関西三空港の経緯と現状

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関西三空港の経緯と現状(かんさいさんくうこうのけいいとげんじょう)では日本関西地方に存在する大阪国際空港関西国際空港神戸空港三空港の建設・運営にまつわる経緯と現状について記述する。

目次

[編集] 概説

1960年代に入り、高度経済成長にともない、関西地方にも本格的な第二空港必要論が浮上してきた。一方、1964年からジェット機が乗り入れた大阪国際空港は環境・公害の問題から周辺自治体では訴訟が相次いだ。

運輸省は新空港の需要を見込んで1968年から調査を始め、地元自治体の反対を説得して大阪府南部の泉州沖に関西国際空港を建設した。この際に運輸大臣の諮問機関がだした答申は公害対策と地元の合意に配慮したものであったが、開港にともない、大阪国際空港は廃止されるかのような印象を与える内容でもあった。

しかし、1980年代に入ると騒音対策・排ガス対策が進展し、大阪国際空港周辺の革新自治体も減少した。さらに、都市に近い利便性や経済的利益が各方面から再評価され、1990年大阪国際空港は存続が決まった。その後、1994年に関西国際空港が開業し、さらに、24時間運用のために第二滑走路が建設された。一方で、神戸空港にも予算がつけられたため、各空港の採算について疑問が投げかけられた。神戸空港については阪神・淡路大震災のあとに本格的な予算措置が図られたため、1990年代末から2000年代初頭をピークとして市民による反対運動も行われた。

三空港併存時代を迎えた現在では航空行政や役割分担のありかたについてさまざまな議論が行われている。

[編集] 過去の経緯

[編集] 大阪国際空港開港-1950年代

大阪国際空港の前身は第二次世界大戦前の1939年1月17日 開業した大阪第二飛行場である。当時の面積は約16万坪(53万平方m)。1940年より日本陸軍に接収され、67万坪に拡張された。日本の第二次世界大戦敗戦後はアメリカ軍が接収し、1953年初頭に3000mの新滑走路を新設する24万坪の空港拡張案が提示されたが、共産党社会党、地労協を中心に大闘争を展開し、計画は一旦取り止めになった。

その後、1958年3月18日に返還され国営の「大阪空港」として開港。さらに1959年7月3日には第1種空港として国際路線を開設、大阪国際空港に改称された。

[編集] 1960年代 空港拡張とジェット時代の到来

返還後間も無く、自民党関西議員連盟(会長は芦田均)、大阪商工会議所などが拡張運動に乗り出したが、その案はアメリカ軍の手によるものと基本的に同じであった。政府はこれを承認し、地元自治体に協力を要請した。この際に地元では野党や労協を中心に反対闘争の再結成を呼びかけたが、条件つき賛成に転じるところも出て、前回ほどは発展しなかった。

1961年の豊中市での強行採決[1]につづき、1962年3月には伊丹市でこの案が提案されるにいたった。

1960年代以降の高度経済成長期には大阪市の近郊にも市街地が拡大し、この空港の周辺も宅地化の波が押し寄せていた一方で、離着陸数の増加や航空機の大型化・ジェット機化がすすみ、1964年6月よりジェット機の乗り入れを開始している。当時はボーイング707ダグラスDC-8コンベア880などの大型ジェット機が相次いで就航している。

[編集] 空港廃止運動

ジェット機乗り入れからわずか4ヵ月後の1964年10月、「大阪国際空港騒音対策協議会(現大阪国際空港周辺都市対策協議会、後の11市協)」が発足した。その後も次第に騒音問題は深刻化し、夜間の飛行禁止などを求めた訴訟や、大阪国際空港の廃止などを求める公害等調整委員会に対する調停が始まった。

反対運動の方も粘り強い活動に転換し、革新政党中心の運動から地域ぐるみの運動に拡大していった。一方で当時は日米地位協定第5条によるアメリカ軍(や自衛隊)の優先使用が頻繁におこなわれ、新明和工業がこの地で軍用機のオーバーホール(1972年打切)を行っていた関係で、1960年代にはベトナム反戦運動とも結びついている。なお、1969年の発着回数は約12万回、後半の半年はおよそ4割がジェット機となっている[2]

運動により当初の計画は遅延していたものの、1970年大阪万博に向けて政府は買収を急ぎ、1966年12月に完了したが、交渉の過程で国際便移転の覚書をかわし、第二空港の建設の必要性を間接的に認めている。しかし、依然として公害防止対策は未熟なままで、空港周辺地域は不眠症や難聴、地震並の振動など劣悪な環境下に置かれた。

そのため1967年、「公共用飛行場周辺における航空機騒音による障害の防止等に関する法律」(航空機騒音防止法)が制定され、本格的な防音改築などの騒音補償が始められた。なお、この法律にもとづく予算措置は当初から、大半が大阪空港関連であった。以後、テレビ受信料の減免や夜間飛行禁止時間の拡大などが行われていく[3]1970年2月5日には3000mのB滑走路が供用開始され、万博には間に合わせることができた。

1973年には伊丹市が「大阪国際空港撤去都市」を宣言。また、同じころにボーイング747型機やマクドネル・ダグラスDC-10などの大型ワイドボディ機材の就航が相次いだが、周辺住民は騒音公害の悪化を理由にこれらの大型ワイドボディ機材の乗り入れに対しても反対運動を行った。

これらの機材は従来のボーイング707などに比べ騒音水準は低かったが、大型飛行機には圧迫感があり、墜落事故の際の市街への危険が大きく、反対は続いた[4]

また、1969年に大阪空港訴訟と呼ばれる国を相手取った国家賠償請求訴訟が同空港の付近住民によって起こされ、長期裁判の結果、1981年最高裁は、大阪国際空港の周辺では騒音等の影響が甚大だったにもかかわらず、その防止に充分な対応をしなかったことから、国に過去分の損害賠償を命じた。

しかし、民事訴訟で航空行政を裁くことはできないということで高裁まで認められた夜間の飛行差し止めなどはすべて却下された。この判決にたいする問題は大阪空港訴訟を参照のこと。ただし、裁判結果を受けた公害調停が進み、上述のように夜間飛行の制限や総枠の制限など裁判で却下された項目が実質的に実現しているものもある。

[編集] 1968年-1970年代前半 第二空港の検討と第一次答申

候補地の総得点と配分率(1974年度価格)
重要度の配
分率(%)
総体的
総得点
概算工事費
(億円)
利用の便利さ 21.7 泉州沖 82.7 5700
管制・運行 19.9 神戸沖 73.6 5700
環境条件 18.8 播磨灘 76.6 3200
建設 12.4
既存権益との調整 8.9
地域計画との整合 12.4
開発効果 9.1
出典:島津康夫「環境アセスメント」第2版P205

1962年のワイズマン報告書で提唱された関西第二空港の建設[5]や、引き続き増大する航空機の利用を受け、国も既存空港の拡張が困難な東京圏および大阪圏で第二空港の設置の検討を始めた。1960年代後半ごろからは公害問題の解決も検討要素にくわえられていく。

大阪圏については1968年から8か所[6]を調査、このなかで大阪南港沖合いなどはアクセス面が有利とみられたが、1969年5月、候補地として淡路島播磨灘神戸沖、泉州沖の4ヶ所が選定された。調査と審議はその後も続けられ、1970年代前半は指針作成に費やされた。

