高野悦子 (映画運動家)

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たかの えつこ
高野 悦子
生年月日 (1929-05-29) 1929年5月29日
没年月日 (2013-02-09) 2013年2月9日(83歳没)
出生地 中華民国の旗 中華民国 遼寧省営口県大石橋(現・中華人民共和国遼寧省大石橋市
国籍 日本の旗 日本
職業 岩波ホール総支配人、映画プロデューサー、放送作家、テレビドラマ演出家
ジャンル 映画
活動期間 1968年-2013年
著名な家族 父・高野与作(南満州鉄道技師)、姉・岩波淳子(岩波書店社長である岩波雄二郎の妻)、姪・岩波律子岩波ホール支配人)
 
受賞
日本アカデミー賞
特別賞
1979年
会長特別賞
2013年
ブルーリボン賞
特別賞
1979年
その他の賞
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高野 悦子(たかの えつこ、1929年5月29日 - 2013年2月9日)は、日本映画運動家、岩波ホール総支配人、映画プロデューサー、放送作家、テレビドラマ演出家。

経歴[編集]

幼少期[編集]

1929年(昭和4年)に満洲大石橋に生まれた。太平洋戦争終戦前の1945年(昭和20年)5月、父親の郷里である富山県下新川郡桜井町(現・黒部市)に引き揚げ、魚津高等女学校(現・富山県立魚津高等学校)を卒業した[1]。16歳の時に映画『キュリー夫人』を見て感銘を受け、職業を持って自立する決心をする[2]日本女子大学社会福祉学科に入学し、南博主任教授の下で「マスメディアと映画」を研究テーマとし、日本映画の観客の反応と内容分析と映画企業分析を行い、各新聞・雑誌に発表した。

東宝時代[編集]

1951年(昭和26年)に日本女子大学を卒業すると、1953年(昭和28年)に東宝(文芸部)に入社した。東宝では専用に新設された部署で、日本企業として初めて各作品ごとの観客のマーケティングリサーチを実施した。1958年(昭和33年)に東宝を退社し、映画監督を目指してフランスパリ高等映画学院IDHEC)監督科に留学した。1962年(昭和37年)に日本に帰国すると、衣笠貞之助監督の助手を経て、テレビドラマ演出を目指し放送作家になった。オリジナル脚本3本と脚色1本を書き、1964年(昭和39年)にはテレビドラマ「巴里に死す」を脚色・演出した。

1965年(昭和40年)には、自ら原案を書いた『鉄砲物語』を日本・ポルトガル合作で映画化することを企画した。11カ月間ポルトガルに渡航して取材と調整を行い、シナリオ完成と合作準備を整えるが、帰国後には映画会社から脚本監督を他者に交代させられた。この企画は他者によって日米合作『鉄砲伝来記』として映画化されたことで、挫折して映画監督の道をあきらめた。脚本著作権で提訴したが後に和解し、『鉄砲伝来記』には原作者としてクレジットされた[2][3]。なお、この際には賠償金のすべてをポルトガル合作関係者に渡している。

岩波ホール支配人として[編集]

1968年(昭和43年)に岩波書店社長の岩波雄二郎が自費で岩波ホールを創立すると、高野が総支配人に就任した。1968年(昭和43年)6月4日には日本ポルトガル協会創立に参加し、高野は常任理事に就任している[4]。1974年(昭和49年)2月12日からは、岩波ホールにて川喜多かしことともに名作映画上映運動「エキプ・ド・シネマ」を主宰するようになった。

映画運動家として[編集]

1980年(昭和55年)から1997年(平成9年)3月まで東京国立近代美術館フィルムセンター運営委員を務め、1997年(平成9年)9月から2007年(平成19年)には名誉館長を務めた[5]。1982年(昭和57年)にはパウロ・ローシャ監督によって『恋の浮島』が製作され、初の日本・ポルトガル合作映画となったこの作品ではプロデューサーを務めた。

国際交流基金が主催する東京での世界地域別映画祭の実行委員として、1982年(昭和57年)の「南アジア映画祭」、1984年(昭和59年)の「アフリカ映画祭」、1988年(昭和63年)の「ラテンアメリカ映画祭」開催に尽力し、1990年(平成2年)の「東欧映画祭」では実行委員長を務めた[4]。1984年(昭和59年)に東京国立近代美術館フィルムセンターで火災が起こると、「フィルムセンター焼失フィルムのための募金」を設立した。この運動で2700万円の募金を集め、焼失した300本のうちフランス名画65本の復元フィルムを購入した[4]。1985年(昭和60年)から2012年(平成24年)まで、東京国際女性映画祭のジェネラルプロデューサーを務めた。

1989年(平成元年)には、2年前に京都賞を受賞したアンジェイ・ワイダ監督が母国ポーランドに日本美術技術博物館「マンガ」館を建設することを提案した。高野は日本側の5億円寄付運動のため、「クラクフ日本美術技術センター建設募金」を設立し、事務局長に就任して運動を進めた[4]。1993年(平成5年)10月22日に目標寄付額に到達し、1994年(平成6年)11月30日に日本美術技術博物館が完成した[3]

