長野電鉄2000系電車

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2000系(小布施駅付近にて)

長野電鉄2000系電車(ながのでんてつ2000けいでんしゃ)は、長野電鉄特急形車両

1957年(昭和32年)から1964年(昭和39年)までに3両編成4本(12両)が日本車輌製造で製造された。設計当時最新の駆動システムや台車と上質な設備を兼ね備え、1950年代後半の地方私鉄の電車としては高水準な旅客サービスを提供した。

半世紀にわたって長野電鉄の看板電車としての地位を保ち、長野市湯田中温泉志賀高原を結ぶ特急列車として運用され続けてきた。しかし、老朽化並びに後継車両の導入により2006年(平成18年)12月9日のダイヤ改正ですべてのA特急運用から撤退した。

なお、B特急に関しては2006年12月以降もこの系列で運用されていたが、2011年(平成23年)2月にJR東日本253系の譲受車である2100系が営業運転を開始したことにより、全ての定期特急運用から離脱、2012年(平成24年)3月、D編成の離脱をもって、全ての運用から退いた。

製造経緯[編集]

志賀高原と長野電鉄[編集]

志賀高原の観光地としての開発に長野電鉄は大きく関わっている。むしろ「観光地としての志賀高原は長野電鉄が作った」とさえ評し得る。

長野電鉄は、1927年(昭和2年)に湯田中温泉に至る山の内線(現・長野線信州中野駅以北)を開業させたが、当初から温泉をはじめとする観光資源の豊富さに着目していた。

元々、この地域は豪雪地帯で、大正時代からスキーが始まっていた。当時の長野電鉄社長であった神津籐平は、地元共有地である周辺の山地を租借、「志賀高原」とネーミングし、1929年(昭和4年)からリゾート地として広く宣伝した。「志賀」とは、神津の出身地である長野県佐久地方志賀村(現・佐久市)に因む命名である。

折しも、同年2月にノルウェーのスキー連盟副会長であるヘルゼット中尉が親善来日して志賀高原で滑走したが、彼は志賀高原をスキーの適地と評価し、「東洋のサンモリッツだ」とコメントした。また同年8月には秩父宮夫妻が近傍の岩菅山に登山を行ったことで、「志賀高原」の名前は全国に知られることになった。その後も神津らの尽力により、観光ホテルの建設や道路・電力などのインフラ整備が行われた。

さらに、当時鉄道省日本国有鉄道の前身)が日本各地の観光振興を図っていたことも追い風となった。昭和初期は国家政策として若者のスポーツが奨励された時代でもあり、東京から土曜の午後や夜に列車でスキーにでかけることが流行り始めた。スキー適地として知名度を高めた志賀高原は、鉄道省や長野県からも観光地として有望視され、1935年(昭和10年)には鉄道省国際観光局によって最初の「国際スキー場」指定を受けている。

このように、志賀高原は新興の観光地でありながら、第二次世界大戦前から著名な高原リゾート地になっていたのであった。

戦時中の逼塞期、また戦後一時期の進駐軍によるリゾート地としての接収時期はあったものの、戦後も1940年代末期になると志賀高原にも再びスキー客が訪れるようになった(進駐軍の命令により1947年(昭和22年)には日本初のスキーリフトが設置されている)。1949年(昭和24年)には志賀高原を含む長野・群馬新潟県境周辺の山岳地帯が「上信越高原国立公園」に指定されている。この好条件を背景に、長野電鉄と地元自治体は協力して観光振興を推進した。

自動車が普及する以前の時代であり、志賀高原への交通手段は長野電鉄が独占していた。冬になると多数のスキーヤーが信越本線接続駅の長野駅屋代駅から長野電鉄の電車に乗り換え、志賀高原に向かっていたのである。当時の長野電鉄と志賀高原は不可分の存在であった。

特急電車開発へ[編集]

戦後の復興と観光客増加を背景とした長野電鉄の輸送力不足は著しく、1947年には東武鉄道からの譲渡車両導入に続き、翌1948年(昭和23年)からは電車の新造を開始した。

須坂駅で発車を待つモハ1501。1988年5月

この時期に増備されたのはモハ1000形・モハ1500形を始めとする17m級・2扉電車のグループで、1953年(昭和28年)までに(木造車の鋼体化改造も含めて)電動車と制御車の合計14両が日本車輌製造東京支店で製造された。モハ1000形とモハ1500形の違いは、モハ1500形が発電ブレーキ装備車という点である。製造途上で順次改良を受けつつ増備されたため、形態と形式はかなり複雑である。