1974年、運輸省から1968年以来の審議の成果である航空審議会第一次答申『関西空港の規模および位置』[7]がしめされ、翌年には資料[8]や経過も公表された。これは新空港の理念について位置づけたものであり、まず、答申主文にて「大阪国際空港の騒音問題の抜本的解決をはかることが緊急の課題であり、したがって新しい空港は、大阪国際空港の廃止を前提として、同空港の機能をかわって受け持つ能力のあるものとしなければならないと認識した」とうたわれ、その具体的条件としては「騒音を海上に封じ込め、陸域に影響を及ぼさない」、「地域社会の合意なしに計画を決定しない」といった哲学が示され、結びとして「政府が計画を決定するのは地域社会との合意がなったときだけである」とされていた。

候補地は淡路島以外の3か所を7つの観点から比較し、委員の投票によって泉州沖が最適と決定した(表参照)[9]。以後、国は泉州沖に建設することを目標に手を打っていく。運輸省による地元での新空港の説明もはじまった。なお、環境条件は騒音、大気汚染、潮流、水質の汚染を考慮し、24時間運用を前提に特に騒音を優先して陸地からの距離を5km離すことも決められていた。

立地選定の段階で客観的データをもちい、それを公表した点はこれまでの公共事業には見られない姿勢である。これは大阪国際空港で発生した騒音問題や一足先に建設に取り掛かった成田国際空港の土地問題の教訓を汲んだためである[10]。陸上空港としての建設はあきらめられ、離着陸経路が市街地に重ならないこと、ある程度の利便性を確保できること、早急に地元の合意を得られる場所であることといった条件を厳しい水準で満たすことが求められたのがわかる。そのため、大阪および阪神間の市街から離れた場所に建設せざるをえなかった[11]

[編集] 1970年代後半-候補地での反発と打開への模索

しかし、国が答申にむけ選定作業を行う一方で、1970年より泉州各市と2度にわたる大阪府の泉州案反対決議、淡路島の各自治体による淡路案反対決議など、大阪湾を取り巻く自治体がことごとく新空港反対を決議していた。また、地元での説明会の際には野次や怒号で運輸省の担当者が3時間何も話すことができないといったケースもあった[12]

運輸省はこれに対処するため環境アセスメントの体制を強化し、1970年代後半はこの事前準備に費やされた。まず、泉州沖での現地調査を了解してもらうための協議が始められた。あわせてアセスメントと地域整備の検討機関として「関西新空港調査研究部会」を設立し、調査をおざなりのものにしないため「11人の侍」とよばれた官民の技術者を結集、直接調査の設計に当たった。同時に講演会や研究会を重ねて理解者を地道に増やしていく活動が続けられた。

このような努力を重ねたが、予定地の海上観測を例にあげると、観測塔の設置要請は1976年だが、観測を始めたのは1978年元旦からとなるなど、時間がかかっていた。これは改めて「空港の建設を前提としたものではない」と大阪府知事が国と約束するなど、理解をえるプロセスがあったからである。本来の環境アセスメントは約束でのべたような性格をもつが、多くの公共事業では戦略的環境アセスメントを行わず、事業の基本構想が決まったあとにそれにあわせて対策を付加する事業アセスメントばかりであったため、当時は単なる事業実施の隠れ蓑になっていた例が多かったこともあり、信頼を損なっていたのである[13]

一方、飴としての性格をもつ地域整備についても1978年より新空港対岸の埋立の検討が開始され、のちのりんくうタウンとして結実する。

このような努力が実を結び、泉州11市町でも反対決議が順次取り下げられていった。一方、こうした地味なやり取りから、一般には依然と着手見込みが立たないまま1980年代を迎えたように見えた。

1980年9月、航空審議会の二次答申がなされ、工法の検討が課題となった。1981年、これらをまとめ、

  • 『関西国際空港の計画案』
  • 『関西国際空港の環境影響評価案』
  • 『関西国際空港の立地に伴う地域整備の考え方』

のいわゆる3点セットが示され、日本初の計画アセスメント(戦略的環境アセスメント)と呼ばれた。これらは一般に販売も行われた。そのなかで第一次答申の地元協議をおこなうため計画案が示された。

[編集] 新空港の技術的課題

事前調査と平行し、沖合い5kmに空港を建設する方法も検討された。しかし、立地を求めようとするほど海は深くなり、平均水深20mに達しており、しかも、海底表面に約18mの軟弱な沖積粘土層が堆積し、「豆腐の上に金塊を乗せるようなもの」とまで言われた[14]

土運船から投下した土砂が海流に流されたり付近の海が汚染されたりする可能性や、護岸による生態系破壊の懸念もあった。当時、巨大人工島による海上空港構想は1971年に「8ヵ国海上空港計画国際会議」でイギリスデンマークオランダなどいくつかの国の構想が披露されていたが、事業着手の見込みが立っているものは一つもなかった。1970年代末にはメガフロートによる建設なども提案されている[15]。しかし、1977年から1982年にかけ行われた長大ボーリングによる土質調査、土砂の投入位置制御、サンドドレーン工法、各地点の沈下量の予測技術、不同沈下が発生した場合のための構造物のジャッキアップ緩傾斜石積護岸などによる藻場の育成など当時の最新技術を導入することで第一次答申通り埋立で解決する見込みが立った[16]

[編集] 1982年 神戸の私案発表

1972年神戸市議会は神戸沖空港反対決議を賛成多数で可決していた。翌年の市長選挙では空港問題が争点となり、現職の宮崎辰雄市長が神戸沖空港の反対を表明し、空港推進派の推す対立候補をしりぞけ再選され、市の構想は一旦消滅した。しかし、大阪府が調査を受け入れ、反対決議が取り下げられ、3点セットが示されるなか、神戸市側は危機感を持ち、1982年、かつて、反対を表明した宮崎市長自らが運輸省に「神戸沖空港試案」を提出した。これに呼応して、神戸市議会も全会派が「空港反対決議」の転換意見書を採択した。市長・議会は空港反対の立場から空港推進の立場へ大きく変わった。

[編集] 泉州周辺自治体の転換・神戸への空港容認

このような神戸推進の動きに対し、1982年、泉州11市町は取り下げからさらに踏み込んで要望決議をした。さらに、泉州推進派はかつて神戸市が反対の姿勢をとっていたことを批判材料とし、「一旦神戸は関空を蹴ったのに」を合言葉に猛烈に巻き返して、神戸沖試案を批判した。運輸省航空局は反対決議が行われて以来、空港関連について神戸市の関係者を出入り禁止にしており、泉州沖推進の立場を維持しつづけ、神戸沖案は不適格、審議会で解決済みとして再審議の可能性を否定した。

しかし、兵庫県、神戸市を中心として神戸沖の必要性=泉州沖の問題を指摘する活動は継続し、泉州沖への同意をしぶる兵庫県が関空実施案への同意表明を行うことを交換条件に、1984年、将来の神戸沖空港の地方空港として、翌年国の空港整備計画に調査空港として位置付けされた。以上が現在の関西国際空港および神戸空港の建設方針の経緯である[17]

その後、神戸空港の計画そのものは行政レベルで継続的に進んでいたが、大阪湾の水質汚濁などの環境問題、近隣に大阪国際空港があり関西新空港が建設されることによる採算の問題、空域の調整の難しさや船舶航路との干渉、予定地域の活断層など安全性の問題などに疑問を持つ人々がおり、早期から反対運動が存在した。 1990年に神戸市は全会一致の推進議決を行ったが、この段階でも議会内に空港反対の意見が存在し、社会党と新社会の分裂の要素の一つともなった。また、「神戸空港を考える会」も発足した。しかし、阪神・淡路大震災が発生するまで、これらの活動は概して限定的で全市民的な運動とはなりえていなかった。

一方、関西新空港は1984年に最終的な計画がまとまったが、第二次答申で示されていた24時間空港ではなく、滑走路1本の変則計画となった。このことについて、当時、運輸省で予算要求の最終調整を担当した小坂英治は「空港の計画技術は素人であり、上記の危惧に思いが十分およばなかった。このため、予算額をしぼりこみたい財政担当者の主張に負け」たと述べている[18]

