ジュールズ・ダッシン

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ジュールズ・ダッシン
Jules Dassin
Jules Dassin
ダッシンと息子のジョー
生年月日 (1911-12-18) 1911年12月18日
没年月日 (2008-03-31) 2008年3月31日(96歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 コネチカット州ミドルタウン
死没地 ギリシャの旗 ギリシャ アテネ
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
配偶者 Beatrice Launer (1933–1962)
メリナ・メルクーリ (1966–1994)
著名な家族 ジョー・ダッサン(息子)
 
受賞
カンヌ国際映画祭
監督賞
1955年男の争い
ニューヨーク映画批評家協会賞
特別賞
1999年男の争い
ゴールデングローブ賞
外国語映画賞
1960年日曜はダメよ
その他の賞
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ジュールズ・ダッシンJules Dassin1911年12月18日 - 2008年3月31日)は、アメリカ合衆国映画監督脚本家俳優

略歴[編集]

コネチカット州出身。両親はロシアユダヤ人。ヨーロッパで演劇を学び、帰国後はニューヨークイディッシュ語の舞台に俳優として出るようになる。演出家、放送作家を経て、1940年に映画界に入り、アルフレッド・ヒッチコックの『スミス夫妻』などで助監督を務める。

1942年に映画監督としてデビュー。1947年に刑務所を舞台にした社会派映画『真昼の暴動』を発表した。本作で一緒に仕事をした新聞記者出身の製作者マーク・ヘリンジャーと意気投合し、戦後のイタリアン・リアリズムに影響されて、1948年にセミ・ドキュメンタリー映画『裸の町』を世に送り、一躍脚光を浴びる(この作品が直後に作られた黒澤明の『野良犬』に影響を与えたという説がある)。しかし、ヘリンジャーは完成直後に急死してしまう。

これ以降フィルム・ノワールを主に手がけるが、赤狩りの嵐が吹きまく1950年代に入ってからはハリウッド・ブラックリストに載せられてしまい(かつて演劇界に身をおいていた頃、ダッシンは共産党の支持者だった)、ハリウッドを離れて、若い頃に演劇修業をしたヨーロッパに渡る。

厳しい環境の中だったが、ダッシンはアメリカにいた頃よりもヨーロッパでさらにその才能を開花させ、1955年のフランス製ギャング映画『男の争い』でカンヌ国際映画祭 監督賞を受賞、これで勢いに乗ったダッシンは1957年にフランス=イタリアの合作映画『宿命』、1958年にイタリア映画『掟』など国際的映画監督として活躍した。

1960年のアメリカ=ギリシア合作『日曜はダメよ』でアカデミー賞にもノミネートされた。1968年には『日曜はダメよ』のミュージカル版などでトニー賞にもノミネートされた。舞台俳優経験を活かして、余技的にではあるが『男の争い』では重要な脇役のイタリア人金庫破り師を、映画『日曜はダメよ』では準主演格であるアメリカ人富豪を自ら演じるなど、自作への俳優出演も行っている。

『日曜はダメよ』の主演女優メリナ・メルクーリと1966年に結婚した。前妻との間にもうけた娘のジュリアは女優に、息子のジョーは歌手となった。メリナとはおしどり夫婦として知られ、ダッシンの映画にも数多く出演し、1994年にメリナが亡くなるまで結婚生活は続いた。

2008年3月31日、ギリシャアテネの病院で、インフルエンザの合併症のため死去した。数日前から体調を崩して入院していたという。

主な監督作品[編集]

脚注[編集]

外部リンク[編集]