1900年アメリカ合衆国大統領選挙

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選挙結果の図。赤色がマッキンリーとルーズベルト、青色がブライアンとスティーブンソン、が勝利した州を示す。数字は各州の選挙人数。
共和党の選挙ポスター、1900年

1900年アメリカ合衆国大統領選挙(1900ねんアメリカがっしゅうこくだいとうりょうせんきょ、英:United States presidential election, 1900)は、1900年11月6日に投票が行われた。1896年の再現となり、共和党の現職大統領ウィリアム・マッキンリー民主党の挑戦者ウィリアム・ジェニングス・ブライアンとの間で争われた。経済的な繁栄が戻り、米西戦争に勝利して間もないことがマッキンリーに有利に働き、圧倒的勝利を得た。

候補者の指名[編集]

共和党の指名[編集]

共和党の指名候補者

フィラデルフィアで開催された1900年共和党全国大会の926人の代議員は満場一致でウィリアム・マッキンリーを大統領候補に指名した。ニューヨーク州共和党の指導者がニューヨーク州知事で躊躇っているセオドア・ルーズベルト副大統領候補に指名するようマッキンリーに圧力をかけた。前任の副大統領ギャレット・ホーバートは1899年に死んでいた。

民主党の指名[編集]

民主党の指名候補者

ウィリアム・ジェニングス・ブライアンはジョージ・デューイ海軍提督が指名候補を辞退した後は容易に候補者に指名された。ブライアンは、カンザスシティで開催された1900年民主党全国大会で936の代議員票を集めた。元副大統領のアドレー・E・スティーブンソンが、デイビッド・B・ヒル、アブラム・W・パトリックおよびジュリアン・カーを破って、再度副大統領候補に指名された。

その他の指名[編集]

4年前はブライアンを支持した人民党は2つの派閥に分かれた。1つは「フュージョン」派であり、民主党との統合を望んだ。フュージョン派はサウスダコタ州スーフォールズで党員集会を開き、ブライアンを大統領候補に、チャールズ・A・タウンを副大統領候補に指名した(タウンはシルバー共和党の全国議長であり、後に辞退した)。「中道」人民党は別の政党としての独自性を維持することを欲した。シンシナティで党員集会を開催し、ウォートン・バーカーとイグナティウス・L・ダネリィを指名した。「フュージョン」派はこの選挙で民主党に吸収された。「中道」派はこの後も2回大統領選挙を戦うが、1900年以降の人民党は重要な政党と見られることはなかった。社会主義労働者党も分裂した。多数派が社会民主党を作り、ユージーン・デブスを大統領候補に指名した。この党は選挙後に社会党に改名した。禁酒党の両会派が候補者を立てたが、民族的禁酒主義者としては最後の選挙となった。その他の第三の政党としては、統一改革党のセス・H・エリスと統一キリスト教党のF・R・レオナードがいた。

一般選挙[編集]

選挙運動[編集]

マッキンリーの金貨(金本位制)の訴え。兵士、実業家農夫および専門的技術者に支持され、国内の繁栄回復と海外での戦勝を訴えている
保守派はブライアンの選挙綱領を冷やかした

1900年は景気が活況を呈し、共和党のスローガン「腹一杯の食事をもう4年間」と1898年の米西戦争の簡潔な勝利とが組合わさり、選挙には強烈なアピールとなった。テディ(セオドア)・ルーズベルトはこの戦争のキューバで戦った国民的英雄になり、共和党候補者の人気ある代弁者となった。その演説では、戦争が正当なものであり、スペインの専制からキューバとフィリピンを解放したと繰り返し訴えた。

4年前、アメリカのまさに玄関にある島が中世的専制政治よりもまだ悪いものの下で恐ろしい苦悶を味わっていたので、国民は不安だった。我々はこの出発点で我々のアルメニアがあった。キューバの状態はもはやじっとしておられる状況ではなく、いちるの自尊心も保てない状態になっていた。我々は剣を抜き、この同時代の中でも最も高潔で輝かしい海外戦争を成功に導いた。

