ノート:日本統治時代の朝鮮

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人口の増減について疑問[編集]

1906/980万人→1938/2400万人だった人口がどうして正反対の数字になるのでしょうか。1938年に980万人まで減った人口がものの数年で数倍に増えるとは笑止。それに世界史上「世界最悪」どころかむしろ「(台湾に対するものの次くらいには)世界有数に良い」というのが一般の日本人、そして知日派外国人の理解だと思うのですが。。 私はアカウントを持ちませんからこの記事に保護その他のアクションを起こすことは出来ませんが、版を2つ前(1938年の人口を2400万人としたもの)に戻した上で保護することを提案します。—以上の署名の無いコメントは、124.96.113.82会話/whois)さんが[2007年8月20日 (月) 09:08]に投稿したものです。

この記事を重複とか保護逃れだとか言って消したい人がいるみたいですので言っておきますけれど朝鮮総督府はあくまでも行政機関の名前であって領域の名前ではありません。たとえば日本領朝鮮の領域内の人口を指して「朝鮮総督府の人口」と表現することはできません。また、保護された項目の内容が移されてきているわけでもないので保護逃れでもありません。--Otaku is beautiful 2007年6月29日 (金) 02:08 (UTC)[返信]

以前この記事は、もっと長かった記憶があります。調べ物で見にきましたが、記事になにがあったのでしょうか。以前の記事は復活できないのでしょうか。-61.207.170.13 2007年7月29日 (日) 02:42 (UTC)[返信]

改名提案について[編集]

日本統治時代 (台湾)の記事名に倣って日本領朝鮮 -> 日本統治時代 (朝鮮)への改名が提案されていますが、日本統治時代という言葉はそもそもどこのことなのかが分からず、記事名として成立しないのではないかと思います。日本統治時代の朝鮮が適当ではないでしょうか。日本統治時代 (台湾)もかねがね日本統治時代の台湾の方が相応しいと考えていました。--Clarin 2007年7月1日 (日) 01:28 (UTC)[返信]

韓国併合の日本統治時代のセクションをこちらに統合[編集]

韓国併合の日本統治時代のセクションはこっちに統合すべきではなかろうか? --Saintjust 2007年8月23日 (木) 10:54 (UTC)[返信]

賛成ですが、韓国併合の保護が解除されないと無理なんでは。--22010515528 2007年8月23日 (木) 12:26 (UTC)[返信]

当該節は併合前夜から総督府の施政、歴史認識まで含んでますが、そのすべてでしょうか?それとも、総督府の施政に関わる箇所だけでしょうか?--Tatsujin28 2007年8月23日 (木) 14:44 (UTC)[返信]
日本統治時代の台湾の記事に比べ、韓国併合もこちらも1910年から1945年までの政策・施策や、その結果などの記述が少ないため、こちらで具体的なものを充実させておくところから、初めてはどうでしょう。朝鮮半島内部で朝鮮人の動きも、いろいろあったはずですし、また韓国併合では、併合後の時代についての記事なのに、年表は1910から1945年まで空白というのも、なにもしていないようにも写り記事として歪に移ります。 --221.190.235.235 2007年11月27日 (火) 13:06 (UTC)[返信]
韓国併合の記事は、併合という歴史的あるいは政治的が多分にあり、こちらはこちらで文化的なこと、市民レベルのことも述べられるので、このまましばらく両記事の充実を図ればよいと思います(韓国併合は保護になっていますし)。-220.111.65.156 2008年4月22日 (火) 15:40 (UTC)[返信]

農産物の輸出について[編集]

農産物を輸出して飢餓輸出になることはあり得るんですが、困窮することはおかしいです。なぜなら、交換をしている以上、お金が入ってるからです。その点について文章が筋がとっていません。この表現を続けられるなら出典をつけてください。黒潮 2008年1月22日 (火) 16:09 (UTC)[返信]

でしたらその部分についての疑問を最初からノートに書くべきで、どさくさにまぎれてほかの部分まで消してはいけません。荒らしと間違えられてしまいます。それと、ここはウィキペディアで個人の意見を書く場ではありません。ですからあなたがおっしゃっているような<<農産物を輸出して飢餓輸出になることはあり得るんですが、困窮することはおかしいです。なぜなら、交換をしている以上、お金が入ってるからです。>>という意見を、そのような反論を行っている研究者の出典なしで書いた場合、独自研究に当たってしまいます。もしあなたが仰っている様な形で反論をしている研究者の著作がありましたら、出典を提示して両論併記すべきです。YODAFON 2008年1月22日 (火) 16:18 (UTC)[返信]
追記、あなたの抱いた疑問に関して、個人的に解答を得たいとお思いでしたら、まずは私の出した出典の本を読んでみると良いかもしれません。YODAFON 2008年1月22日 (火) 16:20 (UTC)[返信]
順番が逆です。農産物を輸出して困窮したという出典をつけてください。そうでなければ削除されます。交換が強制されていない限りそのような事態は当事者間では起こりえません。ただし、社会内部に不均衡がある場合は飢餓輸出ならあり得ます。書いていることがかなり無茶苦茶なのでソースを要求しているのです。黒潮 2008年1月22日 (火) 16:21 (UTC)[返信]

二人とも落ち着いてください。冷静になってください。ノートでの合意を目指すことは必要ですが、ヒートアップしている状態で話し合っても意味はありません。今日はそのくらいにしてゆっくり休んでからお願いします。--海獺(らっこ) 2008年1月22日 (火) 16:26 (UTC)[返信]

YODAFON氏へ。あなたも大量に編集するならばノートで了解を得てから編集してください。無言でリバートしたり、記事の大量編集をしても荒れるだけですからご注意下さい。210.231.3.4 2008年1月22日 (火) 17:14 (UTC)[返信]


産米増殖計画と農民の窮乏化との関係についてですが、金洛年, 日本帝国主義下の朝鮮経済, 東京大学出版会, 2002 第4章 は

「1920-30年代における米の移出増大が,生産増加分を超え,朝鮮内の米消費の減少までもたらしながら、進んでいたことは注目に値する.これには,産米増殖計画が米の増産よりその移出を狙ったとする単なる政策的な説明では不十分で,移出増大のメカニズムについてのなんらかの説明が必要であろう」

(p. 85)としたうえで、

  • 「こうした有利な日本市場を前提にして,価格面での相対的な高米価が維持されたといえるが,朝鮮内において米消費の相対的なコスト(機会費用)を高めて,米消費減少の一つの要因として働いたことにも注意されたい」(p. 87)、
  • (産米の階級別分配を示して)「地主は取得米の大部分を商品化できるのに対して,小作農の取り分は自家消費分にも満たなくなる」「小作農の場合でも,米消費の切り詰めや窮迫販売による米商品化が少なくなかったと考えられる」(p. 90)
  • 「農民の籾販売が大量出荷の季節に集中していることや,個別分散的な農民と商人との間には,資金力や情報力の差によって,庭先価格は不当に抑えられることは避けられなかった.(中略---一例をあげている)これは,運送費などを考慮しても大きな格差であり,従来,農民の窮乏化論のひとつの根拠であった」(p. 91)
  • 「米の商品化に積極的に対応した地主は,日本人に限らず,朝鮮人地主にも広がっていった.これが,地主のいわゆる動態化といわれ,かれらは農民に種子や肥料を前貸しするとか,農業経営に細かく干渉するまでなっていったが,その反面,農民の農業経営者としての自立性はむしろ制約される方向に展開されたのである.その結果、生産の増大分は,高率小作料によって地主に吸い上げられてしまい,農民の手元には商品化できる米はあまり増えず,米の消費まで切り詰めなければならない状況が作られていた.他方,相対的な高米価は,米の消費をさらに抑制する方向にはたらき,全体的には朝鮮内の米の生産量の増大にもかかわらず,米消費の減少が急速に進んでいった」(p.p. 94--95)

と記述しています。

結論としては、「米を中心とした農産物の日本への輸出量は生産増を上回るほどに急増し」たこと、それにより米消費の減少が急速に進んだこと、輸出の利益は地主に集中し多くの農民には益するところが少なかったことは事実であり、また輸出急増・消費減少にはいくつかの構造的要因がある、といったことが上の記述から裏付けられると思われます。

