額田六福

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額田 六福(ぬかだ ろっぷく、明治23年(1890年10月2日 - 昭和23年(1948年12月21日)は、日本の劇作家大衆小説作家。岡本綺堂の高弟。翻訳家額田やえ子の父。

生涯[編集]

岡山県勝南郡勝田村(現在の勝田郡勝央町)に生まれた。本来の名前はむつとみ。5男2女の末子であった。勝間田尋常小学校のとき父を亡くしたが、家は豊かであった。勝南高等小学校を経て、明治37年(1904年)、津山中学へ進んだが、校則に触れ、京都市立命館中学へ転じた。

明治41年(1908年)17歳のとき、結核関節炎になり、翌年右腕切断の手術を受けた。脊髄カリエスも病んだ。

明治44年の「演藝画報」誌の懸賞に、勝間田町から『踏絵』を応募して落選したが、その選者岡本綺堂に、入門を願って快諾を得、原稿を送り添削を受け推敲を重ねるという、通信指導を受けた。大正3年(1914年)から、俳句や小説を、雑誌や新聞へ投稿するようになった。

大正5年(1916年)26歳のとき、上京し、綺堂の世話も受けて下宿生活を始め、早稲田大学文学部英文科に編入入学した。この年「新演芸」誌の懸賞に、『出陣』が坪内逍遙の評価を得て当選し、大正6年正月の歌舞伎座で上演された。また、同4月新富座で旗揚げした沢田正二郎新国劇に、『暴風雨のあと』が取り上げられるなど、作家生活への道が開けた。

さかんに書き、当選もした。大正8年(1919年)『小梶丸』を新国劇が演じて当て、沢田正二郎と近づいた。大正9年4月、綺堂夫妻の媒酌のもとに結婚し、東京市外高田町(現在の東京都豊島区目白)に住んだ。のち2男1女を得た。同年7月、早稲田大学を卒業した。大衆雑誌・少年少女雑誌にも書いた。

大正15年(1926年)1月、沢田正二郎の『白野弁十郎』が大当たりし、以降新国劇の得意狂言となり、沢田正二郎島田正吾緒形拳と、「弁十郎」の系譜が続いている。エドモン・ロスタンシラノ・ド・ベルジュラックの、楠山正雄訳を、六福が翻案した台本である。

昭和2年(1927年)37歳のとき、杉並町阿佐ヶ谷(現在の杉並区阿佐ヶ谷北3丁目)に家を建てて移転した。あたかも実家が破産し、資金は、綺堂からの借金に頼った。

昭和5年(1930年)1月、岡本綺堂監修の月刊演劇雑誌「舞台」が創刊され、六福宅が「舞台社編輯部」となり、投稿への短評や編集後記などの執筆が、多用を増した。頭痛肉腫蓄膿など多病でもあった。

綺堂が没した昭和14年(1939年)からは、「舞台」誌発行の中心になったが、十五年戦争下の世情で翌年廃刊に追い込まれた。

戦争中は、時局にかなう愛国的な作品も書いた。太平洋戦争開戦直後、脳溢血の発作を起こした。農村青年劇に力を入れた。空襲の始まった昭和19年(1944年)末、郷里へ疎開し、翌年秋、阿佐ヶ谷の自宅へ戻り、2回目の発作に倒れた。それでも、2巻の児童劇集を編んだ。

昭和22年(1947年)7月に『舞台』誌の復刊に漕ぎつけたものの、誌友間の対立で頓挫した。その対立の調停中、3回目の発作に倒れ、昭和23年(1948年)12月21日、呼吸不全のために没した。58歳。多磨霊園20区に葬った。

おもな著作[編集]

著作年表は、『近代文学研究叢書第65巻』に、詳細にまとめられているので、このページの記述に関係ある分の初出のみ、列記する。標題が太字の本は、2008年現在、古書の目録に見られる。