1990年(平成2年)にポルトガルで開催された「日本文化週間」で、山田洋次監督参加のシンポジウムと作品上映企画「シクロヤマダ」を実現させた[4]。1991年(平成3年)にはイギリスで開催された「英国ジャパンフェスティバル1991」の実行委員として、無声映画から現代までの「日本映画監督五十選」の3カ月間の企画上映を実現させた[4]ダニエル・ミッテラン・フランス大統領夫人の提案によってフランス・リベルテ基金主催で開催された「自由と人間」国際映画週間では、日本側の実行委員を務めた[4]

2000年(平成12年)に製作された記録映画『伝説の舞姫 崔承喜 金梅子が追う民族の心』では、企画[6]・製作総指揮を務めた[4]。2001年(平成13年)、「平塚らいてうの記録映画をつくる会」の会員と製作委員と[7]、製作総指揮で、記録映画『平塚らいてうの生涯 元始女性は太陽であった』を完成させた[8]

2004年(平成16年)には文化功労者に推挙された。2006年(平成18年)10月、日本ポルトガル協会の会長に就任した[9]

2013年(平成25年)2月9日、大腸がんのために入院先の病院で死去[10][11]。83歳没。没後には日本政府より正四位および旭日重光章が追叙追贈された[12]

家族[編集]

父親の高野与作は南満州鉄道技師。姉の岩波淳子は岩波書店社長である岩波雄二郎の妻[13]。姪の岩波律子岩波ホール支配人。

著作物[編集]

単著[編集]

  • 『シネマ人間紀行』毎日新聞社、1982年(後に新潮文庫
  • 『私のシネマライフ』主婦と生活社、1983年(後に文春文庫岩波現代文庫、2010年)
  • 『黒龍江への旅』新潮社、1986年(後に岩波現代文庫、2009年)
  • 『心にひびく映画 興行の世界に創造を』岩波ブックレット、1989年
  • 『私のシネマ宣言 映像が女性で輝くとき』朝日新聞社、1992年
  • 『女性が映画をつくるということ』朝日文庫
  • 『母 老いに負けなかった人生』文藝春秋、2000(後に文春文庫、2003年→岩波現代文庫、2013年)
  • 『岩波ホールと〈映画の仲間〉』岩波書店、2013年

共編著[編集]

  • 『エキプ・ド・シネマ』(編)講談社、1984年
  • 『図説ポルトガル』伊藤玄二郎共編、河出書房新社、1993年
  • 『エキプ・ド・シネマ part 2』(編)、講談社、1994年
  • 『病んでこそ知る老いてこそ始まる』日野原重明共著、岩波書店、2002年
  • 『エキプ・ド・シネマの三十年』編著、講談社、2004年
  • 『冬のソナタから考える 私たちと韓国のあいだ』山登義明共著、岩波ブックレット、2004年

論文[編集]

脚本[編集]

テレビドラマ演出[編集]

受賞・受章[編集]

テレビ出演[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「高野悦子さん死去 黒部ゆかり、岩波ホール総支配人」『北日本新聞』2013年2月15日
  2. ^ a b c d 『私のシネマライフ』主婦と生活社、1983年
  3. ^ a b c 『岩波ホールと〈映画の仲間〉』岩波書店、2013年
  4. ^ a b c d e f g h 『女性が映画をつくるということ』朝日文庫 2002年
  5. ^ 社団法人 全国日本学士会 職歴「文化庁関係」 2013年4月3日閲覧
  6. ^ 『母 老いに負けなかった人生』岩波現代文庫、2013年、p. 227
  7. ^ 「平塚らいてうの記録映画をつくる会」副会長 山田よし恵「平塚らいてうの映画ができました」(2013年3月29日閲覧)、制作プロ「自由工房」解説 同日閲覧
  8. ^ 『母 老いに負けなかった人生』岩波現代文庫、2013年、pp. 243-258
  9. ^ 日本ポルトガル協会会長就任にあたって 高野悦子 Internet Archive 2013年9月5日閲覧
  10. ^ “高野悦子さん死去 岩波ホール総支配人、名画発掘”. 日経新聞. (2013年2月14日). https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG14021_U3A210C1CC0000/?dg=1 2019年3月4日閲覧。 
  11. ^ “岩波ホール総支配人の高野悦子さん死去”. 産経新聞. (2013年2月14日). https://www.sankei.com/entertainments/news/130214/ent1302140005-n1.html 2019年3月4日閲覧。 
  12. ^ a b 官報第6006号 平成25年3月15日付 10頁
  13. ^ 幻の超特急・亜細亜号「パシナ」 富山治夫ブログ 2009年8月16日付
  14. ^ 各放映日と「選手」のテレビ局の著書未記載不明の部分は テレビドラマデーターベース を参照した。(2013年3月29日閲覧)
  15. ^ 第18回川喜多賞 高野悦子氏”. 公益財団法人川喜多記念映画文化財団. 2021年7月11日閲覧。
  16. ^ 「2001年秋の叙勲 勲三等以上と在外邦人、外国人叙勲の受章者一覧」『読売新聞』2001年11月3日朝刊

外部リンク[編集]