忍者
忍者(にんじゃ)とは、鎌倉時代から江戸時代の日本で、大名や領主に仕え諜報活動、破壊活動、浸透戦術、暗殺などを仕事としていたとされる、個人ないし集団の名称。その名は日本国内にとどまらず、世界的にもよく知られている。
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[編集] 概要
領主に仕える隠密行動を主体とする、現代で言う所の特殊部隊に近い集団。戦国時代まで、忍者は地域的に集団化した特殊な階級であり、武士や足軽といった身分の集団とはまた別の立場にあった。農業も行っていたが、農産物が育ちにくい山岳部に住み、生活費を稼ぐために他国稼ぎをしていたと思われる。有名な忍者の土地は、伊賀、甲賀、戸隠がある。雑賀も、半農の傭兵集団で火薬等を用いる点では、忍者ともいえる。
忍者、忍術は日本国内各地で集団を形成していた。その中でも伊賀と甲賀は良く知られている。忍者は上忍、中忍、下忍に身分が分かれており、甲賀では上忍ではなく中忍が最高位とされていた。上忍は伊賀では郷士(地侍)で、地主として小作人である下忍を支配していた。中忍は下忍達を率いる小頭(こがしら)である。実際に各地の戦国大名に雇われていたのは下忍達だったと言われている。中世にはどの村落も軍事力を備えていたが(江戸時代に武装を必要としない安定を見る(→兵農分離)までは、あらゆる階層が武装していた)、その軍事力は村落の自衛に用いられることもあり、また村落外の勢力に傭兵のように貸す場合もあった。外から連れてきた子供を訓練することもあり、伊賀では脱走者(いわゆる抜け忍)は探し出して処罰したと言う[1]。
忍者は様々な特殊訓練を行い、特殊な道具なども所持しており、この道具を「忍具」、逃走術を含む種々の技術を「忍術」と呼ぶ。忍術は密教、陰陽道や、修験道の行者が用いた術(九字護身法、山嶽兵法など)とも関係があるとされ、現代に伝わる古武術には忍術の名残りが見られるものもある。
『萬川集海』によると、忍術には「陰忍」と「陽忍」があるとされる。陰忍とは、姿を隠して敵地に忍び込み内情を探ったり破壊工作をする方法であり、一般的に想像される忍者とはこの時の姿である。対して陽忍とは、姿を公にさらしつつ計略によって目的を遂げる方法である。いわゆる諜報活動や謀略、離間工作などがこれに当たる。近年の研究では、身体能力に優れ、厳しい規律に律された諜報集団という面の他に、優れた動植物の知識や化学の知識を持つ技術者集団としての一面も持つことが判っている。
戦前は「忍術使い」といった呼称が一般的だったが、戦後は村山知義、白土三平、司馬遼太郎らの作品を通して、「忍者」「忍びの者」「忍び」という呼称が一般化した。江戸時代までは統一名称は無く地方により呼び方が異なり、「乱破(らっぱ)」「素破(すっぱ、“スッパ抜き”という報道における俗語の語源)」「水破(すっぱ)」「出抜(すっぱ)」「突破(とっぱ)」「透破(とっぱ)」「伺見(うかがみ)」「奪口(だっこう)」「竊盗(しのび)」「草(くさ)」「軒猿」「郷導(きょうどう)」「郷談(きょうだん)」「物見」「間士(かんし)」「聞者役(ききものやく)」「歩き巫女」「屈(かまり)」「早道の者」などがある。
[編集] くノ一について
詳細は「くノ一」を参照
女性の忍者も存在していた。彼女たちのことを「くノ一(くのいち)」(“女”という文字を「く」「ノ」「一」と三文字に解体し呼称するようになった隠語表現)とする表現が一般的である。異説として鼻、目、耳、へそ、肛門などの人体にある九つの穴(鼻は一つの穴と数える)に加え、女性は穴が一つ多いことから「九の一(くのいち)」として呼んだという説も存在する[要出典]。しかし穴の数え方が資料によってまちまちのため(例えば、へそではなく尿口を数えるなどの説もあり)、信憑性は今ひとつである。また「くのいち」という呼び方自体が山田風太郎の創作とする説もある。「くのいちの術」と言って女性を使った忍術は存在するが、忍者を題材にした映像作品や漫画作品などで登場するような女忍者は存在しなかったとも言われる。しかし女忍者が女中になりすまし城に潜入したという記述も残っており、女中達の「女の噂好き」を利用した諜報活動でかなりの功績をあげていたとされる。また史実に登場するくノ一で有名なのは、武田信玄に仕えた歩き巫女の集団がある。
