田中マルクス闘莉王
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|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 名前 | |||||||
| 愛称 | トゥーリオ、 トゥー | ||||||
| カタカナ | タナカ マルクス トゥーリオ | ||||||
| ラテン文字 | TANAKA Marcus Túlio | ||||||
| 基本情報 | |||||||
| 国籍 | |||||||
| 生年月日 | 1981年4月24日(30歳) | ||||||
| 出身地 | |||||||
| 身長 | 185cm | ||||||
| 体重 | 82kg | ||||||
| 選手情報 | |||||||
| 在籍チーム | 名古屋グランパスエイト | ||||||
| ポジション | DF | ||||||
| 背番号 | 4 | ||||||
| 利き足 | 右足 | ||||||
| クラブチーム1 | |||||||
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| 代表歴 2 | |||||||
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| 1. 国内リーグ戦に限る。2011年12月15日現在。 2. 2010年6月29日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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田中 マルクス闘莉王(たなか マルクス トゥーリオ、1981年4月24日 - )は、日本のプロサッカー選手。ブラジルのサンパウロ州出身。Jリーグの名古屋グランパスエイト所属。主なポジションはディフェンダー(センターバック)。
日系人の父親と、イタリア系ブラジル人の母親を持ち、2003年に日本国籍を取得[1]。旧名はマルクス・トゥーリオ・リュージ・ムルザニ・タナカ(Marcus Túlio Lyuji Murzani Tanaka)。「サムライ闘莉王[2]」の愛称で親しまれているほか、「闘将[3]」の異名を持つ。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 生い立ち
父方の祖父は広島県出身[注 1]、父方の祖母は富山県出身で共にブラジルに渡った日系移民である。父親は日系ブラジル人二世で、自身は日系三世[1][6][7]に当たる。
「マルクス・トゥーリオ」という名は、紀元前のイタリアの政治家・文筆家・哲学者のマルクス・トゥッリウス・キケロ(通称「キケロ」)に由来して、父親の知人の医師によって名付けられた[8]。「リュージ」という名は、父親に由来して名付けられたものだが[9]、日本での戸籍名では「ユウジ」と表記されている[9]。父親は小学校教師とレストラン経営の傍らで、40歳を過ぎてから弁護士資格を取得した努力の人である[10]。生まれて初めて喋った言葉は、「ママイ(お母さん)」「パパイ(お父さん)」「ボーラ(ボール)」だったという[11]。その言葉どおり、物心ついたときには既にボールを蹴っていた[11]。
1989年1月、オレステス小学校入学[12]。当時の担任教師によれば、「優しい子で、困っている友達を見ると放っておけない性格だった」「勉強が得意で、努力家で、学業成績が良かった。水泳も得意で、学校の水泳大会ではいつも優勝していた。」という[13]。ただし本人は、「数学は得意だったけど、国語は苦手だった。友達と喧嘩することも多かった」と回想した[14]。サッカーを本格的に始めたのは9歳の時で、ボランティア活動で子ども達にサッカーを教えていたコーチが近所に引っ越してきたことがきっかけであった[15]。そのサッカー教室へ通い上達していった[16]。しだいに少年チームだけでは物足りずに父親の試合について行き、大人に混じってサッカーをすることもあった[16]。
中学時代は「自分の人生に責任を持つ人間に育ってほしい」という父親の厳しい教育方針のもと[17]、昼間は会計事務所で働き、夜間はオレステス中学校夜間部へ通う生活を送った[17]。中学校では体育教師の熱心な勧誘でバレーボール部に所属してエースアタッカーとして活躍し、地区大会で優勝するほどであった[18]。また数学教師の推薦でオレステス中学校代表としてブラジル数学オリンピックに出場し、全国大会にまで進んだ経歴も持つ[19]。中学時代に本格的にサッカーをやっていなかったプロ選手はほとんど存在せず[20]、この時期にサッカーから離れていたトゥーリオは非常に珍しい存在である[20]。