ブライアンの選挙運動は1896年からの主要問題である銀の自由鋳造の再現だった。これは景気が上向いていたことと、アラスカ南アフリカで新たに生産されて高騰していたこととで、国内経済に多くの紙幣が投入されたために、1900年では訴える力がなかった。ブラインの戦術の2番目はマッキンリーの帝国主義を攻撃することだった。ブライアンは、マッキンリーがキューバやフィリピンを解放する代わりに、スペインの残酷な専制にアメリカの残酷なものを置き換えただけだと主張した。フィリピンのゲリラによる流血の多い反乱を抑圧したアメリカの軍事行動を特に激しく批判した。この主題は以前の敵対者、すなわち「ハードマネー」のドイツ人、元ゴールド民主党員およびアンドリュー・カーネギーのような反帝国主義者を味方にした。

両候補者共に1896年の選挙戦術を繰り返した。マッキンリーは再度オハイオ州キャントンの自宅前で、伝統的な「玄関前」選挙運動をおこなった。その最盛期には、1日に16の代表団と3万人の声援を送る応援団を迎えた。一方ブライアンは再度鉄道を使って中西部や東部の18,000マイル (28,800 km)を旅し数百の集会を開いた。このときは、マッキンリーの副大統領候補でニューヨーク州知事のセオドア・ルーズベルトもブライアンの戦術を採り、精力的に24州、21,000マイル (33,600 km)を回った。

フィリピン戦争問題[編集]

スペインに対する戦争でアメリカ陸軍と海軍の勝利は共和党への支持を作り上げる重要な要素だった。民主党はフィリピンでは反乱のために戦争は終わっていないと主張し、これがその大きな論点となった。フィリピン戦争が終結に向かっているという認識は共和党の選挙の利点であり、マッキンリー内閣はフィリピン駐在軍が減少しているとした。共和党はマッキンリーの再選から60日以内に協定が結ばれ、フィリピンの戦争は終結すると誓った[1]。しかし、ある中尉がその妻に宛てた手紙で「紙の上では良く見えるが、実際にはここの軍隊は減っていない。これらの(国に帰るべき)部隊は除隊間近の兵士で構成されている」と説明した[2]

さらに陸軍長官エリフ・ルートはマッカーサーの1900年9月の報告書を持っていたが、選挙後まで公開しなかった[3]。アーサー・マッカーサー将軍は、4ヶ月間フィリピンで指揮を執っており、ワシントンに対して、戦争は下火になっていないこと、その終結は視界に入っていないことを警告していた。マッカーサーは戦争のゲリラ戦がまさに始まったばかりであり、フィリピン人は経験を積んでその戦闘技術が上がっていると信じた。さらに、フィリピンの指導者エミリオ・アギナルドの戦略は大衆の支持を得ていた。マッカーサーは次のように書いた。

この特異な戦争で成功することは、現地人全体の行動をほとんど完全に纏め上げることにかかっている。そのような統合はあまりにも明白な事実なので議論を俟たない。どのようにしてそのような状態を作り上げ維持するかは簡単なことではない。この目的のために疑いも無く脅しが行われたが、唯一の動機では数百万人の大衆の統一され明らかに自発的な行動を説明するにはほとんど十分とは言えない事を恐れる。町ごとの一人の反逆者がそのような複雑な組織を結果的に破壊する。動物的同質性から粘液質の原理が生まれる可能性が強く、そのような行動が自分達の利益や有用と確信するものに反する場合でも、それが人々を同族の指導者の訴えにしばらく反応するように仕向けている。

[4]

兵士の投票[編集]

それでもフィリピンにいる兵士の大半はブライアンを支持しなかった。兵士の手紙や日記で1900年の選挙に触れたものは、共和党のマッキンリーとルーズベルトの組み合わせを圧倒的に支持していた。ビバリー・デーリー軍曹に拠れば、「途方も無い民主党員」でもマッキンリーを支持した。ハンブルトン一等兵は「もちろんブライアンがいいと考える奴はいるが、多くは話さないよ」と書いた[5]

選挙[編集]

ブライアンの精力的な努力にも拘らず、マッキンリーの下での新たな繁栄と米西戦争の結果に付いての大衆の承認が結びついて、マッキンリーは満足のいく勝利を得た。一般選挙でも選挙人選挙でも得票差は1896年より大きかった。ブライアンの出身州であるネブラスカ州ですらマッキンリーが制した。1896年と同様に、ブライアンは民主党の伝統的なソリッドサウスと西部の農夫の票は掴んだ。