また、民間活力の導入をはかるため、アセスメント段階の1984年に建設・運営主体として「関西国際空港株式会社」が設立された。翌年発表された計画の概要では、総事業費は1兆円、出資金は国が800億、大阪府をはじめとする11の自治体が200億、民間企業が200億で、残りは借り入れ金となっていた。当時は民間からの出資希望がおおく、しぼりこむ必要があったほどだった[19]

元々騒音が陸地に被らないことを見越して位置を決めたこともあり、ほかの環境対策もアセスをへて方針が固まり、1987年、515haの人工島とターミナルビル1棟、滑走路1本の建設を含む第一期工事が着工された。しかし、ここで出資比率を高めておかなかったことが、のちに空港会社の経営に大きく影響することになる。

[編集] 大阪空港での公害対策の進展

一方、環境庁は1973年12月27日「航空機騒音に係る環境基準」を告示し、大阪国際空港周辺でも評価尺度WECPNLに基づいた騒音対策が開始された。具体的には、同基準を元に航空機騒音防止法の改正が1974年に実施され、従来から実施されてきた公共施設に加えて住宅防音工事や家屋移転補償などが法制化された。この内、住宅防音工事についてみると、1985年までに対象家屋への工事は概ね完了した。このように、1980年代以降こうした対策によるストックが蓄積されていった[20]

発生源対策としてはICAOが制定した ANNEX16の勧告に従い航空法が1975年に改正されて「騒音基準適合証明制度」が創設された。各機種は定期検査時にこれを満たす環境性能を持つことが求められるようになった。そのため、飛来する機種も高バイパス比のターボファンエンジンを装備した、従来よりは静音化されたものに更新されていき、従来騒音源として知られたDC-8は1988年に日本での飛行が禁止された。飛行方式にも工夫が加えられ、安全を損なわない範囲であることを確認した上で、1974年9月より大阪国際空港の離着陸には騒音軽減運航方式[21]が採用された[22]

五十嵐寿一によれば、1973年には騒音コンターで示されたWECPNL75以上の地域の面積は4600haであったが、1983年には1600ha、1991年には1400haに減少しており、地域全体の騒音レベルも1973年に比較して10dB程度下がっていった[23]。このように、完全な解決は望めないものの[24]、成果は挙がりつつあった。候補地での顛末や革新自治体の保守への回帰といった社会全体の動きに流されるかたちで地元意識も変化しつつあり、一方で航空需要の増大は一向にとまる気配がなかった。

[編集] 1990年 大阪国際空港の存続方針の確定

亀山秀一によれば、大阪空港訴訟における昭和55年の調停条項においては,「本件空港の存廃については,被申請人(国)はその責任において,関西国際空港開港時までにこれを決定すること」と提示されていた。このため、運輸省は判断に必要な調査研究を続けていた[22]。そして、関西国際空港開港を数年後にひかえた1990年12月に、関西国際空港開港後は大阪国際空港を国内線に限定して存続させる方針となった(運輸省と周辺自治体による「騒音対策協議会」の調印)。背景として、当初は空港の移転・廃止を主張していた周辺自治体の一部が、航空機の騒音軽減・周辺対策の進展とともに、空港の利便性と経済効果を理由に空港存続へと転換したことや、運輸省(当時)が将来の航空旅客需要をまかなうためには関西国際空港だけでは足りないと判断し、大阪国際空港存続を地元に打診したことがあげられる。さらに、都心から大きく離れた関西国際空港では主力路線の東京線が東海道新幹線との競争力を喪失するため、航空会社側も大阪国際空港の存続を望んでいた。

存廃にかんして、運輸省航空局は1974年8月15日に「『大阪国際空港の廃止を前提として』の運輸省の考え方」を作成し、ただちに廃止を迫るものでないことを運輸大臣に説明している。また、2004年8月25日から9月24日におこなわれた「大阪国際空港の運用見直し案に関するパブリックコメント募集結果について[25]」にて国土交通省は「関西国際空港の建設については大阪国際空港の廃止を前提としたものではなく、「仮に大阪国際空港が廃止されても、その機能を十分に果たしうる新空港の建設を推進すること」という目的のもとに建設された」と回答している。

したがって、第一次答申の意向とあわせて解釈すれば答申は「同空港の機能をかわって受け持つ能力」について記したものと受け取れる[26]

[編集] 関空2期工事

答申とは法的拘束力を持たず指針を示したものであるが、文理解釈があまりにも額面からかけ離れていたり、政策がまったくことなったりするものである場合は当事者同士でも信頼をゆるがすことはある。例えば、佐藤章『関西国際空港 生者のためのピラミッド』によれば、大蔵官僚にとり存続決定は裏切りに映ったという。なぜならば、「1993年度までにつかった伊丹空港の騒音対策予算は約6186億円。これは全国の空港騒音対策予算の58%」にあたり、莫大な費用が投下されていたからである。

また、3空港を満たすほどの需要があるのかも疑問視された。このため、2期工事のボーリング予算には神戸沖もふくめられた。事業費が数分の1ですむ神戸沖は大蔵官僚には魅力的であり、神戸の財界人などが陳情攻勢を繰り返していたからである。しかし、運輸省側も努力を続け、1996年に2期工事が着工準備採択された。

[編集] りんくうタウン問題の顕在化

泉州周辺自治体が賛成に転じ、大阪国際空港と新空港の両方の周辺自治体であり、合意形成で重要な位置にある大阪府では1979年、革新知事である黒田了一にかわり、開発行政に肯定的な岸昌が新たな知事に当選した。

これを追い風とし、1980年代に新空港対岸の埋立事業は急速に具体化し、造成は大阪府により6000億円の費用をかけて行われた。造成後を見越し、1980年代末から1990年ごろにかけて、関西国際空港とスカイゲートブリッジで隔てた、泉佐野市の対岸(海岸沿い)地域に50棟を超す超高層ビルや百貨店などを建設する計画が立てられ、これを「りんくうタウン」と称した。

しかし、バブル崩壊後、次々と計画が凍結され、2000年代初頭までにできた集客施設はりんくうタウン駅(1994年開業)、泉佐野市や大阪府の公共施設、総工費約650億を投じ第三セクターにより運営されるりんくうゲートタワービル、それに流通・製造・加工ゾーンの一部にとどまった。

[編集] 1990年代後半-震災後の神戸空港計画への反発

神戸空港が大きな市民活動により問題視されたのは阪神・淡路大震災後である。笹山市長は震災からわずか1週間後には引き続き空港建設を明言し、震災復興計画に神戸空港計画をもりこんで「防災の拠点」と位置づけた。

しかし、震災で日々の生活にダメージをうけた市民の感情とは大きく乖離し、むしろ逆なでしたものとして大きな反発を招いた[27]。宮崎市長以来の埋め立てを中心とした土地開発行政がバブル崩壊後行き詰ってきたこと、震災前から増加しつつあった市債が急増し、起債残高が一般会計、特別会計等をあわせ3兆円にもなり、財政的にきびしい状況での大規模プロジェクトを危惧する考えなどもあわせ、空港反対は次第に大きな市民運動へと発展した。

また、震災によりポートアイランド液状化現象が発生し神戸大橋の橋脚がずれて一時通行不能となったにも関わらず、そのポートアイランドを介して南側に橋でつながっている神戸空港が震災時に防災拠点になるのかも疑問視された。