1997年、人に勧められて受けたミラソウFC (pt:Mirassol Futebol Clube)のセレクションに合格し、その頃からプロサッカー選手を目指すようになった[21]。その1ヶ月後の1998年1月、留学生を探しにミラソルFCを視察していた千葉県の渋谷幕張高校サッカー部監督の宗像マルコス望に才能を見出され、日本の高校への留学を誘われた[22]。1998年3月、カバン1つだけを持参して16歳で来日した[23]。最も辛かったのは日本語ができなかったことで、日本に来て最初の一年間が人生で最も辛かったという[24]。しかし日本語も英語も必死に勉強したという[24]。サッカーに関しては、本来は攻撃的ポジションの経験しかなかったが[25]、宗像監督の意向でセンターバックにコンバートされた[25]。ブラジルではトップ下か攻撃的MFを担当しており[26]、それまでヘディングの練習はしていなかった為、毎日ヘディングの練習を繰り返した[25]。ただし幼少期の乗馬の経験が、空中戦におけるバランス感覚やポジショニングに大きく役立ち、また中学時代のバレーボールの経験が、跳躍力とタイミング判断に大きく役立つことになった、と本人は回想した[27]。個人としては千葉県選抜チームのメンバーに選出されて国体に出場し、全国優勝を果たした[28]。渋谷幕張高校サッカー部の一員としては、本人のフリーキックからのゴールが決勝点となり、サッカー部を初の全国大会出場へ導くという実績を残した[29]。
[編集] クラブ歴
[編集] 広島、水戸
2001年に高校を卒業し、広島出身の祖父の勧めでサンフレッチェ広島に入団した[1][7][30][31]。2002年シーズンにサンフレッチェがJ2に降格し、1年での昇格を目指すためクラブは即戦力としての外国籍選手を獲得することとなり、1チームにA登録選手が3人までと規定されている外国籍選手の保有枠に入れず、翌2003年からJ2の水戸ホーリーホックにレンタル移籍で加入した。その水戸で、独自のプレースタイルに目覚め、選手として花開くことになる。確かな守備力に加え、最終ラインから攻撃の起点にもなれる攻撃的CBとして頭角を現し、守備の選手でありながらチーム内得点王になるなどの活躍をした[32]。同年10月には日本へ帰化し、登録名も「トゥーリオ」から「闘莉王」に変更した。
[編集] 浦和レッズ
2004年に広島からJ1の浦和レッズに完全移籍。レギュラーで活躍し、ステージ優勝を果たした。
2006年にはリーグ初優勝を果たし、Jリーグ最優秀選手賞(MVP)および日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞した。
2007年にはAFCチャンピオンズリーグ優勝、FIFAクラブワールドカップ 3位に貢献し、浦和の黄金時代を築いた。2008年にはDFながらチーム得点王となる11得点を挙げるなど、以降も攻守にわたって浦和の軸として活躍した。Jリーグベストイレブンには、浦和に在籍した6シーズンすべて選出された。2008年7月にはハットトリックを達成した[33]。
一方で浦和に誘ってくれたギド・ブッフバルト監督の退任以降に就任したホルガー・オジェック、フォルカー・フィンケら後任監督と相次いで衝突するなどマスコミを騒がせた。オジェックの後任に当たるゲルト・エンゲルス監督とは良好な関係を築いており、解任に際して惜しむコメントを残している。
2009年8月にはベテラン選手をクラブから去らせるなどの方針を採った浦和のフロントとフィンケ監督の方針に苦言を呈したが[34]、状況は変わらなかった。2009年シーズン終了後に浦和との契約延長交渉が合意に至らず、契約満了により浦和を退団し[35]名古屋グランパスへの完全移籍が決定した。欧州や中東からもオファーが来ていたが[36]、移籍先を国内の名古屋に決めた理由はストイコビッチ監督から「来年はワールドカップがあるから、日本でプレーするべきだ」と言われたことが最大の決め手となった[36]。
[編集] 名古屋グランパス