前述2形式に代表される17m級・2扉電車のグループは大量増備で輸送力増強には著しく寄与したが、保守的な設計で性能は低く、旅客サービス面でも必ずしも十分な車両ではなかった。これらは湯田中直通の急行列車にも使用されたが、通勤形のロングシート車であり、1時間から1時間半の乗車時間を強いられる観光客には快適とはいえない設備だった。また、戦前型電車との部品互換性(=部品の統一)を優先して、非力な旧型モーターを搭載した手動加速車であり、特に付随車連結時にはパワーの絶対的な不足に悩まされたのである。

このような状況を改善するため、長野電鉄は1956年(昭和31年)5月、ついに新型特急電車の導入を決断する。同社は長年にわたる車両発注先の日本車輌製造に協力を求め、同社の東京支店で新型電車の開発が行われることになった。

開発過程[編集]

特急電車の開発開始にあたって、長野電鉄が日本車輌に提示した条件はおおむね以下のような趣旨であった。

  • 電動車2両ユニット間に付随車1両を挿入した「Mc-T-Mc'」の3両編成を基本とするが、必要に応じて付随車を抜いた2両編成やそれを2両挿入した4両編成でも運転可能とする。
  • 車体は軽量にしながら強度を確保するため、準張殻構造(セミ・モノコック構造)とする。
  • 外観は流線型とし、客室設備にも配慮、観光鉄道に相応しい斬新な車両とする。
  • 軽量かつ高速に適する防震台車を用いる。
  • 主電動機は75kW級とし、狭軌用のWN駆動装置を用いる。
  • 電空併用ブレーキ(空気ブレーキと発電ブレーキを自動的に併用できるブレーキ機構)を用いる(注:強力迅速なブレーキ力が得られる)。
  • 降坂抑速ノッチ(下り坂で発電ブレーキを効かせることのできる制御スイッチ)を設ける(注:山の内線の急勾配での降坂を考慮すればこれは必要な機能であった)。

具体的で要を得た決定事項は、大手私鉄の当時の最新型電車と同等な内容であり、長野電鉄の凡庸な在来車とは異次元の水準であった。長野電鉄側の意気込みと高い見識が伺える内容である。これら実際の計画立案は、小林宇一郎[1]ら当時の若手社員たちが、大手私鉄における先行事例を広く研究して緻密な叩き台を作成したものであった。

更に長野電鉄は、車体設計のベースとして名古屋鉄道(名鉄)が日本車輌本店で製造させた最新型電車5000系(1955年(昭和30年)製造)を指定した。この車両は設計最高速度125km/h、全電動車方式、転換クロスシートを装備した特急用の優秀車で、18mクラスのサイズは長野電鉄にも適合するものであった。参考にするには最適な電車であり、この点でも長野電鉄側が周到な事前研究を行っていたことが伺える。

日本車輌東京支店では、本店が製造した名鉄5000系を参考にしながらも、実際には一から図面を引いて新設計を行った。このため、ボディスタイリングは名鉄5000系の影響を受けながらも独自性のあるものとなった。

機器類のうち台車についてはすでに富山地方鉄道14770形(1955年製造)に装備して実績のあった日本車輌自社製のNA-4P釣り合いばね式ウィングばね台車を装備し、また電空併用ブレーキについては1954年(昭和29年)以降に小田急電鉄近畿日本鉄道、名鉄などで採用されていた最新式の「HSC-D」電空併用電磁直通ブレーキを用いることにした。

狭軌用WN駆動装置[編集]

問題はモーターおよび駆動装置であった。この開発は制御装置ともども長野電鉄とも古くから関係の深い重電メーカーの三菱電機が担当することになった。

古くから電車の主電動機駆動方式としては単純な吊り掛け駆動方式が用いられてきた。車軸と台車枠の間に主電動機を橋渡しする形で吊り下げ、車軸に電動機の荷重の一部を負担させて平歯車で直接駆動する構造である。しかし、吊り掛け駆動は振動・騒音などの弊害が多く、高回転・高速運転に向かない方式で、電車の高性能化の妨げになった。

