鴨緑丸

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船歴
起工 1936年12月5日[1]
進水 1937年4月27日[1]
竣工 1937年9月30日[1]
その後 1944年12月15日あるいは12月16日に沈没[注釈 1]
主要目
総トン数 7,362 トン[2]
載貨重量トン数 4,134 トン[2]
全長 138.0 m[3]
垂線間長 129.80 m[2]
型幅 17.4 m[2]
型深 10.15 m[2]
吃水 (満載平均)6.35 m[2]
(空艙平均)3.99 m[2]
主機 三菱ツェリー式二段減速装置付蒸気タービン 2基2軸[2]
出力 6,500馬力(計画)[2]
8,225馬力(最大)[2]
航海速力 16ノット[2]
最高速力 18.5ノット[2]
船客定員 一等:50名[2]/45名[3]
二等:231名[2]/139名[3]
三等:793名[2]/621名[3]
乗員 152名[2]

鴨緑丸(おうりょくまる)とは、かつて大阪商船が所有し運航していた貨客船。大阪商船の大阪大連線(大連航路)用として建造され、実際に航路に就航した船としては最後の船である[注釈 2]太平洋戦争中は船舶運営会管理下で貨客船としてのほか、陸軍および海軍の配当船としても行動した。連合国側からは、いわゆる「ヘルシップ(地獄船)」の一隻として認知されている。

概要[編集]

黒龍丸級貨客船の二番船として三菱長崎造船所で建造された。当初予定されていた船名は松花江にちなんだ「松花丸」であったが、のちに「鴨緑丸」に改められた[4]1936年(昭和11年)12月5日に起工し、1937年(昭和12年)4月27日に進水式を迎える。しかし、その進水式当日にハプニングが起こる。式は昼ごろに予定されており、そのための点検が朝から行われていた[5]。しかし、船体の滑り止めの役割を果たすトリガーの試験中に突然船体が滑走をはじめ、そのまま海に浮かんでしまった[5]。このハプニングを受け、長崎造船所側は副長を旅館に宿泊中の大阪商船村田省蔵社長の下に詫びに行かせたが、これに対し村田は「そりゃよかった。怪我人はないか、母体を出るのが待ち切れずお産が早かったのだからお目出度いことではないか」と言って事故を不問とした[5]。竣工は昭和12年9月30日である。

大連航路の最新鋭船として内装も華麗を極め、秋草模様のエッチングガラスなどで装飾されていた[4]。竣工後の10月20日に処女航海のため神戸港を出港し、以降12日間隔で就航[4]。「鴨緑丸」の就航で大連航路全体の就航船は10隻を数え、月間25回の定期航海を行うようになった[6]。しかし、この時にはすでに日中戦争が勃発しており、徴傭船が出た影響で航路就航船が5隻に減少[6]南満州鉄道系の大連汽船からの用船のほか、「あるぜんちな丸」(12,755トン)や「報国丸」(10,438トン)、「西貢丸」(5,350トン)、「りおでじゃねろ丸」(9,627トン)など世界情勢の影響による遠洋航路からの撤退船を大量に投入して航路の維持を図った[7]。それでも戦乱の影響は止まらず、1942年(昭和17年)初頭の時点では「鴨緑丸」を含む5隻11航海の規模で定期を維持するのがやっとの状態だった[8]。昭和17年4月の船舶運営会設立を期に翌5月に航路そのものを船舶運営会に移管[8]。以降も1943年(昭和18年)7月ごろまでは大連航路に就航したが、当時の使用船は「鴨緑丸」と「大連丸」(大連汽船、3,748トン)だけで昔日の賑やかさはなかった[9]。8月からは台湾航路に転じて神戸と基隆間に就航したが、道中は海防艦など艦艇の護衛がついて物々しい航海となった[10][11][12]。海軍配当船に指定された正確な時期は定かではないが、1944年(昭和19年)2月の時点では海軍配当船に指定されており、台湾航路で兵器や人員輸送にも任じていた[12]

昭和18年10月25日、「鴨緑丸」は貨客船「富士丸」(日本郵船、9,138トン)および「賀茂丸」(日本郵船、8,524トン)とともにマ08船団を編成し、駆逐艦汐風」の護衛により基隆を出港して日本本土へ向かう[13][14]。しかし、10月27日未明に北緯28度25分 東経130度02分 / 北緯28.417度 東経130.033度 / 28.417; 130.033奄美大島曽津高崎灯台西方海域で、アメリカ潜水艦「グレイバック」 (USS Grayback, SS-208) と「シャード」 (USS Shad, SS-235) に発見される。0時27分、「賀茂丸」に「シャード」からの魚雷が1本命中し、賀茂丸は沈没を防ぐべく応急修理の上、22時30分ごろに修理のため奄美大島久慈湾に座礁した[13][15][16]。次いで6時20分、「賀茂丸」から脱出した乗船者の収容作業を行うため停止していた「富士丸」の後部に「グレイバック」からの魚雷が1本命中し、「富士丸」は6時45分に沈没した[17][18][19]。船団中唯一健在の「鴨緑丸」は、「富士丸」遭難者の救助を行ったのち一旦避退したものの、進路を戻して航行中の12時25分に「グレイバック」の射程内に入り、魚雷が1本命中したが幸いにして不発に終わったものの救助作業を打ち切り、10月28日に門司に入港した[14][20][21]