一方で、「困窮」については「多くの朝鮮人農民の生活が(併合前と比べてどうかはともかく)困窮し」ており、輸出の利益が多くの農民には十分に行き渡らなかったということは言えても、輸出の急増それ自体が困窮の原因となったかについてはさらなる出典が必要でしょう(逆の因果関係で、困窮の結果としての窮迫販売がなされたということは確かでしょうが)。金上掲書でも、あくまで輸出自体は利益をもたらすという前提で記述しています。Knightofathena 2008年1月24日 (木) 11:54 (UTC)[返信]

とはいえ、YODAFON氏の加筆をざっくり切り落とす黒潮氏の編集にも問題があろうと思いますが…(「その結果朝鮮人農民の生活は併合前よりも困窮した」その他の部分に要出典タグを貼るだけで十分だったのでは)。むしろ、この論点については、検証可能性よりも、中立的な観点の見地から考えて、輸出の増加による(朝鮮人を含めた)地主の動態化と農業剰余の増大といった民衆の対応や経済的な影響に関する記述を追加するのが適正だろうというのが私の認識です(たとえば、金上掲書p. 97の記述「米による貿易黒字の増大は,朝鮮内で工産品市場を先行的に拡大し,その後の朝鮮工業化のための市場的基盤を形成した」など)。

一般論として、日本統治時代の朝鮮の経済・社会状況についてはここ20ないし30年の間に韓国落星垈経済研究所の学者や、中村哲・堀和生など彼らと連携した日本の学者を中心とし、さらにはE. H. Gragertなど第三国の学者も加わって著しく研究が進展し、従来の認識の再検討が進められています。したがって、この種の問題は微妙で複雑な要素を孕んでいます。近代朝鮮史に関する項目で検証可能性・中立的な観点を維持しようとするならば、近年の研究状況を丹念に追うことが不可欠でしょう。むろん中立的でないからといって削除するようなことは望ましくなく、近年の研究の情勢に沿って修正を図るべきだと思いますが。Knightofathena 2008年1月24日 (木) 12:04 (UTC)[返信]

自由貿易が困窮をもたらすというのは理論的にあり得ないので座視できませんでした。社会内部の不均衡がある場合は飢餓輸出はあり得ますがそれさえも、この問題では少数派の意見だと思います。そもそも、米が輸出作物として有用だったならそれによって廻りも豊かになっていなければおかしいからです。あまりにもおかしい場合は、やはりざっくりと落とさないとダメだと思います。黒潮 2008年1月25日 (金) 07:28 (UTC)[返信]
>自由貿易が困窮をもたらすというのは理論的にあり得ない
統計的事実を否定する理由にはなりません。黒潮さんが考えている理論なるものはドグマに過ぎないということを宣言しているのと同じことです。ドグマを判断基準としている黒潮さんはWikipediaの編集を行う前にWikipedia:中立的な観点(要約:どんな視点で書くか、内容上での中立性)、Wikipedia:検証可能性(要約:記述内容の情報源を明示することの大事さ)、Wikipedia:独自研究は載せない(要約:独自の考えを発表する場ではない)の熟読が必要だと考えます。--58.87.254.190 2008年4月11日 (金) 07:56 (UTC)[返信]

YODAFON氏へ[編集]

無言で要約欄にpovとだけ記入して出典つき記載まで除去する編集スタイルは編集合戦となりますので、お止め下さい。一方の論を強制除去し、韓国の被害に焦点を当てた記事にしようとする態度こそがpovであることにお気づき下さい。とにかくノートで合意を得ていただけますか?強制的な行為は荒れる原因となります。--武者小路 2008年3月17日 (月) 16:59 (UTC)[返信]

Boomy氏へ[編集]

Boomy氏が復活させた部分について。

①まず概要の参照部分については出典をお願いいたします。②3.1運動の「弾圧」表現ですが、「鎮圧」などの用語を使う人間もおりますので、「取締り」という表現が中立的ではないでしょうか。いかがでしょう。③「要出典」を貼られましたが、すべてが後ろについている出典のものです。また、「歴史家の本ではないのに」とおっしゃってますが、「歴史家でなければならない」ルールはなかったと思います。wikipediaではたとえ「ゴシップ記事」でさえ、必要ならば載せることができることとされています。④「農地が~石」と「植民地近代化という性質上~」の文は「経済」の部分にまったく同じ文があり、完全な重複ですので「経済」にあるほうを残して除去でお願いします。⑤「少なくない朝鮮人労働者は劣悪な環境におかれた」→少ないか多いかは個人の感性で変わると思いますので「劣悪な環境におかれるものもいた」という表現に変えさせていただきました。⑥「強制連行」の表現は一応そのままにしておきましたが、論争のある部分ですので、表現を変えるべきではないでしょうか?⑦要約欄に『出典に反して「とする研究者もいる」と書きかえてあるのは変』とおっしゃってますが、出典先でその研究者が、そのように言っているだけであり、それは「意見」であり、「事実」ではありません。ですから断定表現をするのではなく、「○○は~と述べている(主張している)」と書くのが正しい書き方です。Wikipedia:中立的な観点#中立的な観点とは何か? 「偏りのない」「中立的な」というのはここでどのような意味で使われているのか?から下を読んでいただけると理解していただけると思います。しかしここはいじりませんでした。以上から少し訂正させていただきました。--武者小路 2008年3月17日 (月) 22:26 (UTC)[返信]
出典を付け加えました。歴史について事典に書かれる上で研究書が優先されるのは当然のことで、それに比してゴシップ記事や政治主張文書を引っ込めるのも当然。これらが対等に扱われるべきではありません。--Boomy 2008年3月18日 (火) 05:47 (UTC)[返信]
おおあわてで書いたのでそのほかのお尋ねについて説明不足でした。用件があるため少し時間をください。曽野間記事を元に戻すなりおいておいてくださるなりお任せします。ちょうどノート:三・一独立運動の過去ログを読んで感銘を受けたところでした。そこでは学術研究の引用がPOV扱いされて他のpovに平気で踏みにじられていました。もちろん、その後、ソースに基づいた文章が復活していますが、それまでにかなり苦労したようです。一見の価値があると思います。--Boomy 2008年3月18日 (火) 06:12 (UTC)[返信]
重複箇所まで戻しておられたりと、まったく私の話を聞いていただけてないのでしょうか?残念です。
『韓国併合条約の解釈については、現在の日本政府の見解ならびに日本側の研究者の一部の意見では「合法不当」、対して韓国・北朝鮮の多くの研究者ならびに日本の研究者の一部の意見では「不法不当」となっている』とする部分の提出された出典には、この一文を証明していることは書かれておりません。aとbの史料をみて執筆者独自のcの解説を記述するのは独自研究となります。Wikipedia:独自研究は載せない#特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成
>研究書が優先されるのは当然のことで、それに比してゴシップ記事や政治主張文書を引っ込めるのも当然。
それは間違えです。Wikipedia:中立的な観点#疑似科学と科学を対等に扱うのかをお読み下さい。主流派の(科学者の)意見を主流派のものとして提供し、少数派の(時として擬似科学的な)意見を少数派のものとして提供し、更に、科学者がそれら疑似科学の意見をどのように受け止めているかを説明することです。これは全て論争をフェアに説明するという任務の一部です。 つまり、研究者の意見も少数派(研究者に反する主張等)の意見も出典を提示して中立的に書けということです。少数派の意見を引っ込めることはPOVとなります。p 主義者は p が正しいと考えており、一方で q 主義者は q が正しいと考え、現在その点をめぐる論争がある、というようなの記述をすることです。 この書き方が正しいのです。研究者の数人が「弾圧」と言ってるからといって、それとは違う表現を使う人間もいる中で、「弾圧」と断定した表現を使うことはPOVとなります。研究学術も他の公に出された出版物等の信頼できる著書や主張も、公平にしっかり載せることが重要なのです。--武者小路 2008年3月18日 (火) 10:01 (UTC)[返信]

加筆おねがい[編集]

  • 教育に関して、高等普通学校の実態と、中学校や高等女学校との関係についての加筆をおねがいしたいと思います。金賛汀の『甲子園の異邦人』によれば、戦前唯一の高等普通学校の甲子園出場があったそうですから。
  • 戸籍は朝鮮戸籍があって、日本人と区別されていたようですが、その実態。

--ねこぱんだ 2010年3月3日 (水) 00:27 (UTC)[返信]

