高啓

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高 啓(こう けい、1336年 - 1374年)は、中国代初期の詩人は季廸(きてき)。号は青邱(せいきゅう)。平江路長洲県の出身。「呉中四傑」の一人。娘が一人いる。祖父を高本凝、父を高一元(字は順翁)といい、姉と高咨という兄がいて、兄弟のうちの末子である。

略歴[編集]

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明の詩人では最も才能に恵まれ、この世のあらゆる対象を約2000首の詩に表した。詩の意味は平明、表現は淡泊であるが、夭折のため独自の風格を示していない。

日本では江戸時代明治時代を通じて愛唱された。著に『高太史大全集』18巻、『高太史鳧藻集』5巻、『扣舷集』1巻がある。「青丘子歌」には自己の文学論が述べられており、森鷗外に文語調の訳詩がある。

題雲林小景
歸人渡水少  帰人 渡水少し
空林掩煙舎  空林 煙舎を掩う
獨立望秋山  独り立ち 秋山を望めば
鐘鳴夕陽下  鐘鳴りて夕日下る


尋胡隠君
渡水復渡水  水を渡り また水を渡り
看花還看花  花をみ また花を看る
春風江上路  春風江上の路
不覺到君家  覚えず君が家に到る


逢呉秀才復送帰江上
江上停舟問客縱  江上舟を停めて客縦を問う
乱前相別乱餘逢  乱前に相別れて乱余に逢う
暫時握手還分手  暫時 手を握り還た手を分かつ
暮雨南陵水寺鐘  暮雨の南陵 水寺の鐘


青邱子歌
江上有靑邱、予徙家其南、  江上に青邱有り、予徙りて其の南に家し、
因自號靑邱子、閒居無事、  因りて自ずから青邱子と号す、閒居無事、
終日苦吟、閒作靑邱子歌、  終日苦吟し、閒に青邱子の歌を作りて、
言其意、以解詩淫之嘲。  其の意いを言い、以て詩淫の嘲りを解く。

版本[編集]

脚注[編集]

関連項目[編集]