黒塚

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月岡芳年『奥州安達が原ひとつ家の図』 この錦絵は「風紀を乱す」との理由で明治政府により発禁処分となった[1]
鳥山石燕画図百鬼夜行』より「黒塚」

黒塚(くろづか)は、福島県二本松市にある鬼婆の墓、及びその鬼婆の伝説。安達ヶ原に棲み、人を喰らっていたという「安達ヶ原の鬼婆(あだちがはらのおにばば)」として伝えられている。黒塚の名は正確にはこの鬼婆を葬ったの名を指すが、現在では鬼婆自身をも指すようになっている[2]の『黒塚』に登場する鬼女も、この黒塚の鬼婆だとされる。

伝説[編集]

安達ヶ原近隣の真弓山観世寺の発行による『奥州安達ヶ原黒塚縁起』などによれば、鬼婆の伝説は以下のように伝わっている。

神亀丙寅の年(726年)の頃。紀州の僧・東光坊祐慶が安達ヶ原を旅している途中に日が暮れ、岩屋に宿を求めた。岩屋には一人の老婆が住んでいた。祐慶を親切そうに招き入れた老婆は、これから薪を拾いに行くと言い、奥の部屋を決して見てはいけないと祐慶に言い残して岩屋から出て行った。しかし、祐慶が好奇心から戸を開けて奥の部屋をのぞくと、そこには人間の白骨死体が山のように積み上げられていた。祐慶は、安達ヶ原で旅人を殺して血肉を貪り食うという鬼婆の噂を思い出し、あの老婆こそが件の鬼婆だと感付き、岩屋から逃げ出した。

しばらくして岩屋に戻って来た老婆は祐慶の逃走に気付き、恐ろしい鬼婆の姿となって猛烈な速さで追いかけて来た。祐慶のすぐ後ろまでせまる鬼婆。絶体絶命の中、祐慶は旅の荷物の中から如意輪観世音菩薩を取り出して必死に経を唱えた。すると祐慶の菩薩像が空へ舞い上がり、光明を放ちつつ破魔の白真弓に金剛の矢をつがえて射ち、鬼婆を仕留めた。

鬼婆は命を失ったものの、仏の導きにより成仏した。祐慶は鬼婆を阿武隈川のほとりに葬り、その地は「黒塚」と呼ばれるようになった。鬼婆を得脱(悟り)に導いた観音像は「白真弓観音」と呼ばれ、後に厚い信仰を受けたという[3]

なお、伝説にある神亀年間(奈良時代前期)とは時代が異なるものの、祐慶は平安時代後期に実在した人物であり、『江戸名所図会』などに東光坊阿闍梨宥慶の名で記載されており、1163年(長寛元年)に遷化したとされる[3]

別説[編集]

鬼婆の顛末については、以下のような別説もある。

  • 観音像の力で雷鳴が轟き、鬼婆は雷に打たれて絶命した[4]
  • 鬼婆は殺されたのではなく、高僧に改心させられて仏教へ帰依した[5]
  • 祐慶は追いかけてくる鬼婆から必死に逃げ、夜が明けたのでそのまま逃げ切り、命が助かった[1]

また以下のように、祐慶は鬼婆に偶然出遭ったのではなく、鬼婆を討つ目的で安達ヶ原へ向かったという伝説もある。

祐慶は安達ヶ原で旅人たちを襲う鬼婆の調伏の命を受け、ただちに安達ヶ原へ向かった。しかし一足遅く、鬼婆は北方へ逃走していた。後を追って尾山(現・宮城県角田市)で鬼婆に追いついた祐慶は、鬼婆に斬りつけた。しかし惜しくも鬼婆はわずかに傷を負ったのみで逃げ去ってしまい、祐慶はその地に一堂を建立した。

その約3年後。ある旅人が鬼婆を目撃し、報せを受けた祐慶はすぐさま退治に向かい、逃走する鬼婆を追い詰めた末、見事に退治した。鬼婆の頭部は祐慶の建てた堂に保管され、胴体は尾山のとある丘に埋められ、供養のために桜が植えられた[6]

