黎桓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています詳細
黎桓
前黎朝
初代皇帝
Ledaihanh.jpg
華閭の黎大行像
国号 大瞿越
王朝 前黎朝
在位期間 980年 - 1005年
都城 華閭(現ニンビン省ホアルー
姓・諱 黎桓
尊号 明乾応運神武昇平至仁広孝皇帝
諡号 大行皇帝[1]
廟号 太祖
生年 大有14年7月15日941年8月10日
没年 応天12年3月8日1005年4月19日
黎寞(または黎覔)
鄧氏
后妃 大勝明皇后、奉乾至理皇后、順聖明道皇后、鄭国皇后、范皇后
陵墓 徳陵
元号 天福 : 980年 - 988年
興統 : 989年 - 993年
応天 : 994年 - 1005年
黎桓
各種表記
クォック・グー Lê Hoàn
漢字チュノム 黎桓
北部発音: レ・ホアン
音読み れい かん
テンプレートを表示
徳陵(華閭)

黎桓(れい かん、ベトナム語: Lê Hoàn、レ・ホアン)は、大瞿越前黎朝の創始者。後世には黎大行ベトナム語: Lê Đại Hành)とも称される。

生涯[編集]

先祖は、現在の中華人民共和国広西チワン族自治区桂林市陽朔県の出身であると伝えられる。初め丁部領に仕え、丁朝が建国されると十道将軍に任じられている。太平10年(979年)に丁部領とその長男の丁璉が宮廷侍衛の杜釈により殺害されると、後継の次男丁璿は幼少であったため、黎桓は丁部領皇后の楊太后と私通、丁朝の実権を掌握した。定国公阮匐や外甲の丁佃范盍らは、黎桓の専権に反発して挙兵したが、兵力に優っていた黎桓はこれを鎮圧している。この内乱の時期に北宋は広西州知事であった侯仁宝安南回復の建議を採用し、水陸両路から侵攻した。この国難を乗り切るべく丁朝の朝臣に推された黎桓は980年に皇帝に即位、前黎朝を建てた。黎桓軍は奇襲して宋軍を敗った。のちに黎桓は宋の冊封を求め、北方の契丹の脅威に晒されていた宋も黎桓を冊封、興統5年(993年)には交趾郡王に、応天4年(997年)には南平王に封じて前黎朝を承認した。

天福3年(982年)、チャンパに親征してその王都を攻め落とし、臣称して貢納を納めるよう迫った。前黎朝の国内統治の実質は軍政で、法治は峻厳で刑罰は重かった。運河を開鑿して経済の発展を見た。また11人の子を分封して王となし各地の守備・統治に当たらせている。応天9年(1002年)には全国十道を路・州・府に改めるなど地方制度の確立を図ったが、諸王間の内訌は続き、また地方豪族の反抗は頻発、農民反乱や少数民族の蜂起も多発するなど政情は不穏であった。黎桓はこれらの抵抗勢力に対し過酷な鎮圧を行ったと史書に記されている。少数民族である芒人の乱を平定する際には河蛮洞など四十九洞を落とし乱を平定している。応天12年(1005年)に64歳で死去した。死後、三男の黎龍鉞が即位した。

子女[編集]

11人の子と1人の養子がいた。

[編集]

  1. 擎天大王 皇太子 黎龍鍮(早逝)
  2. 東城王(後の東城大王) 黎龍鍮(黎龍銀ともいう)
  3. 南封王 皇太子 黎中宗 黎龍鉞
  4. 禦蛮王 黎龍釘
  5. 開明王(後の開明大王) 黎荘宗 黎龍鋌
  6. 禦北王 黎龍釿
  7. 定藩王 黎龍
  8. 副王 黎龍鏘
  9. 中国王 黎龍鏡
  10. 南国王 黎龍鋩
  11. 行軍王 黎龍(黎明提とも)

養子[編集]

  1. 扶帯王(名は不詳)

元号[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 大行」は君主が没した直後、諡号が決まるまで暫定的に使われる呼称であるが、黎桓はそれがそのまま諡とされた。黎文休は『大越史記全書』に注して疑問を呈し、後嗣や陪臣が暗愚で諡法を知らなかったからではないかと推測している。

参考資料[編集]

先代:
前黎朝の初代皇帝
980年 - 1005年
次代:
中宗