[62]、同月27日には長崎市を訪れ、長崎原爆資料館を見学した後、「広島に原爆を投下して核兵器の影響の大きさを知りながら、長崎にも落とした」と述べ、ホロコーストよりも、アメリカの核兵器使用を問題にするべきだとの認識を示し[63]、「世界に一つでも原爆が存在すれば人類への脅威だ。人々は、核のない世界に向けて立ち上がるべきだ」と感想を述べた。その後ラリジャニ議長は「原爆投下こそが米国が引き起こした真のホロコーストだ」とイラン国会で演説したとイランのメディアが報じている。
[編集] 脚注
- ^ 豊田利幸「新・核戦略批判」岩波新書,1983年,14頁
- ^ ローズ (1993) 上 pp.533–539. ウィアート他 (1982) pp.110–112, pp.120–129 (資料53–58).
- ^ ローズ (1993) 上 pp.541,547. ウィアート他 (1982) p.112, pp.131–132 (資料61).
- ^ ウィアート他 (1982) pp.124–125 (資料55).
“Letter from Albert Einstein to President Franklin D. Roosevelt, 08/02/1939 (PDF)”. Archival Research Catalog. National Archives. 2010年9月1日閲覧。 - ^ ローズ (1993) 上 pp.548,553–555. ウィアート他 p.112, pp.135–137,139–140 (資料64,66).
- ^ ローズ (1993) 上 pp.570–572.
- ^ “Frisch-Peierls Memorandum, March 1940: On the Construction of a ‘Super-bomb’ based on a Nuclear Chain Reaction in Uranium”. The Nuclear Age Begins, Historical Documents. Atomic Archive. 2010年9月11日閲覧。
“Frisch-Peierls Memorandum, March 1940: Memorandum on the Properties of a Radioactive ‘Super-bomb’”. The Nuclear Age Begins, Historical Documents. Atomic Archive. 2010年9月11日閲覧。 - ^ ローズ (1993) 上 pp.645–646.
- ^ “The MAUD Report, 1941: Report by MAUD Committee on the Use of Uranium for a Bomb”. The Nuclear Age Begins, Historical Documents. Atomic Archive. 2010年9月12日閲覧。
- ^ ローズ (1993) 下 pp.402–406. ウィアート (1982) pp.237–246.
- ^ “The Franck Report, June 11, 1945”. Gene Dannen, Leo Szilard Online. 2010年11月24日閲覧。 “政治的、社会的問題についての委員会報告”. 豊島耕一、佐賀大学. 2010年11月24日閲覧。
- ^ Schollmeyer, Josh (2005). “Minority Report”. Bulletin of the Atomic Scientists 61 (1): 38–39. doi:10.2968/061001010.
- ^ ウィアート他 (1982) pp.243–245, pp.275–277 (資料107).
“A Petition to the President of the United States”. Leo Szilard Online. 2008年5月24日閲覧。 - ^ 参照:ハリー・S・トルーマン#大統領職(『スチムソン回想録』)
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- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 吉田守男「日本の古都はなぜ空襲を免れたか」朝日文庫、2002年8月。ISBN 4-02-261353-X
- ^ 黒木雄司『原爆投下は予告されていた!』光人社、1992年7月、ISBN 978-4-7698-0619-6。
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- ^ 戦後GHQは朝日新聞を呼んで「ラングドン・ワーナーが日本の文化財リストを出して戦火から守れと米政府を説得した。おかげで京都、奈良は爆撃を免れたと書け」と命じ、朝日新聞は言われるまま報道し、奈良市もGHQに媚びてワーナーの像を法隆寺の外に建てた(高山正之『サンデルよ、「正義」を教えよう』)
- ^ a b c d e 山極晃・立花誠逸編『資料マンハッタン計画』大月書店、1993年、ISBN 9784272520268
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- ^ 堀栄三『大本営参謀の情報戦記 - 情報なき国家の悲劇』文春文庫、1996年、ISBN 978-4-16-727402-3、p.254。
- ^ 『大本営参謀の情報戦記』pp.256-259
- ^ 『大本営参謀の情報戦記』p.257
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- ^ 原爆報道は戦後になって連合国軍最高司令官総司令部によって禁止されたのであるが、被爆直後の広島からの生々しいルポは、戦時中のプロパガンダを含むにせよ資料的価値は大きい。
- ^ NHKスペシャルあの日昭和20年の記憶2005年8月14日放送分
- ^ 東京裁判研究会『共同研究 パル判決書 (下)』 講談社学術文庫 590頁
- ^ ハリー・S・トルーマン。なお原爆開発および投下について署名したのはフランクリン・ルーズベルト
- ^ 東京裁判ハンドブック編集委員会『東京裁判ハンドブック』、青木書店、1989年
- ^ 『毎日新聞』1952年11月4日「“原爆娘”登壇に感動 世界連邦アジヤ会議」
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- ^ 「原爆投下を阻止せよ」2010年 日本放送協会広島放送局制作。
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- ^ 「原爆投下を阻止せよ」2010年 日本放送協会広島放送局制作。
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- ^ 邦訳は 川本隆史訳『世界』岩波書店619号 (1996年2月号) pp.103-114.
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- ^ Bloomsbury Publishing PLC 出版。
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- ^ ユン・チアン、ジョン・ハリディ「マオ」講談社
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- ^ “原爆投下は「真のホロコースト」 イラン議長が長崎訪問報告”. 47NEWS(共同通信). (2010年2月28日) 2010年3月8日閲覧。
[編集] 参考文献
- ローズ、リチャード 『原子爆弾の誕生』 神沼二真、渋谷泰一 訳、啓学出版、1993年。 紀伊國屋書店、1995年、〈上巻〉ISBN 4-314-00710-9,〈下巻〉ISBN 4-314-00711-7.
- ウィアート、S. R., G. W. シラード 編 『シラードの証言: 核開発の回想と資料 1930–1945年』 伏見康治、伏見諭 訳、みすず書房、1982年。ISBN 4-622-02430-6。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 広島平和記念資料館
- 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
- 広島赤十字・原爆病院
- 長崎原爆資料館
- 国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
- 原子爆弾の歴史-1
- 被爆者の声(音声による被爆証言)
- Summary of Strategic Bombing Survey (Atomic attacks) - 1946年米国戦略爆撃調査団による調査報告書。
