ハイチ

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ハイチ共和国
Repiblik d Ayiti
République d'Haïti
ハイチの国旗 ハイチの国章
国旗 詳細
国の標語 : L'union fait la force
フランス語: 団結は力なり)
国歌 : ラ・デサリニエンヌ
ハイチの位置
公用語 ハイチ語クレオール語フランス語
首都 ポルトープランス
最大の都市 ポルトープランス
元首
大統領 ルネ・ガルシア・プレヴァル
首相 エリック・ピエール
面積
総計 27,750km²143位
水面積率 0.7%
人口
総計(2004年 7,656,166人(91位
人口密度 276人/km²
GDP(自国通貨表示)
合計(2005年 1,696億グールド
GDPMER
合計(2005年 44億ドル(133位
GDPPPP
合計(2005年 121億8,000万ドル(121位
1人当り 1,600ドル
独立 フランスより
1804年1月1日
通貨 グールドHTG
時間帯 UTC -5(DST: なし)
ccTLD HT
国際電話番号 509

ハイチ共和国(ハイチきょうわこく)、通称「ハイチ」は、中央アメリカ西インド諸島大アンティル諸島内のイスパニョーラ島にあるである。東にドミニカ共和国と国境を接し、カリブ海のウィンドワード海峡を隔ててキューバと、ジャマイカ海峡を隔ててジャマイカと接する。首都はポルトープランス

目次

[編集] 国名

正式名称は、フランス語およびハイチ語République d'Haïti (レピュブリク・ダイティ)。通称、Haïti (アイティ)。

日本語の表記は、ハイチ共和国。通称はハイチ、漢字では海地と表記される。ハイチは Haiti のローマ字読みで、現地では通用しない。

ハイチは、先住のタイノ族アラワク族の言葉で、「山ばかりの土地」を意味する。

[編集] 歴史

[編集] 植民地時代

1492年クリストファー・コロンブスがイスパニョーラ島を発見したとき、この島にはアラワク族が住んでいたが、それから四半世紀のうちにスペインの入植者によって絶滅させられた。金鉱山が発見され、先住民のカリブ族が奴隷として使役され、疫病と過酷な労働で次々と死んでいった。その後、スペインは西アフリカの黒人奴隷を使って主に島の東部を中心に植民地経営をしてきた。そのため未開のままであった島の西部をフランス1659年以降徐々に占領していったが、衰退の一途を辿るスペインにはそれを追い払う余力はなく、1697年ライスワイク条約で正式に島の西側3分の1はフランス領となった。この部分が現在のハイチの国土となる。フランスはここを、フランス領サン=ドマング (Sant-Domingue) とした。この植民地は、多くのアフリカ人奴隷を酷使し、主に林業とサトウキビコーヒー栽培によって巨万の富を産みだした[1]

[編集] 黒人反乱と黒人国家の成立

詳細はハイチ革命を参考のこと。

1789年からフランス本国では革命が勃発し、サン=ドマングの黒人奴隷とムラート混血の自由黒人)たちはその混乱に乗じて、1791年に反抗に転じた。トゥーサン・ルーヴェルチュールジャン=ジャック・デサリーヌアンリ・クリストフらに率いられた黒人反乱軍は白人の地主を処刑した後、フランスに宣戦布告したイギリスとスペインが、この地を占領するため派遣した軍を撃退し、サン=ドマング全土を掌握した。しかし、ナポレオンが本国から派遣した軍によって1802年に反乱は鎮圧され、指導者ルーヴェルチュールは逮捕されフランスで獄死した。

ところが、新たな指導者デサリーヌの下で再蜂起した反乱軍は、イギリスの支援を受けて、1803年にフランス軍をサン=ドマング領内から駆逐した。そして、1804年1月1日に独立宣言をし、ハイチ革命が成功した。デサリーヌは国名を先住民のつけた名であったハイチに変更し、ナポレオンをまねて皇帝として即位し、残った白人を追い出した。彼は1805年憲法を制定したが、北部のアンリ・クリストフと南部のアレクサンドル・ペションらの勢力に圧迫され、1806年に暗殺される。ジャン=ジャック・デサリーヌは今日もハイチ建国の父として敬愛されている。