これを改善するため、1930年代からアメリカなどの電車ではモーターを台車枠に固定して完全なバネ上重量とし、ジョイントと高精度な歯車を介して車軸を駆動する「カルダン駆動方式」が採用され始めた。これは線路への悪影響も少なく、高回転・高速運転に適し、電車の性能向上に著しい効果がある。日本でも1950年代に入ってから一般化したが、1956年(昭和31年)頃はまだ導入初期で、メーカーと鉄道会社の試行錯誤が続いていた頃である。

WN駆動方式は、アメリカの重電メーカーのウェスティングハウス・エレクトリック社と、機械メーカーのナッタル社が共同開発した駆動方式で、1920年代から開発が進められ、1941年(昭和16年)からニューヨーク市地下鉄電車に大量導入されて成功したシステムであった。主電動機と減速歯車の間に歯車とバネを組み合わせた特殊ジョイント「WN継手」を介することで、車軸の揺動から電動機を絶縁する構造である[2]

WN駆動は、日本ではウェスティングハウスのライセンシーであった三菱電機が1953年から京阪1800系を皮切りに手掛けていたが、元々1,435mm軌間(標準軌)のアメリカの鉄道で開発された方式だけに、日本の鉄道で多数派の1,067mm軌間(狭軌)では車輪内側のスペースが狭すぎ、WN継手の配置スペースを取れないという弱点があった。

このため、狭軌鉄道各社への売り込みでは狭軌に適合する他のカルダン駆動方式を用いたライバルメーカーの後塵を拝していた。長野電鉄が参考にした名鉄5000系も狭軌線用のカルダン駆動電車であり、制御装置は三菱電機製だったが、主電動機は東洋電機製造製の中空軸平行カルダンを採用していたのである。そのような状況で狭軌線の長野電鉄が未開発の狭軌用WN駆動を敢えて指定した背景には、三菱電機との長い取引関係があった。

三菱電機は、この困難な課題に対して主電動機とWN継手それぞれの小型化(軸方向長さの短縮)で対処することにした。徹底した小型化に加え、電動機の出力軸側部位を凹ませて継手との干渉を回避するという変わり技まで用いて、WN継手装備スペースを稼ぐ努力を行った。

この手法によって、まず1956年12月に就役した富士山麓電気鉄道(現・富士急行)3100形で55kW級という低出力ながら狭軌でのWN駆動の実現に成功した。続けて翌年就役の長野電鉄2000系でついに競合他社並みの75kW級電動機を実現したのである。

狭軌用WNの強化改良は続き、1959年小田急2400形では車輪と主電動機直径の拡大で120kW、1963年近鉄6900系(後の6000系)では端子電圧340V時の1時間定格出力が135kWに達し、大出力のWN駆動対応主電動機は狭軌でも容易に使用できるようになった。このクラスの電動機は後に長野電鉄が製造した0系「OSカー」にも使用された。

かようなWN駆動方式の普及過程において、2000系での成功は画期的であったといえる。

編成[編集]

編成は次の通り(奇数電動車湯田中側・偶数電動車長野側)。

  • 第1編成(A編成):モハ2001-サハ2051-モハ2002(1957年2月竣工、2011年3月廃車
  • 第2編成(B編成):モハ2003-サハ2052-モハ2004(1957年2月竣工、2005年8月廃車)
  • 第3編成(C編成):モハ2005-サハ2053-モハ2006(1959年11月竣工、2006年12月廃車)
  • 第4編成(D編成):モハ2007-サハ2054-モハ2008(1964年8月竣工、2012年4月廃車)

両先頭車が電動車 (M) 、中間車が付随車 (T) のMTM編成で、性能は起動加速度2.6km/h/s、減速度3.5km/h/sとなっている。

システム的にはモハ2両に運転に必要な主要機器が集約分散搭載されているため、サハを抜いた2両運転やそれを2両組み込んだ4両運転も可能であった。しかし、冷房装置搭載に際してサハに供給電源となる静止型インバータを搭載したため、以後は「サハ抜き」での運行は事実上不可能となった。

車体[編集]

本郷駅にて(2011年2月16日)

全長18,600mmの2ドア車体で、プレス鋼材を主骨格構築に用いたセミモノコックの軽量構造である。

外観[編集]