2010年11月27日からの一連の編集とリバート等[編集]

語尾や語調で印象を操作することや、根拠のはっきりしない文脈を根拠なく記述することのないようお願いします。小説ではなく百科事典ですので、ある記述をおこなうためには信頼できる引用元が必要となります。2010年11月23日(火)14:03時点版まで巻き戻してあります[1]。宜しくお願い申し上げます。--大和屋敷 2010年11月28日 (日) 07:46 (UTC)[返信]

写真の撮影時期について[編集]

この写真[2]について、投稿者さんの引用元によれば1919年の3.1運動への見せしめとして取り上げられていますが、日本残酷写真史(下川耿史 作品社2006年)においては日露戦争(1904-1905年)当時に発生した抗日義兵への見せしめとして「警察により」公開処刑されたものとの説明があります(P.71-P.72)。後列に写りこんでいる群集の服装などから時代的(19世紀~20世紀初頭?)あるいは場所(朝鮮半島)は間違いないと思われますが、処刑が行われた詳細な事情については一致しておらず、この写真画像を利用するさいには以上の点を確認のうえ、適切に利用してください。--大和屋敷 2010年12月5日 (日) 06:44 (UTC)[返信]

この写真、私も3・1独立運動逮捕者は基本的に裁判にかけられており、こういう晒し刑はなかったと思ったので気になってちょっと調べてみたのですが、どうもこちら[3]からコピーしたようなもののようです。出典元の「目録20世紀 1919」(平成10年刊)について、ページ数やISBN、ISSNが記載されておらず、国会図書館やAmazon、WorldCatでも調べてみたのですがヒットせず、今一つ出所がはっきりしません。また、この画像にはキャプションが付いており、この部分には著作権が存在するため現状では著作権違反となっており、画像の削除を申請するのが妥当だと思います。この原典についてご存知の方がいらっしゃるようでしたら、どちらで閲覧・検証可能なのか情報を補完して頂ければ幸いです。数年前に韓国で中国映画「黒太陽731」のキャプチャ画像が「南京大虐殺」の証拠画像として使われ批難されたといったこともあり、出所の怪しい画像は利用する前にきちんと検証されるべきだと思います。
また投稿者の方には、このように[4]インターネットで拾ってきた文章を単にコピーしたり、今回のように拾ってきた画像を単にアップロードするのではなく、原典にきちんと当たってそれがどのような文脈で扱われているかを検証した上で利用し、また他の人が検証できるような出典情報を付加していただきたいと思います。Wikipediaはインターネットで拾った情報のコピー集や主張のまとめではなく、検証可能な資料(検証可能な資料についてはWikipedia:検証可能性をご覧ください)のまとめサイトであるという点をご理解いただければと思います。--Jjok 2010年12月6日 (月) 05:11 (UTC)[返信]

再び投稿がありましたが、「日本軍」「三・一運動」「処刑」のキャプションが適正がどうか(情報源により)競合しており、記述の中立性が確保できないためリバートしました。「処刑の様子(時期不明)」などならかろうじて掲載可能性がありそうですが、やはりちょっと危うい気もします。この時期の写真はほんとうに出所や撮影の経緯が怪しいものが多いので慎重にお願いします。「貼り付けてやったわ!」というどや顔はこまります。--大和屋敷 2010年12月8日 (水) 13:31 (UTC)三・一運動の取り締まりによる「逮捕」「裁判」では死刑や無期懲役になった者はいないということらしいのですが。--大和屋敷 2010年12月8日 (水) 13:37 (UTC)東海大の鳥飼助教授のサイト(スパムフィルターにヒッカカルのでURL投稿デキナイ・・・)でも『1907年。出典には「日本軍は,朝鮮抗日運動の闘士を鎮圧した。Japanese troops are used to combat the Korean resistance movement fighter.」とある』と紹介されていました(ただしどうも御専門ではなさそうで、史料検証なく「なにか」の引き写しノヨウデアッタリ、文中ところどころに事実誤認モアルヨウデスガ・・・)。写真は文字通りの一次史料になってしまうので取り扱いが難しいです。(参考:Wikipedia:信頼できる情報源#情報源の評価)--大和屋敷 2010年12月8日 (水) 15:27 (UTC)[返信]

強制参拝問題[編集]

従来の研究は3.1運動における「キリスト教」の視点からのものが中心で断片的なものになりがちですが、この論題(神道の強制)は非常に広範でまたUPTODATEな研究課題のようですので、なるべく概要だけでさらっとお願いしたいところです。朝鮮半島のキリスト教の普及率を延々と記述するのは、あまりにも見当違いな感じがチトしています(普及していない宗派ならば神道の強制はかまわないのか?ということがある)。博士論文(博士号授与論文)ですがこの主題について直接取り上げた論文として「植民地朝鮮における総督府の宗教政策 : 抑圧と懐柔による統治」徐鍾珍[5][6]があります。--大和屋敷 2010年12月5日 (日) 16:03 (UTC)[返信]

創地改名[編集]

中央日報にのみ記述がある「造語」のようですので小項目にしました。中学校・高校の教科書などで出てくるような用語(創氏)などと同等にならべて記述したがるのはいくらなんでも野心的すぎます。--大和屋敷 2010年12月8日 (水) 00:42 (UTC)[返信]

文化虐殺[編集]

概念としては成り立ちますし、たしかに朝鮮のこの時期にかつての「旧き良き」文化・文物が大量に喪失したのは間違いないのですが、民族浄化の概念が成立したのは相当最近のことで「文化虐殺」の概念が事後的定義ですので「文化の破壊」と変更し小項目扱いに編集しました。ところでリンク先拝見しましたが「石田勇治が・・文化大虐殺だと主張している」と記述して適切なのでしょうか?また英語版にも要出典状態であり記述として確認できない箇所には「要検証範囲」を塗布しました。英語版の元はどうもこれ[7]のようですが、貴重な歴史史料や文献が焚書された云々とは記述されておらず、檀君神話の取り扱いが焦点のようなのですが。いずれにせよ英語版Wikipediaに記述があればすべて正しいと考えがちなのは日本語話者にありがちな誤謬ですので、安直に信用するのではなく検証追跡のほうも宜しくお願い申し上げます。--大和屋敷 2010年12月11日 (土) 10:44 (UTC)文献がありましたので一部修正しました。--大和屋敷 2010年12月11日 (土) 10:55 (UTC)[返信]

「文化虐殺 (cultural genocide)」という言葉は元はハワイ大学の人が使い始めたと記憶していますが、2004年ぐらいから日本でも東大で研究プロジェクトが立ち上がっていたみたいで、日本関連はこの中の東北アジア研究班[8]が担当しているようです。ただし、2006年以降サイトが更新されておらず、研究業績も不明です。日本学術振興会のサイトを探せば研究報告書が見つかるかもしれませんが。朝鮮関係では以下の記述がありますが、

”本報告は「ジェノサイド研究の展開」プロジェクトが提起する「広義のジェノサイド」の一つとして文化(的)ジェノサイドの概念を整理し、その研究可能性を模索するものである。”

とあるように、概念整理の段階のものだけで中身の伴った発表は見当たりませんでした。もしこのあたりの研究をまとめられるのでしたら、創氏改名における家族単位の管理制度のように「相手がそう言っているから文化虐殺だ」といった議論以上の、宗族から家族単位の文化を導入した結果、朝鮮の文化がどのように破壊されたのか、それは後の韓国朝鮮社会にどのような影響を与えたのかといった議論についてもまとめられることを期待したいところです。--Jjok 2010年12月18日 (土) 18:01 (UTC)[返信]

写真の塗布位置について[編集]

