植民地
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植民地(しょくみんち)とは、国外に移住者が移り住み、本国政府の支配下にある領土のこと。古くは古代ギリシアや古代ローマなどにも見られるが、以下では15世紀に始まるいわゆる「大航海時代」以降ヨーロッパ各国が侵略によって獲得した海外領土を主として扱う。近現代においては、本国政府の憲法や諸法令が原則として施行されず、本国と異なる法的地位にあり、本国に従属する領土を植民地という。殖民地とも表記する。
目次 |
[編集] 総論
[編集] 概要
古代にも植民地はあるが、「植民地」の規模をそれまでにないほど大きくしたのは近代西欧諸国の産業資本主義の対外交易戦略によってである。初期にはポルトガル・スペイン両帝国が、19世紀から20世紀にかけては英国が、植民地交易によって世界覇権を握った。
一般に帝国主義的先進国が植民地を原料工場・商品市場として開発するとともに、住民を政治的に抑圧支配する。植民地を獲得する過程では、ほとんどのケースで在来住民との軍事的な衝突が起こり、その全殺戮にいたることもある。スペインによるアメリカ大陸の植民地化の過程ではしばしば現地住民の絶滅が発生し、フランスもカリブ海西インド諸島のマルティニーク島の原住民を1658年に殲滅し、純粋な島民は絶滅した[1]。南太平洋の島嶼部では労働者として現地住民を雇用しても成功しないというのが定説であった。白人と接触以降に現地人人口が激減することが多く(ハワイやフィジー、サモアなど)、他の領土から労働者を移住させざるをえない状況がしばしば発生した[2]。
現地住民との混血や本国国籍人の現地での浮浪化などは、しばしば民政や法的な問題を発生させた。アヘンや覚醒剤ビジネスは植民地経済に根付くことが多かった。
平和的プロセスによって植民地が獲得される場合もあるが、いずれにせよなんらかの形で獲得したあとは、その植民地を統治・経営(植民地経営)することになる。その過程を植民地化という。
1804年、フランス革命に触発されたハイチが非白人国家としては史上はじめて独立して以来、旧植民地諸国は現在にいたるまで数多く独立していった。ただし先進国が独立を認めた背景には、世界経済システムの変容があるといわれる[3]。こうした一連の過程を脱植民地化という。
[編集] 統治形態
植民地の統治形態には、以下のものがある。
- 外交権や駐軍権のみを獲得し内政は先住民による統治に任せて原則として干渉しない保護領。
- 現地の王侯や部族長を通じて支配する間接統治。
- 本国から総督や民政長官、軍政長官などを派遣して支配する直接統治。
- 本国が外交と防衛のみを担当し内政は現地住民によって民選された政府・議会に委ねる自治植民地。ただし「自治」とはいっても、参政権は本国出身者に限定されたり、先住民の参加を認めても公用語(本国の言語)習得や一定額以上の納税などの条件を付けて、事実上の参政権が著しく制限されることが多い。
一般的に植民地統治が継続する中で1.から4.までの変遷をたどるケースが多いが、植民地が本国に隣接している場合、最終的に本国領土の一部として編入され、その過程で先住民も同化が進み、固有の言語や文化、民族意識を失っていく傾向にある。
植民地における主権は領有国が有するが、特殊な形態として保護国、租借地や租界、複数国による共同統治領、国連の委任統治領や信託統治領などがある。
[編集] 土地政策
主権のある未文明国に関しては共有、行政占領、租借、割譲という概念で領土獲得を行い、そうでない場合はもっとも露骨な領土獲得の根拠として「無主物先占」の法理が利用された[4]。
[編集] 差別・分離政策
