須賀田礒太郎

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須賀田礒太郎

須賀田 礒太郎(すがた いそたろう、1907年11月15日 - 1952年7月5日)は日本作曲家

神奈川県横浜市に生まれた。関東学院中等部に入学し、ピアノヴァイオリン声楽音楽理論を学んだ。しかし病弱のため、1927年に退学。翌年から山田耕筰信時潔作曲を学び、ドイツ音楽の影響を受けた。

1931年より菅原明朗に師事し、菅原はクロード・ドビュッシーモーリス・ラヴェルイーゴリ・ストラヴィンスキーダリウス・ミヨーなどのフランス音楽を紹介した。その結果、ストラヴィンスキー色の濃い交響詩『横浜』(1932年)などを作曲した。

1933年から東京音楽学校教授でグスタフ・マーラーの弟子のクラウス・プリングスハイムに師事したことにより再びドイツ音楽に立ち戻り、ヨハン・ゼバスティアン・バッハパウル・ヒンデミットアルノルト・シェーンベルクの音楽を研究した。

1935年に管弦楽曲『日本絵巻』が宮内省のコンクールに入選。1938年に管弦楽曲『交響的舞曲』が新響第2回邦人作品コンクールに入選。戦時中は栃木県田沼町に疎開し、戦後も同地に留まり肺結核により死去した。

作品[編集]

  • 交響的幻想曲「SAKURA」
  • 交響詩<横浜>(1932)
  • 日本絵巻(1935)
  • 交響的舞曲(1937)
  • 東北と関東(1938、JOAKの委嘱による「国民詩曲」のひとつとして作曲)
  • 交響的序曲(1939)
  • 双龍交遊之舞(1940)
  • 日本古典組曲
  • 東洋組曲<砂漠の情景>(1941)
  • 追想(1941)
  • 交響曲第1番基調ハ(フィルハーモニー交響曲)(1942)
  • 序曲(1944)
  • ピカソの絵(1949)
  • バレエ音楽<生命の律動>(1950)
  • 日本舞踊組曲(1950)
  • オペレッタ<宝石と粉挽娘>(1951)