製造経緯節で示したとおり、2枚窓の前面形状、客用扉配置、2個1組・2段の側窓など、長野電鉄の意向で使用条件が近く、しかも乗降性の良い名鉄5000系(初代)(1955年、日本車輛製造本店製)のデザインを踏襲する形で設計された。

名鉄5000系。本系列はこの系列をプロトタイプとして計画・設計された。

もっとも、発注者である長野電鉄側は同じ日本車輛製造なのだから本店で作ったものと同じものは(発注先である)東京支店でも同じように製作出来るだろう、という判断でこのような意向を示したとされるが、実際にはこれも製造経緯で示したとおり東京支店は本店が調製した名鉄5000系の図面を参照せず、全く新規に製作図面を調製しており、各部寸法・形状は以下に示す車体断面を含め、いずれも名鉄5000系とは微妙に異なっている。

車体断面形状は同じく日本車輛製造本店が1957年に手がけた名鉄5200系と同様で、徹底して曲面基調のデザインである。張り上げ屋根構造を採用したために屋根の肩部が非常に広く、また名鉄5000系と同様にファンデリア装備に伴う薄い二重屋根(モニター)を装備しているために屋根が深すぎるきらいはあるものの、全体には軽快で好ましいスタイルに仕上げられている。

前面は当時の鉄道界で流行だった湘南型亜流の2枚窓であり、前頭部全体が緩やかな曲面を形成しているため、前面窓ガラスについても高価な曲面ガラスを用いて違和感なく仕上げている(名鉄5000系も原型は同様であるが、晩年は踏切事故復旧時に平面ガラスを組み合わせて窓の形状に合わせた車両が多かった)。当時の地方私鉄電車としてはいち早く角形の尾灯を採用したが、これも名鉄5000系に倣ったものである。

側面には2段窓を2個1組として配置している(後述の冷房化改造時にユニット式に取替)。片開き扉の戸袋は車端寄りに設置され、2連窓が車室両端に1組、扉間に4組配置となっている。運転台のない中間サハはその分扉間のスペースが長く、2連窓5組を配置している。第1・2編成では全上昇可能であったが、第3編成以降は上段固定となった。

第4編成だけはモニターを廃止してファンデリア個々の屋上に小さなカバーを設け、また前面床下にはスノープラウスカートを設けたことで印象が変わった。

また、当初の長野電鉄はタブレット閉塞であり、通過駅でのタブレット授受時には運転台直後の客室窓にタブレット環が激突して、悪くすれば窓を破損する恐れがあった。そこで、運転台直後の窓には、1・2次車では横に2本の棒を渡して簡易な保護棒としていたが、第3編成からは格子状のやや大型の保護枠を装備してより強化している。

車体塗装は当初、赤みの強いマルーンをベースに白の細線を窓下に通していたが、第4編成ではマルーンベースで窓周りはクリームというツートン塗装で落成していた。後に全車がリンゴを思わせる赤地に窓回りクリームのツートン塗装となり、さらに冷房化に伴ってクリーム地に窓回り赤の新塗装に移行した。第4編成には「栗まんじゅう」のあだ名が付けられたが、後に赤とクリームのツートンカラーになった時に「りんご」というあだ名に変わっている。

接客設備[編集]

モハ2002車内(湯田中駅にて)

戸袋部分にロングシートを装備したほかは、2連窓に2脚ずつの回転クロスシートを装備する。この種の車両ではより簡易な構造の転換クロスシートを用いる例が多く、回転クロスシートの採用には乗り心地への配慮が伺える。モケット(表地)は当初青色であった。また第3編成には当時としては珍しかったシートラジオや車内へ音楽を流すためのテープレコーダーも積載していたが、ラジオの受信状況が良くなかったため、すぐに撤去されている。

客室天井は非常に高い。2列配置の蛍光灯は連続カバーを装着し、扇風機の代わりに6基装備されたファンデリアともどもスマートに仕上げられた。貫通路が両開き扉を用いた広幅式であることやつり革がないこともすっきりとした車内見付けに寄与している。

内装は、当時最新の素材であるアルミデコラを用い、薄緑色に仕上げている。

主要機器[編集]

台車[編集]

NA4P台車
NA315形台車

台車は第1編成から第3編成までは日本車輛製造NA4P(電動車)・NA4(付随車)をそれぞれ装着している。これは日本車輛製造東京支店製の私鉄向け車両各形式に装着して納入された、揺れ枕吊りを用いたオールコイルばね台車で、軸ばねについては釣り合い軸ばね式(ゲルリッツ式類似)を用いている。高抗張力鋼による板材をプレスして得られた部材を溶接して組み立てる近代的な軽量台車であり、すでに富山地方鉄道などでの運用実績があった。