帝国主義の時代、植民地では本国とは異なった法律が施行され、先住民には国籍や市民権が与えられなかったり、国籍を与えても「属領籍」「外地籍」「海外籍」のように本国人とは別個の法的身分に編入され、権利義務について別個の取り扱いがなされた(イギリス国民や本項の日本の植民地を参照)。これは現地に従来からある慣習法を尊重する一方で治外法権により西欧の法体系を移入することの二重構造から生じたものであるが、現代の視点では不当な人種政策・人種差別と批判されることが多い。
[編集] 植民地主義
[編集] 現存する植民地
現代においても事実上の植民地を保有する国は多いが、第二次世界大戦以降は各地の植民地で独立運動が盛んになったり、国連総会における植民地独立付与宣言の決議で、植民地という存在そのものが国際的に否定されたことから、客観的に見て植民地と言いうる実態を有している地域であっても、先住民に本国民と対等の権利を与えて海外領土や自治領などという言い換えをすることが多い。現在でも領有国が公に植民地としている地域にケイマン諸島などがある。
逆に、客観的に見て植民地と言い難い地域であっても、住民が領有国の統治に不満を持っている場合、領有国を攻撃するための政治的スローガンとして使われることもある。例えばフランス領コルシカ島の分離主義者は同島がフランスの植民地であると主張している。旧東ドイツ住民の中には、西ドイツの植民地支配を受けていると主張する人もいる[要出典]。
[編集] 類推
少数民族の居住地域で、独立運動や市民的自由の抑圧、資源の収奪等の過酷な統治が行われている地域を、過去の歴史上の植民地との類推から「植民地」と呼ぶこともある。中国のチベット自治区や新疆ウイグル自治区、内モンゴル自治区などはこのような文脈で植民地と言われることが多い。
[編集] 植民地支配に対する評価
かつては法的にも道義的にも問題ないとするのが常識であったが、現代においては1960年に国連総会で決議された植民地独立付与宣言などに見られるように、植民地支配は被害、搾取の時代として否定されるのが世界的傾向である。
旧宗主国側では、近代化という恩恵を後進地域にもたらした善行であるという評価がなされる場合もある。一方で、「部外者による発展」より「民族の独立」そのものに重きを置く価値観から、こうした「恩恵説」に対する反発も存在する。また、植民地支配が住民に与える文化的、心理的ダメージを重視する思潮もある(ポストコロニアリズム参照)。
[編集] 各論
[編集] ヨーロッパ諸国
マルコ・ポーロの『東方見聞録』、羅針盤の伝播、香辛料への渇望によりヨーロッパ諸国の東洋に対する関心が高まった。1477年には、クリストファー・コロンブスが大西洋の先の知識を求め、アイスランドへ赴いた。
[編集] スペインとポルトガル
「ポルトガル海上帝国」、「ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化」、および「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照
ポルトガルとスペインはイベリア半島におけるイスラム勢力に対する国土回復運動であるレコンキスタを達成した後、大航海時代の先頭を切って海外に進出した。スペインはコロンブスの新大陸発見後、中米のメキシコ、南米のペルーを中心とする大領土を獲得し、さらに太平洋を横断してフィリピン諸島の領有にも成功した。
ポルトガルとスペインの領域を分けたのは、1494年にローマ教皇アレクサンドル6世が定めたトルデシリャス条約である。大西洋上に西経46度の子午線を引き、東をポルトガル、西をスペインの領土とした。このため南米大陸では、ブラジルのみがポルトガル領となった。1529年のサラゴサ条約では現在のインドネシアにあたるモルッカ諸島の東297.5リーグ(ニューギニア島中央部に相当する東経144度30分)を境に、東がスペイン、西がポルトガルの領土とされた。この2つの条約の結果、世界はポルトガルとスペインによって分割された。
