駿河屋

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駿河屋(するがや)は、煉羊羹(ねりようかん)発祥の店とされる老舗和菓子店である[1][2][3]

「総本家駿河屋」からの分家暖簾分けによる店も多数存在する[4]

家紋は「鶴」と「寿」の字を合わせて図案化した「鶴寿」(つることぶき)[5]

概要[編集]

室町時代中期の1461年寛正2年)6月に[6]山城国伏見九郷の里[6]舟戸の庄(現在の京都市伏見区)に[7]、「初代岡本善右衛門」が「鶴屋」の屋号[6]、饅頭処を開いたのが始まりである[7]

この「初代岡本善右衛門」は木曽源氏の流れを汲むとされている[7]

「5代目岡本善右衛門」の時の[5]

1589年天正17年)に京町に移り[8]、伏見の桃山城の正門前に店を構えた[5]

煉羊羹の元祖[編集]

「5代目岡本善右衛門」が[1]1589年天正17年)に「煉羊羹」を作り[2]豊臣秀吉に献上[1]聚楽第[2]秀吉が開いた大茶会で当店のようかんが引き出物として配られて諸大名の賞賛を受けたと云われている[9]

これが「煉羊羹」の始まりとされている[1][2][3][9]

それまでの羊羹は「蒸し羊羹」で[2][10]、小麦を用いて練り上げて蒸したものであったため[10]、保存性が悪く日持ちがしない欠点があった[10]

現在の「煉羊羹」は小麦の代わりに寒天を用いて練り上げて火にかけて固めているが[10]、この最初の「煉羊羹」は「凝藻葉(こもるは)」を用いて練り上げたと云われている[2]

「凝藻葉(こもるは)」は現在の寒天原藻の一種とされているもので[11]、当時は貢ぎ物の一つであったものに目を付けて「煉羊羹」に利用したと考えられている[2]

その後も「煉羊羹」の改良に取り組み[12]、 1658年(明暦4年)に製法を確立したとされている[13]

江戸時代の中ごろに「煉羊羹」は寒天を材料として使用するようになり[14]小豆あんと砂糖と寒天を練り上げるものに発展させた[12]

寒天を原材料に使用するようになったことで、容器に流し込んで固める「流し込み」の技法が用いられるようになったと考えられている[15]

こうした「煉羊羹」の開発を和菓子の可能性を広げた革命と評価もされている[9]

こうして出来上がった「駿河屋」の「煉羊羹」はほどよい甘味と寒天の腰の強さが際立つ風味と淡紅色と呼ばれる美しい色合いを持つものとなった[12]

このように元祖であることも関連して、「総本家駿河屋」は「煉羊羹」で大変有名な和菓子屋となり[1][2][3][12]、全国にその名が知られるようになった[16]

なお、「虎屋黒川」が「京風羊獎」で当店と並び称されるようになったのは、明治維新の東京遷都に伴って東京に進出した後のことであった[2]

紀州藩御用達へ[編集]

5代目岡本善右衛門の時の[5]1589(天正17年)に京町に移り[8]伏見の桃山城の正門前に店を構えており[5]紀州徳川家の祖・徳川頼宣がまだ幼年で山城国伏見(今の京都市伏見区)にいた頃にその菓子を食べて大変好むようになったと云われる[16]

そのため、駿河(現在の静岡県)に転封になった際にも徳川頼宣に随伴した[16]

さらに、紀伊(現在の和歌山県)に転封されるとまた随伴し[16][17]、元和5年(1619年)に[2][18]和歌山駿河町に屋敷を賜って[6]同地に店舗を開いた[16][18]

そして、江戸時代には年二十五石の扶持を受け取って菓子を納める御用菓子司を務めた[17]

このように、紀州藩となる前の旧藩時代から続いた御用菓子司であり[17]、このような駿河から紀伊への徳川頼宣の転封に随伴した「駿河越町人」と呼ばれる紀州徳川藩の有力な御用商人の一人であった[19]

鶴屋から駿河屋へ[編集]

紀州徳川家に徳川綱吉の娘である[20]鶴姫」が輿入れ(結婚)したことから[17]、その御名に憚かるとの藩命が下り[17]、1685年(貞享2年)4月に「駿河屋」に屋号を変更した[17]

この「駿河屋」の屋号は、3代目の徳川綱教から賜った[17]紀州徳川家由来のものとする説が多い[13][21][22]

しかし、居住地の「駿河町」から付けたのか[6][5]、「駿河」から移転してきたことから付けたのかは不明である[5]

店と暖簾分け[編集]

和歌山へ出店した後も伏見・京町の店舗は残されて総本家と呼ばれており、京都側から見れば和歌山にも出店した形となっていた[8]

そのため、法人化の際も和歌山の本店とは別に「京都伏見総本家駿河屋」として設立され、1946年(昭和21年)に「駿河屋食品工業」と合併して経営統合している[23]

