黒木家永

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黒木 家永(くろき いえなが、大永4年(1524年)? - 天正12年(1584年))は、戦国時代武将。子に黒木延実がいる。弟の益種は蒲池姓を名のり、蒲池氏とは親族関係にあった。

筑後国上妻郡のほぼ中央部、星野川矢部川に合流する地点にある黒木郷を拠点とした国人猫尾城を居城とした。

生涯[編集]

筑後十五城と呼ばれた大身の一つ。曽祖父とされる繁実(親実)の活動や、親実、祖父・右実(鑑実)、父・鑑隆(※鑑隆と家永を同一人物とする説もある)がいずれも大友氏当主からの偏諱を賜っていることから、この頃は大友氏に従っていたようであるが、家永自身は初めは大友氏(当主:大友義鎮(宗麟))に対抗の姿勢をみせており、偏諱も賜っていない。

1564年に、大友勢の大軍が攻め寄せると居城・猫尾城で迎え撃ち、寡兵でよく持ち堪えたが、多勢に無勢で叔父の黒木実連らとともに降伏。その後は大友氏に忠誠を誓い、諸戦に参加した。しかし、1578年に大友氏が耳川の戦いで、島津氏に壊滅的な敗北を喫し(この戦いには黒木家も参加)、筑後に対する影響力を弱めると、代わりに肥前龍造寺氏の圧力が増し、これにやむなく従う事となる。

1582年龍造寺隆信は、柳河城主の蒲池鎮漣を謀殺し、鎮漣の一族を殺戮し、柳川の蒲船津城にいた弟の蒲池益種も討ち死にする。龍造寺氏の所業に激怒した家永は龍造寺氏に反旗を翻し、龍造寺政家鍋島直茂らの軍勢に囲まれるが、肥前の国人・草野氏の仲裁もあり、嫡子を龍造寺氏に人質として送り、和睦した。

1584年、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が戦死した後も、龍造寺氏に起請文を送り異心のない旨を誓ったが、この大敗によって進軍の好機と見た大友氏が龍造寺領内へと侵攻すると、大友方から、龍造寺方に転じた経緯のある黒木家は、格好のターゲットとなり、猫尾城も包囲された。

大友勢に対し、黒木勢は龍造寺氏に援軍を要請するなどして、よく防戦し膠着状態が続いたが、これに業を煮やした大友勢の援軍として、立花道雪高橋紹運らの名将が援軍として駆けつけると、龍造寺氏の援軍は立花勢と激戦を展開したものの敗退してしまい、城内の兵糧の欠乏も相まって、ついに家永は抗戦を諦め、部下や家族の助命を条件に、切腹した。享年60。この時、家永を介錯したのは、家永の娘で13歳の少女だったという(なお、彼の死に際しては降伏の際に自害したという説と、一度は許されたが後に謀反の兆しありとして誅されたという二説がある)。

余談[編集]

黒木氏の居城は「猫尾城」であるが、同じ筑後に「犬尾城」という城もあった。伝説のひとつによれば、黒木氏と同族である犬尾城主の河崎氏と険悪な関係であった為に、対抗意識から名付けられたともされる。