三十年戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

三十年戦争(さんじゅうねんせんそう、dreißigjähriger Krieg)は、ボヘミア(ベーメン)におけるプロテスタントの反乱をきっかけに勃発し、神聖ローマ帝国を舞台として、1618年から1648年に戦われた国際戦争。「最後の宗教戦争」、「最初の国際戦争」などと形容されるが、スウェーデンが参戦した1630年以降は、ハプスブルク家ブルボン家ヴァーサ家による大国間のパワーゲームと捉える向きもある。

「三十年戦争」という表現をしたのは17世紀のプーフェンドルフSamuel von Pufendorf)とされる。

目次

[編集] 前史

詳細は「en:Thirty Years' War#Origins of the war」を参照

この節は執筆の途中です この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています

[編集] 概要

三十年戦争は名前の通り30年間絶え間なく続いたのではなく、数ヶ月から2年程度の小康状態を挟んで断続的に続いた。当時はほとんどの軍が長期間統制しにくい傭兵によって賄われており、国王直属の常設軍隊は稀であったからである。また、長期の戦争を継続することは国家財政を圧迫するため、息切れするかのように戦争が中断されることになった。しかし、戦争が長引くとインターバルの期間は次第に短くなり、三十年戦争の最終段階では13年間にもわたる戦闘が繰り広げられた。

この戦争は4つの段階に分類することができ、後になるほど凄惨さを増していった。この四段階にわたる戦争はそれぞれハプスブルク帝国に対抗する勢力ないしは国家の名前をとって下記のように呼ばれている。

三十年戦争は新教派(プロテスタント)と旧教派(カトリック)との間で展開された宗教戦争と捉えられることが多いが、それはこの戦争の単なる一側面に過ぎない。当初は宗教闘争に名を借りた民族対立の様相を呈していたが、戦争の第2段階から徐々に国家間の権力闘争の側面が露わになり、ヨーロッパにおける覇権を確立しようとするハプスブルク家と、それを阻止しようとする勢力間の国際戦争として展開されることになった。

この戦争が単なる宗派対立による宗教戦争ではないことは、戦争勃発当初から明らかであった。ボヘミアのプロテスタント諸侯たちと新教派のファルツ選帝侯によるハプスブルク家への反乱に対して、同じ新教派のザクセン選帝侯ブランデンブルク選帝侯は、彼らと新教連合(ウニオン)を結成していながら彼らを見捨て、ハプスブルク家を中心とした旧教派連盟(リガ)を支援したという事実からもわかる。しかもザクセン選帝侯は、皇帝側に就いたり、皇帝に反旗を翻したりと、情勢と戦争の展開に応じて立場を変えている。

そして、ボヘミアとファルツの新教勢力鎮圧によって新教連合が解体し、ハプスブルク家による新教派弾圧と強圧的なカトリック化政策がドイツ全域に及ぼされるに至って、イギリスデンマークスウェーデンなどの新教派諸国が反ハプスブルクの旗印の下で干渉の動きを示すようになっていった。

この反ハプスブルク勢力の中には、カトリック教国であるフランス王国も加わっていた。ブルボン朝の支配を確立し、フランスの勢力拡大をねらう宰相リシュリューは、デンマークとスウェーデンのドイツ情勢への介入を裏で手引きし、第4段階には直接軍事介入によって実力でハプスブルク帝国をねじ伏せようとした。フランスがハプスブルク帝国の勢力拡大を阻止しようと画策したのは,単にヨーロッパ情勢における優位を確保する以上の目的のためであった。もし,ドイツでハプスブルク家の支配が確立されれば,ハプスブルク家が支配するスペインとドイツに挟まれたフランスにとって大きな脅威となり、ブルボン朝の支配が揺るがされる危険性があった。ブルボン朝の安泰のためには,ハプスブルク家のドイツ支配は何としてでも阻止しなければならなかったのである。

しかしその一方で、対ハプスブルク陣営のフランスとスウェーデンの仲も必ずしも良好であったわけではなく、ドイツにおけるスウェーデン軍の勢力拡大を警戒したフランスは、増援の名の下に軍の増強を図ってスウェーデンを牽制する動きを見せた。

