1924年アメリカ合衆国大統領選挙

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大統領当選者
カルビン・クーリッジ
選挙結果の図。赤色がクーリッジとドーズ、青色がデイビスとブライアン、緑色がラフォレットとホィーラーが勝利した州を示す。数字は各州の選挙人数。

1924年アメリカ合衆国大統領選挙(1924ねんアメリカがっしゅうこくだいとうりょうせんきょ、英:United States presidential election, 1924)は、現職大統領共和党候補のカルビン・クーリッジが選ばれた。クーリッジは国内経済の活況に功績があるとされ、外交問題でも重大なものはなかった。民主党の分裂にも助けられた。民主党の正規の候補者は、ウェストバージニア州出身で知名度の低い元下院議員かつ外交官のジョン・W・デイビスだった。デイビスは保守派だったので、民主党の改革派が離党し、進歩党の候補者として出馬したウィスコンシン州選出の上院議員ロバート・M・ラフォレット・シニアの第3の政党運動を支援した。この大統領選挙はアメリカ州の先住民族がすべて合衆国市民とされ投票を許されたことでは最初の機会だった。クーリッジが一般投票での得票率で25.2ポイントの差をつけたことは、これまでの大統領選挙で2番目に大きな差となった。1番大きな差は前回1920年ウォレン・ハーディングの26.2ポイント差だった。

候補者の指名[編集]

共和党の指名[編集]

共和党の指名候補者

共和党全国大会6月10日から12日までクリーブランドで開催された。現職大統領のクーリッジを彼自身の任期(1920年ではクーリッジが副大統領候補であり、1923年8月にハーディング大統領が死去したことに伴い、クーリッジが後を継いだ。従ってクーリッジはこの時点では大統領になってからまだ1年間を経過していない)に指名するという選択は容易だった。

大統領候補指名投票(1924年共和党)
投票回 1
カルビン・クーリッジ 1065
ロバート・M・ラフォレット・シニア 34
ハイラム・ジョンソン 10

元イリノイ州知事フランク・O・ローデンが副大統領候補に指名されたが、ローデンは辞退した。著名な共和党員で実業家のチャールズ・G・ドーズがその代役に指名された。

民主党の指名[編集]

民主党の指名候補者

1924年の民主党全国大会6月24日から7月9日までニューヨーク市で開催された。有力な候補が2人おり、1人は元アメリカ合衆国財務長官、カリフォルニア州出身で、ウッドロウ・ウィルソン元大統領の義理の息子でもあるウィリアム・マカドゥーであり、もう1人は人気のある元ニューヨーク市長で現ニューヨーク州知事のアル・スミスだった。投票の結果は党内の地域的また文化的分裂を明らかに示しており、マカドゥーは南部西部それに禁酒法を支持(ドライと呼ばれた)する中西部の小さな町で、田舎のプロテスタントの代議員から多く支持された。マカドゥーを支持する代議員の中には、クー・クラックス・クランも支持する者がおり、クー・クラックス・クランは1920年代にその最盛期を迎え、全米48州に支部を持ち、会員数は4、5百万人と言われた。スミス知事は、北東部と中西部の大都市で、反禁酒法(ウェットと呼ばれた)の者、ローマ・カトリック教徒、および他の少数民族に支持され、またクー・クラックス・クランの影響力に反対する改革派からも支持された。党内の深い亀裂の一例として、クランを公に非難する提案について荒々しい議場論争が起こり、南部と西部のマカドゥー支持の代議員の大半が動議に反対し、スミス支持の大都市代議員の多くが動議を支持した。結局、動議は一回の投票で否決された。過去3回大統領候補になったウィリアム・ジェニングス・ブライアンがこの動議は党を恒久的に割る怖れがあると言ってクランに対する非難に反対した。1940年に共和党の大統領候補となるウェンデル・ウィルキーは1924年では民主党の代議員であり、クランを非難する提案に賛成した。クランを巡るマカドゥーとスミスの代議員間の苦い戦いは次の指名投票への場を作った。