ポルトガルは1418年からエンリケ航海王子の下でアフリカ西海岸の探検を続けていたが、1488年に喜望峰を発見すると、東洋における香料貿易の独占をめざしてインド洋に進出した。1500年にはカブラルがブラジルを発見。1511年のマラッカの領有後はマカオ、長崎にまで貿易圏を広げ、一時は日本のキリスト教布教にも成功した。17世紀に入り、アジアで新しく参入したオランダやイギリスとの競合に破れると、南米ブラジルの植民に注力する。第二次世界大戦後、ポルトガルはインドのゴアにあった植民地からインドの独立後に撤退し、アフリカのアンゴラやモザンビークなどの植民地も1970年代に独立した。
スペインは1521年のコルテスによるアステカ帝国征服、1533年のピサロによるインカ帝国征服により、16世紀から19世紀初頭に至るまで北米南西部からブラジルを除く南米全体に及ぶ大植民地を維持したが、勃興するイギリス帝国の経済支配下に置かれ、さらに王朝交代によりその支配力は急激に弱体化した。1810年に至ると、ナポレオンのスペイン侵攻に乗じ、独立を試みる。植民地当局に対し、現地生まれのクリオーリョはその後15年にわたる攻防により独立を勝ち取る。この結果、スペインが南北アメリカ大陸に維持できた植民地はカリブ海のキューバとプエルトリコだけとなった。さらに、スペインは1898年の米西戦争でキューバとフィリピンを失う。1975年にはアフリカに残っていた西サハラからも撤退した。
[編集] イギリス
イギリスの最初の植民地は、イングランドが中世以来入植を繰り返してきたアイルランドといえるだろう。その後大航海時代の波に乗って北アメリカ大陸に植民し、ニューイングランド植民地が成立、さらに当初は交易を目的として東洋に渡った東インド会社はインドの諸勢力を巧みに操ってインドに植民地を広げる。七年戦争ではフランスと争い、カナダを獲得、インドからフランス勢力をほとんど駆逐した。
19世紀始めのナポレオン戦争に勝利したイギリスは世界の海の覇権を握り大英帝国を建設することになる。その植民地はあまりにも多くてすべてを列挙することはできないが、東南アジアのビルマと海峡植民地(後のマレーシア)、中国の香港、流刑植民地として出発したオーストラリアとニュージーランド、アフリカではナイジェリア、南アフリカ、南アメリカ大陸のフォークランド諸島などを植民地とした。イギリスはまたスペイン・ポルトガルから独立後の南米諸国やオスマン帝国から独立した中近東諸国にも大きな影響力を持っていたが、これらの植民地は第二次世界大戦後民族独立の波に乗って次々に独立していった。また1997年には香港を中華人民共和国に返還している。
ただし、現在でもケイマン諸島、ヴァージン諸島、バミューダ諸島などのカリブ海や大西洋の島々、フォークランド諸島、ジブラルタルなどを海外領土として保有している。
[編集] フランス
「フランス植民地帝国」および「フランスの地方行政区画」も参照
フランスは当初、カナダのケベックとカリブ海のマルティニーク島、グアドループ島に入植したが、七年戦争でイギリスに敗れ、カナダを放棄した。西アフリカのセネガルも古くからのフランス植民地であった。19世紀になってイスラム圏であるアルジェリアと東洋の仏領インドシナ、南太平洋の仏領ポリネシアのタヒチやニューカレドニアなどの植民地化に成功した。これらの植民地も第二次世界大戦後民族独立の波に乗って次々に独立していった。なおタヒチでは、1990年代フランス政府が強行した核実験に反発した地元住民を中心とした解放機構が、植民地支配からの独立を訴えたが、大統領のジャック・シラクは「タヒチはフランスの一部である」と言明し核実験を強行、今も独立闘争が続いている。
[編集] オランダ
「オランダ海上帝国」も参照
オランダも17世紀から18世紀にかけて植民地主義大国として活躍してオランダ海上帝国と呼ばれる。20世紀に入っても東インド植民地(蘭印、インドネシア)や南アメリカに植民地(スリナム)を保持していた。しかし度重なる英蘭戦争で北米の植民地を奪われ、更に南アフリカの植民地も超大国に成長した大英帝国に敗れ失うなど、列強としてのオランダの国際的地位は低迷して行った。