なお、本系列のNA4Pについては、1970年代から1980年代にかけて軸ばね部分を一般的なウイングばね式ペデスタル構造に改造する措置が行われている。

一方、最終増備車となった第4編成のみは、長リンク式揺れ枕吊りとベローズ式空気ばねを枕ばねとして搭載し、ペデスタル式ウイングばねによる軸箱支持機構を備える日本車輛製造本店製のNA315を装着する。

空気ばねの採用は本系列第1・第2編成が新造された1957年に製作された京阪1810系第2次車より本格化した新技術で、揺動周期の長期化に資する長リンク式揺れ枕吊りの採用と共に、乗り心地の改善に大きな効果があった。

主電動機[編集]

三菱電機MB3032-A(端子電圧340V、定格電流250A、1時間定格出力75kW、定格回転数1,600rpm、許容最大回転数4,000rpm)を主電動機として電動車の各台車に2基ずつ装架する。

この電動機は前述のとおり、狭軌用WN駆動対応電動機としては日本初の1時間定格出力75kW級を実現した機種である。そのため、駆動装置にはWN駆動を採用し、歯数比は5.47となっている。

制御装置[編集]

三菱電機ABF-108-15-EDHB自動加速式単位スイッチ制御器を奇数電動車に搭載する。当時の私鉄で広まりつつあった「1C8M方式」(制御器1基で2両分8個の主電動機を制御)をいち早く採用し、機器類搭載量の削減を図っている。

また、この制御器は勾配抑速ブレーキ機能を備え、発電ブレーキで一定速度に抑速しての降坂を可能としている。運用線区のうち、ことに山の内線は夜間瀬川沿いに急峻な1000分の40勾配が連続する過酷な山岳路線であり、抑速ブレーキは安全性確保の面から必要性の高い機能であった。

ブレーキ[編集]

作動性の高い三菱電機HSC-D電空併用電磁直通ブレーキを採用している。1957年当時は大手私鉄でもようやく導入が始まったばかりの最新式ブレーキシステムであり、地方私鉄としてはほとんど最初の採用であった。

製造と運用[編集]

冷房化前の第1編成

1957年2月に第1・2編成が納入、その後1959年11月に第3編成、1964年8月に第4編成がそれぞれ納入された。第1 - 第3編成は日本車輌東京支店(埼玉県蕨市、現存せず)で、第4編成のみは東京支店が新幹線電車の開業前量産・103系113系115系165系東武8000系小田急3100形(NSE車)営団500形営団3000系都営5000形らの大量生産の台頭で多忙だったことから、東京支店で調製した図面一式、原図、型など製作に必要な資材一切を委ねて同社本店(愛知県名古屋市熱田区)でそれぞれ製造されている。

ヘッドマーク(第1編成)

1957年(昭和32年)3月15日から、2000系を使用して長野 - 湯田中間の特急が1日5往復の運転で開始された。各列車にはそれぞれ「しらね」「よこて」「しが」「かさだけ」「いわすげ」という志賀高原にちなんだ列車愛称が付けられた。その後、列車愛称は「志賀高原」に一本化されたが、しばらくして案内や掲示物等には使われなくなり、長野電鉄で現在は列車愛称は正式には存在していない。 「ゆけむり」は1000系車両の愛称、「スノーモンキー」は2100系車両の愛称であり、いずれも列車愛称ではない。なお上記列車愛称のうち「しが」とは、国鉄から屋代経由で乗り入れていた急行「志賀」とは別。

車両そのものは1980年代まで「ロマンスカー」として広告され、当時の鉄道関係書の中にも当系列を「長野電鉄のロマンスカー」として紹介しているものがある。1990年代に入り小田急電鉄が「ロマンスカー」を商標登録したり、当系列の座席が集団見合い配置に固定され必ずしも進行方向前向きのロマンスシートではなくなるなどの流れの中でいつしか「ロマンスカー」の名称も用いられなくなっていった。