天明年間に「伏見京橋・駿河屋」が諸大名の休息所として分家して開業し[8]、1811年(文化8年)に「大阪・駿河屋」が[24]伏見・油掛町から次男の[25]岡本善三郎が分家して大阪・淡路町一丁目(現在の大阪市中央区)東南角に開業[24]、1818年(文政元年)に京都の「するがや祇園下里」が「総本家駿河屋」の別家として[4]暖簾分けして開業する[26]など江戸時代には一族の分家による暖簾分けが行われた。

そのほか、「大阪・駿河屋」に勤めた初代鳳惣助が主人に認められて暖簾分けをされて大阪・心斎橋で開業した後に堺・甲斐町(現在の堺市)に移った「堺・駿河屋」や[25]祇園末吉町の[27]「するがや祇園下里」[26]より分家して暖簾分けされて明治中期に開業した京都の「先斗町・駿河屋」[27]など、分家からさらに分かれて「駿河屋」を暖簾を継承しているところもある。

それ以外にも、1868年(明治元年)に総本家から暖簾分けした京都の「京三条・駿河屋」[28]、1934年(昭和9年)に暖簾分けされた京都の「二条・駿河屋」[27]のように明治以降にも暖簾分けが行われている。

この様に、「駿河屋」は多くの分家や別家を持つようになった[4]

また、1886年(明治19年)には京都駅前に出店するなど本店以外にも店舗を展開した[8]

総本家駿河屋[編集]

株式会社駿河屋
Surugaya Co, Ltd[29]
種類 株式会社
市場情報
東証2部 2205 1961年10月[18] - 2005年1月7日[30]
大証2部(廃止) 2205 1961年10月[18] - 2005年1月7日[30]
本社所在地 日本の旗 日本
640-8034
和歌山県和歌山市駿河町12番地[29]
設立 1944年昭和19年)3月27日[29]
鶴屋創業
*1461年寛正2年)6月[6]
業種 食料品
事業内容 和菓子の製造販売など[18]
代表者 代表取締役社長 清水衛[18]
資本金 11億340万円[23]
(2013年3月期)
売上高 16億4,600万円[18]
(2013年3月期)
純利益 ▲6,212万円[18]
(2013年3月期)
従業員数 110名
(2013年3月期)
決算期 3月
主要株主 協和道路株式会社 8.00%
外部リンク 総本家駿河屋 公式サイト
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かつては、代々岡本善右衛門を襲名していた文字通り「駿河屋」の本家である[6][8]

紀州藩となる前の旧藩時代から続いた御用菓子司で[17]、江戸時代には年二十五石の扶持を受け取って菓子を納める御用菓子を納入していた[17]

先述したとおり「練羊羹」の元祖として高い知名度を誇っていたほか[1][2][3][12]、紀州徳川侯上洛の際の道中食として供されたこともある「本ノ字饅頭」[31]など有力な和菓子を製造・販売していた[18]

1876年(明治9年)に開催された第一回パリ万国博覧会に伏見店から「練羊羹」を出品して金賞を受賞し[5]、後に「練羊羹」などの輸出も手掛けるなど早くから海外への展開も図った[16]

1944年(昭和19年)3月27日に資本金19.5万円で「駿河屋食品工業株式会社」を設立して法人化した[29]

その後、1946年(昭和21年)に「京都伏見総本家駿河屋」と合併して経営統合し[23]、1950年(昭和25年)7月に「株式会社駿河屋」に社名変更した[29]

そして、1953年(昭和28年)5月に株式を店頭公開し[23]、1961年(昭和36年)10月に東京証券取引所および大阪証券取引所の第二部に上場した[18]

伝統ある「羊羹」や「饅頭」、煎餅などの和菓子のみならず、プリンやカステラなどの洋菓子の製造・販売にも行うようになった[18]

地元の和歌山県のみならず大阪府や京都府などにも店舗を展開したほか[18][21]、最盛期には東京都内にも営業拠点を置き[29]、輸出も手掛けた[16]

最盛期の1992年(平成4年)3月期には年間売上高約60.25億円を上げ[32]、無借金の堅実な経営を行っていた[33]

しかし、バブル崩壊の影響で消費が低迷したことなどから[18]、1994年(平成6年)以降は8年連続で売上が減少して赤字に陥ることになった[34]

そのため、経営再建に取り組んだものの[18]、業績の低迷から株価も下落が進んで2003年(平成15年)5月には東京証券取引所から時価総額が10億円未満で上場を廃止する基準に抵触する恐れがある銘柄として公表された[35]だけでなく、同年には担保枠か一杯になっているとして主力銀行のUFJ銀行から季節資金以外の追加の融資に応じないとの通告を受ける状況となった[36]

架空増資事件で上場廃止[編集]

