陸亀蒙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
陸亀蒙
プロフィール
出生: 不詳
死去: 中和元年(881年
出身地: 蘇州呉県
職業: 詩人
各種表記
繁体字 陸龜蒙
簡体字 陆龟蒙
拼音 Lù Guīméng
ラテン字 Lu4 Kuei1meng2
和名表記: りく きもう
発音転記: ルー・クイモン
テンプレートを表示

陸 亀蒙(陸龜蒙、りく きもう、? - 881年)は、中国の詩人。魯望。自ら江湖散人甫里先生、または天随子する。本貫蘇州呉県(現在の江蘇省蘇州市呉中区)。則天武后の宰相陸元方の七世孫であり、父の陸賓虞はかつて侍御史を務めた。

略歴[編集]

若い頃から六経に通じ、特に『春秋』に精通していたが、進士に推挙されたものの及第せず、時の湖州・蘇州の刺史を歴任した張摶幕僚として刺史に従って遊歴した後、故郷蘇州甫里(現在の江蘇省蘇州市呉中区甪直鎮)に帰り、隠遁して晴耕雨読の生活を過ごし、自ら天隨子と号した。甫里の地勢が低いために、常に水が溜り、ひいては飢饉にも苦しんだ。著書に『耒耜経』があるが、これは農書である。を嗜むことを好み、顧渚山の麓に茶園を開いた[1]。晴耕雨読の後には釣りを楽しんだ。皮日休と友人となり、しばしば共に山川に遊び、酒を飲んで詩を吟じ、世に“皮陸”と称した。二人の唱和作は『松陵集』十巻にまとめられた。別著に『笠澤叢書』四巻があり、雍正年間重刊本がある。

後に、朝廷から左拾遺として召されることになったが、が下った時に没した。光化年間、韋荘奏上により、孟郊ら9人とともに左拾遺を追贈された。

陸亀蒙のは蘇州甪直古鎮保聖寺にある。後人が彼を記念するために、彼が生前闘鴨を好んだ[2]ことにちなみ、一辺の溜め池“闘鴨池”を開き、を植えて数羽のを飼っている。池の中には涼亭があり、甫里先生が読書した場所と伝える。甫里先生の墓は涼亭の側にあり、墓碑には「唐賢甫里先生之墓」と刻まれている。涼亭の後ろには天高く聳える二株の古銀杏があり、先生が手ずから植えてすでに一千年以上になるものと伝える。

参考文献[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 顧渚山は現在の浙江省湖州市長興県にあり、朝廷へ献上する茶を管理する“貢茶院”が中国で初めて置かれた。当時から現在まで顧渚紫筍中国語版という餅茶を製産している。
  2. ^ 銭易中国語版の『南部新書中国語版』による。