指名を得るためには3分の2ルールがあったために、投票の中頃で過半数を取ったマカドゥーも、スミスも3分の2以上の票を集めることができなかった。しかし、どの候補者も降りようとはせず、行き詰まりは何日も続いて、投票が重ねられるごとにマカドゥーもスミスも指名に必要な代議員数に近づくこともなかった。結局投票回数は100回を超え、アメリカ史の中でも最長の政治集会になった。当時人気のあったコメディアンウィル・ロジャースは、ニューヨーク市が民主党代議員を訪れるために招待したのであり、住むために招待したのではないと冗談を言った。

アラバマ州選出の上院議員で民主党の上院院内総務オスカー・W・アンダーウッドも幾らかの票が入っており、この大会はアラバマのクラリオンというラジオで初めて実況中継されたものでもあったので、「オスカー...ダビャ(Wの訛り)...アンダーウッドに24票」という放送が投票ごとに行われて大会を象徴するものになった。マカドゥーもスミスも行き詰まりを打開できなかったので、103回目の投票で疲れきっていた代議員達は、ウェストバージニア州出身の元下院議員で駐英大使を務めた無名のジョン・W・デイビスを、妥協の産物として指名した。この混迷で、ウィル・ロジャースの有名な警句「私は如何なる組織された政党のメンバーでもないが、私は民主党員だ!」が生まれた。

ウィリアム・ジェニングス・ブライアンの弟でネブラスカ州知事だったチャールズ・W・ブライアンが副大統領候補に指名されたが、これはブライアンをまだ党の指導者として見ている田舎の党支持者の支持を得るためだった。

大統領候補指名投票(1924年民主党)
投票回 1 15 100 投票回 1 15 100
ウィリアム・マカドゥー 431.5 479 190 ヘンリー・T・アレン 1 1 0
アル・スミス 241 305.5 351.5 ジョン・T・バーネット 1 0 0
ジェイムズ・コックス 59 60 0 ウィリアム・ジェニングス・ブライアン 1 1 1
ジョン・W・デイビス 31 61 203.5 ジョン・M・キャラハン 0 0 1
パット・ハリソン 43.5 20.5 0 ウィリアム・コイン 0 0 1
オスカー・W・アンダーウッド 42.5 39.5 41.5 ウィリアム・ディーバー 1 1 0
ジョージ・S・シルザー 38 0 0 エドワード・L・ドーニー 0 0 1
サミュエル・M・ラルストン 30 31 0 エドワード・I・エドワーズ 1 1 0
ウッドブリッジ・ネイサン・フェリス 30 0 0 ウィリアム・A・ガストン 1 1 0
カーター・グラス 25 25 35 ギルバート・M・ヒッチコック 1 1 0
アルバート・リッチー 22.5 17.5 17.5 J・ホームズ・ジャクソン 0 0 1
ジョセフ・T・ロヴィンソン 21 20.5 46 J・リチャード・ケビン 0 1 1
マーティン・バーマン 20 18 5 ローランド・クレッズ 0 0 1
ジョナサン・M・デイビス 20 11 0 ウィリアム・マロニー 1 1 0
チャールズ・W・ブライアン 18 11 2 フレッド・マーティン 1 1 0
フレッド・H・ブラウン 17 9 0 ベル・ミラー 0 0 1
ロイアル・S・コープランド 17 12 0 アトリー・ポメリーン 1 0 0
コーデル・ハル 13 18 20 ウィル・ロジャーズ 1 0 1
ウィリアム・E・スウィート 12 0 0 トマス・J・スペラシー 1 0 0
ホーマー・S・カミングス 9 0 0 コーラ・ウィルソン・スチュワート 1 1 0
デイヴィッド・ヒューストン 9 5 2 ジョージ・L・ベリー 0 1 2
ウィラード・ソールズベリー・ジュニア 7 6 6 ニュートン・ディール・ベイカー 1 28 58
ジョン・B・ケンドリック 6 0 0 デイヴィッド・ヒューストン 0 0 9
A・A・マーフリー 4 6 2 ジェイムズ・W・ジェラード 0 0 10
ジョン・S・バトル 3 7 20 ロバート・L・オーウェン 0 0 20
トマス・R・マーシャル 3 0 0 トマス・J・ウォルシュ 33 50 123
デイビッド・I・ウォルシュ 3 5 0 ヒューストン・トンプソン 1 0 0
フランクリン・ルーズベルト 2 5 1 バートン・K・ホィーラー 2 0 0
カルビン・クーリッジ 1 0 0