[編集] 賠償金の圧迫と国内の混乱

この後、クリストフによって世界で初の黒人による共和国、かつラテン・アメリカ最初の独立国が誕生し、中南米の他の植民地の黒人たちや独立主義者たちを刺激した。ただしハイチは南北の共和国に分かれて争った。南部の共和国の事実上の支配者ペションは農地改革プランテーションを解体し、独立闘争の兵士たちに土地を分け与えた。その結果、たくさんの小農が出現した。また、この時期に南アメリカの解放者シモン・ボリーバルがペションの下に亡命している。一方、北部の共和国ではクリストフが王政を宣言。圧政を敷いた。住民を酷使して豪華な宮殿(サン・スーシー)や城塞(シタデル・ラフェリエール、フランスの再征服に対処するため)を建設させるなどの波乱があったが、1820年クリストフの自殺に伴い南部のペションの後継者、大統領ジャン・ピエール・ボワイエがハイチを統一した。1821年、イスパニョーラ島の東3分の2(現在のドミニカ共和国)を支配していたスペイン人のクリオージョたちがスペイン人ハイチ共和国の独立を宣言し、コロンビア共和国への併合を求めて内戦に陥ると、ハイチは軍を進めてこれを併合し、以後1844年まで全島に独裁体制を築いた。この時期、ボワイエはフランス艦隊から圧迫を受け、独立時にフランス系植民者たちから接収した農園や奴隷などに対する莫大な「賠償金」を請求された。結局ハイチは独立の承認を得る代償として賠償金の支払いに応じる。この賠償金は長年借金としてハイチを苦しめることとなった。政府は奴隷制を復活させるなどしたが、経済は貧窮した。

1843年、ボワイエの独裁に対しシャルル・リヴィエール=エラールが蜂起しボワイエを亡命させる。しかし奴隷制に対する農民反乱や軍人の反乱が続く無政府状態に陥り、1844年に再度独立を宣言したドミニカ共和国に敗北して島東部を手放すなど、内政混乱が続いた。この状況を収拾したのは元黒人奴隷で1791年の反乱にも参加した将軍フォースタン=エリ・スールークであり、大統領に就任したが後に帝政を宣言し、ファーブル・ジェフラール将軍の蜂起で打倒される1859年まで皇帝フォースタン1世として君臨し、国内に秘密警察の監視網を張り巡らせて圧政を敷き、隣国ドミニカへの侵入を繰り返した。スールークを追放したジェフラールは共和制を復活させたが、フランスに対する巨額の賠償金による経済の崩壊、小作農たちの没落、列強の圧迫、相次ぐ大統領の交代や内戦、国家分裂でハイチは混乱し続けた。しかし、この時期、憲法はよりよく機能するよう何度も改正され、後の安定の時期を用意した。

[編集] 米国による占領

1870年代末以降、まだ国家分裂や反乱は続いたが、ハイチは近代化への道を歩み始め砂糖貿易などで経済が発展し始めた。しかしフランスへの賠償金は完済せず、近代化のための借金もふくらみハイチの財政を圧迫した。またドイツによる干渉とハイチ占領・植民地化の試みも繰り返されたため、カリブを裏庭とみなすアメリカの警戒を呼び、1915年、アメリカは債務返済を口実に海兵隊を上陸させハイチを占領、1934年まで支配を続けた。この間アメリカをモデルにした憲法の導入、分裂を繰り返さないための権力と産業の首都への集中、軍隊の訓練などを行ったが、これは現在に続く地方の衰退や、後に軍事独裁を敷く軍部の強化といった負の側面も残した。またハイチの対外財政は1947年までアメリカが管理し続けた。

1934年には世界恐慌の影響や、ニカラグアでのサンディーノ軍への苦戦などもあって、ルーズベルト合衆国大統領の善隣外交政策により、ハイチからも海兵隊が撤退することになった。アメリカ占領以降、数人のムラートの大統領が共和制のもとで交代したが、経済苦境は続き1946年にはクーデターが起こりデュマルセ・エスティメが久々の黒人大統領となった。社会保障や労働政策の改善、多数派黒人の政治的自由の拡大などさまざまな進歩的な改革を行おうとしたが、改革はムラートと黒人との対立など国内混乱を招いた。1950年、エスティメは憲法を改正して再選を図ろうとしたため、ムラート層や黒人エリートらによるクーデターで黒人エリート軍人、ポール・マグロワールによる軍事政権が誕生した。彼の時代、経済はコーヒーやアメリカからの観光などの景気でいっとき活況を呈したが、またも再選を図ろうとしたことをきっかけに全土でゼネラル・ストライキが起こり、混乱する中1956年末に彼はクーデターで打倒された。

