長柄橋

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長柄橋

長柄橋(ながらばし)とは、淀川に架かるアーチ橋である。大阪市北区本庄東と大阪市東淀川区柴島とを結ぶ 全長656.4m、幅員20mのである。 大阪府道・京都府道14号大阪高槻京都線の一部である。浪速の名橋50選に選定されている。

概要[編集]

長柄バイパス[編集]

長柄橋北詰め交差点の混雑を解消するため、この付近の交通の立体化を図ることとなった。経済的な見地から、バイパスの延長を短縮するため、その始点部を在来橋の中腹に結合させるユニークな形となる。

  • 形式 3径間連続曲線鋼床版箱桁他
  • 橋長 358.93m
  • 幅員 7.00m
  • 着工 1964年(昭和39年)9月
  • 完成 1981年(昭和56年)8月

橋の沿革[編集]

1909年(明治42年)に、新淀川にかかる最初の橋として、官設鉄道東海道本線1874年の阪神間開業以来使用されていたイギリス・ダーリントン・アイアン(Darlington Iron)社製PP-1形70フィート級錬鉄製3主構ポニーワーレントラス桁を2主構に組み替えた上で11連を転用[1]し、この地に初代長柄橋が架設された。

1936年(昭和11年)にゲルバー式鋼鈑桁による2代目長柄橋へと架け替えられた。第二次世界大戦末期には戦災に巻き込まれ、1945年6月7日には長柄橋南詰め付近で、アメリカ海軍艦載機の機銃掃射により400人余の死者を出す「長柄橋惨事」が起きた。被害者の大半は女性と子供であった。戦災で損傷した長柄橋は、補修工事などの上、戦後も引き続き使用された。戦後の交通量の増加により、従来の橋に継ぎ足す形で、1964年(昭和39年)に長柄バイパスを増設。

現在の長柄橋は、1971年(昭和46年)から始まった淀川改修計画に基づき、1973年(昭和48年)から掛け替え工事が始まり、10年後の1983年(昭和58年)に完成した。

古代の長柄橋[編集]

「嵯峨天皇の御時、弘仁三年夏六月再び長柄橋を造らしむ、人柱は此時なり(1798(寛政10)/秋里籬島/攝津名所圖會)(なお推古天皇の21年架橋との説もある。)」と長柄橋の名は、古代より存在した。しかしこの長柄橋は、現在の場所とは異なる場所にあり(当時は川筋が現在とはかなり違った)、現在の大阪市淀川区東三国付近と吹田市付近とを結んでいたとされているが、正確な場所についてははっきりしない。平安時代初期まで橋があったが、架け替えられないまま廃止されたという説が有力。

長柄橋の人柱に関しては、以下の伝説が残っている。

推古天皇の時代(飛鳥時代)、古代の長柄橋の架橋は難工事で、人柱を捧げなければならないという状況になった。そのことを垂水(現在の吹田市付近にあたる)の長者・巌氏(いわうじ)に相談したところ、巌氏は「褌(はかま)に継ぎのある人を人柱にしなさい」と答えた。しかし皮肉にも、巌氏自身が継ぎのある褌(はかま)をはいていたため、巌氏が人柱になった。
巌氏の娘は北河内に嫁いだが、父親が人柱になったショックで口をきくことができなくなったため実家に帰されることになった。夫とともに故郷に向かっている途中、一羽の雉が声を上げて飛び立ったので、夫は雉を射止めた。その様子を見た巌氏の娘は「ものいわじ父は長柄の人柱鳴かずば雉も射られざらまし」と詠んだという。妻が口をきけるようになったことを喜んだ夫は、雉を手厚く葬って北河内に引き返し、仲良く暮らした。

現在の大阪市淀川区東三国に、古代長柄橋の人柱碑が残っている。長柄人柱伝説は、「長柄の人柱」や「雉も鳴かずば打たれまい」という「口は災いのもと」という意味のことわざの由来とされている。

参考文献[編集]

  • 亀井一男 “舞子跨線橋とその仲間について”、『鉄道史資料保存会会報 鉄道史料 第44号』、鉄道史資料保存会、1986年、pp.325-330
  • 成瀬輝男 編 『鉄の橋百選 近代日本のランドマーク』、東京堂出版、1994年 ISBN 4-490-20250-4
  • 『大阪の橋 - 大阪市における橋梁技術のあゆみ』 大阪市土木技術協会、1997年

脚注[編集]

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  1. ^ 転用の経緯については浜中津橋を参照のこと。なお、このPP-1形桁は2主構1連分が浜中津橋として現存している。

外部リンク[編集]


座標: 北緯34度43分16.2秒 東経135度30分36.1秒