隅田満寿代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
すみだ ますよ
隅田 滿壽代
別名義 隅田 ます江 (すみだ ますえ)
隅田 ます代
隅田 万寿代
生年月日 1874年
没年月日 1936年6月26日
出生地 日本の旗 日本北海道
死没地 日本の旗 日本東京府東京市(現在の東京都
職業 女優
ジャンル 劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1924年 - 1936年
テンプレートを表示

隅田 滿壽代(すみだ ますよ、1874年 - 1936年6月26日)は、日本の女優である[1][2][3][4][5]。新字体表記隅田 満寿代[1][2][3][4]。初期芸名隅田 ます江(すみだ ますえ)、キャリアの後期に新興キネマに所属して以降は隅田 ます代とクレジットされることが多かった[3][4]。ほかにも隅田 万寿代隅田 ますよ隅田 満州代隅田 マスヨ住田 ますよと表記に揺れがある[3][4]。50代で映画女優になり、多くの作品で老け役をこなしたことで知られる[1][2]

人物・来歴[編集]

1874年明治7年)、北海道に生まれる[1][2]

1925年(大正14年)、満51歳で帝国キネマ演芸に入社した[1][2]、とされるが、記録に残る最初の映画出演は、同社小坂撮影所が製作した『情熱の火』(監督中川紫朗)で、同作は、1924年(大正13年)3月20日に公開されている[3][4]。翌年の同社内紛においては、アシヤ映画製作所に所属して映画に出演、内紛平定後は同社芦屋撮影所に所属した[3][4]。同年9月3日に公開された『隼七之助 後篇』(監督馬場春宵)を最後に同社を去り、マキノ省三が同年6月に京都に設立したマキノ・プロダクションに移籍した[3][4]。1928年(昭和3年)からの一時期、東京の河合映画製作社の作品に出演した記録があるが、1929年(昭和4年)7月12日に公開された『悪の華七部集の内直助権兵衛』(監督鈴木桃作)を最後に、マキノに復帰している[3][4]。同年7月25日には、牧野省三が亡くなっており、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になったが、隅田の名は、「俳優部女優」には見当たらない[6]。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1930年(昭和5年)2月28日に公開された『祇園小唄絵日傘 第一話 舞の袖』(監督金森万象)を最後に退社している[3][4]

マキノ退社後、松竹下加茂撮影所を経て、1931年(昭和6年)には、京都の新興キネマに移籍、以降、「隅田 ます代」とクレジットされるようになる[3][4]。1935年(昭和10年)には、東京に新設された新興キネマ東京撮影所に異動になり、現代劇のサウンド版やトーキーにも出演した[3][4]。東京撮影所では「隅田 満寿代」とも「隅田 万寿代」ともクレジットされている[3][4]

1936年(昭和11年)4月15日に公開された『浮かれ桜』(監督曾根千晴)に出演後、「貧血補充不可能症」「脂肪過多症」で東京府東京市(現在の東京都)の慶應義塾大学病院に入院、同年6月26日、死去した[1][2]。満62歳没[1]

フィルモグラフィ[編集]

クレジットはすべて「出演」である[3][4]。公開日の右側には役名[3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[5][7]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。

帝国キネマ演芸芦屋撮影所[編集]

特筆以外すべて製作は「帝国キネマ演芸芦屋撮影所」、配給は「帝国キネマ演芸」、すべてサイレント映画である[3][4]

マキノプロダクション御室撮影所[編集]

すべて製作は「マキノプロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、すべてサイレント映画である[3][4]

河合映画製作社[編集]

すべて製作・配給は「河合映画製作社」、すべてサイレント映画である[3][4]

マキノプロダクション御室撮影所[編集]

すべて製作は「マキノプロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、すべてサイレント映画である[3][4]

松竹下加茂撮影所[編集]

すべて製作は「松竹下加茂撮影所」、配給は「松竹キネマ」、すべてサイレント映画である[3][4]

新興キネマ[編集]

すべて製作・配給は「新興キネマ」(京都)、すべてサイレント映画、特筆以外はすべて「隅田ます代」名義である[3][4]

新興キネマ東京撮影所[編集]

国を護る者日蓮』(1935年)公開時のチラシ。

特筆以外すべて製作は「新興キネマ東京撮影所」、配給は「新興キネマ」、特筆以外はサイレント映画、特筆以外はすべて「隅田ます代」名義である[3][4]

  • 鼻唄奇兵隊』 : 監督金田繁、1935年2月28日公開 - お由紀の母
  • 民衆の太陽』 : 監督上野真嗣サウンド版、1935年2月28日公開 - 君子の母
  • 国を護る者日蓮[8](『国を護る日蓮』[3]) : 監督曾根千晴(曾根純三)、トーキー、1935年4月7日公開 - 日蓮の母梅菊 (「隅田満寿代」名義)
  • 男三十前』 : 監督牛原虚彦、製作高田プロダクション、配給新興キネマ、トーキー、1935年5月15日公開 - 患者の老婆 (「隅田満寿代」名義)
  • 恋の浮島』 : 監督川手二郎、サウンド版、1935年6月26日公開 - 竜吉の母お種 (「隅田満州代」名義)
  • 『花嫁学校』 : 監督鈴木重吉、トーキー、1935年7月1日公開 - 生花の先生
  • 脱線三銃士』 : 監督寿々喜多呂九平、サウンド版、1935年8月8日公開 - 且の母かつ (「隅田満州代」名義)
  • 右門捕物帖 花嫁地獄変』 : 監督二川文太郎、製作嵐寛寿郎プロダクション、配給新興キネマ、トーキー、1935年11月16日公開 - 右門宅の雇い婆
  • 己が罪』 : 監督西鉄平部分発声版、1936年1月15日公開 - お初 (「隅田万寿代」名義)
  • 乙女橋』 : 監督川手二郎、トーキー、1936年1月25日公開 - お里の母、54分尺で現存(NFC所蔵[5]
  • 半島の舞姫』 : 監督今日出海、トーキー、1936年4月1日公開 - 白雪姫の母 (「隅田万寿代」名義)
  • 浮かれ桜』 : 監督曾根千晴(曾根純三)、1936年4月15日公開 - お源婆さん (「隅田万寿代」名義)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g キネマ旬報社[1980], p.381-382.
  2. ^ a b c d e f 隅田満寿代jlogos.com, エア、2013年5月8日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 隅田ますよ隅田ます江日本映画データベース、2013年5月8日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 隅田満寿代隅田万寿代隅田ます代、日本映画情報システム、文化庁、2013年5月8日閲覧。
  5. ^ a b c d 隅田万寿代隅田ます代東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月8日閲覧。
  6. ^ 1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録立命館大学、2013年5月8日閲覧。
  7. ^ 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年5月8日閲覧。
  8. ^ 国を護る者日蓮、日本映画情報システム、文化庁、2013年5月8日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]