鬼婆の頭部があった東光寺は後に廃寺となり、祐慶の子孫とされる安達家に頭蓋骨が伝えられている。この安達家の名も安達ヶ原に由来しており、尾山には他に安達という名は確認されていない。また、胴体を埋めた跡に植えられた桜は、後に見事な大木に育ち、毎年美しい花を咲かせているという[6]

鬼婆の由来[編集]

石見神楽演目「黒塚」

前述の観世寺の近隣には恋衣地蔵という地蔵があるが、これは鬼婆に殺された恋衣という女性を祀ったものとされ、この地蔵の由来として、鬼婆が人間から鬼婆に変じた物語が以下のように伝わっている。

その昔、岩手という女性が京の都公家屋敷に乳母として奉公していた。だが、彼女の可愛がる姫は生まれながらにして不治の病におかされており、5歳になっても口がきけないほどだった。

姫を溺愛する岩手は何とかして姫を救いたいと考え、妊婦の胎内の胎児の生き胆が病気に効くという易者の言葉を信じ、生まれたばかりの娘を置いて旅に出た。

奥州の安達ヶ原に辿りついた岩手は岩屋を宿とし、標的の妊婦を待った。長い年月が経ったある日、若い夫婦がその岩屋に宿を求めた。女の方は身重である。ちょうど女が産気づき、夫は薬を買いに出かけた。絶好の機会である。

岩手は出刃包丁を取り出して女に襲い掛かり、女の腹を裂いて胎児から肝を抜き取った。だが女が身に着けているお守りを目にし、岩手は驚いた。それは自分が京を発つ際、娘に残したものだった。今しがた自分が殺した女は、他ならぬ我が子だったのである。

あまりの出来事に岩手は精神に異常を来たし、以来、旅人を襲っては生き血と肝をすすり、人肉を喰らう鬼婆と成り果てたのだという。

なお、岩手が奉公していた「公家」とは武家時代以降に用いられた言葉だが、祐慶が鬼婆に出遭った神亀年間は平安遷都すら行われていない時代のため、岩手が奉公していた時代には、奉公先のはずの京の都自体が存在していないという矛盾がある。また、岩手という名は戯曲の『岩手』で創作された名前であり、実在するはずがない。以上の理由から、この鬼婆の由来に関する伝説は、一種の方便として作られたものと見られている[3]

また、青森県にはこれとは別に、鬼婆の由来を説く伝説が以下のように伝わっている。

白河天皇の時代。源頼義の家来の安達という武士が、頼義に敵地である陸奥への潜入を命じられ、いわという名の妻を連れ、幼い娘を乳母に預けて陸奥へ赴いたが、敵に討たれて命を落とした。いわは夫の霊を異郷に残して故郷へ戻るのはしのびなく、そのまま陸奥に留まった。数十年後、いわの住む庵に、旅の若夫婦が宿を求めた。女のほうは身重だった。故郷に帰りたくても帰れない身のいわは、仲睦まじい上にもうすぐ子宝に恵まれる幸せそうな夫婦に殺意を覚え、ついに包丁で女の命を奪った。しかしその女は、他ならぬいわの娘だとわかり、いわは7日7晩泣き明かした挙句に精神に異常を来たし、旅人を襲う鬼婆となった。

青森の三戸郡五戸町浅水には、鬼婆が人を殺した際に包丁を洗ったという滝が伝わっており、浅水(あさみず)という地名も、安達ヶ原へ行った者は殺されるために翌朝を迎えることができないという意味の「朝見ず」が由来とされている[7]

史跡その他[編集]

黒塚。

黒塚の近くには祐慶が観音を祀るために寺を建てたといわれ、これが現在でも二本松市にある真弓山観世寺とされる。同寺の敷地内には鬼婆像の他、鬼婆の墓や、鬼婆の住んでいた岩屋、血で染まった包丁を洗ったという池が残されており、観光客も多い[4][8]。伝説は時を経てなお人々の心に恐怖と哀しみを与え続けているといわれ、俳人・正岡子規もこの寺を訪れ「涼しさや聞けばむかしは鬼の塚」と詠んでいる[9]。また観世寺にある如意輪観世音菩薩の胎内には、祐慶が鬼婆退治に用いたとされる如意輪観世音菩薩が埋め込まれており、60年ごとに開帳される[10]