昭和19年4月下旬からは新潟羅津の間航路に転じ、7月12日まで就航する[22]。7月12日付で陸軍配当船となり、8月10日伊万里湾出港のヒ71船団に加入して南に下る。馬公でヒ71船団と離れて基隆に向かい、8月18日に到着[23][24]。翌19日に陸軍配当船を解除され[23]、9月から10月下旬にかけては台湾航路に戻り、10月4日と12日、13日に空襲に遭いながらも一往復半の航海を行った[25]。11月の大半を門司、宇品釜山間での第十師団および第二十三師団からの歩兵連隊の輸送に費やしたあと、11月25日門司出港のヒ83船団に加入[26][27]。11月30日に高雄到着後編成替えが行われ、「鴨緑丸」は同じく第十師団および第二十三師団の将兵を乗せた輸送船とともにタマ35船団を編成し、12月5日に高雄を出港して敵襲を避けるべく島影に隠れたり欺瞞航路を進みながら12月11日に無傷でマニラに入港した[28]

タマ35船団の加入船のうち、「鴨緑丸」のみは日本への帰還命令を受ける[29]。すでにレイテ島の戦いも大勢が決し、アメリカ第38任務部隊ジョン・S・マケイン・シニア中将)や第7艦隊トーマス・C・キンケイド中将)も依然ルソン島近海で行動して、これに対し陸海軍の特攻隊が連日のように突入を繰り返している状況だった[29]。「鴨緑丸」は「最後の引揚げ船」として、ルソン島から引き揚げる日本人、遭難船員、そして約1,600名の捕虜合わせておよそ3,500名を乗せ、駆逐艦「」および駆潜艇に護衛されて12月13日夕刻にマニラを出港する[29]。慌しい出港で、石炭庫内の石炭をならさないまま出港したため船体が左に傾いた状態だった[29]。「鴨緑丸」はマニラ港外で一晩過ごしたあと、翌12月14日から航行を再開する[29]。しかし、航行再開から4時間後に第38任務部隊の艦載機が飛来し、銃爆撃を繰り返す[29]。当時の「鴨緑丸」は砲3門と機銃12基を装備し、12月14日の攻撃では「8機撃墜、4機撃破」の戦果を報じる[30]。12月15日も空母「ホーネット」 (USS Hornet, CV-12) 艦載機の空襲を受け、ついに被弾[29]。被弾によって火災が発生するが、乗組員、高砂義勇隊など将兵および捕虜が協力して消火に努めるも、石炭の偏載に加えて被弾による浸水により大きく傾いた「鴨緑丸」は、スービック湾オロンガポ英語版に退避して、捕虜や便乗者などを上陸させた[29]。上陸した乗組員などが見守る中、「鴨緑丸」は火に包まれた末に、16時15分に横転してついに沈没した[29]

地獄船[編集]

空襲を受け炎上する「鴨緑丸」

「鴨緑丸」が、いわゆる「地獄船」として認識されるようになった由縁はおおよそ以下のとおりである。内容は英語版ウィキペディアによる。

「鴨緑丸」が2日間にわたって空襲を受けた際、捕虜のうち200名が銃爆撃によって死亡し、その他100名ばかりが窒息や溺死で命を落とした。生き残った、捕虜を含む生存者はオロンガポの海軍基地に数日間収容されたが、その間不衛生な状態に置かれた。また、度重なる虐待により命を落とす者も現れた。やがて、捕虜一行はサンフェルナンドに連れて行かれ、そのうち衰弱したり負傷した15名の捕虜はトラックに押し込められ、モンテンルパ刑務所英語版に移送されることになっていた。しかし実際には15名は斬首されており、近辺の集団墓地に投棄されていたことが1946年に開かれた軍事法廷で明らかになった。残りの捕虜は列車で北サンフェルナンドに移送された。1,000名を越える捕虜は2隻の日本の輸送船、「江ノ浦丸」(日本郵船、6,968トン)と「伯剌西爾丸」(大洋興業、5,859トン)に収容され、高雄に移されて同地で1945年を迎えた。捕虜のうち、イギリス人とオランダ人のグループが「伯剌西爾丸」から「江ノ浦丸」に移された。1月9日に「江ノ浦丸」が高雄港内で空襲により被弾した際に350名が死亡。残りの捕虜うち550名は「伯剌西爾丸」によって日本に送られて1月29日に門司に到着したが、大部分の900名は台湾に取り残されたままとなった。日本に送られた捕虜は九州朝鮮半島、満州に分散され、150名が獄死したとされた。「鴨緑丸」に収容された捕虜は、12月13日時点で1,620名いたものの終戦時には403名にまで減り、1945年8月から9月にかけて九州、朝鮮、満州および台湾の各収容所から開放されていった。