2000系はそれまでの旧型電車からは格段に向上した居住性と斬新な外観によって、長野電鉄のイメージアップに大きく寄与した。しかし、当初2000系は2本しか在籍していなかったため、予備車確保の必要から1日1本のみの使用という状態になっており、非効率なだけでなく増発にも事欠いた。

このため、1959年(昭和34年)に第3編成を増備することによって1日に2編成使用可能となり、増発の余地が確保された。国鉄飯山線準急・急行列車への対抗として新たに1962年(昭和37年)3月1日から長野 - 木島間特急が野沢温泉にちなんだ「のざわ」の愛称で新設されたが、利用者が伸び悩んだため、設定からわずか3年後の1965年(昭和40年)4月にいったん廃止された。その後再び復活するものの、長野 - 木島間直通列車の設定中止によって完全に消滅している。

登場当時、長野電鉄ではその年の女性新入社員の中から身長の高い数名を選抜して「特急ガール」として乗務させ、出札(当時は座席指定制が取られていた)や沿線案内を行っていた。

観光客が年々増加するのに伴い、長野電鉄では特急電車のさらなる増備を計画したが、この際に当初名鉄7000系パノラマカー」などと同様な2階運転席による前面展望電車「3000系」が計画された。結果的には当時はタブレット交換をしていたことなどから不適と判断され(名鉄では支線区でタブレット交換をしていても交換には鏡を用いた上でパノラマカーが使用されていた)、2000系の増備で済まされることになったが、その増備された第4編成は空気バネ台車やスカート装備など新しい試みが行われ、展望電車計画の片鱗ともいうべき要素を伺える。それから約40年後に前面展望電車である元小田急車が後継車として登場したのも奇縁ともいえる現象であった。

その後、長野電鉄では専ら通勤形電車の増備や置き換えが進められたが、これを尻目に必要数を充足した2000系は特急列車を主として第一線で運用された。もっともこの間にモータリゼーションが進展したことで、長野電鉄は徐々に志賀高原への観光輸送の主力から外れていくことになる。

1981年(昭和56年)には長野線長野市内区間が地下化され、これに先立って難燃化対策や誘導無線取り付けなどの改装が行われている。

冷房化改造・塗装変更後の2000系(2006年5月31日、湯田中駅)

長野電鉄では沿線の気候が比較的寒冷なこともあって車両冷房の導入が遅れたが、1989年(平成元年)にようやく2000系から冷房化が始められた。冷房装置は大型のCU-113集約分散式冷房装置を1両2基搭載、車内全長に渡るダクトから送風する。この際にファンデリアは撤去された。これに伴い補助電源は電動発電機から静止形インバータに換装、また2連窓は新しいユニットサッシ枠に交換された。前照灯は小型のシールドビーム1灯となり、内装も張り替え工事が行われている。これらの工事はすべて日本車輛製造の手によって翌1990年(平成2年)までに全車に完了している。

長野オリンピック開催が近づくと、前面種別・行先表示器はローマ字表記入りの字幕に交換された。中には「木島」の表示コマも用意されていたが、河東線信州中野駅以北の廃止直前に使われた程度だった。

1999年(平成11年)には、A編成のみ台車を元営団3000系の廃車発生品である住友金属工業FS510 S形ミンデン台車に交換し、制御機器類も変更され、性能が営団3000系そのものを譲り受けて導入した3500系と共通となった。また、この頃に全編成がワンマン運転対応改造を受けている。

2006年12月8日までは、B編成を除く3編成が長野線特急の全運用および一部の普通列車運用に充当されていた。座席についてはかなり以前から集団見合い式に固定された形で運用されている。

末期の動き[編集]

2000系と1000系「ゆけむり」(2006年12月2日、小布施駅
マルーン色(2011年1月9日、須坂駅)

長野電鉄では、2005年(平成17年)に東京急行電鉄から8500系を購入し、新たに自社の8500系として運用を開始した。これに伴い、2000系B編成(モハ2003 - サハ2052 - モハ2004)が同年8月28日を最後に運用離脱し、須坂駅構内に留置された後に一度信州中野駅構内に移動した。その後、2006年10月に信濃川田駅まで移送の上、解体された。

また、2005年8月12日には小田急電鉄から10000形4両編成2本の無償譲渡を受けた。これを2006年12月9日のダイヤ改正で特急車両の1000系「ゆけむり」とし、A特急として運行開始し、主力車両としての座を明け渡した。そしてC編成(モハ2005 - サハ2053 - モハ2006)が同日をもって運用を離脱した[3]