このような大国の思惑によってドイツの小国、民衆は振り回され、激しい戦闘によって国土は荒廃していった。やがて外交交渉による戦争終結の道が開かれ、勢力均衡を原則とする国際秩序が形成されていくことになったのである。

[編集] ボヘミア・ファルツ戦争(ベーメン・プファルツ戦争)

当時のボヘミアは、カトリック派であるハプスブルク家の支配下にあり、新旧両教徒の間でたびたび軋轢が生じていたが、ボヘミア王を兼ねた神聖ローマ皇帝たちは、プロテスタントの勢力が大きくなるとこれと妥協し、信仰を認めた。時の皇帝兼ボヘミア王マティアスも両教徒の融和政策を進めていた。

しかし、1617年、熱烈なカトリック教徒のフェルディナンド2世はボヘミア王に選出されると、新教徒に対する弾圧を始めた。翌1618年、弾圧に反発した新教徒の民衆がプラハ王宮を襲い、国王顧問官ら3名を王宮の窓から突き落とすという事件が起きた(第二次プラハ窓外投擲事件)。プロテスタントのボヘミア諸侯はこの事件をきっかけに団結して反乱を起こした。これが三十年戦争の始まりである。

反乱諸侯は他のプロテスタント諸侯に協力を呼びかけ、プロテスタント諸侯連合の賛同を得た。翌1619年、皇帝マティアスが死去し、ボヘミア王フェルディナント2世が神聖ローマ皇帝も兼ねるようになると、ボヘミア諸侯は議会で国王を廃し、プロテスタント諸侯連合の中心的存在だったプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を新国王に迎え、皇帝に対抗しようとした。フェルディナント2世はスペイン・ハプスブルク家バイエルン公マクシミリアン1世などのカトリック諸侯の援助を受け、ティリー伯を司令官とする軍を派遣した。プロテスタントのボヘミア諸侯は、諸侯連合から援軍を得られず、1620年白山の戦いで大敗し、反乱は鎮圧された。フリードリヒ5世はわずか1年と4日で王位を追われた(冬王と呼ばれる)。

ハプスブルク軍がプファルツに侵攻したため、フリードリヒ5世は1622年にネーデルラントへ逃れた。彼は復位を狙っていたが、スウェーデン王グスタフ・アドルフの戦線復帰要請は拒み、1632年に客死した。1623年、フェルディナント2世はバイエルン公マクシミリアン1世にプファルツを与え、選帝侯の地位に就けた。これは金印勅書に反するものであったため、諸侯の怒りを買うことになった(三十年戦争が長期化した一因とも言われている)。

これ以後、ハプスブルク家のボヘミア支配は強固なものとなった。とりわけ1627年の新領法条例によって議会は権力のほとんどを奪われ、ボヘミアはハプスブルク家の属領となった。これにより、多くのボヘミア貴族や新教徒が亡命し、ヨーロッパ各地に散らばった。しかし、ハプスブルク家による財産の没収や国外追放といった苛烈な戦後処理は他の新教徒諸侯の離反を招き、戦争が長期化する原因となった。

[編集] デンマーク・ニーダーザクセン戦争

1625年5月にデンマーククリスチャン4世が、プロテスタント側に就いて参戦した。クリスチャン4世はプロテスタントであり、白山の戦いの勝利に自信をつけているカトリックに対抗することが表向きの参戦理由であった。しかし実際のところは、神聖ローマ帝国のニーダーザクセン区長として、長らく空位になっている2つの帝国内の司教職に自分の息子を就任させる要望を出したところ、皇帝フェルディナント2世に拒絶され、ティリー伯の軍がニーダーザクセンに進駐してきたことが真の理由であった。

1624年、ハプスブルク家の勢力強化を恐れたフランスのリシュリューがフランスならびにオランダ共和国イングランド、スウェーデン、デンマークと「対ハプスブルク同盟」を結成し、ハプスブルクとカトリック連合を牽制した。またフランス、サヴォイアヴェネツィアがスペインのハプスブルク家への支援ルートを阻んでいた。