2010年に移籍した名古屋グランパスでは、入団会見で「リーグ優勝できなければ名古屋に来た意味はない」と語った言葉通り、名古屋を初優勝へ導いた[37]。最終ラインを巧みに統率して守備を安定させ、空中戦でも圧倒的な強さを発揮。さらに高精度のフィードを前線に配給して攻撃の起点になりながら、機を見て攻め上がりゴールにからむ決定的な仕事もこなした[37]。その貢献度は大きく、「初優勝の最大の立役者[38]」との評価を受けた。チームメイトの楢崎正剛は「MVPは闘莉王[39]」と評価し(実際に受賞したのは楢崎)、名波浩は「勝ち点10以上を一人で持っている[40]」と語った。しかし、「サッカー人生で一番重視していたワールドカップイヤーで、しかも名古屋に移籍して優勝すると公言したから100%以上の気持ちでやった」ことによる代償として、終盤戦には右膝と太腿裏を負傷し、リーグ優勝の瞬間にはピッチに立つことができなかった[41]。
2011年は、シーズン前半は自身の怪我やAFCチャンピオンズリーグとの過密日程等によりチームの順位は低迷したが、故障から復帰すると順位を上げ、終盤は6連勝で最終節まで優勝争いをして2位となった[42][43]。攻撃参加は自重して守備を引き締め、若手育成にも尽力した[44]。
[編集] 日本代表歴
- 世代別代表
クラブでの活躍が認められ、2003年に日本国籍を取得するとすぐにU-23日本代表に選出された。初戦となるバーレーン戦では、かねてから違和感を覚えていた左太腿に肉離れが発症し途中交代しチームも0-1で敗北した。本人の意思で残り2試合も松葉杖をついて帯同し、チームは残り2試合を連勝しオリンピック出場を決めた。アテネオリンピック本大会にもグループリーグ3試合すべてに出場した。
- A代表
ジーコ監督には一度も招集されず、2006FIFAワールドカップには出場することができなかった。
2006年8月にイビチャ・オシム監督の指揮するA代表に初選出。以降は負傷を繰り返しながらも、日本代表の中心選手として定着した。
2008年からの2010 FIFAワールドカップ・アジア最終予選では8試合に全試合フル出場して本大会出場に貢献し[45]、本大会への代表にも選出された。
本大会直前に行われた強化試合である2010年5月30日のイングランド戦では前半に得点を決めたものの、後半にはクリアミスによるオウンゴールを献上した[46]。さらに6月4日に行われたコートジボワール戦では2戦連続となるオウンゴールを献上。直後のプレーでディディエ・ドログバと交錯、ドログバは右腕を骨折した[47]。コートジボワール代表のエリクソン監督はこの件を全く非難せずに、「不運だったのです。あれは悪いプレーではなかったし、愚かなプレーでもなかった。故意ではなかった。」と擁護した[47]。その後のドログバの右腕の回復は良好で、本大会に間に合わせることができた[47]。なお闘莉王は本大会後に、著書の中でエリクソン監督へ深い感謝を述べた[48]。故意ではなかったものの、ドログバには日本サッカー協会を通して謝罪文を送付し、誠意を尽くした[49]。
2010 FIFAワールドカップ本大会では、守備の大黒柱として全4試合にフルタイムで先発出場し、自国開催以外で初となる日本代表の決勝トーナメント進出に大きく貢献した。冷静な読みとカバーリング、空中戦でゴールにカギをかけた[50]。攻撃面でも精度の高いフィードを繰り出してカウンターの起点となり、チームが不調の時期にも熱い言葉をかけ続けてチームを鼓舞した[50]。これらの活躍により、本大会直前に挙がっていた周囲からの不満の声をも消し去った[51]。日本史上最高のセンターバックとして名をとどろかせた闘莉王と中澤のコンビは、アーセン・ベンゲルから「日本代表の最高の武器だった」と絶賛された[52]。
アルベルト・ザッケローニ監督の指揮するAFCアジアカップ2011のメンバーには、怪我のために[53]不選出だった。2011年3月29日に行われた慈善試合「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」では、Jリーグ選抜チームとしてフル出場し、後半の82分には攻め上がって三浦知良のゴールをアシストした。試合後には、「サッカー選手としてじゃなく、一人の人間としてなにかの力になりたかった」「日本はまた、素晴らしい国になると思う」とコメントした[54]。
[編集] 評価・プレースタイル