この間、神戸で震災ボランティアにたずさわった作家の田中康夫(前長野県知事・新党日本代表)が“勝手連的に”「神戸市民投票を実現する会」を結成、自らがその代表を名乗り、市民運動への取り組みをみせ、知名度の高さや神戸を頻繁に訪問するなど積極的に活動をかさね、市民運動の広がりを助けた。そうしてこの運動は「神戸空港建設の是非を問う住民投票条例」を求める直接請求運動として展開され、その受け皿として市民団体「神戸空港・住民投票の会」が組織された。

1998年、住民投票条例の直接請求を求める署名運動が展開されて有効署名は307,797人に達した。この直接請求をうけて「神戸空港建設の是非を問う住民投票条例案」が議会に提案されるが、空港建設推進派が多数を占めていた議会では大差で否決された。1999年に行われた市議会選挙では震災直後に引き続き空港反対派の議員は増加したものの、議会構成に影響があるほどの勢力にはなりえなかった(空港反対19->23,推進51->49)。その後の市長リコールの直接請求署名運動も行われるが盛り上がらず不成立。また、1999年には野党議員によって「神戸空港建設の是非を問う住民投票条例案」が市議会に提案されるがこれも賛成少数で否決された。

1999年9月、神戸空港島の埋立てが着工された。2001年の神戸市長選挙では神戸市助役で元空港整備本部長だった矢田立郎(無所属)が初当選、このとき空港反対派は候補一本化に失敗した。さらに、建設活動や手続きが進むにつれて市民運動としては沈静化に向かい、2003年の市議会選挙では、建設反対派議員は議席を減らす結果となり、ほぼ震災前の水準に逆戻りした。

一部の市民グループによって空港工事差し止めの一連の訴訟が行われたものの、そのうち一つが2004年に神戸地裁で棄却。2005年大阪高裁、開港後の2007年の最高裁と棄却されるなど成功していない。2005年には小型機用地利用に関する差し止め訴訟も神戸地裁で棄却され、着々と工事の進む神戸空港を開港前に中止するのは困難となった。開港前の最後の選挙である2005年の神戸市長選挙で対立候補の一人は空港反対を争点にしたもののもりあがらず、現職の矢田が再選された。

そして2006年2月16日、神戸空港が開港した。

[編集] 近年の動向

[編集] 大阪国際空港

将来的にはさらに騒音を低減させることや関西国際空港への移転を促進させることを狙い、さらに騒音が低い機材のみの乗り入れ規制や、騒音問題による廃止運動が盛んだったころのようにナローボディ機(ボーイング737エアバスA320などの単一通路機)のみ認める規制案が出ているが、特に後者の案は利用者の数を考えると実現は困難であるともいわれている。

一方、国際便就航のない「国際空港」であることを理由に、2005年度予算編成時、財務・国土交通両大臣間でなされた合意で

  • 種別変更(第一種から第二種A)
  • 総枠や運用時間の限定
  • 環境対策費の大幅削減や空港利用者負担制度(利用者から特別着陸料300円を徴収)の導入

上記3項目などを求めた。種別変更は重要な問題で、滑走路などの基本施設の整備費は第一種なら国が全額負担するが、第二種Aになると地元に3分の1の負担が生ずる。周辺自治体(11市協等)は反対し、第一種存続を求めた。このときの種別変更は結局見送られた。

国土交通省交通政策審議会航空分科会は2007年6月21日、種別変更(格下げ)の検討が必要という答申案を出したが、前回同様11市協は反対の姿勢を示している[28]。一般紙は「3空港が特性をいかし、連携して航空需要をになうことが必要」と評している[29]。その後、兵庫県井戸敏三知事も10月15日の会見で地元負担増などに関して批判した[30]

大阪府太田房江知事(当時)は国土交通省に対し、国が管理運営する基幹空港として維持し、地元に整備費負担を求めないよう要望している。この件で両知事は10月5日に国土交通省をおとずれ、冬柴鐵三国土交通大臣(当時)に要望書を渡している。

太田にかわり大阪府知事となった橋下徹は2008年7月、「関西3空港の運用方針の見直しとともに、大阪空港の廃止を視野にいれた」関空活性化案を検討するチームを設置し、多方面を巻き込んだ議論をしたうえで、年内に一定の結論をだすことを明らかとし、31日には航空会社や関係省庁に要請するため上京した[31]

関西国際空港への就航便数の減少により同空港が非活性化し、結果として大阪の経済が地盤沈下することを懸念したためである。泉佐野市など関空周辺自治体は歓迎ムードであると伝えられる[32]。上述の経緯より国土交通省や周辺自治体からの反発は必至で、すでに批判が出ている[33]が、関西3空港のあり方は地元自治体により改めて問われることとなった[34]

この動きは財界でも議論への刺激となったほか、[35]、泉州地域では伊丹の廃止を要望する決議をおこなった自治体もある[36]

なお、上記チームによる検討とさらなる議論の結果、2009年1月に橋下は「勉強不足であった」として大阪空港廃止論を撤回し、大阪府としては関西国際空港の活性化を重視し、関西3空港の一体的運営に関しては将来的な課題とする府の従来方針に準じた内容を、関西3空港に関する提言[37]としてまとめたことを表明している[38][39]

大阪国際空港が存在するため、大阪市都心部においても航空法により、都市開発上高層ビルが建築において高さの制限が存在する[40][41][42]

また、ソウル便などの近距離国際線の復活を望む声はいまだに根強い[43]

[編集] 関西国際空港

その後、1994年9月4日に関西国際空港が開港。さらに、2006年2月16日に神戸沖に国内線専用の地方空港として神戸空港が開港した。2007年8月2日には関西国際空港2期工事により第二滑走路が供用を開始し、同空港は発着容量の増加に加え、完全な24時間運用が可能な体勢となった(なお、関連設備の工事が一部未了だったため、関西国際空港の完全な24時間運用の開始は同年9月であった)。

現在、関空会社の有利子負債は1兆円以上存在し、また、第2期工事費用の予算を認める条件として、関空の「年間発着回数13万回達成」を財務省から求められている。一方、貨物については近年ではアジア経済の成長により増便が続いており、空港会社は大きな期待を寄せている[44]。しかし2008年は不況などの影響により頼みの綱となるJALANAを中心に発着便の大幅な減便を行うなど、前年比の発着回数が下回る結果となった。今後も両社共に発着便の減便(もしくは廃止)を行うことを示唆して、財務省から提示された発着回数を達成できるかどうかが難しくなってきている。またこのことが新たな施設に対する予算に大きく影響すると考えられる。

また2006年、事業採択から10年を経過したため、「国土交通省所管公共事業の再評価実施要領」にしたがい2期事業の費用便益分析について再評価を行った。その結果、「評価対象期間【限定供用+50年間】」の場合全体事業で費用対効果(B/C)は5.7であった。2前後の便益の公共事業も多いなかでは高い値を示しているといえる[45]

[編集] 神戸空港

2000年代に入り、工事が進んで開港が現実のものとなってくると、神戸空港批判には、他の2空港との需要の食い合いによる採算性が前面に出るようになった。具体的には、神戸発着の便数と利用者の増加が対策として考えられ、『ファイプル増刊 第5弾』では大阪空港からの国内線のシフト先を関西国際空港だけではなく、神戸空港にも割り振ることを提案している[46]

また、発着数増加の方法の一つとして国際空港化が議論されている(下記報道・外部リンク等を参照のこと)。しかし、神戸空港は2500 m滑走路を1本有するのみであり、検疫等国際空港に必要な設備を整えたとしても、大型機の発着には難が残る[47]。地元以外では、村山敦のように合意での位置付けからの逸脱を警戒する向きもある[48]。更に、関空2期工事完成以前には、その足を引っ張らないため、地元財界でも、神戸経済同友会の2006年2月13日のアピールのように、国際化に遠慮した内容で出された例もあった[49]