他方、茶園義男の調査によれば、「鴨緑丸」空襲時の死者492人・オロンガポ待機中の死者10人・サンフェルナンドでの殺害15人・台湾到着までの死者8人・「江ノ浦丸」空襲時の死者400人・門司到着までの死者75人となっている[31]。また、護送隊を指揮した都子野順三郎陸軍大尉の手記によれば、「鴨緑丸」からの捕虜退去中に激しい空襲を受けた際、捕虜が乗船中であることを示そうとシーツで甲板に“PW”(捕虜の略語)の文字を書いたが爆撃と機銃掃射は続き、捕虜とともに大声を上げて手を振るなどするうちに、ようやく「鴨緑丸」への攻撃が止んだ[32]。待機場所のオロンガポには陸軍部隊が不在で、海軍部隊と交渉を重ねて若干の米と塩を借用し、炊事が空襲で妨害されるためやむを得ず生の状態で捕虜に支給したという[33]

一連の「捕虜虐待」は、連合国軍によりBC級戦犯事件として裁かれた。比島俘虜収容所本所所長だった洪思翊中将は、マニラ軍事法廷で起訴され、「鴨緑丸」撃沈時の捕虜60名に対する虐殺・虐待の訴因につき有罪判決が下り、絞首刑に処せられた[34]。現場責任者の都子野大尉も「鴨緑丸」への空襲から門司到着までの一連の虐待行為について横浜軍事法廷で起訴され[注釈 3]、判決では大部分の訴因につき無罪となったものの、サンフェルナンドでの16名の捕虜殺害につき有罪と認定され、死刑が宣告された[36][37]。都子野とともにサンフェルナンドでの虐殺に加担した和田通訳[注釈 4]も処罰された。和田は捕虜に十分な食糧、水および医療を施すことを上司の圧力によって無視し、結果的に多数の捕虜を死に至らしめたことが有罪となった。和田は裁判で重労働の刑を言い渡され、その他捕虜の警戒にあたっていた高砂義勇隊の兵[29]も懲役刑に処せられた。船長とされた者[注釈 5]に関しては、「残虐行為を防ぐための機会がなかった」として無罪となった[38]。茶園義男によれば、横浜軍事法廷では都小野以下9人が「鴨緑丸」関係で起訴されたうち、死刑2人・終身刑1人・有期刑3人・無罪3人となっている[36]。都子野は1948年(昭和23年)8月21日に巣鴨プリズンで絞首刑に処された[37]

以上が事の顛末であるが、ヒ72船団における「楽洋丸」(南洋海運、9,418トン)[39]マタ30船団における「阿里山丸」(三井船舶、6,886トン)[40]での事例とは異なり、一連の行為のほとんどは「鴨緑丸」から下船後の出来事であることに留意する必要がある。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 英文版および#野間では12月15日、#鴨緑丸(2)p.37 およびChapter VI: 1944” (英語). The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II. HyperWar. 2012年6月15日閲覧。では12月16日となっている。
  2. ^ 次級の筑紫丸級貨客船は、「筑紫丸」は完成と同時に特設潜水母艦として運用され、「浪速丸」は建造中止となった。
  3. ^ 横浜軍事法廷での審理は、「鴨緑丸」と誤った船名で進められている[35]
  4. ^ 英文版では "Shuske Wada" 。漢字表記不詳。
  5. ^ 英文版では "Shin Kajiyama" としているが、実際の「鴨緑丸」船長である矢嶋幹三は戦死している(#野間p.457,459)。

出典[編集]