[編集] 黒装束について
「全身墨染めの黒装束」「その中には鎖帷子を纏い、顔には墨を塗っている」「背中に刀」「夜陰に紛れて敵地に侵入する」という印象で描かれることが多いが、黒は夜に像が浮いて見えることから、紺色もしくは柿の熟したような色の衣装を使用していたとされる。現存する「忍び装束」とされる物も、ほとんどが柿色系統である。黒色よりも柿色の方が安価に製造できたからとする説もある。この衣装は、元々は甲賀地方(現在の滋賀県南東部)や伊賀地方(現在の三重県西部)で使われていた山着、野良着が元とする説がある。また、その状況に合った服装(町中では町人の格好、屋敷などに侵入する場合には使用人の格好など)、すなわち変装を用いており、特に虚無僧・出家・山伏・商人・放下師(ほうかし、大道芸人、奇術師)・猿楽・常の形(つねのなり、武士や農民)の七つは「七方出の術(七化)」と呼ばれる。また、「専用の」装束などを着用することは稀で、黒装束については、歌舞伎などに登場させる際に黒子のように観客に対して「見えない存在であること」を表現したものが後に、現実にもそのような格好で活動していたと誤認されたとする説もある。戦うよりも逃げることに重点を置いていたため、通常は重い鎖帷子は着用しない。 漫画表現では、鎖帷子を簡略に描いたことから、網シャツのようなものを着たキャラクターデザインに発展した。背中に刀を背負うと動くとき邪魔になるため、通常は普通の武士のように腰に下げるが、床下などに潜むときは狭い所でも動き易くするため、また刀自体を盾代わりとするために背負った。
忍者の具足が今でも残っているが、ヘルメットの部分以外は鉄板を用いていない。鎖帷子や鉄線を縫いこんだ厚手の衣服が多い。
[編集] 歴史
[編集] 発祥と変遷
広義の忍者・忍術の歴史は、人類の歴史とともに古く遡ることができる。その発祥については日本発祥説の他に、インド発祥説、中国発祥説などもある。『孫子』用間篇を始め、古来、間および諜を説く兵書は多い。飛鳥時代には、聖徳太子が、大伴細人(おおとものほそひと)を「志能備(しのび)」として用いたと伝えられる。
狭義の忍者・忍術は、源平時代以後に日本で発祥したものである。忍者、忍術は日本国内各地に分かれ、いくつかの集団を形成していた。文献上にその名が見られる忍術流派は71流を数え、伝書及び資料の確認される流派は31流とする説がある。中でも甲賀や伊賀を本拠としていた忍者集団は有名である。これらの場所には多数の忍者屋敷があり、日々の訓練が行われていたと考えられる。甲賀と伊賀は、鎌倉時代にはその領地の大半が荘園で木材の供給地だったため守護や地頭による支配を受けなかったが、戦国時代になり荘園が崩壊すると、地侍が数十の勢力に分かれ群雄割拠した。各地侍が勢力を保つため情報収集戦とゲリラ戦が日夜行われ、「忍術」が自然発生したのではないかと考えられている。
伊賀・甲賀・雑賀、さらには柳生等の熊野地方は、天武天皇が壬申の乱の直前に住んでいた場所であり、後醍醐天皇の南朝がおかれるなど、特殊な霊地が多い。
文献上の初見は1487年の室町幕府将軍足利義尚率いる幕府軍対六角氏・甲賀・伊賀連合軍の戦いといわれる。特に伊賀忍者は、古代、琵琶湖が伊賀国内に存在し、そのため土質が農業向きではなく特殊技能を体得し国外へと移動して忍者集団を形成したものという。