結果[編集]


大統領選の結果
大統領候補者
出身州 
党   得票数 得票率 選挙人得票数 副大統領候補者
出身州
選挙人得票数 
ウィリアム・マッキンリー
オハイオ州
共和党 7,228,864 51.6% 292 セオドア・ルーズベルト
ニューヨーク州
292
ウィリアム・ジェニングス・ブライアン
ネブラスカ州
民主党 6,370,932 45.5% 155 アドレー・E・スティーブンソン
イリノイ州
155
ジョン・グランビル・ウーリー
イリノイ州
禁酒党 210,864 1.5% 0 ヘンリー・メトカーフ
オハイオ州
0
ユージーン・デブス
インディアナ州
社会民主党 87,945 0.6% 0 ジョブ・ハリマン
カリフォルニア州
0
ウォートン・バーカー
ペンシルベニア州
人民党 50,989 0.4% 0 イグナティウス・L・ダネリィ
ミネソタ州
0
ジョセフ・フランシス・マロニー
マサチューセッツ州
社会主義労働者党 40,943 0.3% 0 バレンタイン・レメル
ペンシルベニア州
0
その他 - 6,889 0.0% 0 - 0
合計 13,997,426 100% 447 - 447
選出必要数 224 - 224

選挙の後[編集]

マッキンリーは2期目の就任から半年後の1901年9月6日、ニューヨーク州バッファローで開催されたパン・アメリカン博覧会会場で無政府主義者レオン・F・チョルゴッシュに銃撃され、9月14日に傷が元で死去した。ルーズベルトが第26代大統領に昇格した。

脚注[編集]

  1. ^ [Miller 1982: 143]; Detroit Evening News, September 7, 1900; San Francisco Call, September 8, 21, 1900; Boston Evening Transcript, September 20, 1900
  2. ^ [Miller 1982: 148]; Lt. Samuel Powell Lyon to his wife, April 12, 1900, Carlisle Collection
  3. ^ [Miller 1982: 143, 148]
  4. ^ [Miller 1982: 150–151]; Literary Digest 21 (1900): 605–606
  5. ^ [Miller 1982: 187]; Letters of Sergeant Beverly Daley, November 16, 1900, Private Hambleton, March 4, 1900.

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • Bailey, John W., Jr. "The Presidential Election of 1900 in Nebraska: McKinley over Bryan" Nebraska History 1973 54(4): 561-584. ISSN 0028-1859 Bryan lost his home state.
  • Bailey, Thomas A. (1937). “Was the Presidential Election of 1900 a Mandate on Imperialism?”. Mississippi Valley Historical Review: 43-52. 
  • Coletta, Paolo E. (1964). William Jennings Bryan. vol. 1. University of Nebraska Press. 
  • Lewis L. Gould, The Presidency of William McKinley (1980)
  • Fred H. Harrington, "The Anti-Imperialist Movement in the United States, 1898-1900" in Mississippi Valley Historical Review, Vol. 22, No. 2 (Sep., 1935) , pp. 211-230 in JSTOR
  • Miller, Stuart Creighton (1982). Benevolent Assimilation: The American Conquest of the Philippines, 1899–1903. Yale University Press. ISBN 0-300-03081-9. 
  • H. Wayne Morgan. "William McKinley as a Political Leader" Review of Politics, Vol. 28, No. 4 (Oct., 1966) , pp. 417-432 in JSTOR
  • H. Wayne Morgan. William McKinley and His America (1963)
  • Kent, Noel Jacob (2002). America in 1900. 
  • Schlup, Leonard. "The American Chameleon: Adlai E. Stevenson and the Quest for the Vice Presidency in Gilded Age Politics." Presidential Studies Quarterly 1991 21(3): 511-529. ISSN 0360-4918
  • Schlup, Leonard. "In the Shadow of Bryan: Adlai E. Stevenson and the Resurgence of Conservatism at the 1900 Convention." Nebraska History 1986 67(3): 224-238. ISSN 0028-1859
  • Tompkins, E. Berkeley. "Scilla and Charybdis: the Anti-imperialist Dilemma in the Election of 1900" Pacific Historical Review 1967 36(2): 143-161. ISSN 0030-8684

外部リンク[編集]