阿部房次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あべ ふさじろう
阿部 房次郎
生誕 1868年2月11日
滋賀県彦根市
死没 (1937-05-12) 1937年5月12日(69歳没)
国籍 日本の旗 日本
民族 日本人
出身校 慶應義塾正科[1]
配偶者 ゑき
ゑみ
子供 信吉(ゑきとの子)
阿部孝次郎(ゑみとの子)
ふみ(ゑみとの子)
藤造(ふみの夫、娘婿
荘吉(ゑみとの子)
まさ(ゑみとの子)
テンプレートを表示

阿部 房次郎(あべ ふさじろう、1868年2月11日慶応4年1月18日) - 1937年昭和12年)5月12日[2][3])は、日本の実業家政治家。族籍は滋賀県平民[4]

来歴[編集]

近江国彦根(滋賀県彦根市)出身。辻兼三の長男[5]。阿部家の養子となり、1896年(明治29年)に分家して一家を創立する[5]

1892年(明治25年)、慶應義塾正科を卒業[1]

1894年(明治27年)、近江銀行1900年(明治33年)、近江精油取締役、1901年(明治34年)、阿部製紙王子製紙の前身のひとつ)専務、1904年(明治37年)経営不振の金巾製織に専務として入り、再建に尽力する。その後金巾製織は1906年(明治39年)に大阪紡績と、1914年(大正3年)に三重紡績と合併して東洋紡績が発足、山辺丈夫社長の下で専務となった。1926年(大正15年)に社長に就任。

また昭和レーヨン、裕豊紡各社長、上毛電力、王子製紙、湖東紡各取締役、大阪商工会議所顧問、大日本紡績連合会会長などを歴任した。

1931年(昭和6年)12月12日には貴族院勅選議員となり[6]同和会に所属し死去するまで在任した[3][7]

人物[編集]

美術蒐集家としても知られる[8]

インドビルマをはじめ海外への販路を開き、綿布輸出を促進する[2]

住所は兵庫県武庫郡住吉村[5]。滋賀県在籍[5]

家族・親族[編集]

阿部家

脚注[編集]

  1. ^ a b 『慶応義塾総覧 大正3年』第二十二章 卒業生160頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年12月17日閲覧。
  2. ^ a b c 阿部 房次郎とはコトバンク。2020年12月17日閲覧。
  3. ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』90頁。
  4. ^ a b 『人事興信録 第7版』あ18頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年12月17日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k 『人事興信録 第8版』ア26 - 27頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年12月17日閲覧。
  6. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、39頁。
  7. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、45頁。
  8. ^ 爽籟館主人・阿部房次郎の中国書画蒐集について - 大阪市立美術館

参考文献[編集]

  • 慶応義塾編『慶応義塾総覧 大正3年』慶応義塾、1914年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。

関連項目[編集]

先代
斎藤恒三
東洋紡績社長
第4代:1926年 - 1935年
次代
庄司乙吉