先述の通り、主力銀行からの金融支援が見込めない状況下であったことから、増資による財務内容の改善を図って上場を維持しようとした[36]

しかし、2003年(平成15年)秋に増資の決議と中止を繰り返すなど増資が上手くいかなかったため[30]、更なる増資失敗を繰り返せない状況に追い込まれた[36]

そこで、「飯倉ホールディングス」グループ傘下でその時点で民事再生手続き中だった中華料理店経営会社[37]「海皇」が「あおぞら銀行」から2003年(平成15年)12月12日に約12億円の融資を受け[38]、「飯倉ホールディングス」が第三者割当増資の引受金として約11億4680万円を当社の口座に払い込んだ形をとって「株式払込金保管証明書」を発行させた[39]

これを元に新株購入の払込金の入金を受けたとして、同月18日に「株式会社駿河屋」が和歌山地方法務局で資本金を5億3000万円から11億340万円に増額したと申請して法人登記を変更した[34]

この際に、第三者割当増資で得た資金のうち約半分を資本金の増額に当てると共に、残額を運転資金として活用すると発表した[34]

ところが、実際には払い込みからわずか3日後の同月15日に「海皇」の営業権の買い取り代金を名目として約5億円を「飯倉ホールディングス」に支払うと共に[38]、それ以外の約6億5000万円を同社に貸し付けるなどの形で払込金全額を還流させた[39][40]。 そして、この還流を受けた資金を即日「あおぞら銀行」への返済に回しており、融資期間はわずか3日間となったが、同行は280万円の手数料を得ることになったとされている[40]

この結果、当社に資金が全く残らず[38][39][40]、当社の発行済み株式の約47%に当たる新株940万株が「飯倉ホールディングス」に渡ることなった[37]

こうした一連の資金の流れや登記などが架空増資で「電磁的公正証書原本不実記録・同供用」などに当たるとして[34]、2004年(平成16年)11月13日に大阪府警捜査二課が当社の当時の社長岡本良晴や投資会社「飯倉ホールディングス」の上田高嗣前社長ら5人の取り調べを開始し[34]、この5人が逮捕されることになった[39][35]

この逮捕を受けて東京証券取引所と大阪証券取引所は即日「会社の基本となる資本にかかわる事件」として監理ポストに割り当て[35]、2005年(平成17年)1月6日の取引を最後に上場廃止となった[30]

民事再生法申請から事業停止へ[編集]

架空増資事件で当社の信用は著しく悪化したが[13]、その後処理を進めながら事業を継続した[18]

しかし、2011年(平成23年)3月期が約18.34億円、2012年(平成24年)3月期が約17.31億円、2013年(平成25年)3月期が約16.46億円と売上高が年々減少して3期連続の赤字となり、2013年(平成25年)3月期は約6212万円の当期純損失となるなど業績の低迷は一段と深刻化した[18]

そのため、2014年(平成26年)1月17日に和歌山地方裁判所民事再生法の適用を申請し、営業を続けながら再建を模索することになった[18][21][32]

この民事再生法の適用申請時点では、本社のある和歌山県の他に大阪府と京都府に[13]直営店19店舗を展開していたほか[18]、百貨店やスーパー内でも販売をしており[18]、全体では約50店を展開していた[21]

そして、自社で清算する商品を選別して工場を縮小し仕入商品を活用しながら営業を続け[22]、再建のスポンサーとして2014年(平成26年)4月28日に西宮市に本社を置く[41]和菓子の製造・販売を行う「千鳥屋宗家」と事業譲渡契約を締結し[42]、同年5月30日の事業譲渡を目指した[41]

しかし、「千鳥屋宗家」と人員や物流などの運営形態を巡って協議がまとまらなかったため[42][41]、2014年(平成26年)5月29日付で全19店舗を閉鎖すると共に[13]、全従業員を解雇して事業を停止した[41]。 なお、この日に解雇された正社員数について、2014年5月30日付けのわかやま新報は約110人[41]、2014年6月18日付けの毎日新聞は約80人としている[43]

全店舗が閉鎖されて事業が停止した後も商品購入の問い合わせが来ていたほか[43]関西国際空港などでは引き続き商品が販売されていた[44]

事業再開の模索と破産手続き[編集]

2014年(平成26年)6月16日に当社の労働組合が「この企業とともに、和歌山での再生を目指したい」とする申入書を和歌山地方裁判所と保全管理人に提出し[43]、翌日の17日から「連合和歌山」の支援を受けながら資産を切り売りして工場を閉鎖するような資産処分を避けるように求める署名活動を開始した[44]

そして、この署名運動で集まった1万2,294人分の署名を2014年(平成26年)6月26日に和歌山地方裁判所に提出した[45]

また、この労働組合の運動については「工場を維持し、できるだけ雇用を守るとする」[43]和歌山市内の企業も賛同していた[45]