20世紀にはインドネシア、スリナムが独立し、ほとんどの領土が失われたが、現在でもカリブ海にオランダ領アンティル、アルバの二つの海外領土を持っている。
[編集] ロシア(ソビエト社会主義共和国連邦)
ロシア帝国は15世紀、モスクワ大公国がキプチャク汗国から自立し、周囲のスラヴ人の国々を飲み込んでその領土を広げた。16世紀にロシア平原を統一してロシア帝国を成立させると、東へと開拓をすすめ、18世紀頃までにはシベリアをほぼ制圧した。シベリアには殖民都市を多数建設し、都市同士を結ぶことで勢力を広げた。シベリア制圧を終えると進路は南へ変わり、中央アジアの多くの汗国を侵略、植民地化した。さらにシベリアの南に広がる清とぶつかり、ネルチンスク条約やキャフタ条約によって国境を定めたが、19世紀に清が弱体化すると、アヘン戦争やアロー号事件のどさくさにまぎれ、満州のアムール川以北と沿海州(外満州)を次々に併合、植民地化した。
東方の併合が一段落すると、続いて全中央アジアを征服、バルカン半島へ進出し、オスマン帝国と幾度も衝突した(南下政策、汎スラヴ主義)。領土拡張主義は日露戦争や第一次世界大戦によって日本、ドイツなどとぶつかり合い、その戦費の捻出によって経済は破綻、共産主義者によるロシア革命が起こってロシア帝国は滅んだ。拡大した領土はそのままソビエト社会主義共和国連邦に引き継がれ、中央アジア、南コーカサス、非ロシア・スラヴ地域は構成共和国として連邦に加盟し、それ以外はロシア共和国領となった。1941年にはバルト三国を、武力併合した。また、第二次世界大戦後に、東欧諸国を中心としてソ連の影響下に置かれた社会主義国も、名目上独立国であるが、衛星国と呼ばれた。冷戦終結とその後の混乱でソ連が崩壊すると、バルト三国をのぞく旧ソ連構成国はCIS(独立国家共同体)を結成して独立し、ロシア連邦内にとどまったシベリア、極東ロシアでも、多くの地域が共和国を構成して自治が行われている。また、東欧諸国でも、ソ連の指導下にあった一党独裁体制が崩壊し、その勢力圏から離脱することになった。
[編集] その他のヨーロッパ諸国
- ドイツ帝国はタンガニーカ(現タンザニア)やトーゴ、南西アフリカ(現ナミビア)等のアフリカ植民地や南洋諸島を持っていたが第一次世界大戦敗北により喪失した(ドイツ植民地帝国)。
- イタリアはイタリア領ソマリランド・リビア、さらに短期間のみエチオピア(ソマリアとエリトリアを含むイタリア領東アフリカ)を保持したが、第二次世界大戦の優柔不断な国政によって戦後にすべて喪失した。
- ベルギーはベルリン会議の決議としてベルギー領コンゴ(ザイール共和国、のちのコンゴ民主共和国の領域)を保持していた。1908年にベルギー国王の私有地であるコンゴ自由国からベルギー政府の植民地(ベルギー領コンゴ)に移行した。1960年にコンゴ共和国として独立。コンゴの東に隣接するルワンダ・ウルンディ(ルワンダとブルンジとして独立)は第一次世界大戦後に獲得した植民地である。
- デンマークは北極周辺に植民地を保有し、グリーンランド、フェロー諸島を領有していたが、現在は両国とも自治領となっている。アイスランドもかつてはデンマーク領であった。大航海時代には、デンマーク海上帝国として、デンマーク領西インド諸島、インドのニコバル諸島に植民地を保有していた。後に前者はアメリカ合衆国、後者はイギリスに売却された。植民としてよりも海運業が盛んだった。
- スウェーデンは1638年に新大陸にニュースウェーデン(現在のデラウェア州)に植民。後、オランダに奪われる。植民よりも貿易に力を入れていた。ただしスウェーデンの植民地の先駆けは、中世以来のフィンランドだとも言える(バルト帝国)。近代はロシア帝国に支配されたが、現在でもフィンランド社会におけるスウェーデン社会は深く浸透しており、その影響力は非常に大きい。1784年には、フランスから西インド諸島の小島を買取り、西インド会社を設立したが、すぐに閉鎖されている。若干の殖民も行われたものの、1878年に返還された。島には、今もスウェーデン系の住民が多い。