また、開港によりポートアイランドの土地売却は加速したものの、空港島の土地売却は、ほとんど買い手がついていない状況であり、先行きに不安があった[50]

2007年8月2日、関西国際空港が第二滑走路の使用を開始した。神戸商工会議所の水越浩士会頭は「完全二十四時間運用の国際空港が誕生し関西、日本経済の発展に寄与すると期待している。神戸でも神戸空港との連携強化に努めたい」と述べ、神戸経済界は歓迎ムードであるという[51]

[編集] りんくうタウン

公共施設の建設の際には地価が高騰していたことなどもあり、その後は重荷となった。1500億もの費用を投じて多くのハコモノ施設、下水道などのライフライン整備も負担した泉佐野市は空港効果による開発収入を期待していた。当初計画では、全ての用地を大阪府の第三セクター会社などを通して分譲する予定だったが、分譲が進まず、財政の先行きに暗雲が広がった。最も先行きが不安であった1990年代から2000年代初頭にはマスコミにより関西国際空港事業の一環として大阪府の見通しの甘さが批判される事が度々起こった。

そのため一部を定期借地権方式に切り替えた。その結果、2005年には、工場や、ヤマダ電機、イオンモール、ニトリ、スポーツデポなどの大型店が出店、或いは出店予定するなどして企業の進出ラッシュが起こった。副都心という構想とは離れているが、高層住宅の建設計画もある。韓国テーマパーク「りんくうコリアビレッジ」を計画するものの頓挫してしまった。また、2008年4月には、航空保安大学校東京都・羽田)が移転。また約7.6ヘクタールの商業地に、大和ハウス工業により職業体験型テーマパーク・大観覧車などを集めた複合商業「りんくうプレジャータウンSEACLE」が2007年10月に開業した。

以上の結果、2003年頃に45.7%だった契約率は改善し、2007年3月31日の時点で、計画面積のうち民間・公共施設合わせて77.3%が契約済みとなっている。特に、流通・製造・加工ゾーンは空港二期工事の完成とアジア地域の経済発展による国際航空貨物の取扱量増加を背景に設備投資が続き急激に進み、2006年末で95%が契約済みとなっている。

その一方で定期借地権方式によって約3000億円の赤字が残ることとなった。すなわち「もうかっても赤字は消えない」ということである。そのために依然として大阪府や泉州地域の市町村の財政悪化問題は解決せず、空港関連以外の問題もあったため財政再建団体に転落しかねない状況になった。それに加え、第三セクター法人も問題を抱えており、「りんくうゲートタワービル株式会社」は2005年末会社更生法の適用を申請し破綻した。三セクに関しては大阪府が経営支援策を発表している。泉佐野市は2004年度に財政非常事態宣言を出した。同市はその後、歳出削減を進めて2006年度には普通会計決算で黒字としたものの、2008年度には財政悪化に伴い早期健全化団体に転落している。しかしりんくうタウンから関連性の低い市町村(阪南市・岬町など)でも年々財政悪化が進んでいる。このことで岩室敏和(阪南市長;当時)は地元紙(ニュースせんなん)のインタビューで「りんくう・関空からもたらされた効果は(りんくうタウン・関空を持つ市町村との)格差だけ」と苦言を呈した。

2007年末、国土交通省は空港会社の有利子負債削減と通行料引き下げを狙って、空港連絡橋を買い取り、国有化することを決めた。これに対し、連絡橋の固定資産税を毎年約8億受け取っていた泉佐野市は反発し、国土交通省に税収減を補填する措置を求めた。しかし同市は提示された支援策の内容に不満を示し、2008年8月19日、空港連絡橋に独自の通行税を課税する条例案を市議会で可決した。「物の流通に重大な損害をあたえないこと」などといった条件が無ければ総務省は自治体の新税に同意しなければならないが、増田寛也総務大臣は「対応の方針は中立的な白紙」と26日の会見で述べた。民間からは空港会社のほか、大阪府トラック協会からも値下げ効果を減殺することを理由に新税へ反発の声が上がっている[52]

[編集] 関係者・識者の議論

複雑な経緯を持っているため専門家や当事者の中にも立場に応じ多様な見解が存在する。例えば佐藤章は関西国際空港ひとつとっても、予算は大蔵省が、人事は運輸省、大阪府、大阪市、そして関西電力松下電器産業サントリーなど、地元関西の有力財界人が握っていると指摘している[53]

[編集] 行政(旧運輸省 現:国土交通省)寄りの視点

関西経済同友会事務局長の斎藤行巨経営力をキーとして受け答えする中で「悩ましい問題ですね」と過去の錯綜を認めながらも「伊丹があるから関空の経営が苦しくなるとはあまり考えない方が良い」とコメントしている[54]

運輸官僚時代に空港計画に関わった、元大阪産業大学教授の今野修平は「基礎認識が整理されないまま議論が行われている」と述べ、規模や予算の問題より航空交通をどう導入するかについての議論が重要と指摘している[55]

その観点から海外で空港インフラが充実している都市の例をあげた後、神戸空港について「いきさつもあり、けしからんと言う人がいますが、都市のためのインフラとして認めるのであれば、あれだけの大都市ですから神戸以西に住む人たちのための空港があってもおかしくない」と述べている。ただし、「大阪市のお客さんをとろうなどというのは神戸空港の計画理論にはないし、需要予測にも入れていません」と語った。

三空港の使い分けについては複数空港の先行例である首都圏を例に「国際線で国内に降り立って国内線に乗り換えられない空港」を「機能分担として異常」であるとし、この轍を踏まないように主張している。また、大量の小型機が発着する八尾空港をも関連付け、容量にゆとりが生まれている事を活用し一部地方や離島などへの「公共交通」が大阪国際空港から締め出されている状態を「羽田病をひきずっている」と批判している。

また、ハブ空港となるために母体になる航空会社を設立する必要性についても指摘し、「関西は、阪急阪神近鉄といった電鉄会社を育てました。国際交通では商船三井という海運業をちゃんと育てています。ところが航空の時代になってからは誰も声をかけないし、コミューター航空会社すら成立していない。これは政策の問題ではない。経済界の認識が立ち遅れてしまったのだと思います。」と述べ、それが輸送用機器やIC関連など付加価値の高い産業が関西で発達しなかった遠因との認識を示した。

行政については「それなりの努力をして、反対運動と対峙しながら空港をつくってきた」点を評価している。

[編集] 大阪国際空港寄りの主張

11市のうち、伊丹市議会は1973年に「空港撤去宣言」を議決していたが、2005年の市長交代により存続の姿勢が強化され2006年10月4日に「共生都市宣言」に転換した。また、11市協や大阪国際空港及びその周辺地域活性化促進協議会(空港活性協)は空港機能拡大へ強い意欲を見せており、「関空と綱引きしてでも近距離の国際線を再び就航させるべきだ」[56]と将来像を描いている。

ただし、11市協に参加する自治体でも温度差があるようで、伊丹市のように共生を前面に押し出す自治体がある一方、尼崎市長の白井文のように「いつのまにか騒音対策協議会が『活性化協議会』に変わっている」と名称変更後も参加しながらも、困惑しているケースもある [57]

航空会社は個々の会社がマスコミの取材に応じている他、業界団体を通じて意見表明も行っている。2002年11月に国土交通省は空港機能の縮小や環境対策の受益者負担として大阪国際空港の着陸料を49万円から98万円に引き上げる事を提案した。航空会社で組織する定期航空協会は意見を発表し関西空港には伊丹空港の代替性がないこと、具体的には利用者の選好性が低いことに加え、航空会社にとっても運航コストが高いとし、「提案された空港機能の縮小案に対し反対する」としている。また環境対策としての着陸料の引き上げにも反対している。