当社の事業停止を受けて、2014年(平成26年)6月22日に和歌山市の和歌山ビッグ愛で元和歌山大学教授の鈴木裕範氏らが中心となって立ち上げた「和菓子と文化と和歌山 大好き市民連」が主催し、緊急シンポジウム「老舗ブランドって何? 駿河屋問題をみんなで考えよう」が開催された[9]

このシンポジウムには約200人が参加して、当社の和菓子の歴史上での重要性を訴える講演や金沢市の老舗和菓子店が行政や市民の協力で倒産危機から再建した例などを元に再建策を議論し、地元の政財界に地元の老舗ブランドの危機を救うために支援するように求める声明を発表した[9]

しかし、署名を提出する前日の2014年(平成26年)6月25日に和歌山地方裁判所が破産手続きの開始を決定し、破産管財人に選任された阪本康文弁護士は「金額的に最もよい条件の会社に売ることになる」との判断を示した[46]

そのため、2014年(平成26年)7月3日に当社の所有する不動産や機械などを一括して購入する相手を決める入札が行われ[47]

有田市の医薬部外品製造販売会社「三和インセクティサイド」の田中源一郎会長が約3.17億円で落札し[48]、 労働組合の存続運動に協力する形で傘下した和歌山市の企業は及ばない結果に終わった[47][48]

その結果、2014年(平成26年)8月6日付で本社の土地・建物の不動産などの所有権が「三和インセクティサイド」の田中源一郎会長に移転された[48]

だが、その後も「駿河屋」の屋号を継承して和菓子職人ら元従業員の再雇用を行って旧本店での営業再開を目指す動きは続いている[49]

なお、2014年(平成26年)9月8日に和歌山地方裁判所で開催された第1回債権者集会で、当社の負債総額が約9.4億円あり、納税や労働債権などの優先的破産債権を考慮すると担保などの無い一般債権への配当が0になる見込みが明らかにされた[50]

年表[編集]