これを受け、北ドイツへの勢力拡大とバルト海北海の覇権確立を狙っていたデンマーク王クリスチャン4世が、息子の司教職就任問題に対するフェルディナント2世の露骨な反発に対し、フランス、イングランド、スウェーデンの同盟による支援を受けて1625年5月に参戦した。当初はスウェーデンとの共同介入であったが、両者の主導権争いの結果スウェーデンはポーランド問題に注力し、デンマーク単独での介入となった。デンマーク王の参戦に対してイングランドは資金を提供し、エルンスト・フォン・マンスフェルトクリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイクの2人の傭兵隊長の軍を援軍として派遣した。

デンマークの参戦を受けたフェルディナント2世は、戦費不足のため窮地に陥っていた。常備軍による応戦が不可能と判断した皇帝は、ボヘミアの傭兵隊長ヴァレンシュタインを登用し、彼の軍隊に新教徒軍と戦うよう依頼する。一方、デンマーク軍と傭兵部隊の間では戦略についての主導権争いが発生し、ついに3者は別行動を取るようになる。これはヴァレンシュタインの各個撃破の好餌となり、マンスフェルトはデッサウの戦いで敗北、ブラウンシュヴァイクも1626年1月13日に戦死してしまう。さらに1626年、クリスチャン4世はルッターの戦いで、ティリー伯に敗れた。

クリスチャン4世が戦力を失うと、ヴァレンシュタインとティリー伯の軍はデンマークが神聖ローマ帝国内に領有していたポンメルンメクレンブルクの2公爵領ばかりか、ユトランド半島をも蹂躙した。クリスチャン4世はスウェーデンに支援を求め、同盟が成立し、辛くもヴァレンシュタインをデンマークから退けた。結局1629年に「リューベックの和約」が皇帝との間で成立し、デンマークはひとまず三十年戦争の舞台から退場する。

[編集] スウェーデン戦争

[編集] スウェーデン参戦~レヒ川の戦い

グスタフ2世アドルフ率いるスウェーデンはフランスの資金援助を受け、プロテスタント教徒を解放すべくドイツに侵入した。ここからスウェーデン戦争が始まる。当初スウェーデン軍は諸侯の援助を受けられなかったが、食料難に苦しむ皇帝軍がマクデブルクで略奪、虐殺(マクデブルクの戦い)を行ったことから情勢が一変する。皇帝軍に失望したザクセン公と同盟を結んだスウェーデン軍は1631年9月17日ライプツィヒの北方、ブライテンフェルトで皇帝軍と対峙する。戦いは新式の軍制、装備、戦術を有するスウェーデン軍の圧倒的勝利に終わった(ブライテンフェルトの戦い。翌1632年4月15日にはレヒ川を挟んでスウェーデン軍と皇帝派のバイエルン軍が相対し、砲兵の効果的な運用で再びスウェーデン軍が圧勝(レヒ川の戦い)。皇帝側はそれまで数々の勝利を収めた総司令官ティリー伯が戦死するなど、大きな損害を被った。

[編集] ヴァレンシュタイン復活~リュッツェンの戦い

1632年11月16日ライプツィヒ郊外のリュッツェンで、破竹の進撃を続けるグスタフ2世アドルフのスウェーデン軍とヴァレンシュタイン率いる皇帝軍が会戦した。スウェーデン軍1万6千、皇帝軍2万6千である。この戦いでグスタフ2世アドルフは戦死した(リュッツェンの戦い)。

スウェーデン軍は向かうところ敵なしの快進撃を果たす。このような事態を予想しなかったフェルディナント2世は大いにうろたえた。ティリー伯の戦死で有能な指揮官がいなくなったことも痛手であった。皇帝は1630年8月、「専横極まれり」と罷免していたヴァレンシュタインの「軍の全権、和平交渉権、条約締結権の全面委任とハプスブルク帝国領と選帝侯領の割譲」という条件を呑んで、彼を皇帝軍の指揮官に再召喚する。ヴァレンシュタインはこれを受諾し、2万6千の軍勢を率いて出撃した。

一方、迎え討つグスタフ2世アドルフのスウェーデン軍は1万6千。両者はリュッツェンで戦闘を開始した。会戦当初、戦局は皇帝軍に不利に動き、援軍の指揮官パッペンハイムも来着直後に戦死してしまった。ところが、グスタフ2世アドルフが戦死するというアクシデントが起こる。「スウェーデン王戦死」の報は皇帝軍を元気付けたが、スウェーデン軍はベルンハルト将軍が指揮を引き継ぎ、結局皇帝軍はこの戦闘に敗れた。