ブラウザの環境によって非常に影響を受けますので塗布位置はかなり難しいです。おそらくデスクトップ型のPCで、ウィンドウズ拡大率100%を前提に塗布位置を「見やすい」「見にくい」と判定されているのかもしれませんが、たとえばノートブック型ですと、デフォルトの拡大倍率は(液晶画面が小さいので)デスクトップ標準のものと異なり現状(2010年12月17日(金)15:55時点)ではぐちゃぐちゃ(写真が大きすぎて本文が右や左や中央に振られてグニャグニャ)になっています(たとえばIE8ですと「表示→文字のサイズ」を「大」にして頂くかウィンドウ右下の「拡大レベルの変更」を100%→150%などに変更してみてください)。なるべく閲覧環境によって可読性に「ひびかない」よう工夫頂きたい所です。写真は「いずれにせよ」良く見たいのであればクリックしてリンク先を見るほか無いのでありますから、あまり大きなピクセル表示でないほうが好ましいです。また「右」や「左」に写真を配置したほうが「百科事典っぽくてデザインが良い」と考えがちなのは【あなたのPC環境】だけの話しの可能性がありますので注意頂きたいです。基本的にWikipediaは 写真・画像の保存庫ではありませんので過剰な画像UPもちょっとどうかと思います。--大和屋敷 2010年12月17日 (金) 17:20 (UTC)たとえば大量の写真を紹介したい場合はウィキメディア・コモンズ[9][10]を利用することが出来ます。--大和屋敷 2010年12月17日 (金) 17:24 (UTC)[返信]

戦時中の徴用者数について[編集]

つぎのリンク先に記事がありますので参照してください[11]--大和屋敷 2011年12月27日 (火) 11:15 (UTC)[返信]

識字率についてのデータを削除[編集]

http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20121125/1353847328

このブログの情報に基づき、エッカートの著書に基づく識字率についてのデータを削除しました。 再び記述する場合にはどのページにデータが存在するかなど、より詳しい出典が必要だと考えます。——以上の署名の無いコメントは、Type-100ノート履歴)さんが 2012年11月26日 (月) 11:50‎ (UTC) に投稿したものです(X1RqXf1による付記)。[返信]

個人ブログの戯言を根拠に出典付きの記述を消すなど論外。差し戻します。--uaa会話2012年11月26日 (月) 12:21 (UTC)[返信]
いきなり削除はいかがなものかと思いますので差し戻しも仕方がないと思いますが、出典付きだからだめというのは今回その出典自体が疑われているので反論になりません。そもそも400ページを越える書籍なのにページ番号の記載がないのは出典として不十分です。掲載をお望みならページ番号を追加していただきたい。一定期間を経過しても出典の記載に改善が見られない場合は削除すべきと思います。識字率の向上だけでなく人口の倍増についても同様。同じ段落にある所得税免除については出典がないためこれも改善がなければ削除すべきです。--X1RqXf1 2012年11月26日 (月) 12:54 (UTC)[返信]
既にX1RqXf1氏がお書きですが。出典の信頼性に疑義が挟まれているのにそのようなことを言われても困ります。「〇〇に〇〇という記述はない」などという回りくどい情報がメディアに載ることはないので、一度出典をでっち上げればまず修正されないことになってしまいます。希少本ではないようなので個人的にも検証しますが、出典のページ数などが追記されなければ1週間後ぐらいにもう一度削除します。--Type-100会話2012年11月26日 (月) 13:19 (UTC)[返信]
  • 気になるのなら要検証範囲[12](あるいは要ページ[13])なりでいいんじゃないですか?いちおうハーバード大の教授の著作の翻訳として出版社から公表されている書籍を、別の信頼できる情報源をもとに批判するのではなく、「デマ」「デタラメ」としか主張していないブログを根拠に削除するのはいくらなんでもあんまりだと思います。--大和屋敷会話2012年11月26日 (月) 14:10 (UTC)[返信]
「出典自体が疑われている」なら{{要検証}}でしょう。「反論になりません」に持ってくるとは理論が破綻してますね。出典として提示されている書籍と疑義を呈している個人ブログでは、信頼性において比べ物にならないでしょう。ブログのタイトルからして『誰かの妄想・はてな版』ですからね。否定するなら、それなりの根拠が必要ですね。「〇〇に〇〇という記述はない」などという回りくどい記述でなくとも、異なるデーターの提示くらいは出来るでしょう。それと、出典の提示はウィキペディアの方針ですが、ページ番号の記載は推奨でしかありません。「出典として不十分」とか「掲載をお望みなら」という台詞は出典が皆無とか、それこそ件の個人ブログのような信頼性の無いような出典しかない場合に用いるものであり、このケースに用いるのは不適切です。現状では当該記述に除去されるような瑕疵は見られず、除去は不適切です。一週間程度できちんとした検証がなされず、ページ番号が無いという理由だけで除去されたなら、再度差し戻します。--uaa会話2012年11月26日 (月) 15:24 (UTC)[返信]
400ページ以上の文献ですし疑義があるなら最初にこの出典に基づいて記述を追加された方にページを示してもらおうと思ったのですが、残念ながらすでにブロックされていました。最初に追加された方は利用者:Dondokken会話 / 投稿記録さんというユーザーでメインアカウントは利用者:清涼里588会話 / 投稿記録さんというユーザーのようです。少し古いしブロックされた方の記述なので、出典をあたって検証した方が良いかと思います。近所の図書館にあるようなので空き時間に借りて読んでみます。最初の記述はこちらです。2009年4月10日 (金) 13:462009年4月10日 (金) 22:46--Zakinco会話2012年11月26日 (月) 15:56 (UTC)[返信]
はてさて困りましたね。とりあえず要ページを付けました。もっと期間が必要だというのであれば2週間でも1ヶ月でも構いませんが、そもそも誰も知らない情報をでっち上げたのであれば対抗情報など出てくるはずもありませんよ? これは文献ではなく編集者に対する疑義です。私も当該本を確認しますがそれ以外に記述を削除するための手順は必要でしょうか--Type-100会話2012年11月26日 (月) 16:20 (UTC)[返信]

Wikipedia:コメント依頼#合_2012年11月コメント依頼しました。私はページ番号の記載が必要だと思います。--1029man会話2012年11月26日 (月) 18:18 (UTC)[返信]

  • 要検証範囲[14](あるいは要ページ[15])でいいんじゃないですか。ページ番号がないので即削除、とはなりませんでしょう。ただ1936年時点で識字率65%というのは、数字としてそうとう疑わしいですね。「朝鮮語」の項目に加筆あるように、ハングル識字率や国語(ここでは日本語)識字率はもっと低いはずです。--大和屋敷会話2012年11月27日 (火) 00:16 (UTC)[返信]

http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/21863/1/jaas058008.pdf 参考までに、1930年の日本語・朝鮮語を合わせた識字率が23%ほどです。--Type-100会話2012年11月27日 (火) 03:13 (UTC)[返信]

出典にない内容が書かれているおそれがあることをさしあたって読者に示しておく必要がありますので、{{要ページ番号}}にくわえ{{要検証範囲}}を貼っておきました。--cpro会話2012年11月27日 (火) 04:49 (UTC)[返信]

  • 併合前後の経済情勢について記述した紀要を発見しました[16]。朝鮮の徴税率についても言及があり、日本のGDP(推計)に対する徴税率の高さに比べて朝鮮の徴税率が極端に低くこれが国力の差と開港期の発展政策に影響したとの主旨の記述があります。もっとも徴税率については中国と比較すれば見劣りするものではないようです(但し中国のほうが経済規模が大きい)。一人当たりGDPの比較では中国とほぼ同等か勝る(1900年)る程度であり、大韓帝国の国庫や国民経済が「破綻」していた、というのはちょっと「文学的修辞」の部類に入るような気がします。一方で1870年から1913年までの経済成長率は年率0.47であきらかに停滞しています(いまの日本みたい orz)。--大和屋敷会話2012年11月27日 (火) 07:46 (UTC)[返信]

1週間ほど待ってどのページに記載されているか示されなければ削除すべき。--is_ma_s会話2012年11月30日 (金) 12:06 (UTC)[返信]

カーター・J・エッカート著『日本帝国の申し子』初版(2004年1月30日第1刷)に目を通しました。問題の記述についてです。

併合時における朝鮮の国民経済は破綻しており、住民からの徴税も困難な状態にあったため、日本は併合後10年間、所得税を免除した。

見当たらず。併合時に破綻していたらすでに保護国化していた日本は何をやっていたんだという話になります。

朝鮮総督府は日本政府の財政支援の下で鉄道から医療まで朝鮮半島へ最先端の各種インフラを導入して整備するとともに、教育にも力を入れ、学校を多数建設した。

朝鮮総督府がそのようなことを行ったという記述は見つからず。p.70にこうあります。 「1910年に朝鮮半島の統治を始めた朝鮮総督府は、朝鮮をたんに安価な農産物、とくに米を日本に供給するだけの国と位置づけ、朝鮮経済をそれ以上に発展させるつもりはなかった。そのため19年までの工業化も、道路、港湾施設、鉄道、通信といった最低限のインフラ整備と、精米業のような農業関連の分野に事実上制限されていた。」