- ノルウェーは現在、北極海、大西洋上に植民地を領有している。ヴァイキング時代には、グリーンランド、アイスランドも領有していた。現在の植民地は、ノルウェー独立(1905年)以後のものである。北極海にスヴァールバル諸島、ヤンマイエン島、大西洋上にブーベ島、ピョートル1世島を領有している。また南極の一部も領有権を主張している。ヴァイキング時代の植民地を巡ってデンマークと領有権問題を起こしたが、現在は解決している。
- プロイセン公国(ドイツ帝国の前身)は1683年に西アフリカに遠征し、ゴールド・コーストに植民(1720年に放棄)。更にギニアにグロース=フリードリヒスベルク市を建設し、奴隷貿易にも携わる。
[編集] 日本
[編集] 大日本帝国時代の統治地域
「大日本帝国」も参照
日本の植民地としては、どの地域を植民地として捉えるべきか見解が分かれており、沖縄(大東諸島、尖閣諸島を含む)と北海道、小笠原諸島も植民地として捉えるべきという少数意見もある。
- 台湾(下関条約による割譲)
- 南樺太(ポーツマス条約による割譲)
- 関東州(ポーツマス条約による租借地承継。満鉄付属地を含む)
- 朝鮮(日韓併合条約による大韓帝国の併合)
- 南洋群島(国際連盟規約による委任統治)
これらの地域のうち、台湾、南樺太、朝鮮は日本の領土であったのに対して関東州と南洋群島は領土ではなかったが、いずれも日本の統治権が及んでいた地域であり外地と総称されていた。ただし、南樺太は、各地域の法令の適用範囲の確定等を目的とした共通法(1918年制定)では内地の一部として扱われ、さらに1943年4月には完全に内地に編入された。
[編集] 「外地」と植民地
日本の法令で植民地という用語を使用したものはないが、公文書ではこれらの地域について植民地(殖民地)の語を使用しているものは存在しており、戦前日本が締結した条約で植民地に適用しないとされたものは、実際外地には適用されていないことや、法令も違うことを持って、当時の日本政府がこれらの領土を植民地と考えていたことは明らかであると水野直樹は主張している(1を参照)。
法令による規定では
- 内地では帝国議会が法律を制定したのに対し、外地では行政庁である総督が制令(朝鮮)や律令(台湾)などを制定していたこと
- 外地には衆議院の選挙区が設置されなかったこと
- 樺太・関東州・南洋諸島の在来住民に日本国籍が与えられなかったこと
など、内地と外地の間に法律上の区別が存在したことから、学術領域ではこれらの地域について「植民地」と呼ぶことを前提として研究や議論が展開されている。
また、日本の統治が及んでいた地域ではないが、1932年に建国された満州国を初めとして、大東亜共栄圏構想の下に、アジア太平洋戦争(大東亜戦争)中に日本軍占領下で樹立された国々(フィリピン、ベトナム、ラオス、ビルマ、カンボジア)や、日本軍占領下で成立した政権の支配地域(蒙古自治邦、汪兆銘政権など)も名目上は独立国であるとはいえ、その実質的な傀儡性から日本の植民地同然だったと主張する者も存在する(満州国については、準外地と呼ぶことがある)。
[編集] 日本の海外支配地域を植民地とすることへの異論
日本の保守系の論壇誌やウェブサイト等における主張など、同年代に植民地と呼ばれた地域とはその当地の内実(欧米のそれが非人道的、非合法、収奪的であるのに対し日本のそれは人道的、合法、恩恵的である、など)が異なる、あるいは領有に至る経緯(一般に植民地化は無主地先占の法理によって行われることが多かったが、日本の朝鮮や台湾は文明国間の条約による併合や割譲という法形式によって獲得された)が異なるという認識から日本の海外支配地域を植民地と呼ぶのは妥当ではないという意見もある。例えば小数の朝鮮人が日本の地方自治体や国会で議員として選ばれた点を挙げる場合がある。