確かな守備力に加え、高い得点力も備える超攻撃的リベロ[55]。空中戦で圧倒的な強さを持ち、正確なフィードで攻撃の起点にもなる[56]。自陣ゴール前での絶大なる存在感はもちろんのこと、コーチングを含めた統率力も高い[57]。ビルドアップも的確で、高精度のロングフィードは数々のチャンスを創出する[57]。ボールを足で扱う技術も優れ[58]、しばしばミッドフィールダーとして起用されることもある[58]。
- 感化する力、インスピレーション[58]
カリスマ性があり[58]、これまでにも周囲に大きな影響を与えてきた。サッカーというチームワークにおける協調性について、ドラガン・ストイコビッチ監督は、「チームにモチベーションを与えることができる選手だ。彼はリーダーだ。[59]」と語る。
- 守備の間合い
絶妙な「間合い」を持っている[60]とされており、前田秀樹監督は特に一対一の対応について、「闘莉王には一流の間合いがあった」と高く評価した[60]。
[編集] 人物
「これからも日本人の心をサッカーに生かしたい。まわりをサポートする。まわりを大切にする。みんなで気持ちをひとつにする[61]。」というサッカー観を持つ。敬虔なクリスチャン(カトリック)[62]で、プレー中にはしばしば十字を切るシーンが見られる。
サッカー選手以外になりたかった職業は獣医[63]。プロ入り二年目にはウサギを飼っていた[64]という一面も持つ。
家族を一生大切にしていこうと誓っている[65]。最も尊敬する人物は父親[66]。日本出身の祖父母に子供の頃よく言われた言葉は「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」。(これは、イネは成長して実をつけると頭が垂れ下がっていく。人間も、人格が高い人であればあるほど謙虚になっていくという教えであり、成功するほど背負うものは重くなっていくという意味である[65])。
[編集] 語学力
ネイティブと遜色ないほどの日本語を話す。その他、母国ブラジルの公用語であるポルトガル語は当然として、学生時代に英語の成績も良かった為にドラガン・ストイコビッチ監督とも直接英語でコンタクトする事も多いという[67]。スペイン語圏のダニルソン・コルドバの練習中の通訳も受け持っているという。
[編集] 日本への愛
日本に帰化した理由について、闘莉王は
僕ができることはサッカーしかない。日本国籍を取って、日の丸を付けて、プレーをする。日本のためにサッカーをして、お世話になった人たちに恩返しをしたい[68]。
— 闘莉王
と語った。日本国籍取得の話を最初に持ち掛けた当時のGMの今西和男は、「闘志を持ちながらも、礼を重んじる。このような選手が入ったら、日本代表はきっとうまくいくと思った[69]」という。
[編集] 表現者としての力
「闘莉王の体には、浦和レッズのユニフォームと同じ真っ赤な血が流れていた[70]」と言われたように、試合での強さ以外にも、その姿は見ている者の心を揺さぶる[71]、と評されることがある。
スタンドを見ていると、涙がこみ上げてくることがある[72]。
— 闘莉王(浦和レッズの応援と声援について)
一生懸命で熱くなりすぎてしまい、時にはサポーターとも口論になってしまうこともあったが[71]、それはいつでも、誰に対しても、本音で真剣に向き合っていた証拠である[71]とも言われている。
[編集] エピソード
- 2008年10月下旬に、ブラジル移民100周年を記念し、ブラジル音楽から本人が選曲したコンピレーションアルバム『TRIP IN BRAZIL』が発売された[6]。そのCDには、本人がポルトガル語でヴォーカル参加した楽曲も収録されている。
- 2008年11月4日、西武ドームで行われた野球の日本シリーズ第3戦では、浦和レッズと同じ埼玉に本拠地を置く埼玉西武ライオンズの応援として始球式を務めた[73]。このシリーズで西武ライオンズは日本一となった。
- 卓球がかなり上手である。松井大輔の証言によれば、2010FIFAワールドカップの大会期間中に選手同士で何度も卓球大会を開催し、その中で闘莉王が圧倒的に強かったと語った[74]。
- 2010FIFAワールドカップのオランダ戦での活躍ぶりは、スペイン紙『As(アス)』から「El dandy」(エル・ダンディ、粋な人)と称えられ、空中戦の強さと、後半に送り出した決定的なパスも高く評価された[75]。
- 2010 FIFAワールドカップ開催中に入院した父を見舞うため、ホテル日航関西空港で行われた日本代表選手団の記者会見に参加しなかった[76]。引退も考えていたが、父の後押しで現役続行を決意した[77]。