  • 1461年寛正2年)6月 - 山城国伏見九郷の里[6]舟戸の庄(現在の京都市伏見区)に[7]「鶴屋」の屋号[6]で饅頭処を創業[7]
  • 1589年天正17年)
    • 「5代目岡本善右衛門」が[5]京町に移り[8]、伏見の桃山城の正門前に店を構える[5]
    • 「5代目岡本善右衛門」が[1]「煉羊羹」を作り[2]豊臣秀吉に献上[1]聚楽第[2]秀吉が開いた大茶会で当店のようかんが引き出物として配られる[9]
  • 1619年元和5年) - 5代目岡本善右衛門が紀州藩の藩祖・徳川頼宣に従って紀伊国和歌山に移る。
  • 1658年明暦4年) - 「煉羊羹」の製法を確立[13]
  • 1685年貞享2年)4月 - 徳川綱吉息女鶴姫紀州徳川家降嫁により、同名を憚って屋号「鶴屋」を返上し、「駿河屋」を屋号に変更[17]
  • 天明年間 - 「伏見京橋・駿河屋」が諸大名の休息所として分家して開業[8]
  • 1811年文化8年) - 「大阪・駿河屋」が伏見・油掛町から次男の[25]岡本善三郎が分家して大阪・淡路町一丁目東南角に開業[24]
  • 1818年文政元年) - 現在の「するがや祇園下里」が「総本家駿河屋」の別家として[4]、暖簾分けして京都市東山区祇園末吉町に開業[26]
  • 1868年明治元年) - 「京三条・駿河屋」が「総本家駿河屋」から暖簾分けして開業[28]
  • 1876年(明治9年) - 第一回パリ万国博覧会に伏見店から「練羊羹」を出品して金賞を受賞[5]
  • 1886年(明治19年) - 京都駅前に出店[8]
  • 1898年(明治31年) - 「先斗町・駿河屋」が現在の「するがや祇園下里」[26]より分家・暖簾分けされて[27]開業[51]
  • 1934年昭和9年) - 「二条・駿河屋」が暖簾分けされて開業[27]
  • 1944年(昭和19年)3月27日 - 「駿河屋食品工業株式会社」を設立して和歌山本店を法人化[29]
  • 1946年(昭和21年) - 「駿河屋食品工業株式会社」が「京都伏見総本家駿河屋」と合併[23]
  • 1950年(昭和25年)7月 - 「株式会社駿河屋」に社名変更[29]
  • 1953年(昭和28年)5月 - 「株式会社駿河屋」が株式を店頭公開[23]
  • 1961年(昭和36年)10月 - 「株式会社駿河屋」が東京証券取引所大阪証券取引所の第二部に株式上場[18]
  • 1984年(昭和59年)3月6日 - グリコ・森永事件の犯人による駿河屋脅迫事件が発生。
  • 1992年平成4年)3月期 - 「株式会社駿河屋」の年間売上高が約60.25億円となる[32]
  • 2003年(平成15年)
    • 5月 - 「株式会社駿河屋」が株式を東京証券取引所が上場を廃止する基準に抵触する恐れがある銘柄として公表[35]
    • 「株式会社駿河屋」に主力銀行のUFJ銀行が担保枠を理由に季節資金以外の追加の融資に応じないと通告[30]
    • 12月12日 - 約12億円の融資を受け[38]、「飯倉ホールディングス」が第三者割当増資の引受金として約11億4680万円を「株式会社駿河屋」の口座に払い込む[39]
    • 12月15日 - 「株式会社駿河屋」が「海皇」の営業権の買い取り代金を名目として約5億円を「飯倉ホールディングス」に支払うと共に[38]、それ以外の約6億5000万円を同社に貸し付けるなどの形で払込金全額を還流[39][40]
    • 12月18日 - 「株式会社駿河屋」が和歌山地方法務局で資本金を5億3000万円から11億340万円に増額したと申請して法人登記を変更[34]
  • 2004年(平成16年)11月13日 - 架空増資で「電磁的公正証書原本不実記録・同供用」などに当たるとして[34]大阪府警捜査二課が「株式会社駿河屋」社長岡本良晴や投資会社「飯倉ホールディングス」の上田高嗣前社長ら5人の取り調べを開始し[34]、逮捕される[39][35]
    • この逮捕を受けて東京証券取引所と大阪証券取引所は即日「会社の基本となる資本にかかわる事件」として監理ポストに割り当て[35]
  • 2005年(平成17年)1月7日 - 「株式会社駿河屋」が東京証券取引所と大阪証券取引所の上場廃止[30]
  • 2007年(平成19年) - 「株式会社駿河屋」が和歌山県100年企業表彰を受賞。
  • 2014年(平成26年)
    • 1月17日 - 民事再生法の適用を申請[18][21][32]
    • 4月28日 - 「株式会社駿河屋」が西宮市に本社を置く[41]和菓子の製造・販売を行う「千鳥屋宗家」と事業譲渡契約を締結[42]
    • 5月29日 - 全19店舗を閉鎖すると共に[13]、全従業員を解雇して事業を停止[41]
    • 5月30日 - 「株式会社駿河屋」から「千鳥屋宗家」[42]への事業譲渡予定日[41]
    • 6月16日 - 「株式会社駿河屋」労働組合が申入書を和歌山地方裁判所と保全管理人に提出[43]
    • 6月17日 - 資産を切り売りして工場を閉鎖するような資産処分を避けるように求める署名活動を開始[44]
    • 6月22日 - 「和菓子と文化と和歌山 大好き市民連」が緊急シンポジウム「老舗ブランドって何? 駿河屋問題をみんなで考えよう」を開催[9]
    • 6月25日 - 和歌山地方裁判所破産手続開始を決定[46]
    • 6月26日 - 1万2,294人分の署名を和歌山地方裁判所に提出[45]
    • 7月3日 - 「株式会社駿河屋」の所有する不動産や機械などの一括購入先を決める入札を実施[47]
      • 有田市の医薬部外品製造販売会社「三和インセクティサイド」の田中源一郎会長が約3.17億円で落札[48]
    • 8月6日 - 「株式会社駿河屋」の本社の土地・建物の不動産などの所有権が「三和インセクティサイド」の田中源一郎会長に移転[48]
    • 9月8日 - 「株式会社駿河屋」の第1回債権者集会を和歌山地方裁判所で開催[50]。負債総額が約9.4億円で、一般債権への配当が0になる見込みと発表[50]

主な商品[編集]

  • 羊羹
    • 煉羊羹 - 1589年天正17年)に[2]「5代目岡本善右衛門」が[1]始めて作ったとされる元祖で[1][2][9][3]1658年明暦4年)に製法を確立したとされている[13]
    • 夜の梅 - 他店との無用な競合を避けるため、「堺・駿河屋」などを作り始めたとされている[52]
  • 饅頭
    • 本ノ字饅頭 - 1461年寛正2年)から作り統けられている伝統のある焼饅頭で、紀州徳川藩主が京都への上洛の際の道中食として供されたこともあったとされている[31]
  • 落雁 - 紀州徳川藩10代藩主徳川治宝の時代に盛んになったとされ[53]、総本家に残っていた江戸時代の木型を使った梅型のものを2008年(平成20年)6月22日から発売している[54]
  • 煎餅 - 和歌浦煎餅

総本家から分家や暖簾分けした駿河屋[編集]

伏見京橋・駿河屋[編集]

京都市伏見区[8]

天明年間に諸大名の休息所として分家して開業した[8]

大阪・駿河屋[編集]

大阪市中央区[24]

1811年(文化8年)に[24]、伏見・油掛町から次男の[25]岡本善三郎が分家して大阪・淡路町一丁目(現在の大阪市中央区)東南角に開業した[24]