[編集] デュバリエ独裁政権

1957年、クーデターで誕生した軍事独裁政権下で、民政移管と大統領選出をめぐりゼネストやクーデターが繰り返され政治は混乱したが、9月に行われた総選挙をきっかけに、黒人多数派を代表する医師でポピュリスト政治家のフランソワ・デュバリエが大統領に就任した。彼は福祉に長年かかわり保健関係の閣僚も歴任し、当初は黒人進歩派とみなされ「パパ・ドク」と親しまれたが、翌1958年から突然独裁者に転じ、警察や国家財政などを私物化し近代でもまれに見る最悪の軍事独裁体制を誕生させた。彼は戒厳令を敷いて言論や反対派を弾圧、秘密警察トントン・マクートを発足させ多くの国民を逮捕・拷問・殺害した。1971年に彼は死去するが、そのあとを息子ジャン=クロード・デュバリエ(「ベビー・ドク」)が継いだ。国家財政が破綻しクーデターでデュバリエが追われる1986年までの長期に渡り、デュバリエ父子主導の下、トントン・マクートの暗躍する暗黒時代が続いた。

[編集] デュバリエ以降

1987年に新憲法が制定され、民主的選挙によって選出された左派のアリスティド1991年に大統領に就任。しかし、同年、軍事クーデターにより、アリスティドは亡命。アリスティド支持派はハイチの進歩と発展のための戦線により多数殺害された。軍事政権は、国連及びアメリカ合衆国の働きかけと圧力を受けて、政権を返上。アリスティドは1994年に大統領に復帰した。1996年、アリスティド派のプレヴァルが新大統領になり、2001年には、再びアリスティドが大統領になった。

2004年に入って武力衝突が発生。2004年2月5日「ハイチ解放再建革命戦線」が北部の町ゴナイーヴで蜂起した。1994年以降に国軍の解体が進められていたこともあり、反政府武装勢力に対し政府側は武力で十分な抵抗することは出来なかった。2月29日、アリスティド大統領は辞任し、隣国ドミニカ共和国へ出国、中央アフリカ共和国へ逃れ、アレクサンドル最高裁長官が1987年の憲法の規定に従って暫定大統領になった。アリスティド前大統領は中央アフリカ共和国においてフランス軍の保護下に入った。(この顛末については、アメリカの関与も指摘されている。)三者評議会は直ちに賢人会議を立ち上げ、長く国連事務局にあったラトルチュを首相に指名、組閣が行われた。しかしながら彼の政権は多くの諸国の承認を得るに至っていない。

[編集] 政治

大統領は、全国民の選挙によって選ばれ、任期は5年。前々回の大統領選挙は、2000年11月26日に行われ、元大統領のジャン=ベルトラン・アリスティドが92%の票を獲得して、2001年2月7日から再度就任した。2004年4月のアリスティド追放後、再三延期された後に実施された2006年2月の大統領選挙で63歳の元大統領ルネ・ガルシア・プレヴァルが再び大統領に選ばれた。

首相は、大統領の指名によるが、議会の承認が必要である。内閣の閣僚は、首相が大統領と協議して指名する。

議会は、両院制(二院制)であり、上院も下院も議員は、国民の選挙によって選出される。上院は、27議席、任期6年で、2年ごとに3分の1ずつ改選。下院は、83議席で、任期4年。

[編集] 地方行政区分

ハイチの県

ハイチの地方行政区分の最上位にあるのは、10の県 (département) である。ハイチでは地方自治権は与えられておらず、県は中央政策の執行機関としての役割を果たす。県名と県庁所在地は、以下の通り。

  1. アルティボニット県 (Artibonite) - ゴナイーヴ
  2. 中央県 (Centre) - アンシュ
  3. 湾岸県 (Grand 'Anse) - ジェレミー
  4. Nippes県 (Nippes ) - Miragoâne
  5. 北県 (Nord) - カパイシャン
  6. 北東県 (Nord-Est) - フォールリベルテ
  7. 北西県 (Nord-Ouest) - ポールドペ
  8. 西県 (Ouest) - ポルトープランス
  9. 南東県 (Sud-Est) - ジャクメル
  10. 南県 (Sud) - レカイ(オカイ)