なお、戦国時代には、伊賀・甲賀組や紀州根来衆の他に甲斐武田氏の透破、越後上杉氏の鳶加当他、相模北条氏の風魔党、奥州伊達氏の黒脛巾組、加賀本願寺の修験、伊勢長島、出雲尼子氏の鉢屋一党など各地方諸文献に草等の忍者らしき記載が有る。
[編集] 大久保忠教の三河物語の記述
徳川家康が桶狭間の戦い後に今川氏から独立し、三河国奪還戦争のさなか、蒲郡市にある鵜殿長持の西之郡城(上ノ郷城)を忍で取る、と記載されている。寛文7年(1667年)の近江国甲賀武士が奉行に差し出した書状には、甲賀21家が援軍として駆け付け、夜襲・焼き討ちにより、鵜殿藤太郎の首を討ち取った武功について記載。伊賀ではなく、甲賀であることも注目される。
[編集] 服部氏伝説
昭和37年(1962年)、伊賀上野の旧家より「上嶋家文書(江戸時代末期の写本)」が発見された。これによると、伊賀国の服部氏族・上嶋元成の三男が申楽(能)役者・観阿弥で、母は楠木正成の姉妹だったという。すなわち、観阿弥は楠木正成の甥だったことになる。根拠は特にないが、偽系図などと呼ばれている。観阿弥の息子・世阿弥も「先祖は服部氏」と自称していた。
伊賀国では、藤林・百地・服部の上忍三家が他の地侍を支配下に、最終的に合議制を敷いて、戦国大名に支配されない地域を形成していた。外部からの侵略に対しては結束して戦い、織田信長が伊賀国を支配するために送り込んだ築城奉行・滝川雄利を追放、その報復として攻め込んできた織田信雄の軍も彼らは壊滅させている(第一次天正伊賀の乱)。改めて敵の一部を調略してから、信長が大軍を編成し攻め込んできた際に、その他の伊賀国の忍者集団は壊滅的な打撃を受けた(第二次天正伊賀の乱)。百地丹波以下100名が紀州の根来へと落ち延びたと言われる。
[編集] 徳川幕藩体制下
伊賀忍者は本能寺の変の際に、堺(現・大阪府堺市)の見物に訪れていた徳川家康を護衛して伊賀越えを行なったことから、徳川幕府に召抱えられるようになった。中でも服部半蔵は重用され、江戸城の城門の一つにその名が付けられ、現在も東京の地名「半蔵門」として残っている。彼らは、徳川幕府のために諸大名の内情を探るだけでなく、江戸城下の世論調査、大奥の警護、空き家となった諸屋敷の管理なども担当し、同心として江戸城下の治安の警護に当たった。「御庭番」は忍者と同様に思われがちだが、誤りであり八代将軍・徳川吉宗が紀州から連れて来た薬込役を伊賀者と同格に格付けしただけに過ぎず、彼ら御庭番は忍者とはかかわりがない。
「御庭番」も参照
徳川家光(家光体制)時、老中(松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛)、側衆(中根正盛)は、武断政策を強硬に進めた。その結果、浪人が増え社会問題化し、島原の乱・慶安の変(由井正雪)といった大規模な事件(一揆)が発生する。 島原の乱・慶安の変の際に大目付として中根正盛が与力20余騎を諸方に派遣して、その動きを詳細に調べさせた。 また、島原の乱の際には、甲賀忍者の一隊が一揆軍の立てこもった原城内に潜入し兵糧が残り少ないことを確認したという記録が残っている。 大目付として、老中・諸大名の監察を任とし、配下の隠密機関の元締めとして島原の乱・慶安の変[2] に関して崩壊・一掃させる勲功を賞され、また、配下の廻国者で組織している隠密機関を幕閣という政府組織の一角に機関として組織化した事により、中根の公儀隠密元締説がうまれた。
江戸時代の諸国を行脚していた俳諧師・松尾芭蕉は、現在の三重県伊賀市に当たる地方の出身者だった。そのため、松尾芭蕉は実は忍者あるいは隠密だったのではないかとする説があり、小説などでも題材に扱われている。その根拠として、芭蕉の著書奥の細道の記録どおりに旅行したとすると、一日数十キロ歩かなくてはいけない計算になり、普通の47歳ならば体力的に相当無理がある、などがあげられる。当時の江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎も公儀隠密説が囁かれている。これらの説には決定的な根拠はなく、現状では単なる想像の範疇を出ない。