ただし、この時点で2000系はB特急運用に使用され、1000系の検査時にはA特急運用にも代替で充当されていた。なお、朝方の普通列車運用に関しては、混雑度の関係から3500系または8500系に代替された。

2007年(平成19年)1月30日よりガラスが破損した1000系のガラス交換工事が開始されたためにA特急の一部に2000系が運用され、A特急から撤退して2か月足らずで早くもA特急運用に充当される運びとなった。

そして、2007年は特急運転開始から50周年を迎える節目の年でもあり、A編成は2月17日より塗装を登場時のマルーン色に塗り替え復元して運転している。また、D編成も1990年まで使用していた「りんご色」に塗り替え同年8月25日より運転している。したがって、クリーム地に窓回り赤の塗装で運転されるのは同編成が検査入場した同年7月17日で終了となった[4]。同年8月25日には小布施駅等でイベントが催された。

2011年(平成23年)2月26日に2100系「スノーモンキー」の営業運転が開始されたことで、同年3月27日にA編成は営業運転を終了した。残るD編成は2011年4月以降イベント時の臨時列車や一部定期列車の代走などで運転されており、同年夏に営業運転を終了する予定[5][6]であったが、同年8月3日に公式サイトにおいて2012年春までの運行期間延長が発表され[7]、以降2012年(平成24年)3月まで、不定期ながら土曜・日曜・祝日の206列車・203列車(長野 - 須坂間)1往復を中心に、臨時列車や貸切列車としても運転された。これらが終了した同年3月15日には、公式に31日に営業運転を終了することが発表となり[8]、25日には長野 - 湯田中 - 須坂 - 屋代 - 須坂の経路で記念列車を運転し、湯田中駅への入線はこの日が最後となった。また、一般の列車としては3月30日の長野発須坂行き217列車にて運行を終了している。

最終日となる3月31日は、屋代線最終営業列車として須坂から屋代までの1往復に充当され、これをもって屋代線とともに2000系は営業を終了。須坂駅留置後は社長以下、関係者と乗客によるささやかな式典が行われた。

現状[編集]

A編成は2011年3月の営業運転終了後も須坂駅構内に留置されていたが、2012年3月31日の屋代線上り列車営業終了後、3500系の牽引にて信濃川田駅まで回送された(綿内駅ではD編成と交換し、長野電鉄による記念撮影が行われている)。以降、信濃川田駅跡にて留置。

D編成については営業運転終了後、2012年6月30日に撮影会が開催され、翌月7日より小布施駅構内「ながでん電車のひろば」にて展示されている。[9]

なお、運用離脱の早かったB編成およびC編成については前記の通り、既に解体されている。

脚注[編集]

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  1. ^ 当時、長野電鉄社員。のち長野電鉄取締役等を歴任。自身は営業畑の社員だったが、2000系計画以前から既に1000系・1500系の増備過程で車両部門に扉配置などへの提言を行っていた。同社入社前からの熱心な鉄道ファンとして鉄道趣味界でも存在を知られ、古くから地方の国鉄・私鉄路線の記録・研究を手がけて、雑誌寄稿や著作を残している。
  2. ^ なお、WN方式はカルダンジョイントを用いないため、正確にはカルダン駆動方式とは言えないが、日本では慣例的にカルダン駆動方式の一種として扱われている。
  3. ^ 同日より「さよなら2000系C編成記念特急乗車券」を発売したが、完売している。
  4. ^ 当初は7月11日に予定されていたが、1000系S2編成の前面ガラス破損のため変更された。
  5. ^ 「長野電鉄2000系車両」貸切列車のご案内 (PDF) - レールファン長電
  6. ^ 長野電鉄2000系車両引退特別企画
  7. ^ 長野電鉄2000系車両引退特別企画 2000系D編成の引退を惜しむ声にお応えし運行期間を来春まで延長!
  8. ^ 2000系D編成の引退について
  9. ^ 「『2000系D編成 須坂駅ファイナル撮影会』開催について」お知らせ|長野電鉄ホームページ 2012年7月1日閲覧

参考文献[編集]

  • 小林宇一郎「登場から半世紀を迎える現役特急車 長野電鉄2000系のはなし」、『鉄道ファン』第540号、交友社、2006年4月、 pp. 106 - 113。