最近では、2007年、第二滑走路の使用開始に併せて開かれた上記のシンポジウムで、パネリストから着陸料など関西国際空港の高コストに対する批判が多く出された際、日本航空会長の新町敏行が発言し「関空の着陸料は、世界の他空港の約二倍。これでは国際競争には勝てない」と述べており、定期航空協会からも、交通アクセスが良く、大阪国際空港が現状の安い着陸料のまま使用できることを望んでいると、コメントがよせられた[58]

[編集] 関西国際空港寄りの主張

[編集] 関西国際空港会社社長村山敦

村山敦は空港の経営者として多くの発言を行っている。就任当初は「伊丹空港の一定のシーリング(上限枠)を定めるべきである。長距離線は関西空港、短距離線は伊丹空港とスミ分けもするべきである。伊丹空港には騒音対策費が7,000億円も投入されている[59]。そうした空港に便利さだけに拡大をのばなしさせていいものか、関西の人達に環境に対するモラルも問われる」とコメントし2007年の泉南文化ジャーナル社のインタビューでも「関空建設に際しての経緯そして原点は決して忘れていただきたくない」と述べ現在でも大阪国際空港の機能維持・拡大には否定的である。

一方で国に対しても「関空の国内線の便数が減ったのは、国がお決めになった方針を変更されたために起因する部分が大きく、関西それぞれの三空港の役割分担を明確にしておく必要があると考えております」と述べている。航空機と競合する新幹線については、民主党の長安たかし衆議院議員との対談で「道路整備や新幹線とかに必死になって、心ある政治家しか空港のことを考えない。変な状況になっていると思いませんか」とも発言し、対抗心をあらわにしている。

また、神戸空港に対しては羽田、札幌那覇便が増便された際「神戸は関空を補完する位置付けだったはず。競合路線が増えるのは望ましくない」と取材に対し答えている[60]。また、第二滑走路の使用開始に併せて開かれたシンポジウムでは、「今後、神戸と客の取り合いにならないか心配。大阪(伊丹)空港を規制して関空の増便を」と述べた。[61]

今後の展望については同シンポで「アジアとのネットワークを備えた国際貨物ハブ(拠点)空港を目指す」と述べている。

なお、上述の大阪府の橋下徹知事による「大阪空港の廃止を視野に入れた」関西空港の活性化のコメントに対し、「自治体の長が自ら関空シフトの推進を表明してくれた」と歓迎の意思を表明していた[62]が、2008年9月に行われた神戸市長も交えた会談では、三空港統合に向けた動きにも前向きな姿勢を示した[63]

[編集] 関西経済同友会代表幹事(南海電気鉄道会長)山中諄

関西経済同友会代表幹事を勤める山中諄南海電気鉄道会長は、2009年10月22日の記者会見で「国際ハブ(拠点)空港として関空の機能強化を目指すなら、神戸を廃止し、伊丹の(主要)機能を関空に移転するのがベターではないか」と述べ、神戸空港を廃止すべきだとの見解を示した[64]

[編集] その他

イコールフッティング論から見た各空港競争条件の(主に資本費、運営費からの)公平化という視点から関西国際空港が不利な条件に置かれていると指摘される場合もある[65]。関西国際空港寄りの観点から大阪国際空港の存続へ否定的意見もある。中央大学経済学部教授の山崎朗は、上記の東海道新幹線との関係や神戸空港の開港と絡めて、山崎の見解として「伊丹を廃止できれば一番いいわけです。伊丹空港は赤字空港ですし、騒音対策費も正確には分かりませんが、毎年70-80億円必要になっているようです[66]」と述べている。[67]

一方で、ニーズの高い空港を閉鎖して需要を関空に移すという「伊丹廃止」論への反対意見として、「郊外に大型商業店があるので、駅前にある便利で人気のお店を閉店せよ---。伊丹廃止論はそう言っているようなもの」と、伊丹市の藤原保幸市長は反論をしている。[68]関空の大きな課題、つまりアクセスの問題と脆弱な財務体質の反映である高コスト構造を解決しなければ、伊丹を廃止するにせよ存続させるにせよ、抜本的な解決にならないと、経済・航空関係者なども述べている[69]

[編集] 神戸空港寄りの主張

開港から間もない2006年3月18日、二階俊博経済産業相(当時)はタウンミーティングにて「現状は国内空港だが、神戸の街には世界的な知名度がある。取り組み次第で位置づけは上がる」と述べた[70]

[編集] 鉄道側の主張および航空との競合関係

航空会社側の東京線への対応や政府の運輸政策全体について、東海道新幹線を運用するJR東海の社長を務めた葛西敬之は、国鉄債務の返済スキームの一環として東海道新幹線の高い収益力が利用され「少なく見積っても二〇%以上高い政策経費負担」が付加されていることを取り上げている。更に、座席提供数や随時性など東京-大阪・岡山間の輸送需要への適性が高く、二酸化炭素排出量などの環境負荷が低く[71]、本来は経費も安く済む事、政策負担がなければ本来航空機の参入の余地がないことなどを列挙し「不採算路線維持政策のために政府自らの手で付加した人工的コストを前提に競争させることは、不公平なハンディキャップ競争である」などと批判し、航空業界を「見せ掛けの競争力」を持ち、美味しい部分だけを掬い取っていく存在として、クリームスキミングの一例だと主張している。解決策としては、東京大阪間の発着枠を国際線や遠距離などに振り分けるべきとしている。しかし、市場規模が徐々に拡大したことや関西国際空港の開港、羽田の羽田空港の発着枠拡大等もあり、現在でも同区間における航空機の旅客シェアと輸送量は大きな伸びを続けており、政策による解消が見込めないことから、同社は国鉄時代には保守取替え費のみに抑えられていた東海道新幹線への全ての面について積極投資を進めることで、シェアの回復を狙っている[72]。また長期的にはリニア方式の中央新幹線を建設することによって東京-大阪間の航空便が完全に時間的競争力を失って飛ばなくなる旨を述べた[71]

一方で神戸空港の開港により鉄道との競争も激化しており、JR側は乗車率の低い「ひかり」を活用し2005年より東京観光キャンペーン「トーキョーブックマーク」などで攻勢をかけている。このことについて国土交通省の鈴木久泰航空局長は2006年秋に「今まであまり仲良くなかったJR東海と西日本が、ものすごくサービスを向上させた。神戸空港は向こうを怒らせたところもあり、頑張り切れていない」と述べている[73]