江戸時代の探検家・間宮林蔵は、幕府の隠密であり、広義には彼も忍者だと言える。少なくともシーボルト事件において高橋景保を売ったという彼の行動は儒教道徳的観点から非難され、冷酷な忍者ならではの行動であると評された。
マシュー・ペリーの率いる黒船が浦賀沖に来航した際、幕府の隠密が早速調査のために行動しており、これがいわゆる忍者の活動の最後だった。
[編集] 明治後の忍者
その後明治になり、徳川幕府から明治新政府へ政権が移ると、警察、日本陸軍、日本海軍が創設され、忍者(江戸時代には隠密、同心、御庭番などの武士)もその役目を終えることになった。活躍できる場を失った彼らはその後、警察関係(警察官)の職業など、新たな職に就いた。
明治末期~大正年間には立川文庫の作家たちによって、猿飛佐助、霧隠才蔵など忍者ものが創作され人気を博した。映画のトリックで忍術が描かれ、また、戦後の1950年代後半より、小説や時代劇、劇画などに忍者が多く取り上げられるようになり、忍者は再び日本人の間で広く認知されるようになった。
また日本以外でも「ニンジャ」を使った作品は存在する。80年代には米国製ニンジャ映画の大ヒットでアメリカにニンジャブームが巻き起こり、一連の作品に主演したショー・コスギは日本人初の出演料100万ドルハリウッドスターとなった。ほかに、アメコミとして登場し後にアニメ化された『ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ』や、職業として忍者が登場するゲーム『ウィザードリィ』シリーズなど、様々なジャンルに作品が存在し、日本でも放映や発売されたりもしている。
[編集] 器具・体術
[編集] 忍具
忍者が用いる武器・道具である。
- 鉤縄
- くない - 「苦無」あるいは「苦内」とも表記される。
- 手裏剣 - 手投げの刃物。形は棒状のものから十字型、円形のものまである。重くかさ張る為、通常、携帯していた数は一枚から、多くても三、四枚のみだったという。
- 忍刀
- 撒菱 - 植物の種を使用したものは食用が可能だった。
- 五色米 - 赤・青・黄・黒・紫の5色に染めた米。食用ではなく、仲間との連絡の暗号に用いた。
- 忍の六具 - 携帯用具である。編笠、三尺手拭(名のとおり、普通の手拭とは異なり長辺は1メートル弱ある)、鉤縄、石筆(粘土、 蝋石の筆)、薬、付竹(“つけだけ”。発火用具)。
- 錣(しころ)- 楕円形のようなのこぎり。
- 鎹(かすがい) - コの字形をした鉄釘。壁や石垣を登ったり、戸を外して侵入したり反対に戸を閉めて逃走したり丸太をつなげて筏を作るなどしたため、常に携帯していた。
- 目潰し - 中に唐辛子、灰、薬品等を入れて吹き口から敵の顔面に吹き付けることができるため常に携帯していた。
- 忍び竹 - 壁に床に当てることで敵の話を盗聴したり、就寝中であるかどうかを確かめることに使われた。咳をするときには地面に当てることで音漏れを防いでいた。
- 仕込みキセル - キセルの中に短刀を仕込んでいる。日常生活で使われるため怪しまれる恐れもなく改造することで武器としても使用できる。
- 仕込み吹き矢 - 通常は横笛として笛を吹いているが、中の紙を回転させることで穴をふさいで針を装着することにより吹き矢となる。針の先端に毒を塗っていた。
- 仕込み団扇 - 仕込みキセルと同じ原理で中に短刀を仕込んでいる。
- 鉄拳
- 猫手
- 手甲鉤
- 角指
- 鎖鎌
- 忍び鎌
- 握り鉄砲
[編集] 忍装束