するがや祇園下里[編集]

京都市東山区祇園末吉町[27][26]

1818年(文政元年)に「総本家駿河屋」の別家として[4]、暖簾分けして開業した[26]

明治の初め頃から作り始めた「豆平糖」は[4]、棒状で丹波産の大豆の入った飴で当店を代表する銘菓として知られている[26]

堺・駿河屋[編集]

大阪府堺市[25](和泉国堺州甲斐町[55])。

「大阪・駿河屋」に勤めた初代鳳惣助が主人に認められて暖簾分けをされて大阪・心斎橋で開業した[52]

後に堺・甲斐町(現在の堺市[25]にも出店した[52]

惣助の長男宗七が心斎橋、次男善六が堺の店を継いだが、善六が店をやめることになったため、宗七が心斎橋店を閉店して堺店を継承した[52]

1879年(明治11年)12月7日に与謝野晶子は当店の主人であった鳳宗七とつねの三女として誕生し[55]、子供時代には店と手伝っていたといわれている[52]

他店との無用な競合を避けるため、「夜の梅」などを作り始めたのは当店であるとされている[52]

現在は廃業。

京三条・駿河屋[編集]

京都市中京区三条河原町[27]

1868年(明治元年)に「総本家駿河屋」から暖簾分けして開業した[28]

先斗町・駿河屋[編集]

京都市中京区先斗町[27]

現在の「するがや祇園下里」[26]より分家・暖簾分けされて[27]1898年(明治31年)に開業した[51]

「竹露」という細い青竹を一節切った中に流し込んで固めた丸棒状の「水羊羹」で有名である[56]

二条・駿河屋[編集]

京都市中京区二条通[27]

1934年(昭和9年)に暖簾分けされて開業した[27]

伏見・駿河屋・大手店[編集]

京都市伏見区東大手町[27]

伏見・駿河屋の支店として開業した[27]

その他[編集]

かつての総本家の拠点[編集]

  • 本社所在地 - 和歌山県和歌山市駿河町12番地[29]
    • 本社工場 - 和歌山県和歌山市小倉25番地[29]
  • 大阪支社 - 大阪市天王寺区真田山町2番9号
    • 1952年(昭和27年)10月時点では大阪市北区堂島中1丁目にあった[57]
    • 大阪工場 - 大阪市天王寺区国分町8-7[29]
  • 京都支店 - 京都市伏見区京町三丁目190番地
    • 1998年(平成10年)10月時点では上京区西洞院通丸太町上ル東川町にあった[29]
    • 京都工場 - 京都市伏見区京町三丁目190番地[29]
  • 東京支社 - 東京都豊島区駒込3丁目[29]
    • 1952年(昭和27年)10月時点では東京都千代田区有楽町電気協会ビルにあった[57]

かつてあった店舗[編集]

2014年(平成26年)1月17日に和歌山地方裁判所民事再生法の適用を申請した[18][21][32]時点では、本社のある和歌山県の他に大阪府と京都府に[13]直営店19店舗を展開していたほか[18]、百貨店やスーパー内でも販売をしており[18]、全体では約50店を展開していた[21]

直営店[編集]

和歌山県

  • 和歌山市
    • 駿河町本舗 - 和歌山市駿河町6[57]
    • 東和歌山店 - 和歌山市友田町4丁目[57]
    • 高松店 - 和歌山市有須高松[57]
    • 和歌山ミオ店 - 2010年3月31日にJR和歌山駅ビルに開業した「和歌山MIO」に出店していた[58]
    • 紀三井寺店、小倉店、河西店、小松原店、中之島店、鳴神店、神前店
  • 海南市
    • 紀伊海南店 - 日方栄通り角[57]
    • 紀伊下津店 - 旧海南郡下津町[57](現在の海南市)。
    • 海南東店
  • 橋本市 - 高野口店
  • 紀の川市 - 貴志川店
  • 岩出市 - 岩出店
  • 有田市
    • 紀伊箕島店 - 箕島町駅前通り[57]

京都府

  • 京都市
    • 伏見本舗 - 京都市伏見区京町3丁目[57]
    • 京都店 - 京都市下京区四条河原町[57]
    • 京都四條店 - 京都市下京区四条御旅町[57]

大阪府

兵庫県

三重県

百貨店[編集]

和歌山県

京都府

大阪府

  • 阪急百貨店 - 梅田本店(阪急銘菓街の開設時に招致された33店舗の一つとして出店した[59]。)
  • 近鉄百貨店 - 阿倍野本店、上本町店、東大阪店、枚方店
  • 京阪百貨店 - 守口本店、京橋店
  • 高島屋 - 大阪店、堺店、泉北店
  • 阪神百貨店 - 梅田本店