  1. ^ a b c #創業百年の長崎造船所pp.556-557
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p #日本汽船名簿
  3. ^ a b c d #日本の客船1
  4. ^ a b c #野間p.456
  5. ^ a b c #創業百年の長崎造船所p.41
  6. ^ a b #商船八十年史p.282
  7. ^ #商船八十年史pp.282-283
  8. ^ a b #商船八十年史p.283
  9. ^ #佐鎮1805p.34
  10. ^ #高警1808p.21
  11. ^ #高警1809p.19
  12. ^ a b #鴨緑丸(2)p.26
  13. ^ a b #駒宮p.99
  14. ^ a b #鴨緑丸(1)
  15. ^ #SS-235, USS SHADpp.143-144
  16. ^ #賀茂丸
  17. ^ #SS-208, USS GRAYBACKp.350-352
  18. ^ #富士丸
  19. ^ #駒宮pp.99-100
  20. ^ #SS-208, USS GRAYBACKpp.353-354
  21. ^ #駒宮p.100
  22. ^ #鴨緑丸(2)pp.27-32
  23. ^ a b #鴨緑丸(2)p.33
  24. ^ #駒宮pp.225-226
  25. ^ #鴨緑丸(2)pp.34-35
  26. ^ #鴨緑丸(2)pp.35-36
  27. ^ #駒宮p.297
  28. ^ #駒宮p.297,301
  29. ^ a b c d e f g h i j #野間p.457
  30. ^ #鴨緑丸(2)p.37
  31. ^ #茶園 p.337
  32. ^ #茶園 p.336
  33. ^ #茶園 p.338
  34. ^ #茶園 pp.334-336
  35. ^ #茶園 p.333
  36. ^ a b #茶園 pp.341-342
  37. ^ a b 軍事裁判・都子野順三郎” (日本語). 祖国日本. 峯一央. 2012年6月15日閲覧。
  38. ^ Piccigallo, Philip; The Japanese on Trial; Austin 1979; ISBN 0-292-78033-8; p 83-90
  39. ^ #野間p.346
  40. ^ #野間pp.399-401

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08050083200 『昭和十八年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一』、35頁。
    • Ref.C08030345000 『自昭和十八年五月一日至昭和十八年五月三十一日 佐世保鎮守府戦時日誌』。
    • Ref.C08030511100 『自昭和十八年八月一日至昭和十八年八月三十一日 高雄警備府戦時日誌』。
    • Ref.C08030511200 『自昭和十八年九月一日至昭和十八年九月三十日 高雄警備府戦時日誌』。
    • Ref.C08030463300 『武装商船警戒隊戦闘詳報 第二七一号』、40-43頁。
    • Ref.C08030463900 『武装商船警戒隊戦闘詳報 第二七二号』、18-20頁。
    • Ref.C08030463900 『武装商船警戒隊戦闘詳報 第二八一号』、37-38頁。
    • Ref.C08050107600 『大東亜戦争徴傭船舶概見表・鴨緑丸』、26-37頁。
  • (issuu) SS-208, USS GRAYBACK. Historic Naval Ships Association. http://issuu.com/hnsa/docs/ss-208_grayback?mode=a_p. 
  • (issuu) SS-235, USS SHAD. Historic Naval Ships Association. http://issuu.com/hnsa/docs/ss-235_shad?mode=a_p. 
  • 三菱造船(編) 『創業百年の長崎造船所』 三菱造船、1957年
  • 財団法人海上労働協会(編) 『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』 財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6
  • 岡田俊雄(編) 『大阪商船株式会社八十年史』 大阪商船三井船舶、1966年
  • 日本郵船戦時船史編纂委員会 『日本郵船戦時船史』上、日本郵船、1971年
  • 山高五郎 『図説 日の丸船隊史話(図説日本海事史話叢書4)』 至誠堂、1981年
  • 茶園義男「俘虜移送 地獄船“鴨緑江丸”事件の真相」、『歴史と人物 太平洋戦争シリーズ』60年冬号・通巻171号、中央公論社、1985年12月1日
  • 駒宮真七郎 『戦時輸送船団史』 出版協同社、1987年ISBN 4-87970-047-9
  • 野間恒・山田廸生 『世界の艦船別冊 日本の客船1 1868~1945』 海人社、1991年ISBN 4-905551-38-2
  • 野間恒 『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』 野間恒(私家版)、2004年
  • 松井邦夫 『日本商船・船名考』 海文堂出版、2006年ISBN 4-303-12330-7

関連文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  • 1/700戦時輸送船模型集・鴨緑丸” (日本語). Rosebury Yard. 岩重多四郎. 2012年6月15日閲覧。
  • 昭和19年・1944年11-12月に喪われた商船 鴨緑丸” (日本語). 戦時下に喪われた日本の商船. 三輪祐児. 2012年6月15日閲覧。
  • George Weller, First Into Nagasaki: The Censored Eyewitness Dispatches on Post-Atomic Japan and Its Prisoners of War (New York: Three Rivers Press, 2006), pp. 177-239.
  • Roster of POWs aboard Oryoku Maru. Prepared by James Erickson
  • General Headquarters Supreme Commander for the Allied Powers Legal Section, File No. 014.13 Public Relations Informational Summary No. 574. Tokyo, Japan 9 May 1947