高キュウ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
本来の表記は「高俅」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。
この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています詳細
高俅
北宋
宰相・殿帥府太尉
出生 生年不詳
死去 1126年5月14日?
開封府
主君 王詵徽宗欽宗

高 俅(こう きゅう、? - 1126年5月14日?)は、中国北宋末期の政治家太尉。中国の小説四大奇書の一つである『水滸伝』の登場人物でもある。

史実上の高俅[編集]

徽宗の治世下で殿帥府太尉を勤めた。『宋史』によれば、父の名は高敦復で、数人の兄弟がいて、4人の息子がいたという。『宋史』及び『揮塵後録』等の野史によると、『水滸伝』に描かれるように、生来放蕩無頼の気質があり、様々な有力者の間を食客として転々としていたが、神宗女婿王詵食客となっていた際、当時端王だった趙佶(徽宗)に使いした時、その蹴鞠の才を披露して気に入られ側に仕え、趙佶即位後、資格なくとも勤まる武官として宮中に昇り、以降とんとん拍子に出世して殿師府大尉まで上り詰めた。

禁軍の最高指揮官である童貫と結託して軍政を握り、軍費を着服し、兵士を私用の使いや自宅の改修工事などに使い、さらに他の高官や有力者の私用のためにも兵を出向させたため禁軍の弱体化を招いたとされる。『宋史』によると、1125年太宗開封を陥落させ、徽宗と欽宗父子とその一門を捕らえて、厳寒地の東北にある五国城(黒竜江省北部)に強制移住させた。高俅はその頃病に倒れ、翌年夏に自邸で逝去したとされる。死後既に処罰されていた蔡京童貫ら同様、官職を全て剥奪され、また開封が陥落した際は一族の官職、及び家財も没収された。高宗は高俅が不遇のうちに死んだのを哀れみ、宮中で追悼式を行おうとしたが、李若水が「高俅は国家を滅ぼした大悪人であり、追悼などとんでもないことだ」と反対したため、追悼行事は行われなかったという。(盛巽昌『水滸伝補証本』)

『水滸伝』作中で、同じ4姦臣の1人として数えられる蔡京や童貫に比べ、功績、悪行双方の面で大きく劣り、当時奸臣の代表として論われた呼称「六賊」には入っておらず、個別の列伝はおろか『宋史』姦臣佞幸両伝にもその伝は立てられていない。現代中国の学者・盛巽昌は、『宋史』があまりにもずさんなので、列伝を立てることが出来なかったのだろうとしている。また、『水滸伝』に描かれるようなまったくの忘恩不義の徒というわけではなかったらしく、新法派の蔡京の権勢下、蘇軾の一族は旧法派であったために官職にも就けず世間から冷遇されていたが、高俅だけはかつて蘇軾の下で書記を務めていた恩義から、その一族への援助を生涯怠らなかったという。以上の記述から史実における高俅は、良くも悪くも遊侠の徒としての性格が強い人物であった事が伺える。

『水滸伝』の高俅[編集]

徽宗に仕える殿帥府太尉であり、宋を裏で操る4姦臣の1人。従弟に高廉養子高衙内(高俅の従兄の高三郎の実子という)がいる。

元々は、街のゴロツキ幇間をして金を稼ぎ仲間を引き連れ無頼を行なっていた。高俅は悪行を重ねたために、憲兵に逮捕され、浪人上がりの禁軍師範の王昇の裁きによって、棒叩きの刑罰を喰らった過去を持っていた。だが、彼は多芸な人物で棒術相撲、音楽や詩文などに精通し、特に蹴鞠が非常に上手で、その技から人々に元々の名前である高二ではなく「高毬」と呼ばれるほどであった。即位前の宋の皇族の端王(後の徽宗)に偶然蹴鞠の技を披露した際に、端王に惚れ込まれ、王の側に仕えるようになる。端王が皇帝に即位し、微宗になると共に取り立てられ、最終的には殿帥府の太尉にまで昇格した。またこの時、高官の地位にありながら高「毬」のままでは余りに酷いということで高「俅」と改名している(ただし史実に於いては元々高俅が本名であり、高俅の兄弟は全員名前に人偏がついていたという)。

彼は典型的な悪人として描かれており、彼と彼の一族は私利私欲のために権力を濫用した。九紋龍史進の師匠であり、自身が恨みを持つ亡き王昇の息子で亡父と同様の禁軍師範・王進の官職を剥奪し、その出奔の原因を生み出した。また、養子の高衙内が王進と同じ禁軍師範の豹子頭林冲の妻を横恋慕していたために、彼を冤罪に陥れ、柴進が梁山泊へ入るきっかけとなった。また方臘討伐後に凱旋し官職についた宋江盧俊義らの暗殺を謀り、成功させている。そのことを徽宗に責められるが、天子も基本的には高俅を信用しているため、特に罰を受ける事はなかった。

水滸伝最大の悪役にもかかわらず、五体無事のまま最終回を迎えた高俅だったが、二次創作小説『水滸後伝』においては失脚して配流される途中で、李応ら梁山泊の残党に遭遇し、それまでの悪事を散々罵られた挙句、鴆毒を盛られて悶死している。