鶯塚古墳

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鶯塚古墳

古墳入り口(前方部前面)
所在地 奈良県奈良市春日野町
奈良公園内)
位置 北緯34度41分27.30秒 東経135度51分15.25秒 / 北緯34.6909167度 東経135.8542361度 / 34.6909167; 135.8542361座標: 北緯34度41分27.30秒 東経135度51分15.25秒 / 北緯34.6909167度 東経135.8542361度 / 34.6909167; 135.8542361
形状 前方後円墳
規模 墳丘長107m
高さ9m(後円部)
埋葬施設 不明
出土品 小型内行花文鏡・斧形石製品・埴輪
陪塚 3基?
築造時期 古墳時代前期後半
史跡 国の史跡「鶯塚古墳」
地図
鶯塚古墳の位置(奈良県内)
鶯塚古墳
鶯塚古墳
地図
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後円部墳頂の全天球画像
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鶯塚古墳(うぐいすづかこふん)は、奈良県奈良市春日野町にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。

概要[編集]

奈良県北部、奈良市北東郊の若草山(標高342メートル)山頂に築造された大型前方後円墳である。「鶯塚」の古墳名は、清少納言の『枕草子』における「うぐひすのみささぎ」を本古墳に比定する伝承に由来する[1]。これまでに測量調査が実施されているが、発掘調査は実施されていない。

墳形は前方後円形で、前方部を南南西方向に向け[2]、墳丘の側面を平野側に向ける。墳丘は後円部で3段築成、前方部で2段築成と見られる[2]。墳丘外表では全面に砕石による厚い葺石および円筒埴輪列が認められるほか、形象埴輪(家形・舟形・蓋形埴輪)が検出されている[2]。また前方部前面には出島状施設が認められる[3]。埋葬施設は明らかでないが、墳丘上では副葬品と見られる小型内行花文鏡・滑石製斧形石製品が出土している[4]。付近の前方部前方には小方墳1基・小円墳2基が残るが、これらは陪塚の可能性が指摘される[1]。築造時期は古墳時代前期後半頃と推定される[2]

古墳域は1936年昭和11年)に国の史跡に指定されている[5]

遺跡歴[編集]

  • 江戸時代初期の「東大寺寺中寺外惣絵図」に「牛墓」として記載[1]
  • 享保18年(1733年)、東大寺僧の康訓が墳丘上に鶯陵碑を建立[1]
  • 1936年昭和11年)9月3日、国の史跡に指定[5]
  • 1953年(昭和28年)、前方部南西隅で小型内行花文鏡の発見[1]
  • 2020年度(令和2年度)、3次元測量調査(柴原聡一郎・村瀬陸ら、2023年に報告)[3]

墳丘[編集]

後円部墳頂(中央に鶯陵碑)

墳丘の規模は次の通り[2]

  • 墳丘長:107メートル - 文献によっては103メートル[6][1][4]
  • 後円部 - 3段築成。
    • 直径:66メートル
    • 高さ:9メートル
  • 前方部 - 2段築成。
    • 幅:72メートル
    • 高さ:8メートル

後円部墳頂には江戸時代享保18年(1733年)に石碑が建立されており、正面には「鶯塚」、裏面には「享保十八歳次癸丑九月艮辰東大寺大勧進上人康訓建 延喜式曰平城坂上墓 清少納言謂之鶯陵 并河永誌」と記載されている[1]。また墳頂には三等三角点「三笠山」がある。

2020年度(令和2年度)の3次元測量調査では、前方部前面において25.0メートル×16.6メートルの出島状施設が見出されており、墳丘と出島状施設とは陸橋で結ばれる[3]

文化財[編集]

国の史跡[編集]

  • 鶯塚古墳 - 1936年(昭和11年)9月3日指定[5]

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 地方自治体発行
  • 事典類
    • 小島俊次「鶯塚古墳」『国史大辞典吉川弘文館 
    • 「鶯塚古墳」『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』平凡社、1981年。ISBN 4582490301 
      • 刊行後版(ジャパンナレッジ収録)、2006年
    • 高島徹「鶯塚古墳」『日本古墳大辞典東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607 
    • 鶯塚古墳」『国指定史跡ガイド』講談社  - リンクは朝日新聞社「コトバンク」。
  • その他
    • 伊達宗泰『大和考古学散歩』学生社、1968年、pp. 14‐18。
    • 『図説日本の史跡 第3巻 原始3』同朋舎、1991年。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]