[編集] アメリカ合衆国
アメリカはイギリスから植民地 13 州を割譲されて独立したが、その後もイギリス、フランス、スペイン、メキシコから植民地や領土を割譲されまたは買収して、自国の領土を西へと拡大した。拡大する過程で新たに州を新設していったので、植民地と州の境はあいまいになった。短期間で西海岸へ到達すると、太平洋の先に目を向け、北部のアラスカをロシアから買収、ハワイを併合しその後州に昇格させ自国領土内に完全に併合する。さらに米西戦争でスペインに勝利すると、スペインの統治下にあったカリブ海のキューバやプエルトリコ、東南アジアのフィリピン、グアムを植民地化した。もっとも、キューバはすぐに独立させたが、その後もキューバ革命までの長きに渡り影響下においた。
アメリカは建国の成り立ちからして、個人の財産的自由権を重視したが白人植民者の子孫からなるアメリカ合衆国議会は原住民や黒人奴隷に対してその主権を認めることはなかった。北西部領土や西南部領土あるいは西海岸に移動した白人開拓者は1763年宣言などインディアン達との取り決めに明確に違反していたにも拘らず、彼らへの攻撃に対して合衆国陸軍は出動し、インディアン強制移住法はミシシッピ以東から原住民を駆逐するだけでなく、以西のフロンティアにおいても駆逐を続け、原住民はわずかばかりの居留地と補償金を引き換えに合衆国政府に対して占有権を譲渡することになった。オレゴン・カントリーをめぐる交渉や米墨戦争による有償割譲により合衆国政府は広大な土地を獲得し、これらの土地は入植者に対して無償ないしは非常に安い価格で売却された。1890年代のフロンティア消滅と時期を同じくして発生した米西戦争により領土はフィリピン、グァム、キューバへ拡大し、またハワイ入植者が起こしたクーデターに米国海兵隊が介入しハワイ王国を併合した。
「アメリカ人の生命及び財産の安全確保のため」議会に対して合衆国軍隊の介入を要請するという図式はアメリカ帝国主義拡大の基本的な構造であり、米西戦争の勝利によって、スペインの影響下にあった中米の国々を独立させ、政治や経済的に影響下に置いたのちも、中米諸国はバナナ共和国と呼称され、アメリカ資本のユナイテッド・フルーツやドール・フード・カンパニーなどの民間企業が'資本主義の尖兵'として'掠奪'的経営や政治介入をおこなった。
これらは直接には合衆国による植民地政策とは一致しないが、「経済植民地」ともいえる事実上の植民地下に置き、各国に共産主義勢力が台頭するとたびたび排除するために軍を送り、傀儡政権となる軍事独裁政権を樹立させるなど、主権を無視した内政干渉を繰り返した。この構図は、中米や中東において現在も変わっていない。フィリピンは第二次世界大戦後に独立させたものの、同じく政治、経済、軍事すべてにおいて完全にアメリカ資本主義の影響下に置いた他、戦後に日本から獲得した南洋諸島も北マリアナ諸島を除いて独立したものの同様の状況下にある。
中米のプエルトリコは、現在も自治領として存続している。プエルトリコも北マリアナ諸島も、アメリカからの独立の勧告を無視し、実利を取ってアメリカの執政下にとどまっている。
[編集] 中華人民共和国
「チベット」および「東トルキスタン独立運動」も参照
中華人民共和国はチベット(西蔵自治区、青海省など)や内モンゴル(内蒙古自治区)、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)、満州(遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省と、内蒙古自治区の東部など)などの主権を中華民国から継承したと主張し、これらの地域を併合していった。これらの地域は法制(中華人民共和国憲法の民族自治規定等)上は完全に他の中華人民共和国省区、内地と同格であるとされており、形式上では植民地とは言えない。しかしながら、前述した併合地は内地と同格とは言え、そもそも中華人民共和国は独裁国家であり、内地の人間ですら参政権をはじめろくな権利が認められていないため、これらの手法は「植民地化」よりも悪質で、脱植民地の世界の趨勢にも逆行しているとも言える。中華人民共和国は、これらの地域を「もともとの中国の不可分の領土」であると主張している。