朝鮮人の寿命は伸び、人口は1910年には1313万人であったものが32年後の1942年には2553万人とほぼ倍増し、朝鮮人の識字率は1910年の10%から1936年には65%まで上昇した

人口も識字率も言及されていませんでした。

小学校も併合直前には100校程度だったものが1943年には4271校まで増加、朝鮮人の識字率も1910年の10%から1936年には65%に上昇した。

学校数は言及されていませんでした。

これに対し、ハーバード大学教授で朝鮮史が専門のカーター・J・エッカートは、研究の結果、資本主義の萌芽が李氏朝鮮時代には全く存在せず、日韓併合による日本の政策によって生まれ、特に戦後の韓国の資本主義や工業化は、上記のような日本の朝鮮半島での近代化政策を模したものであると発表している。

p.94に、1876年から朝鮮人資本家が出現したこと、植民地支配がなければ、朝鮮人が自力で資本家階級を生み出したという可能性もないとは言いきれないこと。p.330に、「戦後の韓国における工業化の試みはすべて、意識的あるいは無意識のうちに、植民地モデルに倣ったものになった」こと。p.333に、「植民地産業開発は朝鮮半島の活発な経済発展の土台を作った一方で、その代償もまた高かった」こと。このあたりを考慮に入れて書き直す方が良いと思います。

急いで読んだので見落としがあるかもしれません。お時間のある方は引き続き検証をお願いします。この本は、日本が朝鮮の実業家を取り込んで民族運動を分断し、住民から酷い搾取を行ったとの論調で書かれているように感じたことを書いておきます。--Zakinco会話2012年11月30日 (金) 13:00 (UTC)[返信]

  • 検証お手数さまでありがとうございました。他の方の検証があればなおお待ちしたいところです。数値の箇所については少なくとも他の論文に矛盾しており、数値以外の箇所については文芸的修辞の範囲ですので、反証(「ここに記述されている」という指摘)がないようでしたら文脈や事実関係に破綻がない範囲で削除なり修正することに同意です。--大和屋敷会話2012年11月30日 (金) 18:29 (UTC)[返信]

私も確認しましたが、既にZakinco氏がお書きの通りです。「日本帝国の申し子」では植民地政府が朝鮮人資本家と結びついて経済にどう影響を与えたかについて詳しく記述されていますが、文化や教育面の政策についてはほとんど触れられていません。--Type-100会話2012年12月3日 (月) 10:36 (UTC)[返信]

李朝の萌芽論についてですが、ブログ主は李朝の萌芽論を支持している方のようで個人的見解を述べておられますが、チラッと出典先の中身をのぞきましたら、著者がそれを否定していることは確かです。http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AE%E7%94%B3%E3%81%97%E5%AD%90%E2%80%94%E9%AB%98%E6%95%9E%E3%81%AE%E9%87%91%E4%B8%80%E6%97%8F%E3%81%A8%E9%9F%93%E5%9B%BD%E8%B3%87%E6%9C%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0%E8%B5%B7%E6%BA%90-1876-1945-%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BBJ%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%88/dp/4794212755#reader_4794212755
半島の資本主義起源が李朝にあるという「萌芽論」について著者は、そのような学説は証拠のない半島ナショナリズムから生まれたものであり、重要な併合時代を無視しており、半島の近代化は帝国主義時代にできたものであるとp22からp27で語っていますね。
またp326では日本の植民地支配を調べて行くと現代の韓国の原点にまでたどり着くとまで著者は述べています。p329では現代の韓国経済が植民地時代にできた資本主義モデルであることを語っています。
また、インフラについてですが、この出典でなくともCumings Bruce (1984a), "The Legacy of Japanese Colonialism in Korea" in Myers, Ramon H. and Mark R. Peattie (Editors) The Japanese Colonial Empire, 1895-1945, Princeton:Princeton University Press、があります。それによれば「鉄道、道路、上下水道、電気、病院、学校、工場などのインフラの整備を行い、近代教育制度や近代医療制度の整備を進め、朝鮮半島の近代化に役立った」とのことです。
そして人口については、日本のインフラ整備により朝鮮半島で流行していた伝染病が予防され、農地開発等により食糧生産が増加(併合当初米の生産量が約1千万であったものが、20年後には2千万石へと倍増)したことにより、朝鮮半島の人口が、併合前の1906年には1600万人程度だったものが1940年には2,400万人程となり、平均寿命も併合時(1910年/明治43年)24歳だったものが、1942年(昭和17年)には45歳へ伸びることとなったという出典・見解は、朝鮮総督府『統計年報』や 黄文雄『歪められた朝鮮総督府』光文社にあります。
識字率については、こちらの記事の教育-朝鮮語の節において述べられており、出典も出ているので、それに変えて記述すれば良いのではないでしょうか。
「日本帝国の申し子」をまだしっかり読んでいませんので、何とも言えませんが、仮にこの出典先に記述がなかったとしても同じような見解や出典は他にもあるということを示しておきます。AcntNo2会話2012年12月3日 (月) 13:44 (UTC)[返信]

そのブログによると『統計年報』にも『歪められた朝鮮総督府』にも1910年の平均寿命の記載は見当たらないそうですが--is_ma_s会話2012年12月3日 (月) 23:05 (UTC)[返信]