[編集] グスタフ・アドルフ戦死・ハイルブロン同盟

「国王戦死」の報を受けたスウェーデンストックホルムでは、クリスティナ王女が国王に即位する。宰相オクセンシェルナはドイツのプロテスタント諸侯との間にハイルブロン同盟を締結し、「防衛戦争」という形で戦争を続行させた。これを受けてフランスのリシュリューは、プロテスタント諸侯へのフランスの影響力を保持するためスウェーデンと取引をし、カトリック国であるにも拘わらずフランスもこの同盟に参加する。三十年戦争は新しい局面を迎えることになった。

[編集] ヴァレンシュタイン暗殺~ネルトリンゲンの戦い

グスタフ2世アドルフの死はプロテスタント諸侯を動揺させ、さらにスウェーデン軍とプロテスタント諸侯との分裂を引き起こした。また一方で皇帝軍の士気を高めることとなった。これに自信を持ったのか、皇帝はヴァレンシュタインを暗殺した。ヴァレンシュタインの排除は軍事的にはマイナスであったが、成り上がりの彼に反感を抱く帝国諸侯の意向を無視できなかったのである。皇帝は嫡子フェルディナントの世襲のために諸侯に譲歩する必要があった。

さらに皇帝はフェルディナントを総司令官に任命し、ネルトリンゲンの戦いでスウェーデン・プロテスタント諸侯軍(ハイルブロン同盟)を撃破し、主導権を奪い返した。スウェーデン軍は重大な被害を受け、三十年戦争の主導権を失った。この勝利によって、皇帝は嫡子フェルディナントのローマ王選出にようやく成功した。

皇帝はバイエルン公とザクセン公との和解、スペインの参戦に勇気付けられ、他方では戦闘が続いているにもかかわらず、三十年戦争終結へ向けてプラハ条約締結にこぎ着けた。しかしこの条約は皇帝の威光を高めはしたが、結局は一時的なものでしかなかった。スウェーデン軍はかつての勢力を失い、ハイルブロン同盟が崩壊する危機がありながらも、宰相オクセンシェルナの手腕によってフランスを直接介入させる事に成功したのである。三十年戦争は第4段階へと突入する。

[編集] フランス・スウェーデン戦争

アクセル・オクセンシェルナ。亡き国王グスタフ2世アドルフの遺産を死守する忠勤な宰相。

[編集] 2人の宰相

スウェーデン・フランス戦争は泥沼化し、1635年から1648年まで続いた。フランスは後に名将と呼ばれるテュレンヌ将軍をドイツに送り込み、皇帝軍は一方的な守勢に立たされた。さらにスウェーデン軍は巻き返しを図る。この戦役では、フランス宰相リシュリュー、スウェーデン宰相オクセンシェルナ、神聖ローマ皇帝フェルディナント3世の戦略がぶつかり合うことになった。フランス軍は主にスペイン軍と、スウェーデン軍は皇帝軍と戦った。

[編集] 反ハプスブルクの反撃

攻勢に出た皇帝軍はヴィットストックの戦いでスウェーデン軍に敗れ、勝利したスウェーデン軍は再びドイツへ侵攻する。これ以降、反ハプスブルク勢力の情勢は好転した。ネーデルラントではオランダ共和国がスペインを破り、ブレダの要塞を陥落させる。この勝利はオランダの独立を確実なものとし、逆にスペインの覇権の翳りを示すものであった。

こうした情勢の中、皇帝フェルディナント2世が死去した。新皇帝には、ネルトリンゲンの戦いで名声を得た嫡子フェルディナントがフェルディナント3世として即位した。

フランス軍の傭兵隊長となったベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマルも攻勢に出て、1638年ラインフェルデンフライベルクブライザッハを陥落させた。ただしベルンハルトはフランスといざこざを起こし、後にザクセン軍とフランス軍は交戦することとなる。