- 2010 FIFAワールドカップ帰国後の記者会見で今野泰幸が、闘莉王の出演したケンタッキーフライドチキンのCMのフレーズ「集まれー!!」を真似した。このモノマネは大きな反響を呼び、今野の所属するFC東京の携帯サイトで着ボイス配信された[78]ほか、長友佑都も後にバラエティ番組「とんねるずのみなさんのおかげでした(フジテレビ、2010年7月22日放送)」の中で「集まれー!!」のオペラ・バージョンを披露するなど広がりを見せた。
- 日本においては、帰化前の登録名が「トゥーリオ」であったこともあって、フルネームもしくは「闘莉王」と表記されることが多く、苗字である「田中」のみの表記とされることは少ない。これはクラブや代表でチームメイトであった田中達也や田中隼磨と区別する意味もある。2010 FIFAワールドカップの国際映像では「M・TANAKA」と表記されていた。
- もともと日本人の血を引くブラジル出身選手として初めてFIFAワールドカップに出場した人物である[79]。(なお、これまでに日本国籍を取得してワールドカップに出場したブラジル出身選手は呂比須ワグナーと三都主アレサンドロがいる[79])。
- 2011年4月14日、東日本大震災[注 2]で被災した水戸を訪問した。小学校を訪れて子供達を激励し、ボール遊びでは大歓声と笑い声があふれた[81]。また、水戸市長を表敬訪問し、市内の小中学校へサッカーボールと本を寄贈した[81]。
[編集] 所属クラブ
- ユース経歴
ミラソウFC (pt:Mirassol Futebol Clube)- 1998年 - 2000年
渋谷幕張高校
- プロ経歴
- 2001年 - 2002年
サンフレッチェ広島
- 2004年 - 2009年
浦和レッドダイヤモンズ - 2010年 - 現在
名古屋グランパスエイト
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 2001 | 広島 | 23 | J1 | 17 | 1 | 5 | 0 | 0 | 0 | 22 | 1 |
| 2002 | 6 | 22 | 1 | 5 | 0 | 0 | 0 | 27 | 1 | ||
| 2003 | 水戸 | 28 | J2 | 42 | 10 | - | 3 | 0 | 45 | 10 | |
| 2004 | 浦和 | 4 | J1 | 21 | 3 | 6 | 1 | 1 | 0 | 28 | 4 |
| 2005 | 26 | 9 | 7 | 1 | 2 | 0 | 35 | 10 | |||
| 2006 | 33 | 7 | 7 | 1 | 1 | 0 | 41 | 8 | |||
| 2007 | 26 | 3 | 0 | 0 | 1 | 0 | 27 | 3 | |||
| 2008 | 31 | 11 | 1 | 0 | 1 | 0 | 33 | 11 | |||
| 2009 | 31 | 4 | 1 | 1 | 0 | 0 | 32 | 5 | |||
| 2010 | 名古屋 | 29 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | 30 | 6 | ||
| 2011 | 31 | 6 | 2 | 2 | 0 | 0 | 33 | 8 | |||
| 通算 | 日本 | J1 | 267 | 51 | 35 | 6 | 6 | 0 | 308 | 57 | |
| 日本 | J2 | 42 | 10 | - | 3 | 0 | 45 | 10 | |||
| 総通算 | 309 | 61 | 35 | 6 | 9 | 0 | 353 | 67 | |||
その他の公式戦
- 2004年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 2006年
- スーパーカップ 1試合0得点
- 2011年
- スーパーカップ 1試合0得点
| 国際大会個人成績 | FIFA | |||||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
| AFC | ACL | クラブW杯 | ||||
| 2007 | 浦和 | 4 | 8 | 0 | 2 | 0 |
| 2008 | 4 | 1 | - | |||
| 2011 | 名古屋 | 5 | 0 | - | ||
| 通算 | AFC | 17 | 1 | 2 | 0 | |
その他の国際公式戦
- 2007年