それが本当ならば、朝鮮総督府のほうも訂正しなければならなくなりますね。
黄文雄『歪められた朝鮮総督府』光文社には、人口のほうも記述されていないのでしょうかね?
朝鮮の人口について、
「李朝実録」(朝鮮王朝調査)では、1904年、約600万人。
警務顧問部(日本人)の調査(善生永助「朝鮮の人口研究」)では、1906年980万人弱。これを元にしたのか、「韓国は日本人が作った」黄文雄でも同じ数字が述べられ、人口増加について日本の貢献が語られているようです(この出典と本文記事の出典を間違えた可能性?)。これらを元にしたのか、著書「親日派の弁明」p16では、日本統治の30年余りの間に1000万足らずだった人口が2500万に増え平均寿命は24歳から45歳に伸びたと記述されています(ちなみにつくる会も寿命24歳と同様の数字を出している[17])。
金哲『韓国の人口と経済』では、1910年1631万人(金哲の推計)、1940年2355万人(国勢調査)、1945年2576万人(金哲の推計)としているようです。
まあ、人口や寿命に関する近いデータ・言説の出典はあるようですので、原典にあたって出典と多少書き直す必要はあるかもしれませんが、人口増加や寿命が延びたという言説がある以上、大きく主旨が変わるものでもないように思えます。また、前回述べたようにカーター・J・エッカートの半島における李朝の近代化萌芽論はナショナリズムであるという指摘や韓国経済が日本併合時代の近代化がベース・モデルとなっているという見解はそのまま述べられていますので、この点は特に大きな違いはないのではないでしょうか。AcntNo2会話2012年12月4日 (火) 13:12 (UTC)[返信]
  • 「数値が正確かどうか」と言う議論と「出典情報としてエッカートを明示する」ことが正確かどうかという議論は別ですので、そのあたりは慎重に検証宜しくお願いします。--大和屋敷会話2012年12月4日 (火) 13:25 (UTC)[返信]
私が申したいのは、エッカートにより韓国における李朝近代化芽萌論が批判され否定されていることはそのまま出典先に書かれてあるということ、及び、寿命や人口については「日本帝国の申し子」にないのならば、代わりとなる資料・出典は存在しており、多少の変更をすればよいだけということです。上記では「削除すべき」という意見が出ていましたので、削除する必要はなく、多少変更すれば良いのみということです。AcntNo2会話2012年12月4日 (火) 14:05 (UTC)[返信]
  • 就学率、人口については本記事内でも参照されている「日本統治下末期の朝鮮における日本語普及・強制政策」井上薫(北海道大学教育学部紀要1997.6)の111ページ(ファイルとして8ページ)に年次の就学率、人口、日本語習得率の表があるが出典となりうると思います。国勢調査は1925年から1940年まで5年毎に10月に行なわれたらしく、1944年5月にも人口調査が行なわれていますので、これらが一番信頼できる資料でしょう(李 崙碩「朝鮮総督府の統計制度」『Global COE Hi-Stat Discussion Paper Series』第178号、一橋大学経済研究所、2011年3月、hdl:10086/18998  黄 仁相「韓国の統計制度史」『アジア長期経済統計室 ニュースレター』第13号、一橋大学経済研究所、1999年5月、2012年11月30日閲覧 )。--X1RqXf1 2012年12月4日 (火) 14:43 (UTC)[返信]
  • 税金については、そもそも併合当時は日本人にも朝鮮人にも所得税はかかっていませんでした。大正5年(1916年)に法人所得税の開始(朝鮮総督府『施政三十年史』)、大正9年(1920年)に朝鮮所得税令(制令第16号)が出ましたが、これも今で言う法人税=当時の第三種所得税に関する定めであってこのときもまだ第一種所得税(個人に対する所得税、今の所得税に相当)と第二種所得税(利子にかかる税)はありませんでした(朝鮮総督府『施政三十年史』小川郷太郎「我所得税と普遍の原則」『経済論叢』第13巻、第6号、京都帝国大学経済学会、783-806頁、1958年4月。hdl:2433/127854 )。
朝鮮での個人への所得税が課税されたのは1934年からです(負担の公正を期す一般所得税の実施と税務機関の特設(林財務局長談)」『京城日報』1934年(昭和9)5月1日http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10055091&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 )。税率は内地の半額程度に押さえられたが、最低課税所得(免税点、控除適用後の所得で計算)は内地の1200円に対し800円。税率はその後引き上げられて行ったし、免税点も500円(内地は1000円)に引き下げられました。
所得税がなければ税収入はどうしていたんだというと、1930年代までは地税と酒税と関税が主だったようで、内地では地税は4円以下は免除であったが、朝鮮ではそういったことはなく5円以下で課税される人が約90%を占めたとのこと(黄完歳「植民地期朝鮮における戦時財政の展開」『経済論叢』第142巻第5-6号、京都大学経済学会、1988年、569-592頁、hdl:2433/134277 )。とはいえ、この資料からは1930年代以降のことしかわからないので、どなたか1910年代の税収に関する資料を見つけられたら提示していただければと思います。--X1RqXf1 2012年12月4日 (火) 15:20 (UTC)[返信]
  • 識字率については、既出ですが1930年の国勢調査によると23.6%(男性37.1%、女性9.5%)、成人に限れば29.4%(板垣竜太「植民地朝鮮における識字調査」『アジア・アフリカ言語文化研究』第58号、1999年、NAID AN10418096識別子"AN10418096"は正しくありません。hdl:10108/21863 )、同資料によれば1944年時点の人口は25,120,180名、12歳~19歳男性の未就学率は50%を超える(年齢層が上がるにつれ未就学率は高くなるし、女性は男性よりも高い)。また、識字率ではないですが、朝鮮総督府の『施政三十年史』によると1939年で(昭和14年)23.8%の朝鮮人が国語つまり日本語を解すとのこと。
その他、1930年代に成人の識字率が70%を越えていたというレポートがありました(Jong-Wha Lee, “Republic of Korea”, The EFA 2000 Assessment: Country Reports, http://www.unesco.org/education/wef/countryreports/korea/rappport_2_1.html )。他は1938年に30.9%であったとするもの(Shin, Gi-Wook (1996). Peasant Protest and Social Change in Colonial Korea. University of Washington Press. p. 163. ISBN 9780295975481. http://books.google.co.jp/books?isbn=0295975482 163ページに朝鮮総督府が1938年に行なった調査で識字率は30.9%だったとあるが、Google Booksでは1940年に朝鮮総督府が出した資料が出典であるとしかわからない)、1945年に13.4%であったとするもの(Scitovsky, Tibor (1985). “Economic Development in Taiwan and South Korea: 1965-81”. Food Research Institute>Food Research Institute Studies (Stanford Univerity) 19 (3): 215-264. http://purl.umn.edu/135678 2012年11月30日閲覧。. )、1945年で22%とするもの(Peimani, Dr. Hooman (2002), “South Korea”, Worldmark Encyclopedia of National Economies, The Gale Group Inc., http://www.encyclopedia.com/topic/South_Korea.aspx#3 2012年11月30日閲覧。 )、1945年で成人の識字率が22%とするもの(Savada, Andrea Matles; Shaw, William, eds. (1990), “Education”, South Korea: A Country Study, Washington, http://countrystudies.us/south-korea/42.htm Jong-Wha Lee (June 1997). “Economic Growth and Human Development in the Republic of Korea”. Human Development Occasional Papers (Human Development Report Office (HDRO), United Nations Development Programme (UNDP)): 10. http://hdr.undp.org/en/reports/global/hdr1997/papers/jong-wha_lee.pdf 2012年11月30日閲覧。. )、1960年代で27.9%とするもの(Kim-Renaud, Young-Key (2001), “South Korea”, World Education Encyclopedia, The Gale Group Inc., http://www.encyclopedia.com/topic/South_Korea.aspx 2012年11月30日閲覧。 )が見つかりました。--X1RqXf1 2012年12月4日 (火) 16:19 (UTC)[返信]

きちんとした出典が併記されるのならもちろんデータが追加されることに賛成しますが、税制・識字率・インフラ・人口・寿命・学校数のいずれもエッカートの著書には触れられていません。現在記事に書かれている人口もAcntNo2氏があげている数値とは異なるものです。「萌芽説」を否定したくだりはエッカートの主張として間違っていないのでそのままでもいいと思いますが、他の部分は一度削除して個別に1つずつデータを足していったほうがいいと思うのですが、いかがでしょうか。--Type-100会話2012年12月4日 (火) 16:51 (UTC)[返信]

Type-100さんのご意見に特に異論はございません。エッカートの近代化論(李朝近代化萌芽論批判)はそのままにし、人口と識字率については、除去して、それぞれ別個にしっかりとした出典を提出し、あらためてその見解を記述して行けばよいものと考えます。AcntNo2会話2012年12月6日 (木) 11:32 (UTC)[返信]
Jong-Wha Lee, “Republic of Korea”, The EFA 2000 Assessment: Country Reports, http://www.unesco.org/education/wef/countryreports/korea/rappport_2_1.html は「非識字率が70%」なので他の研究と矛盾した記述ではないようです。--大和屋敷会話2012年12月6日 (木) 19:43 (UTC)[返信]
ありがとうございます。"illiteracy rate"でしたね。情けない。--X1RqXf1 2012年12月7日 (金) 13:11 (UTC)[返信]

== 併合時の国名について == いわゆる朝鮮は、大韓帝国から日本に併合されました。それにより朝鮮は独立国家でなくなりました。だからこそ国旗も国歌も日本のものとなります。で、ありながら頑なに国名を朝鮮とする方がおられるようです。大韓帝国から朝鮮という国が生まれたのでしょうか?併合時の朝鮮が「国名」であったという説明及び根拠をご提示ください。ちなみに近代において「国家」とはどういうものか、辞典での説明を提供しておきます(「国家」(日本大百科全書))。AcntNo2会話) 2013年1月21日 (月) 10:36 (UTC) 自己解決AcntNo2会話2013年1月21日 (月) 12:13 (UTC) [返信]

ウィキぺディアの「日本統治時代の朝鮮」のページでは、下記の質問と回答に該当する文章はどれですか?[編集]

ウィキぺディアの「日本統治時代の朝鮮」のページでは、下記の質問と回答に該当する文章はどれですか?

戦前の朝鮮半島史を知らないので、NHKで7月27日放送「戦後史証言プロジェクト」日本人は何をめざしてきたのか 第4回「猪飼野~在日コリアンの軌跡~」を見てNHKに下記の質問し回答を得ました。

質問1、小作農に転落して生計が成り立たなくなる前の朝鮮半島出身者は、自作農だったのですか?