二本松市内の観光施設「安達ヶ原ふるさと村」では、この鬼婆伝説を再現した「黒塚劇場」が開催された他[11]、本来の伝説のおどろおどろしさを払拭すべく、鬼婆の姿を二頭身にディフォルメした「バッピーちゃん」をイメージキャラクターとしたりと、様々な工夫がなされている[12]。黒塚劇場は前後に舞台を設け緞帳代わりに障子、老婆の姿の精巧なロボットが語り部として語り、後半は客が180度向きをかえて続きが演じられる二舞台方式だったが、「ふるさと村」の無料解放に伴い黒塚劇場は閉鎖され、現在見ることは出来ない。

平兼盛の短歌[編集]

平安時代三十六歌仙の1人である平兼盛

名取郡黒塚に重之が妹あまたありと聞きつけていひつかしける


 陸奥(みちのく)の安達が原の黒塚に鬼籠もれりと言ふはまことか

と詠んでいる(『拾遺和歌集』巻九・雑下)。これは黒塚に住む三十六歌仙の1人・源重之の姉妹たちに対して兼盛が送った恋歌である。姉妹たちを「鬼」とたとえたのは、辺境の陸奥に住む娘たちを深窓の令嬢と推測し、隠れて姿を現さない「鬼」を掛けた洒落の一種である[注 1]

兼盛の時代以前より黒塚の鬼婆伝説が存在し、兼盛はそれを下敷きとしてこの歌を作ったといわれるが[13]、逆に歌の方が伝説より先に存在し、この歌が後に文字通りの意味に解釈され、黒塚に鬼婆が住むという伝説が生まれたという説もある[14]

発句[編集]

  • 黒塚や白塚と化す雪女 名古屋 清直(ゆめみ草)
  • 黒塚や跡追ふて来る一しぐれ 芭蕉とされているが偽作(かんこ鳥塚)
  • 黒塚や鬼こもるとも人すずし 芭蕉とされているが誤伝(後の便)

 奥州黒塚にて

  • つかの間や鬼こもるとも夕すずみ 維舟

 が誤伝されたもの。

  • 黒塚の誠こもれり雪女 其角(雑談集)

 遊女土佐をむかへたる人にうとく成て

  • 黒塚の客あしらひや閨の雪 其角
  • 夏木だち黒塚遠く雲渡る 嘯山
  • 黒塚や蚋(ぶと)旅人を追ひまはる 暁台

(出典=『古典俳文学大系』(集英社)

各地の鬼婆伝説[編集]

安達ヶ原と同様の鬼婆の伝承は埼玉県大宮市(現・さいたま市)にも「黒塚の鬼婆」として伝わっている。江戸時代の武蔵国地誌新編武蔵風土記稿』には、祐慶が東国足立ヶ原(あだちがはら)で黒塚の悪鬼を呪伏して東光坊と号したとあり、前述の平兼盛の短歌もこれを詠んだものだとある。東光寺(現・さいたま市)の撞鐘の銘文にも、かつて足立郡にあった黒塚という古墳で、人々を悩ませていた妖怪を祐慶が法力で伏したとある[3]寛保時代の雑書『諸国里人談』によればこちらが伝説の本家とされ[15]昭和以前には、埼玉のほうが東京に近く知名度が上ということもあり、埼玉を本家と支持する意見が多かった[3]。歌舞伎の『黒塚』を上演する際に俳優がこちらを参詣することもある[16]

昭和初期には、福島の安達ヶ原と埼玉の足立ヶ原の間で、どちらが鬼婆伝説の本家かをめぐる騒動が勃発した。これに対し、埼玉出身の民俗学者・西角井正慶が埼玉側を「自分たちの地を鬼婆発祥の地とすることは、この地を未開の蛮地と宣伝するようなものだから、むしろ譲ったほうが得」と諭して埼玉側を退かせたことで、騒動は幕を閉じた。埼玉の黒塚のあった場所は後の宅地造成により見る影もなくなり、かつて黒塚にあった東光寺も後にさいたま市大宮区へ移転している[3]