同年、スウェーデン軍はハイルブロン同盟から寝返ったザクセン軍をケムニッツで破り(ケムニッツの戦い)、ボヘミアに侵攻している。この時は、スウェーデン軍のバネル将軍の野心によって統率が乱れ、撃退されている。翌1639年エアフルトで、フランス軍、スウェーデン軍、ブランデンブルク選帝侯軍が邂逅している。もっともブランデンブルク軍は、後に「大選帝侯」と呼ばれたフリードリヒ・ヴィルヘルムが翌1640年に選帝侯となると防衛戦争に切り替え、事実上中立の立場をとった。

[編集] 和平会議の開始と戦争の行方

1640年頃から皇帝は和平に向けた動きを見せ始めるが、その高圧的な態度に応じる勢力はいなかった。しかもスペイン軍は、この時期からフランス・オランダの前に敗退を重ね、没落の兆しを見せていた。なおこの年、スペインのくびきを脱したポルトガル王国が独立している(ポルトガル王政復古戦争)。

1642年、皇帝軍はブライテンフェルトで再びスウェーデン軍に敗れた。皇帝軍は1631年にもこの地で一敗地にまみれていた。皇帝はさらに逼迫し、和平の道を模索し始めた。この頃になると、帝国全体で厭戦気分が蔓延するようになる。1642年の暮れにはライン川の両岸で和平会議が設置されたが、1644年にようやく交渉が開始される。しかし、交渉を優位に運ぶために、戦争を終わらせるための戦いが激化するという矛盾した状況になっていく。

帝国法によって国際会議は設置されたが、戦争の主導権を奪い返したスウェーデンが和平会議も牛耳って行く。この時期フランスでは、1642年に宰相リシュリュー、翌1643年にフランス王ルイ13世が相次いで死去した。リシュリューの政策は新宰相マザランに引き継がれるが、新国王ルイ14世はまだ幼く、フランス国内は不安定となった。そのためマザランは、引き継いだ政策のうち「国王を神聖ローマ皇帝に」という野心を放棄せざるを得なくなる。しかし、1643年にフランス王族のコンデ公ルイ・ド・ブルボンロクロワの戦いでスペインを殲滅、さらに1644年のフライブルクの戦いでカトリック軍の中心バイエルン公を破ったことで、フランスは三十年戦争における勝利を確実なものとした。

[編集] トルステンソン戦争~ボヘミア侵攻

一方スウェーデンは、ドイツで転戦するスウェーデン軍を背後から脅かすデンマークと戦端を開いた。この戦争は指揮官の名前からトルステンソン戦争と呼ばれる。スウェーデンはオランダ海軍も味方につけてデンマークを屈服させ、三十年戦争によって中断されたバルト海の制覇をついに成し遂げた。またこの戦争で、グスタフ・ホルン将軍が復帰している。皇帝軍はデンマークの支援に駆けつけたが、惨敗した。

スウェーデンは三十年戦争の勝利を確実にするために、再びボヘミアへ侵攻する。1645年プラハ近郊のヤンカウの戦いで、またしても皇帝軍は大敗した。この時、プラハにいた皇帝フェルディナント3世は狼狽してウィーンへ逃亡したが、これはかつてのプファルツ選帝侯フリードリヒ5世(ボヘミア冬王)の逃亡に酷似していたため、「フリードリヒの逃亡」と揶揄された。この事件は、ハプスブルク家の敗北を決定的なものとした。同年、バイエルン軍もスウェーデン軍に敗れた。バイエルン公はフランスとよりを戻し、孤立したザクセン公もスウェーデンと休戦条約を締結した。

[編集] ヴェストファーレン条約の締結

この一連の戦況によって和平会議は一気に進展した。国際会議にはイングランドポーランドロシアオスマン帝国を除いた全てのヨーロッパ諸国が参加していた。しかし1646年、皇帝軍がヤンカウの敗戦から驚異な復活を成し遂げた。皇帝軍がバイエルンに合流する恐れが生じ、スウェーデンはバイエルンに再度侵攻する。フランスはこれを越権行為として、スウェーデン牽制のためにテュレンヌ将軍を派遣した。両者に挟まれたバイエルンは屈服したが、その後バイエルン軍の将軍が反乱を起こし、皇帝軍に合流する。

1618年にボヘミア・ファルツ戦争が勃発した地で最後の戦闘が行われた。1648年、スウェーデン・フランス連合軍は皇帝・バイエルン連合軍を破り、大勢は決した。スウェーデン軍はプラハを包囲し、これを占領した後、帝都ウィーンを攻める態勢を固めた。皇帝はついに10月24日、和平条約への署名を決断する。