進歩党の指名[編集]

上院議員のロバート・M・ラフォレット・シニアは共和党を離党して自身の政党である進歩党をウィスコンシン州で創り、二大政党が保守的な候補者を選んでいたので不満を抱き、両政党の改革派に代案を提供するために第3の政党候補者として出馬することにした。ラフォレットはかくして進歩党の大統領候補指名を受けた。ラフォレットは長い間労働組合の擁護者であり、大企業の激しい敵であり、ウィスコンシン州の政界で20年間以上君臨した激しい演説家でもあった。改革的農夫、アメリカ労働総同盟および社会主義者にも支援され、紙巻タバコ工場やそのた大規模製造業の国有化を綱領に上げた。また富める者に対する増税と工場労働者の団体交渉権を支持した。労働者の強い支持にも拘らず、一般投票では16%を超える得票率となり、出身州のウィスコンシン州の選挙人を獲得したに留まった。

禁酒党・共産党の指名[編集]

禁酒党は、活動家のハーマン・プレストン・ファリスを大統領候補に、婦人参政権運動家だったマリー・キャロラインブレームを副大統領候補としてそれぞれ指名した。

この大統領選挙では、1919年に結成されたアメリカ共産党が初参加した。大統領候補となったのは1919年の鉄鋼ストライキを指導したウィリアム・Z・"ビル"=フォスターで、ベンジャミン・ギトロウが副大統領候補となった。フォスターは、1928年1932年の大統領選にも出馬し、また翌1924年からは議長として党を指導した。一方ギトロウは、後に「右翼」反対派として共産党を離れ、さらに転向して反共活動に従事した。

一般選挙[編集]

秋の選挙運動[編集]

悲惨な民主党全国大会の結果、民主党は分裂し、クーリッジが選挙戦に勝利することを疑う者はほとんどいなかった。その選挙スローガン「クーリッジで冷静に(クール)」が非常に人気を呼んだ。デイビスは伝統的な民主党の地盤であるソリッド・サウスとオクラホマ州を制したに留まった。民主党の改革派がラフォレットに投票したので、デイビスは一般投票でクーリッジに25ポイントの差を付けられた。共和党はうまく運んでニューヨーク市も制し、これ以降再現できないくらいの偉業となった。

結果[編集]


大統領選の結果
大統領候補者
出身州 
党   得票数 得票率 選挙人得票数 副大統領候補者
出身州
選挙人得票数 
カルビン・クーリッジ
マサチューセッツ州
共和党 15,723,789 54.0% 382 チャールズ・G・ドーズ
イリノイ州
382
ジョン・W・デイビス
ウェストバージニア州
民主党 8,386,242 28.8% 136 チャールズ・W・ブライアン
ネブラスカ州
136
ロバート・M・ラフォレット・シニア
ウィスコンシン州
進歩党 4,831,706 16.6% 13 バートン・K・ホィーラー
モンタナ州
13
ハーマン・P・ファリス
ミズーリ州
禁酒党 55,951 0.2% 0 マリー・C・ブレーム
カリフォルニア州
0
ウィリアム・Z・フォスター
マサチューセッツ州
共産党 38,669 0.1% 0 ベンジャミン・ジットロー
ニューヨーク州
0
ギルバート・ネイションズ
アメリカ党 24,325 0.1% 0 チャールズ・H・ランドール
カリフォルニア州
0
その他 - 60,750 0.2% 0 - 0
合計 29,121,432 100% 531 - 531
選出必要数 266 - 266

参考文献[編集]

  • Hicks, John Donald. Republican Ascendancy 1921-1933 (1955)
  • K. C. MacKay, The Progressive Movement of 1924 (1947)
  • Donald R. McCoy, Calvin Coolidge: The Quiet President (1967)
  • Murray, Robert K. The 103rd Ballot: Democrats and Disaster in Madison Square Garden (1976),
  • Nancy C. Unger. Fighting Bob LaFollette: The Righteous Reformer (2000)

外部リンク[編集]