また、岩手県盛岡市南方の厨川にも安達ヶ原の鬼婆伝説があり、ここでは鬼婆の正体は平安中期の武将・安倍貞任の娘とされる。奈良県の宇陀地方にも同様の伝説があり、東京都台東区の「浅茅ヶ原の鬼婆」もこれらと同系統の伝説である[3]安政年間の土佐国(現・高知県)の妖怪絵巻土佐お化け草紙』にも、「鬼女」と題して「安達が原のばヽ これ也」とある[17]

天狗研究家・知切光歳の著書『天狗の研究』によれば、東光坊祐慶の「東光坊」は、熊野修験の本拠地である熊野湯の峯の東光坊に由来するもので、この地の山伏は修行で各地を回る際、「那智の東光坊祐慶」と名乗っていたらしいことから、祐慶を名乗る山伏たちが各地で語る鬼婆伝説がもととなって、日本各地の鬼婆伝説や黒塚伝説が生まれたものと見られている[3]

また、前述の埼玉の鬼婆伝説については、氷川神社神職の人物が、禁をやぶって魚や鳥を捕えて食べようとした際、鬼の面で素顔を隠したことが誤伝されたとの説もある[16]

脚注[編集]

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注釈
  1. ^ (おに)の語源は「隠(おん)」であり、本来は姿を現さない超自然的な存在を意味していた(参考:『幻想世界の住人たち IV』ISBN 978-4-915146-44-2)。
出典
  1. ^ a b 石井 2003, p. 69
  2. ^ 京極夏彦多田克己村上健司 『妖怪馬鹿』 新潮社〈新潮OH!文庫〉、2001年、236頁。ISBN 978-4-10-290073-4
  3. ^ a b c d e f g h 多田 2004, pp. 292-300
  4. ^ a b 宮本他 2007, pp. 42-43
  5. ^ 山口敏太郎監修 『本当にいる日本の「未知生物」案内』 笠倉出版社2005年、49頁。ISBN 978-4-7730-0306-2
  6. ^ a b 山口他 2000, pp. 59-66
  7. ^ 森山泰太郎・北彰介 『青森の伝説』 角川書店〈日本の伝説〉、1977年、166-171頁。NCID BN03653753
  8. ^ 黒塚”. 『怪』-KWAI Network-. 角川書店. 2010年5月22日閲覧。インターネット・アーカイブによる記録)
  9. ^ 人文社編集部 『諸国怪談奇談集成 江戸諸国百物語 東日本編』 人文社〈ものしりシリーズ〉、2005年、26頁。ISBN 978-4-7959-1955-6
  10. ^ 安部晃司他 『日本の謎と不思議大全 東日本編』 人文社編集部編、人文社〈ものしりミニシリーズ〉、2006年、47頁。ISBN 978-4-7959-1986-0
  11. ^ これぞ日本ならではのロボット? 「鬼婆ロボット」”. エキサイト (2005年8月4日). 2010年5月22日閲覧。
  12. ^ 宮本幸枝 『津々浦々「お化け」生息マップ - 雪女は東京出身? 九州の河童はちょいワル? -』 村上健司監修、技術評論社〈大人が楽しむ地図帳〉、2005年、64頁。ISBN 978-4-7741-2451-3
  13. ^ 熊野の説話/謡曲「黒塚」”. み熊野ねっと (2004年5月20日). 2008年2月15日閲覧。
  14. ^ 笹間良彦 『絵で見て不思議! 鬼ともののけの文化史』 瓜坊進編、遊子館、2005年、138頁。ISBN 978-4-946525-76-6
  15. ^ 村上健司編著 『妖怪事典』 毎日新聞社2000年、16頁。ISBN 978-4-620-31428-0
  16. ^ a b 韮塚 1974, pp. 178-179
  17. ^ 湯本豪一編著 『妖怪百物語絵巻』 国書刊行会2003年、60頁。ISBN 978-4-336-04547-8

参考文献[編集]

関連項目[編集]