間人町

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たいざちょう
間人町
廃止日 1955年2月1日
廃止理由 新設合併
間人町豊栄村竹野村上宇川村下宇川村丹後町
現在の自治体 京丹後市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 近畿地方
都道府県 京都府
竹野郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
総人口 3,987
国勢調査1950年
隣接自治体 網野町、豊栄村、竹野村
間人町役場
所在地 京都府竹野郡間人町
座標 北緯35度44分25秒 東経135度06分07秒 / 北緯35.74014度 東経135.10206度 / 35.74014; 135.10206座標: 北緯35度44分25秒 東経135度06分07秒 / 北緯35.74014度 東経135.10206度 / 35.74014; 135.10206
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間人町(たいざちょう)は、京都府竹野郡にあった日本海に面していた。現在の京丹後市丹後町間人にあたる。

本項では町制前の名称である間人村(たいざむら)についても述べる。

地理[編集]

歴史[編集]

教育[編集]

中学校[編集]

小学校[編集]

出身者[編集]

  • 松本重太郎 - 実業家。様々な企業の設立に携わり、「関東の渋沢(栄一)、関西の松本」と謳われた[2]。間人小学校には松本の石像が建立されている[2]。間人村小間西生まれ[2]
  • 植垣弥一郎 - 実業家・政治家。明治乳業社長・会長や参議院議員を務めた[3]。生涯にわたって故郷の間人を愛し、玄関の表札には「植垣間人」と記していた[3]。間人村岡成生まれ[3]
  • 小谷勝重 - 弁護士最高裁判所判事。1948年(昭和23年)の最高裁判所の創設から13年間にわたって裁判官を務めた[4]。間人村向地生まれ[5]
  • 谷源蔵 - 貿易商。ロシアのウラジオストクを拠点として貿易に携わった[6]。間人小学校に奉安殿を建設したり、間人の郷土研究なども行った[6][7][4]。間人村岡成生まれ[6]
  • 相見幸八 - 貿易商。戦前は満州のハルビンを拠点として貿易に携わり、戦後には日本に引き揚げて丹後交通(現在の丹後海陸交通の前身の一つ)の社長などを務めた[8]。1940年(昭和15年)には間人町に対して間人町会館(のちの丹後町役場庁舎)を寄贈した[8]。谷源蔵の甥[8]。間人村岡成生まれ[8]
  • 藤原勘治 - ジャーナリスト。毎日新聞社取締役・西部本社代表。ハンセン病患者救済事業でも尽力し、インドに救ライセンターを設立するなどしている[9]。間人村小間西出身。間人町図書室(のちの丹後町図書室)・間人小学校(のちの丹後小学校)・間人中学校(のちの丹後中学校)には藤原の寄付による豊淑文庫が設置されている[9]。間人村小間西生まれ[9]

脚注[編集]

  1. ^ 峰山、網野、加悦、岩滝など壊滅『大阪毎日新聞』昭和2年3月8日号外(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p219 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  2. ^ a b c 丹後町『丹後町史』丹後町、1976年、pp.220-222
  3. ^ a b c 丹後町『丹後町史』丹後町、1976年、pp.222-224
  4. ^ a b 近世・近代における郷土の先覚者 京丹後市
  5. ^ 丹後町『丹後町史』丹後町、1976年、pp.224-225
  6. ^ a b c 丹後町『丹後町史』丹後町、1976年、pp.225-226
  7. ^ 水内佑輔, 粟野隆「大正・昭和初期の京都府間人における東山公園設立経緯と谷源蔵の考え」『ランドスケープ研究』第80巻第5号、日本造園学会、2017年、419-424頁、doi:10.5632/jila.80.419ISSN 1340-8984NAID 130006076640 
  8. ^ a b c d 丹後町『丹後町史』丹後町、1976年、pp.226-227
  9. ^ a b c 丹後町『丹後町史』丹後町、1976年、pp.227-229

参考文献[編集]

  • 『市町村名変遷辞典』東京堂出版、1990年。