- A3チャンピオンズカップ 3試合1得点
[編集] 経歴
- プロ初出場・初得点 - 2001年3月11日 J1 1st第1節 対鹿島アントラーズ
- A代表初出場 - 2006年8月9日 キリンチャレンジカップ 対トリニダード・トバゴ
- A代表初得点 - 2006年11月15日 AFCアジアカップ2007 (予選) 対サウジアラビア
- ハットトリック達成 - 2008年7月17日 J1第17節 対東京ヴェルディ1969
- J1通算50得点達成 - 2011年11月26日 J1第33節 対モンテディオ山形 ※DFとして歴代初
[編集] 代表歴
[編集] 主な出場大会
- 2004年 - アテネオリンピック
- 2010年 - 2010 FIFAワールドカップ
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 43試合 8得点(2006年 - )
- (先発出場試合数 43[82])
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 2006 | 5 | 1 |
| 2007 | 4 | 1 |
| 2008 | 10 | 2 |
| 2009 | 13 | 2 |
| 2010 | 11 | 2 |
| 通算 | 43 | 8 |
[編集] ゴール
| # | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1. | 2006年11月15日 | 日本 | ○3-1 | AFCアジアカップ2007 (予選) | |
| 2. | 2007年8月22日 | 日本 | ○2-0 | キリンチャレンジカップ2007 | |
| 3. | 2008年6月14日 | タイ | ○3-0 | 2010 FIFAワールドカップ・アジア予選 | |
| 4. | 2008年11月19日 | カタール | ○3-0 | ||
| 5. | 2009年6月17日 | オーストラリア | ●1-2 | ||
| 6. | 2009年10月8日 | 日本 | ○6-0 | AFCアジアカップ2011 (予選) | |
| 7. | 2010年2月11日 | 日本 | ○3-0 | 東アジアサッカー選手権2010 | |
| 8. | 2010年5月30日 | オーストリア | ●1-2 | 親善試合 |
[編集] タイトル
[編集] クラブタイトル
- 浦和レッズ
- Jリーグ ディビジョン1 優勝: 1回 (2006年)
- ステージ 優勝: 1回 (2004年)
- 天皇杯 優勝: 2回 (2005年、2006年)
- ゼロックススーパーカップ 優勝: 1回 (2006年)
- AFCチャンピオンズリーグ 優勝: 1回 (2007年)
- 名古屋グランパス
- Jリーグ ディビジョン1 優勝: 1回 (2010年)
- ゼロックススーパーカップ 優勝: 1回 (2011年)
[編集] 個人タイトル
- 日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー): 1回 (2006年)
- Jリーグ最優秀選手賞(MVP): 1回 (2006年)
- Jリーグ優秀選手賞: 8回 (2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年)
- Jリーグベストイレブン: 8回 (2004年、2005年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年、2011年)
[編集] その他
- 報知プロスポーツ大賞 Jリーグ部門: 1回 (2007年)
- AFCチャンピオンズリーグ フェアプレー賞 (2007年) - 浦和レッズとして
- FIFAクラブワールドカップ フェアプレー賞 (2007年) - 浦和レッズとして
- 日本プロスポーツ大賞 (2007年) - 浦和レッズとして
- 日本プロスポーツ大賞 殊勲賞 (2006年) - 浦和レッズとして
- 国民体育大会 優秀選手: 2回 (1998年、1999年) - 高校時代
- 千葉県知事特別賞 (2010年) - W杯での功績により
[編集] 出演
- 「情熱大陸」(MBSテレビ、2009年4月19日放送)
- 「ドラえもん」(テレビ朝日、2010年6月4日放送) W杯の特別企画で、絵かき歌に挑戦した。