[編集] 三空港経営統合論

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[編集] 脚注

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  1. ^ 豊中市の採決は少数差であった。1962年3月の伊丹市議会の場合、採決当日は伏見正慶市長の要請で警官1000名が動員されるなか、議会での質問を打ち切って1分で採決を行った(『公害と住民運動(自治体研究社 1970年)』「第四章 航空騒音と住民とのたたかい」P182-183)
  2. ^ 開港時から1960年ごろまでの事情は周辺各自治体市史などを除くと少ない。ここでは周辺自治体の多くが公的に反対側についていた時代に反対運動側の視点より書かれた『公害と住民運動(自治体研究社 1970年)』「第四章 航空騒音と住民とのたたかい」より抜粋した。なお、保守系誌で知られる産経新聞論説委員で過去空港問題の取材に当たった萩原征三郎も、仕事の関係で1969年に豊中市に居住した際、B737の頻繁な離着陸に悩まされたことを述懐している(『ファイプル 増刊 第3弾』P51)。
  3. ^ なお、補償については、戦時中の拡張工事で徴用された後退去しなかった在日朝鮮人集落という特殊な状況ではあるが、ジェット化から30年以上経過して移転が完了した事例もある。「(上)消えた騒音大阪空港 用地内に集落」 神戸新聞、2008年5月20日。
  4. ^ 『公害と住民運動(自治体研究社 1970年)』「第四章 航空騒音と住民とのたたかい」では、180ページにて、米軍機の燃料タンクが落下して民家が焼失し、幼児が死亡した事例や自衛隊機が空港付近の田んぼに不時着した例などをあげている。日本航空123便墜落事故で墜落したJA8119機も過去大阪国際空港での尻もち事故を起こした。このような事例より、いまだ民間機の離着陸失敗等による墜落事例こそないものの、大阪国際空港が事故時の市街地への被害という点で危険性の高い空港であるということは『ファイプル 増刊第5弾』52ページで斉藤行巨が経営上の視点から指摘している。
  5. ^ http://www.kald.co.jp/symposium_data/075/japanese/075c/075c26.html 関西国際空港用地造成株式会社HP なお、ワイズマン報告書とは国連技術援助計画調査団による調査報告書をさす。
  6. ^ 当初は淡路島、阪和地区、堺沖、明石沖、岡山県の錦海湾の5箇所が調査地点であったが、その後、阪和県境、泉南沖、岸和田沖、西宮沖、六甲沖、ポートアイランド沖、明石沖(後に播磨灘と呼称変更)、淡路島の8か所となった。
    (『ファイプル増刊 第3弾』P51)
  7. ^ [1]
  8. ^ [2]
  9. ^ 島津康夫「環境アセスメント」第2版P203
  10. ^ 「2 空港部門 関西国際空港」『ASCE Monuments of the Millennium 人類が20世紀に残した偉大なる技術への挑戦』(月間同友社 2002年)
    島津康男『環境アセスメント 第二版』 日本放送出版協会 1987年
  11. ^ 審議経過については関西空港会社ウェブサイトの『関西空港誕生の経緯』もよくまとめられているので参照のこと。特に(3) 調査の開始と泉州沖候補地の決定などが関係する。
  12. ^ 「2 空港部門 関西国際空港」『ASCE Monuments of the Millennium 人類が20世紀に残した偉大なる技術への挑戦』P18内パラグラフ「地元の反対をほぐしていった産官学の連携活動」(月間同友社 2002年)
  13. ^ 島津康男『環境アセスメント』第2版P205
    なお、同書には環境庁がアセスメントの範囲や法的位置づけの拡大を目指して、法制化への努力を行ったことも記されている(法制化は同書に描かれた1980年前後からずっとあとの1997年である)。
  14. ^ 「2 空港部門 関西国際空港」『ASCE Monuments of the Millennium 人類が20世紀に残した偉大なる技術への挑戦』P19-20内パラグラフ「短期間での空港島建設を可能にした技術の数々」(月間同友社 2002年)
  15. ^ 「浮体方式による関西新空港(スポット解説)」『運輸と経済』Vol.38, No.5 (1978/05) pp. p47-49
  16. ^ 「2 空港部門 関西国際空港」『ASCE Monuments of the Millennium 人類が20世紀に残した偉大なる技術への挑戦』(月間同友社 2002年)
  17. ^ 主に『関西国際空港 生者のためのピラミッド』を参考とした。
  18. ^ 『Kansai空港レビュー』2006年3月号巻頭言
  19. ^ 島津康男 『環境アセスメント』
  20. ^ なお、滑走路北側においては家屋移転補償が実施された跡地の一部はエアフロントオアシス下河原と言う名の展望を目的とした公園として国が整備し、2001年に開園している。伊丹スカイパークも同種の施設として2003年に本格オープンした。
    大阪国際空港における周辺環境対策について(PDF)国土交通省 15枚中の14枚目
  21. ^ 急上昇方式、低フラップ角進入方式、ディレイドフラップ進入方式
  22. ^ a b 亀山秀一(運輸省航空局飛行場部環境整備課補佐官)「特集航空分野における騒音対策の進展-大阪国際空港騒音調停成立10年を迎えて- 」公害等調整委員会 総務省HP
  23. ^ 五十嵐寿一「航空機騒音の環境基準をめぐる課題について」『航空環境研究』No.1(1997),pp4-8
  24. ^ 騒音問題に対しては行政による騒音測定が現在も継続されている。県と宝塚市の環境白書[3] [4]
  25. ^ [5]
  26. ^ これに関連して上述の小坂英治は『Kansai空港レビュー2006年3月号』に「関空は伊丹空港の廃止を前提としたか」という寄稿を行っている
  27. ^ 朝日新聞1998年9月23日 社説「神戸空港」―住民の意思を問おう
    でも、空港の是非をとう住民投票条例案の署名が提出に必要な30万に近づいたことを取り上げながら、「震災復興のためにも」とも発言した市長の発言に市民の違和感が広がったとしている。
  28. ^ 交通政策審議会第10回航空分科会議事概要2007年6月21日
    現行の「第一種・第二種・第三種」の区分を見直し、新たな分類をつくることを検討している。新分類では、大阪国際空港は現行の第二種Aに相当する分類への「事実上の格下げ」が検討されている。
  29. ^ 毎日新聞2007年6月30日阪神版
  30. ^ 神戸新聞2007年10月16日 会見要旨として
    ・「伊丹空港の運用や整備内容は何も変わらないのに、なぜ地元負担が増えるのか全く理解できない」
    ・「伊丹空港の存続が決まったときに、国は今後も管理・運営の責任を負うと約束している」
    ・「理解できないことだらけで、納得できる説明のない限り認められない。絶対反対」
    などと発言している。さらに国際線がないことが「事実上の格下げ」の理由となっていること対して
    ・「国際線を飛ばさせないよう制限しておいて、その現実を理由付けに使うという問題ある論議。何を言っているんだ」と発言している。
  31. ^ 「橋下知事の発言は素人」 空港めぐり冬柴国交相が批判 朝日新聞 2008年8月1日
  32. ^ 読売新聞2008年8月1日
  33. ^ 産経新聞2008年7月31日「良識疑う」「もともと廃止対象」 伊丹廃止検討に賛否
  34. ^ 橋下知事「行政は素人じゃないと」 冬柴国交相に反論 朝日新聞 2008年8月1日
    なお、冬柴も兵庫県尼崎市の衆院兵庫8区選出であることを同新聞の記事はつたえる。
  35. ^ 財界も3空港問題を議論 橋下発言に刺激受ける?朝日新聞 2008年8月27日
  36. ^ 朝日新聞 2008年9月3日 大阪空港廃止を求める決議 関空地元の泉南市議会
  37. ^ 関西3空港に関する提言(素案)- 大阪府 空港戦略室
    http://www.pref.osaka.jp/kutai/teigen/teigen.pdf
  38. ^ 「伊丹空港廃止論」半年で撤回 橋下知事(2009年1月30日asahi.com、同31日朝日新聞)
    http://www.asahi.com/national/update/0130/OSK200901300073.html
