阿部正豊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索

阿部 正豊(あべ まさとよ、生年不詳 - 天文4年12月5日1535年12月29日))は、戦国時代武将三河松平氏の家臣。阿部定吉の嫡男。通称・弥七郎

[編集] 経歴

天文4年(1535年)、西三河を平定した松平清康が叔父の松平信定を征伐するために尾張国守山に着陣していた際、定吉が織田信秀と内通して謀反を企んでいるという噂があった。このため清康に誅殺されるかもしれないと云う懸念を定吉から聞かされ、二心なき旨を記した清康あての誓紙を渡されていた。

その翌日、本陣で馬が嘶く音を聞いた正豊は、清康が父を成敗したと勘違いし(本当は手違いで家臣が馬小屋の馬を放していた)、本陣にいる清康を斬り即死させた。正豊は本陣にいた植村氏明にその場で斬殺された(森山崩れ)。この騒動において父・定吉は正豊の所業を知り自害しようとするが止められたうえ処罰されなかった。

なお、明治35年(1902年)、村岡素一郎[1]は著書『史疑徳川家康事蹟』において、森山崩れの逸話は後年に徳川氏が作ったものとし、正豊が斬ったのは清康の孫・松平元康(徳川家康)であり、しかもそれは永禄3年(1560年)12月5日の事であり、それ以後の徳川家康は世良田二郎三郎元信という影武者とする説を提示している(詳しくは徳川家康の影武者説参照)。

[編集] 脚注

  1. ^ 村岡は正式な歴史家ではなく地方官吏でたまたま家康にゆかりが深い土地に派遣されたため、資料を調べてこの説を提示した。

[編集] 関連項目

個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語