- 「S☆1」(TBSテレビ、2010年8月28日放送) 魔裟斗との対談。
※その他多数
[編集] CM・広告
- 富士フイルム『あしたに続く写真 闘莉王篇』 (2004年)
- コカコーラ 『アクエリアス』 (2006年)
- 成田国際空港 『情熱が集う篇』 (2008年)
- Product Red (RED) 『Lace Up. Save Lives』 ナイキとの提携によるチャリティー - 日本におけるイメージキャラクター (2009年)
- VISAカード 『自動車保険もgo with Visa篇』 (2009年 - 2010年)
- 日本ケンタッキーフライドチキン 『40th Anniversary篇』 (2010年)
- ナイキ 『Write The Future(未来をかきかえろ)』 W杯応援キャンペーン(2010年)
- 全国高校サッカー選手権大会- イメージキャラクター (2010年)
- スカパー! 『soccer 闘莉王篇』 (2011年)
[編集] 関連情報
[編集] 著書
- 田中マルクス闘莉王 『鉄壁』 小学館、2010年3月19日。ISBN 978-4093878937。
- 田中マルクス闘莉王 『大和魂』 幻冬舎、2010年12月5日。ISBN 978-4344019225。
[編集] 関連書籍
- 矢内由美子 『闘莉王―赤き魂のサムライ』 徳間書店、2007年11月。ISBN 978-4198623517。
- 矢内由美子 『闘莉王 超攻撃的ディフェンダー (スポーツ・ノンフィクション)』 学習研究社、2009年4月8日。ISBN 978-4052030864。
- 工藤晋 『漫画・闘莉王物語 (少年サンデーコミックス)』 小学館、2010年6月1日。ISBN 978-4091223906。
- NHK「スポーツ大陸」制作班 『NHKスポーツ大陸―遠藤保仁・闘莉王・中村憲剛』 金の星社、2010年9月。ISBN 978-4323071923。
[編集] CD
- Tanaka Marcus Tulio 『TRIP IN BRAZIL』 Prima★Stella Records、2008年11月。
[編集] 脚注
[編集] 注釈
- ^ 明治末期から昭和初期にかけて、両国間の政治的・経済的事情の利害関係が一致し、約19万人の日本人が移民としてブラジルへ渡った[4][5]。プロデビューの地を広島に選んだ理由は、闘莉王が日系としてのルーツを重んじたからである。
- ^ 3月11日の地震発生時、ベガルタ仙台との試合へ向かう列車に乗っていた[80]。地震で列車が停止し、仙台へは到着しなかった[80]。
[編集] 脚注
- ^ a b c ニッケイ新聞:あるぜんちな丸同船者寄稿集
- ^ 矢内 2009、12頁
- ^ 朝日新聞 2010年6月14日付夕刊、13頁
- ^ 高橋幸春 『日系ブラジル移民史』 三一書房、1993年10月31日。ISBN 4-380-93263-X。
- ^ 丸山浩明 編著 『ブラジル日本移民 百年の軌跡』 明石書店、2010年7月30日。ISBN 978-4750332376。
- ^ a b 海外移住資料館だより 第14号
- ^ a b 中国新聞 サンフレ新人素描
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- ^ 闘莉王が現役続行 父の言葉で「もう1回」 - サンケイスポーツ、2010年7月15日。
- ^ FC東京・今野ものまね「着ボイス」配信 - サンケイスポーツ 2010年7月11日付記事
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- ^ “SAMURAI BLUE 選手情報”. 日本サッカー協会. 2011年8月27日閲覧。
[編集] 関連項目
- サンフレッチェ広島の選手一覧
- 水戸ホーリーホックの選手一覧
- 浦和レッドダイヤモンズの選手一覧
- 名古屋グランパスエイトの選手一覧
- 2010 FIFAワールドカップ日本代表
- オリンピックサッカー日本代表選手
- 宗像マルコス望 - 高校時代の恩師
- イビチャ・オシム - 日本代表の恩師
[編集] 外部リンク
- Marcus Tulio TANAKA- FIFA公式サイトによる出場記録等(英語)
- 名古屋グランパス公式サイト
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