  39. ^ 大阪府が関西3空港に関する提言 関空を出入国拠点に(2009年1月30日MSN産経ニュース、同31日産経新聞)
    http://sankei.jp.msn.com/politics/local/090130/lcl0901302321005-n1.htm
  40. ^ 大阪航空局 空港周辺における建物等設置の制限
  41. ^ 制限の詳細図
  42. ^ 平成20年度第1回大阪市都市計画審議会会議要旨実施日5月13日。梅田・中ノ島の開発プロジェクトでもビルの高さを遵法する範囲内でビルの大きさが決められているが、近年でもこのように都市の長期計画を立てる際に再確認はなされている。
  43. ^ 大阪国際空港及びその周辺地域活性化促進協議会の平成20年度会長松谷英次郎によると、伊丹商工会議所の会員にむけてアンケート調査を実施したところ「近距離アジア便の復活」の要望が31.8%ともっとも大きかった。
  44. ^ IR資料による記述である
  45. ^ 関西国際空港株式会社公式サイトの「2期事業」などより。費用便益による評価は国土交通省所管事業の大半で実施している
  46. ^ 「2007年8月「第2滑走路供用開始」後の関西国際空港のあり方」『ファイプル増刊 第5弾』P31 月刊同友社 2006年12月
  47. ^ 今野修平は『ファイプル増刊 第5弾』にて運輸省時代に神戸空港の計画に関わった際、国際化を全く視野に入れずに計画したことを回顧しており、同号自体も滑走路の長さの点で(国際線の運用が完全に不可能ではないものの)神戸を含む2500mの長さの滑走路を持つ空港を押しなべて長距離国際線等には不利と述べた。
    野村知生『神戸空港、誰が利用する?』は神戸空港建設反対派の観点からこの点を指摘している。
  48. ^ 関西国際空港㈱ 村山 敦社長に聞く vol.1 離着陸スムーズ「真の24時間空港」へ 2007.1.1号 泉南文化ジャーナル社
    にて神戸空港の開港へのコメントを求められた際、「関空建設に際しての経緯そして原点は決して忘れていただきたくない」「『神戸空港』は、運用時間15時間、1日の発着回数60回を上限とし、150万都市神戸及びその周辺の国内航空需要に対応する地方空港という、2005年 11月に関西3空港懇談会において了承された役割分担を踏まえたうえで、関西3空港のトータルとしての最適運用を果たしていくことが重要だ」などと発言した。
  49. ^ 神戸空港「国際化」、財界は禁句? 関空への悪影響懸念『朝日新聞』2006年02月16日
  50. ^ 連載「光と影 -神戸空港開港1年」の「3.売れぬ土地 企業敬遠、打開策探る」『神戸新聞』 2007年2月12日
  51. ^ 8月2日付 神戸新聞による。
  52. ^ 連絡橋についての2007年-2008年頃のあらましについては下記によった。
    関空連絡橋 通行税導入「やむなし」 検討委報告産経関西 2008年8月2日
    関空連絡橋へ「通行税」提案 日経新聞2008年9月1日
  53. ^ 佐藤章『関西国際空港 生者のためのピラミッド』 中公新書 1994年
  54. ^ ファイプル増刊 第5弾(月刊同友社 2006年12月)のインタビューにて
  55. ^ ファイプル増刊 第5弾(月刊同友社 2006年12月)のインタビューにて
  56. ^ 日経新聞 2007年7月26日
  57. ^ 大阪日日新聞 関西空港10年 第一部 揺れる足元 2004年8月4日
  58. ^ 『神戸新聞』 2007年5月28日
  59. ^ 更に参考として次の数字を挙げる。1967年度から2002年度で7774億円(『ファイプル増刊 第2弾』P16 2003年9月)。
  60. ^ 神戸新聞 2007年2月11日
  61. ^ 神戸新聞 2007年5月28日
  62. ^ 「良識疑う」「もともと廃止対象」 伊丹廃止検討に賛否 産経ニュース 2008年7月31日
  63. ^ 3空港「一体運営めざす」――橋下知事・神戸市長・関空社長が会談「1年めどに総意」日経NET関西 2008年9月12日
  64. ^ 『神戸空港を廃止し関空強化を関西同友会の山中代表幹事』西日本新聞 2009年10月22日
  65. ^ 『ファイプル増刊 第3弾』月刊同友社 2004年7月
  66. ^ 現在、大阪国際空港では着陸料だけで年間140億円以上の収益があり、それが空港整備特別会計として一旦国庫に収められた後、改めて環境対策事業費として拠出されている。山崎のコメントは、読み方によっては「『騒音対策費』の出費のために、伊丹が赤字空港となっている」ともとれるが、そうした解釈は正しくない。ただし、
    (1)環境対策費は大阪国際空港だけではなく全国の空港利用者からプール制で徴収し、その対策費の最も大きな投資先が同空港となっていること
    (2)大阪国際空港の施設には固定資産税都市計画税はかからない一方、関西国際空港は民間経営であるため年間約100億の税を納めており、2空港間にはその点でも競争格差があること
    を問題視する記事もある(『ファイプル 増刊 第2弾』2003年9月P16)。このように外部不経済である社会的費用をどのように捉え、内部化し、空港運営とのすりあわせを図るかは、統一した対応策が取られてきたわけではない。
  67. ^ ファイプル増刊(月刊同友社 2006年12月)のインタビューにて。同誌はこの増刊の『成田問題解決の中で改めて問われる「関西3空港」のあり方』という記事中で、「伊丹にこだわる地域エゴを隠そうともしない議論」等と伊丹側に厳しい批判が多い。
  68. ^ 東洋経済オンライン2010年8月25日付記事、「関西国際空港の挑戦」。藤原市長の当該コメントは東洋経済のインタビューに対し発言している。[6]
  69. ^ 週刊東洋経済2010年2月13日号。この中では、関空の高コスト構造の対策として、3空港懇談会が示している「経営一元管理」案が現実的ではないかとの主張を述べている。航空アナリストの杉浦一機氏の「関空の経営にメドが立つまでは3空港の経営を一体化し、一方で制約を緩和することで伊丹と神戸の魅力を最大に高めて、3空港トータルでの収入を増やしていくべきだろう」という意見を紹介している。そのためには、関空は国際拠点空港、伊丹は都市型空港、そして神戸は周辺需要に対応する地方空港と明確に位置づけ、それぞれの強みを生かす必要があるとしている。
  70. ^ 神戸新聞 2006年3月19日
  71. ^ a b 温暖化対策へ貢献する東海道新幹線とバイパス計画『国際シンポジウム~気候変動と交通戦略~』内2007年12月14日
    主催:財団法人運輸政策研究機構、東海旅客鉄道株式会社
  72. ^ 政策負担と航空業界批判については『未完の国鉄改革』第2章P32-34、第12章、内特にクリームスキミングについては第5章P153-154
    JRの羽田-大阪航空便対策については葛西敬之『国鉄改革の真実』(中央公論新社 2007年)第6章、第7章、東海道新幹線#他の交通機関との競合等を参照
  73. ^ 2.VS新幹線 激しい競争募る危機感 2007年02月11日『光と影-神戸空港開港1年』 神戸新聞

[編集] 参考文献

  • 宮本憲一(編)『公害と住民運動』「第四章 航空騒音と住民のたたかい」 自治体研究社、1970年
  • 島津康男『環境アセスメント』 日本放送出版協会、1987年
  • 佐藤章『関西国際空港 生者のためのピラミッド』 中公新書 1994年
  • 葛西敬之『未完の国鉄改革』東洋経済新報社、2001年
  • 「2 空港部門 関西国際空港」『ASCE Monuments of the Millennium 人類が20世紀に残した偉大なる技術への挑戦』(月間同友社 2002年)
  • 「関空会社の経営問題と関西3空港のあり方」『ファイプル増刊 第2弾』月刊同友社 2003年9月
  • 「関空の原点に立っていま何をなさねばならないか」『ファイプル増刊 第3弾』月刊同友社 2004年7月
  • 「2007年8月「第2滑走路供用開始」後の関西国際空港のあり方」『ファイプル増刊 第5弾』月刊同友社 2006年12月

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

[編集] 公的機関(報道発表は別)

[編集] 報道発表

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