兵庫県

滋賀県

奈良県

  • 近鉄百貨店 - 奈良店、橿原店、生駒店

三重県

  • 近鉄百貨店 - 桔梗が丘店
  • 中部近鉄百貨店 - 四日市本店

愛知県

  • 中部近鉄百貨店 - 名古屋店

岡山県

鳥取県

愛媛県

高知県

福岡県

大分県

宮崎県

熊本県

鹿児島県

  • 三越 - 鹿児島店

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j 瀬田勝哉 『洛中洛外の群像 失われた中世京都へ』 平凡社、1994年8月。ISBN 978-4582475050
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 守安正 『日本名菓辞典』 東京堂出版、1971年。
  3. ^ a b c d e 安達巌 『たべもの伝来史 縄文から現代まで』 柴田書店、1975年4月。
  4. ^ a b c d e f 堀井令以知 『京都のことば 上方文庫8』 和泉書院、1988年11月1日。ISBN 978-4-87088-317-8
  5. ^ a b c d e f g h i j k 鈴木裕範 『地域研究シリーズ 38 和歌山県内の3城下町における和菓子文化の研究 地域文化としての和菓子文化の再評価とまちづくり』 和歌山大学経済研究所、2010年11月。
  6. ^ a b c d e f g h i 富永次郎 『日本の菓子』 社会思想研究会出版部、1961年。
  7. ^ a b c d e 駒敏郎 『老舗と味 京名物とのれん』 講談社、1984年2月28日。
  8. ^ a b c d e f g h i j k 京都市姓氏歴史人物大辞典編集委員会 『角川日本姓氏歴史人物大辞典 26 京都市姓氏歴史人物大辞典』 角川書店、1997年9月20日。ISBN 978-4040022604
  9. ^ a b c d e f g h 谷田朋美(2014年6月23日). “シンポジウム:「ようかんで和菓子に革命」 「駿河屋」破産手続き受け、「伝統」「ブランド」守る支援を−−和歌山”. 毎日新聞 (毎日新聞社)
  10. ^ a b c d 原田伴彥 『京のくらし』 柏書房、1981年9月。ISBN 978-4760101436
  11. ^ 瀧川政次郎 『日本社会経済史論考』 名著普及会、1983年。
  12. ^ a b c d e 『日本の伝統産業 物産編』 通産企画調査会、1978年10月20日。
  13. ^ a b c d e f g h i 谷田朋美(2014年5月30日). “駿河屋:和菓子老舗、全店閉鎖 全社員を解雇”. 毎日新聞 (毎日新聞社)
  14. ^ 坂本太郎 森末義彰 日野西資孝 『風俗辞典』 東京堂出版、1961年。
  15. ^ 川上行蔵 小出昌洋 『日本料理事物起源』 岩波書店、2006年1月27日。ISBN 978-4000242400
  16. ^ a b c d e f g 『和歌山史要』 和歌山市役所、1965年。
  17. ^ a b c d e f g h i j 田中敬忠 『紀州今昔 和歌山県の歴史と民俗』 田中敬忠先生頌寿記念会、1979年5月。
  18. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x “駿河屋が再生法申請 創業550年、和菓子の老舗”. わかやま新報(和歌山新報社). (2014年1月18日)
  19. ^ 三尾功 『近世都市和歌山の研究』 思文閣出版、1994年4月。ISBN 978-4784208258
  20. ^ 平子恭子 『与謝野晶子』 河出書房新社、1995年4月25日。ISBN 978-4309700557
  21. ^ a b c d e f g 広津興一 (2014年1月18日). “和菓子の老舗・駿河屋が再生法申請 紀州徳川家から屋号”. 朝日新聞(朝日新聞社)
  22. ^ a b “駿河屋が事業譲渡へ 和菓子の老舗”. わかやま新報(和歌山新報社). (2014年5月29日)
  23. ^ a b c d e f 大型倒産速報 株式会社駿河屋(Report). 帝国データバンク}. (2014年5月30日).
  24. ^ a b c d e f 宮本又次 『船場 風土記大阪第1集』 ミネルヴァ書房、1961年。
  25. ^ a b c d e f 逸見久美 『評傳 與謝野鐵幹晶子』 八木書店、1975年4月。
  26. ^ a b c d e f g h 『京都を買って帰りましょう』 エイ出版社、1986年1月。ISBN 978-4777906789
  27. ^ a b c d e f g h i j k l m 『京都情報百科』 京都新聞社、1982年12月。
  28. ^ a b c 『日本のお菓子』 朝日新聞社、1976年。
  29. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『会社年鑑 上場会社版 1999年版 上巻』 日本経済新聞社、1998年10月21日。