また、これらの地域では現在問題となっているような民族元来の文化、宗教、思想の弾圧、人権の制限が行われており、事実上、中華人民共和国の憲法や諸法令の遵守状況は中国の他の地域とは異なっている。特に東トルキスタン、チベット、内モンゴルにはその傾向が強い。さらにチベット民族の政治的・労働的劣位が明らかであるとされている(アメリカ国務省「世界の人権状況」2002年次報告)。
もともと、1950年に中国共産党の人民解放軍がチベットを武力侵略した狙いは、チベットの豊富な鉱物資源だったといわれ、実際に鉱物資源を輸送する青蔵鉄道の建設、大規模な採掘事業など、チベット鉱物の開拓は中華人民共和国の国策として着実に進められている。また中華人民共和国政府が推進する「チベット地域支援政策」によって、大量の漢民族が社会的・経済的優位が保障されるチベット自治区に流入し、現在の自治区人口比では漢民族がチベット民族を凌駕している。
さらに前述の政治的・労働的優位性のもとに、漢民族がチベット民族を低廉な賃金で就労させている現状がアメリカ国務省報告に記載されており、資源の搾取、原住民族の労働力化などが行なわれている。
以上のような諸点をもとにして、東トルキスタン亡命政府、チベット亡命政府、内モンゴル人民党などの独立や自治を目指す諸団体は「中華人民共和国の植民地支配」という表現を使用することが多い。
[編集] オマーン
オマーンは17世紀にはインド洋に海洋帝国を構築し、同沿岸のザンジバル(現タンザニア領)やパキスタン沿岸のグワダルを保有した。
[編集] イスラエル
イスラエルは宗主国無き植民地とも言える国家である、と主張する者もいる(エドワード・サイードなど。反論もある)。第一次世界大戦にオスマン帝国が敗北すると、中東・アラブ地域は新たにイギリス・フランスの植民地となり、ユダヤ人が約束の地と崇めるパレスチナは委任統治領としてイギリスの管理下におかれ、ヨーロッパやアメリカ合衆国からユダヤ人が入植した。ポグロムから逃れてきた人も多かった。しかし、時の弁務官の方針により、ユダヤ人移民の数はおおむね制限されており、ユダヤ人人口が減少に転じた時期もあった。入植者が増大したのは、第二次世界大戦前後の混乱期である。
アメリカのユダヤ人はすでに都市部で富裕層となっており、入植を斡旋したり、入植者に資金面での援助を行ってきた。ナチス・ドイツ時代や、第二次世界大戦後にはさらに入植者が増えた。そのため、ユダヤ人とアラブ人との間で軋轢が多くなり、国家像としては連合国家案より分割案が有効とみなされるようになり、国際連合の決議に基づき、パレスチナをユダヤ国家とアラブ国家に分割することとなった。しかし、決着は得られず、中東戦争の勃発、イスラエルの独立に至った。4度の戦争を経ても双方の言い分は平行線をたどる。
また、冷戦終結とソビエト連邦の崩壊によって再びユダヤ人の入植が増えている。特にこれらのユダヤ人は、第三次中東戦争でイスラエルが獲得したヨルダン川西岸地区などに入植する場合あり、パレスチナ問題を複雑にしている。
[編集] 新植民地主義
[編集] 大韓民国