[編集] 三十年戦争終結

しかし、スウェーデンはなおボヘミアの征服とプロテスタント化を諦めず、1648年7月26日以降もプラハでは戦闘が続いた。しかし今やカトリックの最後の砦となったプラハは激しく抵抗し、降伏には応じなかった。後にスウェーデン王となるカール10世(スウェーデン軍総司令官)も援軍に駆けつけ、包囲戦は3ヶ月にも及んだ。

11月2日、プラハにヴェストファーレン条約の締結の報が届き、この日ついに三十年戦争は終結した。しかしスウェーデンでは親政を開始したクリスティーナ女王の政策によって、和平交渉で新たな展開が起こることとなる。

[編集] 結果・影響

この戦争は、神聖ローマ帝国という枠組みを越えて全ヨーロッパの情勢に多大な影響を与え、その後のフランス革命に至るヨーロッパの国際情勢を規定することになった(ヴェストファーレン体制)。1648年に締結された史上初の多国間条約であるヴェストファーレン条約(ウェストフェリア条約)によって戦争に最終的な決着がつけられ、この結果、およそ300に及ぶ領邦国家の分立状態が確定することになった。神聖ローマ帝国は、この後も1806年ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)によって滅ぼされるまでの間存続しつづけたが、実体のない名ばかりの国家として亡霊のごとく生き続けることとなる。オーストリア・ハプスブルク家はドイツ王ではなくオーストリア大公、後にオーストリア皇帝として18世紀、19世紀を生き延びることとなった。

長期間にわたる戦闘や傭兵による略奪でドイツの国土は荒廃し、当時流行していたペスト(黒死病)の影響もあって人口は激減し、交戦国間の経済にも多大なマイナス効果を及ぼすことになった。

なお、フランスとスペインの戦いは三十年戦争以後も継続し(西仏戦争)、1659年ピレネー条約によって終結した。この条約は「ルシヨンサルダーニャアルトワの割譲」「ルイ14世フェリペ4世の王女マリア・テレサの結婚」「マリア・テレサは50万エスクードを持参金とし、その代償としてスペイン王位継承権は放棄」というものであった。この戦争を境としてスペインの覇権は失われ、フランスの覇権の時代が開始された。

ポーランド・リトアニア共和国は三十年戦争期、終始カトリック教会と連携していたが、同時期にスウェーデン及びロシア・ツァーリ国と戦争を行っていた。これらの戦争においてポーランドは優位に立っていたが、国内では戦争の継続は議会によって阻止され、三十年戦争にも参戦しなかった。1632年にグスタフ・アドルフ戦死による数年間のスウェーデン勢力の減退期においても参戦は行われなかった。ポーランドはその間、国力を維持し続けていたが、やがて近隣諸国の野心と、国内の支配と統治の失敗により、1648年以降、「大洪水時代」という未曾有の内戦により衰退の時代に入り、東欧一帯のポーランドの覇権は失われた。また、この時代のカトリック勢力の優位による宗教の寛容も、戦火の拡大とポーランドの疲弊によって失われた。

またオスマン帝国は三十年戦争に直接参戦していないが、属国トランシルヴァニア侯の介入によって間接的に三十年戦争に関与し、ハプスブルク家を圧迫した。

[編集] 年表

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 事項

[編集] 事件

[編集] 人物

[編集] その他

[編集] 参考文献

  • 『ドイツ三十年戦争』 シセリー・ヴェロニカ・ウェッジウッド 著, 瀬原義生 訳 刀水書房 ISBN 4887083173
  • 『戦うハプスブルク家―近代の序章としての三十年戦争』 菊池良生 著 講談社 ISBN 4061492829
  • 『傭兵の二千年史』 菊池良生 著 講談社 ISBN 4061495879

[編集] 歴史ゲーム

  • ダブル・チャージ第4号 『三十年戦史』、国際通信社
  • Joseph Miranda"Holy Roman Enpire: War of the Reformation",Strategy & Tactics No.247,Decision Games,2007※1524年~1538年(ドイツ農民戦争からニースの和約まで)にかけての神聖ローマ帝国とその周辺の国々との戦い。