  30. ^ a b c d e f “駿河屋株は12円で終える/架空増資事件で上場廃止”. 四国新聞(四国新聞社).(2005年1月6日)
  31. ^ a b 鈴木晋一編 『日本料理秘伝集成 原典現代語訳 菓子』 同朋舎出版、1985年。
  32. ^ a b c d e 中村好見(2014年1月18日). “駿河屋:老舗和菓子メーカー、民事再生の適用申請 店舗営業は継続”. 毎日新聞 (毎日新聞社)
  33. ^ 『大株主総覧 1992年版』 東洋経済新報社、1991年10月。
  34. ^ a b c d e f g h “和菓子老舗「駿河屋」社長ら逮捕へ 11億5000万円架空増資 府警”. 産経新聞 (産経新聞社). (2004年11月13日)
  35. ^ a b c d e f “「駿河屋」11億円架空増資問題 社長ら5人逮捕 上場維持目的”. 産経新聞 (産経新聞社). (2004年11月14日)
  36. ^ a b c 高橋篤史 『粉飾の論理』 東洋経済新報社、2006年9月27日。ISBN 978-4492394687
  37. ^ a b “駿河屋架空増資、飯倉HD取得の100万株が不明に”. 読売新聞(読売新聞社). (2004年11月16日)
  38. ^ a b c d e “あおぞら銀行を家宅捜索 駿河屋架空増資事件”. 中日新聞 (中日新聞社). (2004年11月15日)
  39. ^ a b c d e f g “架空増資 老舗和菓子の駿河屋社長ら逮捕 上場廃止恐れ”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2004年11月14日)
  40. ^ a b c d “駿河屋と飯倉HD、基本合意書名目だけか”. 日本経済新聞(日本経済新聞社). (2004年11月17日)
  41. ^ a b c d e f g h i “駿河屋が破産手続きへ 老舗の歴史に幕”. わかやま新報(和歌山新報社). (2014年5月30日)
  42. ^ a b c d 滝沢文那、広津興一 (2014年7月4日). “金額合わず断念 駿河屋売却先、労組推す企業”. 朝日新聞(朝日新聞社)
  43. ^ a b c d e f 入江直樹(2014年6月18日). “駿河屋:老舗の復活願い 県内企業も支援に名乗り 「一体で再生を」労組が署名活動”. 毎日新聞 (毎日新聞社)
  44. ^ a b c 谷田朋美(2014年6月24日). “駿河屋:工場閉鎖を阻止求め、労組が街頭署名”. 毎日新聞 (毎日新聞社)
  45. ^ a b c 谷田朋美(2014年6月28日). “駿河屋:破産手続き開始 資産切り売り、回避を 労組、地裁に署名提出”. 毎日新聞 (毎日新聞社)
  46. ^ a b 谷田朋美(2014年6月26日). “駿河屋:破産手続き開始 地裁決定”. 毎日新聞 (毎日新聞社)
  47. ^ a b c 倉沢仁志(2014年7月5日). “駿河屋:買い受け、3.1億円で落札 労組推薦企業は断念”. 毎日新聞 (毎日新聞社)
  48. ^ a b c d e 倉沢仁志(2014年8月23日). “駿河屋:落札者判明 有田の医薬部外品会社会長 来月8日、債権者集会”. 毎日新聞 (毎日新聞社)
  49. ^ 倉沢仁志(2014年9月11日). “駿河屋:再開検討 来月末めど、従業員再雇用も 屋号継承し旧本店”. 毎日新聞 (毎日新聞社)
  50. ^ a b c 倉沢仁志(2014年9月9日). “駿河屋:一般債権者、配当見込み「ゼロ」 初の債権者集会”. 毎日新聞 (毎日新聞社)
  51. ^ a b c 今川朱美. “京都を食べる 京都の食物から文化を体感する”. 京都精華大学紀要 第32号 (京都精華大学) (2007年)
  52. ^ a b c d e f 日本文学研究資料刊行会編 『近代短歌 正岡子規・与謝野晶子・斎藤茂吉・北原白秋』 有精堂出版、1973年。
  53. ^ “紀州の和菓子文化を一冊に 和大の鈴木教授”. わかやま新報(和歌山新報社). (2012年6月6日)
  54. ^ “江戸時代の木型で製作 駿河屋が、落雁「小梅日記」を発売へ”. わかやま新報(和歌山新報社). (2008年6月13日)
  55. ^ a b 逸見久美 『新版評伝 与謝野寛晶子 明治篇』 八木書店、2007年8月30日。ISBN 978-4-8406-9035-5
  56. ^ 相賀徹夫 奈良本辰也 山口誓子 『京都歲時記 京洛夏の彩り』 小学館、1986年。
  57. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『朝日年鑑 1953年版』 朝日新聞社、1952年10月10日。
  58. ^ “JR駅ビル「和歌山MIO」3月末オープン”. わかやま新報(和歌山新報社). (2010年2月19日)
  59. ^ 『株式会社阪急百貨店25年史』 阪急百貨店、1976年9月。

外部リンク[編集]