  • 戯曲『出陣』:新演芸(1917年1月)
  • 戯曲『小梶丸』:1918年 初、新演芸に応募落選
  • 戯曲『月光の下に』:新演芸(1918年9月)
  • 戯曲『晩鐘』:舞台評論(1921年3月)
  • 戯曲『冬木心中』:演芸画報(1921年4月)
  • 戯曲『真如』:新演芸(1921年4月)
  • 戯曲『彼岸の夕』:ふたば集2(1921年5月)
  • 戯曲『山本勘助』:ふたば集3(1921年10月)
  • 戯曲『寛永遺聞』:演劇画報(1922年2月)
  • 戯曲『天一坊』:舞台評論(1924年9月)
  • 戯曲『坊主才右衛門』:週刊朝日(1925年1月)
  • 戯曲『白野弁十郎』:舞台評論(1926年2月)
  • 小説『青貝師』:講談倶楽部(1926年2月)
  • 戯曲『義満と世阿弥』:演芸画報(1929年12月)
  • 戯曲『大岡越前守と天一坊』:舞台戯曲(1930年7月)
  • 戯曲『呼子鳥』:日曜報知(1931年6月)
  • 戯曲『物くさ太郎』:舞台(1931年8月)
  • 戯曲『夕霧供養』:舞台社 舞台叢書4(1934年8月)
  • 戯曲『金鉱』:舞台(1936年1月)
  • 大楠公 (1936年)
  • 戯曲『静と義経』: (1937年12月)
  • 戯曲『鳥人』:舞台(1939年6月)
  • 小説『お役者文三江戸捕物帖』:楽浪書店(1940年)
  • 小説『建武報告記』:古明地書店(1942年5月)
  • 勤労青年脚本集『忠霊塔』:国民社(1942年12月)
  • 小説『川中島』、三国出版社(1943年6月)
  • 児童劇集『光の塔』、愛育社(1946年11月)
  • 児童脚本集『世界の花』:世界社(1948年9月)(『百花物語』を含む)

上演・映画化など[編集]

六福が創作・脚色・翻案した台本の、88篇が舞台で上演され、3篇が映画化によって初公開され、数篇がラジオ・ドラマになっている。再演や、映画化されたのちに舞台上演されたなどは、これらの数字に含まない。

上演[編集]

1917年から2006年までに上演された525件の、年ごとの変化はつぎであって、六福の才が大正末期に開き、昭和の戦争に凋んだ経過が知られる。(同じ劇団の同じ劇場における連続上演を1件、と数えている)

1917年(3件)。18年(3)。19(4)。21(3)。22(18)。23(5)。24(12)。25(4)。26(13)。27(11)。28(9)。29(5)。30(8)。31(10)。32(14)。33(13)。34(10)。35(7)。36(12)。37(9)。38(4)。39(1)。40(2)。41(10)。42(5)。43(1)。44(1)。1947年(3件)。以降略。

上演件数のベスト・テンは、つぎである。

『白野弁十郎』(28件)。『真如』(21)。『冬木心中』(20)。『大岡越前守と天一坊』(9)。『小梶丸』(7)。『晩鐘』(7)。『月光の下に』(5)。『天一坊』(5)。『坊主才右衛門』(5)。『彼岸の夕』(4件)。

映画化[編集]

外部リンクの「額田六福の映画」に、16本が載っている。うち最古の1924年作と最新の1955年作(映画の題名は『いろは囃子』)とを含む5本が、『冬木心中』である。

つぎの3本は映画化により「初演」された。

  • 『天一坊と伊賀亮』、牧野省三・衣笠貞之助監督、市川猿之助・市川八百蔵出演、マキノ・プロ(1926)
  • 『金鉱』、寺門静吉監督、夏川大二郎・歌川絹枝出演、第一映画(1936)
  • 『鳥人』、丸根賛太郎監督、嵐寛寿郎出演、日活京都(1940)

閲覧出来そうな図書[編集]

  • 「志村有弘編 捕物時代小説選集1 春陽文庫(1999)」の中の、額田六福:『青貝師』
  • 渡辺やえ子編:額田六福戯曲集、青蛙房(1969)(『出陣』『小梶丸』『寛永異聞』『冬木心中』『真如』『山本勘助』『天一坊』『物くさ太郎』『夕霧供養』『静と義経』『百花村物語』『お山の小坊主』)
編者は、六福の長女額田やえ子
  • 夕霧供養、舞台社 舞台叢書4(1934)(『義満と世阿弥』『夕霧供養』『英雄』『呼子鳥』)
  • 「日本戯曲全集第37巻 現代篇第5輯、春陽堂(1928)」の中の「額田六福篇」。(『出陣』『真如』『冬木心中』『天一坊』『山本勘助』『月光の下に』『小梶丸』)

出典[編集]

  • 「渡辺やえ子編:額田六福戯曲集、青蛙房(1969)」巻末の『額田六福年譜』
  • 「昭和女子大学近代文学研究室:近代文学研究叢書第65巻、昭和女子大学近代文化研究所(1991)」中の『額田六福』

外部リンク[編集]