[編集] 地理

ハイチの地図

ハイチの地勢は、主として岩の多い山々からなっており、沿岸部にはわずかながら平野や谷間を流れる川がある。中央部から東部は、大きく隆起した台地になっている。最高峰はラ・セル山(2680m)で、ゴナーブ島トルチュ島ヴァシュ島グランド・チェミット島などの島々も含む。最も大きな都市は、200万人が住む首都のポルトープランスで、2番目は60万人のカパイシャンである。長年に渡る乱伐で山は禿山だらけになってしまっており、そのために保水力がなく、ハリケーンが通過すると洪水となって大きな被害をもたらす。

イスパニョーラ島には五つの大きな山脈が走る。中央山脈が島の中央を北西から南東方向に伸び、ドミニカ共和国側の南海岸からハイチの北西部(Massif du Nord マッシフ・デュ・ノール、北部山塊)に至る。この山脈には、島の最高峰で大アンティル諸島の最高峰でもあるピコ・ドゥアルテ(Pico Duarte、3,087m)がある。中央山脈の北に並行して、セプテントリオナル山脈(北部山脈)が、東のサマナ半島からドミニカ共和国の北海岸を走る。その最高峰はピコ・ディエゴ・デ・オカンポである。中央山脈とセプテントリオナル山脈の間はドミニカ共和国側はシバオ平原と大西洋海岸平野、ハイチ側では北部平野となっており、両国の農業地帯になっている。ドミニカ共和国の南東部にはより低い山脈、オリエンタル山脈が走る。

シエラ・デ・ネイバは中央山脈の南にあり、ドミニカ共和国南西から北西方向に伸び、ハイチ中部に至りゴナイーヴ湾に出る(ハイチではノワール山地などになる)。

南部山脈はドミニカ共和国最南端のシエラ・デ・バオルコに始まり、ハイチのセル山地とオット山地になりハイチ南部の細長い半島を形成する。この山地にあるラ・セル山がハイチの最高峰(2,680m)になる。南部山脈とシエラ・デ・ネイバの間は低地であり、ハイチではクルドサック平野と呼ばれ、その西端にハイチの首都ポルトープランスがある。この低地には塩水湖が連なり、ハイチのソーマトル湖、ドミニカ共和国のエンリキージョ湖が代表的である。

[編集] 経済

ハイチは西半球で最も貧しい国と言われており、国民の80%は劣悪な貧困状態に置かれている。また国民の70%近くが、自給のための小規模な農場に依存しており、経済活動人口の3分の2が農業に従事している。1996年に就任したプレヴァル大統領以来、若干の雇用が創出されたが、効果は上がっていない。国際的な支援を得られないでいるため、必要とする開発支援を確保できない状態にある。主な外貨収入はコーヒー豆の輸出と国外在住のハイチ人からの送金と国際的な援助ぐらいである。軍部はアメリカへの麻薬密輸で莫大な利益を得ているとされる。

[編集] 国民

ハイチの平均人口密度は270人/km²であるが、実際は都市部、沿岸の平野部、山間部に極度に集中している。ハイチ人の約95%がアフリカ系であり、残りのほとんどは白人アフリカ人混血である。

[編集] 言語

公用語ハイチ語クリオール語)とフランス語。ほとんどのハイチ人はクリオール語を話すが、フランス語は人口の10%位にしか話されない。最近では若者や経済層で英語の使用が増えている。

[編集] 宗教

宗教の主流は、国教ともなっているローマ・カトリック。他にプロテスタント。多くのハイチ人はローマ・カトリックの信仰と並行して、ブードゥー教の慣習も行っている。

[編集] 文化

[編集] 世界遺産

ハイチ国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が1件ある。詳細は、シタデル、サン・スーシー、ラミエール国立公園を参照。

[編集] 著名な出身者

[編集] 脚註

[編集] 参考文献

  • 浜忠雄『ハイチの栄光と苦難』刀水書房 2007年
  • 浜忠雄『ハイチ革命と近代世界』岩波書店 2003年
  • 佐藤文則『ハイチ 目覚めたカリブの黒人共和国』凱風社 1999年
  • C.L.R. ジェームズ『ブラック・ジャコバン トゥサン=ルヴェルチュールとハイチ革命』大村書店 1991年
  • ダイアン・ウォークスタイン『魔法のオレンジの木—ハイチの民話』岩波書店 1984年
  • エドウィッジ・ダンティカ『クリック? クラック!』(五月書房 2001)
  • エドウィージ・ダンティカ『アフター・ザ・ダンス—ハイチ、カーニヴァルへの旅』現代企画室 2003年
  • フランケチエンヌ など『月光浴—ハイチ短篇集』国書刊行会 2003年

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

[編集] 公式

[編集] その他