回答、植民地統治以前の朝鮮では、国王や王室が所有する土地や両班と呼ばれる特権階級が所有する土地を農民が耕作し、生産物の40~50%を年貢として納めていました。長年耕作された農民の土地は子孫に相続され、売買も可能でした。ただ、法的に登記を行うなどきちんとした所有関係が明示されていませんでした。日本の朝鮮総督府は、土地調査事業を通じて、土地の所有関係を文面で整理します。そうした手続きは文字の読めなかった多くの農民には困難で、無申告の土地も多く出ました。そうした土地を国有地とした朝鮮総督府は、東洋拓殖株式会社など日本の会社に安く払い下げます。東洋拓殖株式会社は、土地調査事業が終わった1918年には8万町歩の巨大地主となりました。1918年には、農家総戸数の3.1%にすぎない地主が、耕地総面積の50%以上になる219万町歩を所有することになります。したがって、農民の多くが、土地調査事や業やその後の産米増殖計画、水利施設の拡充による「水税」(水利組合費)支払の負担などで、土地を没収されていきます。こうしたことからナレーションでは「当時、朝鮮半島は、日本の植民地支配のもと、農民の多くが小作に転落。貧しさの中で、遠く旧満州や日本に生活の糧を求める人が少なくありませんでした。」としました。

質問2、戦前の植民地統治では朝鮮半島は植民地成立と共に日本国籍に成ったのですか?

回答、1910年の韓国併合条約によって、すべての朝鮮の人々は日本国籍保持者であるとされました。朝鮮半島の人々は「帝国臣民」に編入されましたが、参政権や義務教育など権利や義務は日本人と区別されました。

和成会話2013年8月10日 (土) 14:57 (UTC)[返信]

第二次世界大戦の終結[編集]

本文中より『1945年8月15日、第二次世界大戦の終結により日本の朝鮮半島統治は終焉を迎えた(8月15日は現在、韓国では「光復節」として祝日となっている)。日本のポツダム宣言受諾により、朝鮮半島の統治権は連合国側に移った。1945年9月2日、アメリカ戦艦ミズーリの甲板上で日本政府が公式にイギリスやアメリカ、中華民国やソ連をはじめとする連合国との間で降伏文書に調印した。』

第二次世界大戦の終結は、1945年9月2日、東京湾内停泊のアメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上において、アメリカ、中華民国、イギリス、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダなど連合諸国17カ国の代表団臨席の元、日本政府全権重光葵外務大臣、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされた時点であり、1945年8月15日を第二次世界大戦の終結とするのは明らかに誤りです。

大和屋敷によるタグ剥がしについて[編集]

具体的にどの部分が不適切なのか指摘できていません。タグ消しの際は個別にお願いします。Wikipedia:独自研究は載せないWikipedia:信頼できる情報源についてもごらんください。一旦差し戻します。--番組の途中ですが名無しです会話2015年4月10日 (金) 07:58 (UTC)[返信]

出典記述まで出典要求しており意図不明。要求するなら、第三者にわかるようにすべてにおいて詳細に説明してください。タグを貼ればいいというものではない。--61.119.222.218 2015年4月29日 (水) 09:49 (UTC)[返信]


以下に列挙します。タグを剥がした理由について1ずつ回答お願いします。

  • 1920年尼港事件では朝鮮人パルチザン400~1,000人程が加わった赤軍は日本軍守備隊を襲撃し全滅させ在留日本人までも虐殺している。

出典がありません。

  • 三・一独立運動以後、日中戦争に至るまでの期間は三・一運動や大正デモクラシーの影響などにより朝鮮総督府は従来の統治政策を修正し、言論や結社の自由が与えられたため、比較的自由な雰囲気の中で、朝鮮人による様々な民族運動が繰り広げられた。朝鮮は日本統治以前は厳しい身分制度に支えられた専制政治が行われており、民主的選挙による政治がなされることはなかったが、日本政府によって民主主義が導入された。道議会議員の8割以上が朝鮮人であり

この出典となっている中山議員は歴史家ではありませんので独自研究です。

  • 日本は新たに統治下に置いたものの、未開発である朝鮮半島の開発に力を入れ、開発工事や運営の主な労働力を朝鮮人に求めることで雇用を創出した。これにより朝鮮人の海外への流失を抑制し日本本土への流入も抑え本土の失業率上昇や治安悪化をも防止しようとした。

一次資料です。ウィキペディアのルールでは使用は推奨されていません。

  • 1929年カーネギー財団から朝鮮半島に派遣されたアメリカ人記者らは、「日本は併合以来19年間にして、数百年間停頓状態にあった朝鮮と、近代文明国との間に渡り橋を架けてやった。・・・また朝鮮人の苦しみもあるかも知れぬが、日本は莫大な利益をもたらしていることは明らかである」などと

一次資料です。

  • [1931年]]7月2日に中国吉林省長春市郊外で、朝鮮移住民と中国農民の衝突事件(万宝山事件)が起こり、その報復として、朝鮮人による華僑虐殺事件(朝鮮排華事件)が朝鮮および日本本土で起き日中間の外交問題となった。

出典がありません。

  • 満州に居た多数の朝鮮人小作人は親日へと転化した。朝鮮半島でも「内鮮一体」が叫ばれ、皇民化推進団体が次々と結成された。三・一独立運動の首謀者の一人である崔麟大東亜戦争開戦のときには熱心な親日家となっており、大東亜戦争を「聖戦」と讃え、日本の支援を積極的に行った。また、玄永燮朝鮮語版朝鮮語を禁じるべきだと主張し、李東華朝鮮語版は朝鮮人にも日本人と同様に兵役の義務を与えるべきだと叫び、朝鮮神宮では「国威宣揚武運長久祈願祭」が挙行されるようになった。李覚鐘朝鮮語版は「私共は大日本帝国の臣民であります」「私共は互いに心を合わせて、天皇陛下に忠誠を尽くします」「私共は忍苦鍛錬して、立派な強い国民となります」と書かれた皇国臣民ノ誓詞を書いた。

出典がありません。

  • 1936年に朝鮮に行った神戸正雄は「事変前には日本反抗の気分もあったが、第一に満州事変、次に支那事変によりて日本と合体することの朝鮮人にとりて有利ということが明らかになって、今では全く日本内地と協調しつつある」と述べている

出典となっている神戸氏は歴史家ではないので独自研究になります。

一次資料です。

  • 朝鮮人の朴春琴衆議院議員から「朝鮮人志願兵制度」の請願が出され、1938年からは朝鮮人にも兵卒の志願を許可する陸軍特別志願兵令が公布され

同上です。

  • 労働力としての徴用については、適用が控えられていた朝鮮においても1944年9月から1945年8月にかけて国民徴用令が実施された。日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣は1945年3月の下関-釜山間の連絡線の運航が止まるまでの7か月間であり、内地(日本)における、国民徴用令による朝鮮人の徴用労務者はごく少数であった。戦後、日本に残留した在日朝鮮人のうち、徴用で日本に来た者は245人であった(1959年の外務省の調べ)。内地(日本)に渡航して来た朝鮮人の大半は職を求めての個別渡航や、工鉱業、土木事業等の募集に応じてきた者であった

同上です。

  • 日本兵を相手に慰安婦として働く朝鮮婦人もおり、その慰安婦が在籍する慰安所営業者の半数は朝鮮人が占め、その運営に日本政府や軍は直接介在していなかった。なお慰安婦の募集は新聞などの募集広告など一般公募で行われており、これに応募するのは自由意思による選択であった。またそれらの業者に朝鮮人婦女子を拉致・誘拐して売り飛ばしていた者もいたが、その全ては朝鮮人であった

前述の中山氏に関する理由と同じです。

  • 終戦後、朝鮮半島や日本に在住する朝鮮人は日本人と同じ敗戦国民にもかかわらず「自分達は戦勝国民だ」と主張し、日本人引揚者たちは検問でソ連兵や朝鮮人への女性や金品の供出を強要され、日本上陸後に15歳以上の女性は妊娠性病検査や堕胎手術を受けた

リンク切れです。

  • なお韓国政府は、1951年9月にサンフランシスコで行われた連合国と日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の締結の際に、自国を「第二次世界大戦における戦勝国(=連合国の1国)」として参加させるように求めたものの、大戦以前から日本の統治下にあり連合国として日本と交戦したことはなく、さらに多くの朝鮮人が日本軍の将兵として連合国と交戦したためにこれをはねつけた。

出典がありません

  • 日本が残した産業資源の多くが北部に集中していたため、北朝鮮は朝鮮戦争からしばらくの期間、工業生産力・軍事力などの点で韓国を圧倒していたが、韓国はベトナム戦争への派兵にともなう特需と日本からの戦後賠償を含む莫大な規模の経済・技術援助によって「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を達成した。

