高橋文室麻呂

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高橋文室麻呂
時代 平安時代前期
生誕 弘仁7年(816年
死没 貞観6年2月1日864年3月12日
官位 従五位下越後介
主君 嵯峨上皇仁明天皇文徳天皇清和天皇
氏族 錦部→高橋朝臣
父母 父:高橋彦公
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高橋 文室麻呂(たかはし の ふんやまろ)は、平安時代前期の貴族雅楽家朝臣備前・高橋彦公の子。官位従五位下越後介

経歴[編集]

信濃国の人。膳氏(膳臣)の一族で、曾祖父・倭が母姓である錦部に改姓し、さらに父・彦公が高橋朝臣に改姓したという。彦公は五経を読解していたことから嵯峨天皇に近侍し、文室麻呂も9歳にして嵯峨上皇に仕えた。嵯峨上皇は自らを教授したが、文室麻呂は日々上達していき、同様に琴を習っていた他の者でその技術が及ぶ者はなかったために、「琴師」という号を与えられた[1]

天長8年(831年)16歳の時に元服蔵人となる。嵯峨上皇の崩御後は仁明天皇にも蔵人として仕え、のちに常陸大掾右兵衛尉を歴任する。また、により仁明天皇の皇子・時康親王(のち光孝天皇)・本康親王にも琴を教授した。斉衡4年(857年従五位下貞観元年(859年)従五位下と文徳朝末から清和朝初頭にかけて昇進し、清和朝では越後介遙任で務めた。

琴の技術において当時最も優れているとされ、文徳天皇清和天皇も文室麻呂を殿上に召して琴を習うなど、嵯峨・仁明・文徳・清和の四代の天皇から寵遇を受けた[1]

貞観6年(864年)2月1日卒去享年49。最終官位は従五位下行越後介。

官歴[編集]

六国史』による。

脚注[編集]

  1. ^ a b 『日本三代実録』貞観6年2月1日状

参考文献[編集]