陳建民

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

陳 建民(ちん けんみん、男性、1919年6月27日 - 1990年5月12日)は、中国四川省宜賓生まれの、四川料理の料理人である。日本における四川料理の父といわれる。

中国系日本人1世である。来日後に日本に帰化しており、日本名は東 建民(あずま けんみん)。息子陳建一、孫陳建太郎も料理人である。

来歴・人物[編集]

原籍は四川省富順県。農家の10人兄弟の末子として宜賓で生まれ、[1] 同地の京川飯店などで料理を修業した。

1947年に宜賓を離れて重慶武漢南京上海などの大都市のレストランを渡り歩き、1948年には台北高雄へ渡った。後に香港の川菜餐館に勤めた。

1952年(昭和27年)に黄昌泉と共に観光ビザで来日、同じく四川省出身の陳海倫(戦前に上海で高級ホステスをしていたという)の食客(居候)となり、次にまるみや果物店の宮田清一の食客となる。1953年(昭和28年)春に陳海倫の依頼で外務次官の奥村勝蔵に宴席料理を供したのが縁で、外務省に外売(出張料理)を始める。

『東文基園』(通称「ゲストハウス」)で高級料理を出し、パーティを開く。洋子夫人と結婚。1956年(昭和31年)、長男・建一(後年フジテレビ料理の鉄人』で知られる)が誕生する。

1958年(昭和33年)、新橋田村町に四川飯店を開業する。後に六本木、赤坂へ出店した。

陳建民は元来は宮廷料理を得意としたが、庶民的な料理もまた、四川以外の料理も適宜日本人(好みや当時の台所事情)にあわせアレンジを加えた上で供し、評判となる。

四川飯店経営の傍ら、NHKの『きょうの料理』などの料理番組に出演する。乾焼蝦仁をヒントに考案したエビのチリソース回鍋肉担担麺、そして和風麻婆豆腐(醤油・胡椒が味付けのベース)などのレシピを公開し、独特の言葉遣い(協和語に似る)と共に注目を集める。

元来、中華料理の世界は徒弟制で下働きをしながら盗み見て覚える(偸精学芸)ものであったが、陳建民はレシピの公開もやぶさかでなく、1966年(昭和41年)には有志と恵比寿中国料理学院を設立するなど、中国料理の普及に大きく貢献した。1987年(昭和62年)に卓越技能表賞(現代の名工)を受賞した。

1990年(平成2年)、死去。享年70。

エピソード[編集]

  • 陳建民・建一の一家をモデルにした連続テレビドラマ『麻婆豆腐の女房』が2003年NHK総合テレビで放送された。主演は武田鉄矢松坂慶子
  • 「私の中華料理少しウソある。でもそれいいウソ。美味しいウソ」と、上記のような日本の味覚に合わせたアレンジを積極的に行った。現在の日本では当たり前になっている「回鍋肉にキャベツを入れる」「ラーメン風担担麺(中国では汁なしが一般的)」「エビチリソースの調味にトマトケチャップ」「麻婆豆腐には豚挽肉と長ネギ」というレシピは、建民が日本で始めたものだと言われている。このアレンジこそが今日の日本での中国料理、とりわけ四川料理の普及に多大なる効果を発揮することになった。また中国本土でも、現在はそのような料理が見受けられる。
  • きょうの料理』で饅頭を作った時、アシスタントの広瀬久美子に「これは何個分ですか?」と訊ねられて「大きいの作る、少ない。小さいの作る、沢山」と答えた。また、材料を手捏ねする理由を「五本箸(=指)からダシ出る」と述べた。
  • 陳建一の話によると、生涯3度の結婚歴がある。最初の結婚相手は、資産家で「貴方は働かなくていい」と言われ、禁止されていたと知らずに阿片の栽培で儲けようとしたが、失敗して当局から追われることとなった。2度目の相手は、香港で料理店を仲間で経営し、軌道に乗っていたときであった。しかし、儲かった故の仲間同士のいざこざに嫌気がさして店を辞め、友人の点心師の黄昌泉と日本へ渡る。そして、3度目の結婚で洋子夫人と結ばれるが、建民のプロポーズは「私、香港に妻がいます。貴方と結婚しても、給料の半分は香港の妻のものです。それでも結婚してくれますか?」というものだった。しかし、夫人は「正直な人だ」と思い、結婚したという。実際、建一も香港での建民の妻を「香港のママ」と呼んでチャーハンの作り方を教わるなど、国境を越えた家族として付き合っていたという。

著書[編集]

  • 中国料理技術入門(柴田書店、1968年)
  • さすらいの麻婆豆腐―陳さんの四川料理人生(平凡社ライブラリー、1988年)
  • 中国四川料理―おそうざい (基礎編) (1983年)

など多数。

脚注[編集]

  1. ^ 料理の鉄人フジテレビ) 1996年北京決戦中国四大料理対決

外部リンク[編集]