出典がありません。

  • 一方、朝鮮人の過激派からは、純宗が李完用へ全権委任状を出すなどした経緯から、日韓併合の主犯とも見做され、暗殺の対象とされた。}}李王世子暗殺未遂事件などが起きている。日本の敗戦後には連合国によって華族が廃止されたために爵位を失った。

出典がありません。

  • 連合国の承認を得て建国された大韓民国は、軍事独裁政権の障害になることを懸念して長年にわたり李王家の帰還を許さなかったため、李王垠や方子は在日朝鮮人となり、韓国への帰還を許されたのは晩年のことであった。

出典がありません。

出典がありません。

  • 朝鮮では1895年甲午改革により近代教育制度が始まったが、1906年の時点でも小学校が全国で40校未満

出典になっている金氏は歴史家ではありません。よって独自研究となります。

  • 初代統監に就任した伊藤博文はこの状況について、大韓帝国の官僚に対し「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、学校建設を改革の最優先事項とした。伊藤が推進した学校建設事業は併合後も朝鮮総督府によって継続され、朝鮮における各種学校は1940年代には1000校を超えていた

同上です。

  • 1946年度からは日本内地と同様の八年制義務教育制度(国民学校初等科及び高等科)を導入することが予定されていた。

出典がありません。

  • また、一般人(特に女子)のための教育機関は皆無で、大多数の朝鮮人は読み書きができない状況だった

ページ番号がありません。

  • 日本統治下になると学校教育における科目の一つとしてハングルと漢字の混用による朝鮮語が導入されたため、朝鮮語の識字率は一定の上昇をみた

同上です

  • 朝鮮語の時間以外の教授言語としては日本語が使用された。総督府は1912年に、近代において初めて作成された朝鮮語の正書法である普通学校用諺文綴字法を作成し、1930年には児童の学習能率の向上、朝鮮語の綴字法の整理・統一のための新正書法である諺文綴字法を作成し、それを用いた。

出典がありません。

  • また、朝鮮の民族文化は日本の統治の時期を通してより成長し、日本人学者とその朝鮮人の弟子達によって歴史・語学・文学などの韓国学研究の基礎が作られた

歴史家による評価ではなく、独自研究です。

  • 創氏は、朝鮮の宗族による管理システム(本貫)に新たに家族名である「氏」を加え、日本及び欧米で一般的な家族単位の管理システム下に組み入れるものである。この過程で中国式の夫婦別姓を名乗っていた妻も夫と同じ一つの家族名の下で管理されることになった。改名とは姓名を届け出する際に名を日本風に変更することを可能にする制度である。それまでは日本内地に見られる姓名は許可しないこととして厳しく制限されていた。1940年に取られたこれらの措置を「創氏改名」と呼ぶ。

出典がありません。

  • また、朝鮮に居住している朝鮮人では改名者の割合は9.6%だった。

出典がありません。

Wikipedia:信頼できる情報源#情報源についても参照ください。

--番組の途中ですが名無しです会話2015年5月4日 (月) 14:42 (UTC)[返信]

回答がありませんので差し戻させていただきます。--番組の途中ですが名無しです会話2015年7月18日 (土) 14:01 (UTC)[返信]

一方的な荒らし認定によって差し戻しが行われたので取り消させていただきます。--番組の途中ですが名無しです会話2015年7月22日 (水) 14:49 (UTC)[返信]

大和屋敷によるノート無視の差し戻しについて[編集]

取り消させていただきました。--番組の途中ですが名無しです会話2015年7月23日 (木) 09:40 (UTC)[返信]

10年間は所得税の免税措置[編集]

所得税法は1887年創設j 1899年法人所得税として実施 朝鮮には1916年勅令183号により実施された。 個人所得税の実施は1934年です。併合時免税されたのではなく、まだ適用されていなかった ということです。大蔵省編「明治大正財政史 第18巻外地財政史より --Osamu angel会話2021年1月9日 (土) 14:42 (UTC)[返信]

日本ではこの時期を日本統治時代と呼んでいる。[編集]

誰が呼んでいるのか、出典を提示して下さい 併合時代、植民地時代が一般的だと思います 併合を正当化する個人的思考だと 思われます、正当か不当か別れて います 正当として記載するのは 問題です Osamu angel会話2021年2月10日 (水) 05:31 (UTC)[返信]

コメント こんにちは、記事内の脚注や参考文献でも「日本統治時代」については出典が明記されています。逆に「併合時代」の方が朝鮮側からの視点であり、日本で言われることが少ないと思います。なお、「併合を正当化する」ものであるというあなたの個人的な意見を発表する行為は、Wikipediaでは歓迎されていません(詳しくはWP:NOT#ORWP:NOTADVERTISINGを参照)。--Hi-lite会話2021年2月23日 (火) 01:21 (UTC)[返信]
戦前はごく一般的に「植民地」と呼んでいました--一編集希望者会話2021年9月7日 (火) 09:01 (UTC)[返信]
サイト検索すれば朝鮮併合、韓国併合、日韓併合と 多数でてきます
朝鮮統治はすくないです。
朝鮮側からの視点でありとありますが、この記述は併合時代の事実を日本側の視点で記載しているのですか
日本の正当性を「恩恵を施し、近代化をはかり、朝鮮の為に努力した」という視点で記載しているのですか
35年間の植民地時代の味方は様々であり、しとつの視点のみで記載するのは参考にする人々が狭い見方しか
与えず、貴殿の日本側だけでなく半島の人たちの事実を記載すべきだと思います
でなければここに表示されているのは個人的思考にすぎません。辞典には日本側や半島側と決めつけず様々な見方を記載すべきです--Osamu angel会話2022年1月21日 (金) 04:24 (UTC)[返信]
記事内の脚注や参考文献でも「日本統治時代」については出典が明記されています

どこに誰が呼んでいるのか 出典の提示がありません。--Osamu angel会話2021年4月6日 (火) 04:24 (UTC)[返信]

開発工事や運営の主な労働力を朝鮮人に求めることで雇用を創出した[編集]

1911年4月17日公布の土地収用令に「公共の利益」の為に土地を任意に収用できるとされ、多くの農民が田畑 家屋を失った。 道路は憲兵や官吏が机上で計画したので「鉛筆道路」といわれ住宅の密集地であっても、容赦なく立ち退きされた 道路・鉄道は賦役で行われ、各戸に割り当てられ、自費で工事現場に行き食事も自弁であった。 植民地朝鮮と日本 趙 景達 岩波文書 頁18

このようにインフラ工事の為に雇用創出というより強制で無料奉仕であったのではないか 再度調査確認して返答願います。--Osamu angel会話2021年4月17日 (土) 12:21 (UTC)[返信]

(朝鮮語は必須科目)は誤解を与える[編集]

朝鮮語は漢文の授業時間の中で教えられ、日本語で授業は行われ、次第に授業時間は短くなり 1939年には加設科目(当局の許可が必要)または随意科目(希望者だけに)とされ実質授業はなくなり 1941年には授業時間の規定がなくなり実質廃止となり授業時間はなくなった。 日本の朝鮮統治 「一視同仁」の建前と実相 鈴木譲二 著 学実出版社 頁203 朝鮮語教育の変遷より

最後は廃止となった朝鮮語授業を必須であったというのは事実を表していないのではないか--Osamu angel会話2021年4月18日 (日) 05:22 (UTC)[返信]

戸籍には身分を記載することなく登録させた これは事実でしょうか[編集]

白丁は1894年甲牛農民戦争で活躍し、甲午の改革で身分解放が行われた。 しかし、植民地下では白丁は戸籍に「屠漢」と登録され差別はかえって強まった とあります。植民地朝鮮と日本 趙 景達 岩波新書 頁90--Osamu angel会話2021年5月4日 (火) 07:43 (UTC)[返信]

呼称について[編集]

戦前は植民地と呼んでいたのをソース付きで示したら削除されてますが、どうしてでしょうか?一編集希望者会話2021年9月7日 (火) 09:05 (UTC)[返信]

米の輸出で得た多額の資金を元手に1938年に大邱にて三星商事を設立し、 根拠不明 出典元確認してください[編集]

出典元サイトにはそのような記載はなく、単に1938年設立されたとあり 戦後の事業歴が記載されています --Osamu angel会話2022年1月21日 (金) 04:05 (UTC)[返信]