戦闘用に山着、野良着を改良したもので、前述の通り、闇に紛れるため色は黒ではなく茶色に近いものを着用していたとされる。当然、日中は目立つのでこの格好で動く事はない。「六尺手拭」を覆面に用いる事もあった。
[編集] 忍術
忍術とは忍者が用いる術である。フィクションにおける架空の術は忍法を参照のこと。
- 五車の術
- 相手と会話の中で心理を突く話術である。
- 喜車の術 - 相手をおだてて隙を伺う。
- 怒車の術 - 相手を怒らせ冷静さを失わせる。
- 哀車の術 - 相手の同情を誘う。
- 楽車の術 - 相手を羨ましがらせて戦意を喪失させる。あわよくば相手を味方に引き込める。
- 恐車の術 - 迷信などを利用し相手の恐怖心につけこみ戦意を喪失させる。
- 遁術
- 敵から逃走する際に、敵を足止めする術である。火遁、水遁、土遁、木遁、金遁の五つを特に五遁という。
- 火遁の術 - 引火物などを利用し煙幕や炎上を発生させる。
- 水遁の術 - 水音を立てて相手の注意をそらす。水蜘蛛と呼ばれる道具の上に草をもり、筒のような棒状の中がくり抜かれている物を利用し長時間水中に潜む。池や堀の両端に縄をつないでその上を移動したり、水上に厚手の布を敷き、その上を走って移動する。向こう側に着いた時には、後を残さない。
- 土遁の術 - 土や石を相手の顔に投げつけ、怯んだ隙に逃げる。暗闇を逃走中、急に地面に這いつくばり、あたかも消えたかのように追手をまく。
- 木遁の術 - 草木を利用し隠れたり、材木などの木材で追手を眩ます。
- 金遁の術 - 銭を撒いて逃げる。敵同士で奪い合っているようなら成功と言える。
[編集] 著名な忍者
[編集] 実在した忍者
実在した人物でも、実体の部分と虚像の部分の両面がある。
- 藤原千方 - 平安時代
- 伊賀崎道順 - 戦国時代 伊賀者
- 出浦盛清 - 戦国時代、真田十勇士の霧隠才蔵のモデルとなった実在の人物。
- 上月佐助(下柘植ノ木猿) - 真田十勇士の猿飛佐助のモデルとなった人物。
- 横谷庄八郎 - 真田氏の配下横谷左近の弟。こちらも真田十勇士猿飛佐助のモデルと言われる。
- 霧隠鹿右衛門 - 真田十勇士の霧隠才蔵のモデルとなった人物。
- 鹿折信濃 - 戦国時代 黒脛巾組
- 加藤段蔵(飛び加藤あるいは鳶加藤とも)戦国時代
- 竹永隼人兼次 - 戦国時代、奥州の人。
- 高坂甚内 - 戦国時代 透破 甲州流。鳶沢甚内(古着商の元締)、庄司甚内(遊郭の元締)と共に「三甚内」と呼ばれる。
- 服部半蔵保長 - 戦国時代 伊賀者 服部半蔵の初代。
- 服部半蔵正成 - 服部半蔵保長の子。2代目服部半蔵。徳川家の旗本。厳密は忍者ではなく、伊賀忍者を管轄下においていた。
- 服部半蔵正重 - 服部半蔵正成の次男。長安事件に連座して失脚した。後に桑名藩主・松平定綱(定勝の子)に召し抱えられて、桑名藩で服部半蔵家は存続する。
- 風魔小太郎 - 戦国時代 北条家に仕えた。風魔党。
- 藤林長門守 - 戦国時代 伊賀の三大上忍の1人
- 百地丹波 - 戦国時代 ?-1581 架空の人物である百地三太夫のモデルとなった実在人物。
- 鉢屋弥之三郎 - 戦国時代 鉢屋衆 尼子家に仕える。
- 青山虎之助 - 甲賀流忍者。徳川家康に仕えた。
- 望月六平太- 山内一豊に仕えた。
- 古川龍之助‐戦国時代 福岡藩黒田氏直属の忍び。
[編集] 忍者とする説・忍者のイメージを仮託された人物
- 滝川一益 -甲賀出身。織田信長主要重臣の一人として活躍する。
- 天武天皇 - 天文遁甲に通じていたことを根拠に豊田有恒が忍者説を唱えた。通常、この「天文遁甲」は忍術ではなく占術のことと解釈されている。
- 蜂須賀小六 - 豊臣秀吉に仕えた武将。阿波の大名蜂須賀家を興す。
- 杉谷善住坊 - 織田信長を狙撃して失敗した根来衆。
- 果心居士 - 戦国時代 幻術師