大韓民国の旧財閥系商社大宇ロジスティックスは、マダガスカル共和国の耕作可能面積250万ヘクタールの約半分に相当する130万ヘクタールもの広大な土地を99年間無料貸与する契約を当時のラベロマナナ大統領政権と2008年11月に結んだ。大宇側は地元住民を雇って耕地開発し、トウモロコシやパーム油を採取できるヤシを栽培し、主に韓国に輸出する計画を表明。今後25年間で60億ドル(約5700億円)のインフラ整備を行うとしていた。これに対し国連食糧農業機関 (FAO) は、生産国側の犠牲を伴う「ネオ・コロニアル(新植民地主義)」を生む懸念があると警告していた[5]。 これを受け、マダガスカルでは2009年1月以降、「公金を無駄遣いしている」としてラベロマナナ大統領の退陣を求めるデモが繰り返され、135人以上が死亡する混乱が続き、2009年3月16日になって軍が大統領府に突入、大統領を退陣に追い込んだ。マダガスカル軍は野党指導者ラジョエリナに全権を移譲し、マダガスカル憲法裁判所も3月18日追認。ラジョエリナは同日、大宇側との契約について「憲法では祖国の土地は売ることも貸すこともできない」と述べ、一方的に契約破棄を宣言した。3月21日、ラジョエリナ新大統領が就任した。大宇側は「政権が交代してもプロジェクトは継続したい」と話している[6]。
なお、韓国の李明博大統領は2008年4月15日にも「ロシア極東地方の土地を30—50年間借り上げる」「長期間土地を賃借し現地生産すれば、北朝鮮の労働力も活用できる」という発言を行っている[7]。
[編集] 脚注
- ^ エメ・セゼール『帰郷ノート・植民地主義論』平凡社
- ^ 「カテゴリー化の困難-サモア植民地統治における混血の役割」山本真鳥(比較経済研究所小規模プロジェクト「植民地主義の再検討」2001年第3回研究会11月8日 法政大学学術機関リポジトリ)[]PDF-P.4
- ^ エリック・ウィリアムズやガルブレイスの見解。また世界システム論・世界経済の項目を参照。
- ^ 「植民地法制の形成-序説-」石村修(専修大学法科大学院 第6回東アジア法哲学会シンポジウム)PDF-P.3
- ^ 2008年11月19日付 英フィナンシャル・タイムズ紙:食糧争奪で“新植民地主義”の懸念 韓国企業がマダガスカルの農地をリース
- ^ 2009年3月21日付『産經新聞』「韓国企業に農地の半分無料貸与 国民反発で大統領退陣 マダガスカル」
- ^ 2008年4月16日付 NIKKEI NET 李大統領「極東に食糧基地を」〜「ロシア沿海州30-50年を借り上げ、北朝鮮の労働力で現地生産」
[編集] 文献情報
総論
- 「帝國における植民地と本国」永渕康之、高木、平野、西川、石川、吉田(平成14-16年度科学研究費補助金基盤研究研究成果報告書)[1]
- 「植民地法制の形成-序説-」石村修(専修大学法科大学院 第6回東アジア法哲学会シンポジウム)[2]
- 「政治認識としての帝国主義論-ホブソン、レーニンの帝国主義論の再検討1」中村研一(北大法学論集 1990-09-17)[3]
土地制度など各論
- 「マレイシア・サバ州における植民地時代の土地制度」都築一子(国際協力研究Vol.15 No.1(通巻29号)1999.4)[4]
- 「法と植民地主義 ベトナムにおけるフランス近代法導入をめぐる一考察」高田洋子(敬愛大学国際研究第12号2003年11月)[5]
- 「植民地支配の政治経済学 イギリスのエジプト統治1882-1914年」鹿島正裕(金沢法学1987-3-25)[6]
- 「植民地支配の比較研究に向けて フランスのチュニジア支配イギリスのエジプト支配1881~1914年」鹿島正裕(金沢法学1987-12-25)[7]
- 「カテゴリー化の困難-サモア植民地統治における混血の役割」山本真鳥(比較経済研究所小規模プロジェクト「植民地主義の再検討」2001年第3回研究会11月8日 法政大学学術機関リポジトリ)[8]
[編集] 関連項目
- スペインによるアメリカ大陸の植民地化:イベロアメリカ首脳会議
- アメリカ帝国、中華帝国
- ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の植民地化、アメリカ大陸諸国の独立年表
- アフリカ分割、アジア・アフリカ諸国の独立年表
