高橋亨 (朝鮮学者)

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高橋 亨
人物情報
生誕 (1878-12-07) 1878年12月7日
日本の旗 日本新潟県
死没 1967年9月4日(1967-09-04)(88歳)
出身校 東京帝国大学
学問
研究分野 朝鮮半島の思想、文学、民族学、神話学、歴史学
研究機関 京城帝国大学天理大学
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高橋 亨(たかはし とおる、1878年12月3日 - 1967年9月4日[1])は、日本の朝鮮学者。

経歴[編集]

1878年、新潟県中魚沼郡川治村の大字高山一番地に、父・高橋茂一郎、母・きいの長男として生まれる。

1898年、第四高等学校を卒業すると東京帝国大学文科に入学し漢文科を専攻する。1902年、同大学を卒業する。卒業論文は「漢易を難して根本博士の易説に及ぶ」。卒業後の同年に九州日報主筆となり、博多に移る。

1903年大韓帝国政府の招聘を受けて、幣原坦の後任として官立中学校の教師となる。1909年、『韓語文典』を、1910年、『朝鮮の物語集附俚諺』を刊行する。この頃より、朝鮮の風俗調査に着手し、寺内正毅に朝鮮文献の収集を進言し、採用される。1911年、京城高等普通学校の教諭となり、それと平行して朝鮮総督府の宗教調査や図書調査の嘱託を勤める。同年、普通学校用諺文綴字法を定めるための会議に委員として携わる。1916年、大邱高等普通学校長に任じられ、高等官五等に叙される。1919年、学位請求論文「朝鮮の教化と教政」を提出し、文学博士の学位を受ける。

1921年、朝鮮総督府視学官となり、高等官三等となる。また、1921年から1922年にかけて米国や欧州の大学を視察し、1923年、京城帝国大学創立委員会幹事となる。1926年、新設された京城帝国大学教授となり、法文学部の朝鮮語学文学第一講座の担当となる。高等官二等。1929年、諺文綴字法の原案が作成されるにあたって第2次調査会の委員に加わり、1911年に続き朝鮮語の正書法の制定に関わった。1931年、高等官一等。1940年、京城私立恵化専門学校長となり、京城帝大教授を退官し名誉教授となる。

翌1941年、四男・竜四郎の妻の郷里、山口県萩市に隠遁するが、1945年、京城経学院提学および明倫錬成所長となり、再び京城に移る。さらに、政務総監の賛意を得て農士学校の建設に取りかかるが、候補地の選択中に終戦となり、同年10月、再び萩市に引き揚げる。

戦後は1946年より易者として活動し、「純粋易断」を開業するが、1949年、福岡商科大学(後の福岡大学商学部)教授となり、再び学問の世界に戻る。1950年、天理大学教授に招聘され、朝鮮学会を発会させ、副会長となる。朝鮮学会は天理大学長が会長となることが定められており、副会長が事実上のトップであった。1964年、天理大学を辞し、天理大学名誉教授第一号となった。

主な著書[編集]

  • 韓語文典 博文館、1909年
  • 朝鮮の物語集 日韓書房、1910年
  • 朝鮮の俚諺集 日韓書房、1914年
  • 朝鮮思想史大系第1冊 李朝仏教 宝文館、1929年、本巻のみ刊 
  • 内鮮関係政治文化思想史 中央協和会、1943年
  • 『高橋亨 朝鮮儒学論集』川原秀城・金光来編訳 知泉書館、2011年

脚注[編集]

  1. ^ 高橋亨』 - コトバンク