- 山本勘助 - 新田次郎の歴史小説『武田信玄』で忍者として描かれた。
- 石川五右衛門 - 安土桃山時代の盗賊。古典芸能から映画まで忍術使いとして描かれた作品多数。
- 松尾芭蕉 - 伊賀出身の俳諧師だが伊賀忍者説あり。
- 間宮林蔵 - 薩摩藩の鹿児島城に潜入して城中の蘇鉄に名前を刻んだ偉業で知られる公儀隠密。伊能忠敬の弟子でもあり、ロシアの南下に際し幕府の命を受け、樺太の調査を行う。今でも日本の地図には、樺太とシベリヤの海峡に間宮海峡として名を残している。
- 柳生宗矩(柳生但馬守) - 徳川幕府初代大目付。剣豪であり二代秀忠らのボディーガード、さらには徳川家指南役を務めた柳生石舟斎の子。二代将軍・徳川秀忠、三代将軍・徳川家光の信頼が厚く、1636年に一万石に加増され、大名となる。多くの映画・ドラマにより、忍者の総元締めとして認知されるようになった。
- 中根正盛(中根壱岐守) - 公儀隠密の元締。二代将軍・徳川秀忠に仕え、大番・小納戸を経て三代将軍・徳川家光の側衆、四代将軍・徳川家綱時代に大目付となり、配下の廻国者で組織している隠密機関を幕閣という政府組織の一角に機関として組織化した。
[編集] 現在の忍術の伝承者
- 藤田西湖 - 甲賀流忍術の継承者で甲賀流忍術14世。「最後の忍者」と呼ばれ、昭和中期まで生きていた。
- 川上仁一 - 甲賀流忍術の伴家忍之伝の継承者で甲賀流伴党21代目を称している。
- 高松寿嗣 - 戸隠流忍術33代目継承者とされる。
- 初見良昭 - 戸隠流忍術34代目継承者を称している。
- 島津兼治 - 伊達黒脛巾組忍術継承者を称している。
- 星憲明 - 伊達黒脛巾組忍術の実戦技を継承している。
- 星徳一 - 伊達黒脛巾組忍術の技を継承している。
- 柴田仁一朗 - 徳川幕府の隠密活動の隠密武芸・隠武器工芸を継承している。
- 林邦史朗 - 日本、琉球(忍者の記載文献無し)の忍者の技をNHK大河ドラマなどに取り入れている。
現代に忍術を伝えると称している武術家が少数ながら存在する。
[編集] 忍者を主題とした作品・キャラクターなど
忍者がテーマとなった、あるいは、主要なキャラクターとする映像作品・文学作品等については、忍者を主題とする作品一覧、Category:架空の忍者を参照。
[編集] 忍者をメインとしたテーマパーク
[編集] 脚注
[編集] 文献資料
- 忍術書
- 史料
- 一般書
- 伊藤銀月 『忍術の極意』(武侠世界、1917年)
- 足立巻一 『忍術』(平凡社、1957年)
- 初見良昭(他)『忍者/忍法画報』(秋田書店、1964年)
- 名和弓雄 『必勝の兵法 忍術の研究』(日貿出版社、1972年)
- 八切止夫 『忍術論考』(日本シェル出版、1981年)
- 今村嘉雄 『日本武道大系 大五巻 砲術水術忍術馬術』(京都同朋舎出版、1982年)
- 深井雅海 『江戸城御庭番』(中央公論社、1992)
- 山口正之 『忍びと忍術』(雄山閣、2003年)
- 藤田西湖 『最後の忍者どろんろん』(新風舎、2004年、初版1958年)
- 藤田西湖 『忍術秘録』(壮神社、2004年)
- 黒井宏光 著 歴史群像編集部 編 『【決定版】図説忍者と忍術 忍器・奥義・秘伝集』歴史群像シリーズ(学習研究社、2007年)
- 都市鉄道研究会 著 歴史群像編集部 編 『【決定版】忍者・忍術・忍器大全』(学習研究社、2009年)
[編集] 関連項目
- 忍術
- 伊賀流
- 甲賀流
- 風魔流
- 戸隠流
- 裏柳生党
- 鉢屋衆
- 黒鍬
- 黒脛巾組
- 太平寺の戦い
- 軒猿
- 御庭番
- 灯火目付
- 大目付
- 柳生新陰流
- スパイ - 任務の上で重なる部分も多いため、ともに『現代の忍者』『戦国のスパイ』などと喩えられる。
- 特殊部隊
- 忍犬
- しのび
[編集] 外部リンク