長保寺

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長保寺
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本堂(国宝)
所在地 和歌山県海南市下津町上689
位置 北緯34度6分32.8秒
東経135度9分56.3秒
座標: 北緯34度6分32.8秒 東経135度9分56.3秒
山号 慶徳山
宗派 天台宗
本尊 釈迦如来
創建年 長保2年(1000年
開基 性空一条天皇(勅願)
文化財 本堂、多宝塔、大門(国宝)
鎮守堂、絹本着色仏涅槃図(重要文化財)
紀州藩主徳川家墓所(国の史跡)
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多宝塔(国宝)

長保寺(ちょうほうじ)は、和歌山県海南市下津町にある天台宗仏教寺院。山号を慶徳山と称する。本尊は釈迦如来、開山は性空(しょうくう)である。三棟の国宝建築と紀州藩紀州徳川家歴代の墓所(国の史跡)がある寺として知られている。

歴史[編集]

寺伝によれば、平安時代中期の長保2年(1000年)、一条天皇の勅願により、円仁(慈覚大師)の弟子の性空によって創建され、年号を取って「長保寺」と号したという。その後、寛仁元年(1017年)には七堂伽藍と子院十二ヶ坊が完成していたという。創建時は現在地より西方にあったが、鎌倉時代末期に現在地に移り、伽藍も整えられた。現存する本堂、多宝塔、大門(各国宝)はやや時代が下って鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての建築であるが、中世にさかのぼる仏教建築がまとまって残されている点で貴重である。

戦国時代には衰退していたため、江戸時代に紀州藩主となった浅野幸長より5石の寄進を受けた。

寛文6年(1666年)、当地を訪れた紀州藩初代藩主徳川頼宣は、長保寺を紀州徳川家菩提寺に定めた。境内東斜面には広大な藩主廟所があり、頼宣以降の歴代藩主が眠っている。ただし、5代吉宗(後の8代将軍)と13代慶福(よしとみ、後の14代将軍家茂)の墓は東京にある。宗派は、当初天台宗であったと思われるが、後に法相宗、さらに真言宗に改宗し、紀州徳川家の菩提寺となってから天台宗に復した。

鎌倉時代 - 南北朝時代建築の本堂・多宝塔・大門の3棟が国宝に指定されている。 また、境内の一角には海南市立歴史民俗資料館がある。

文化財[編集]

国宝[編集]

  • 本堂(附:厨子) - 鎌倉時代末期の延慶4年(1311年)の建築。桁行5間、梁間5間、入母屋造
  • 多宝塔 - 南北朝時代の正平12年(1357年)の建築。本瓦葺
  • 大門(附:扁額) - 南北朝時代の嘉慶2年(1388年)の建築。三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺。扁額は妙法院堯仁親王筆。

重要文化財[編集]

  • 鎮守堂 - 鎌倉時代後期
  • 絹本着色仏涅槃図 - 鎌倉時代

史跡(国指定)[編集]

  • 紀州藩主徳川家墓所 - 藩主墓所としては日本最大規模

その他[編集]

所在地[編集]

  • 〒649-0164 和歌山県海南市下津町上689
  • 同地の歴史的な地名は紀伊国海部郡浜中荘上村。長保寺の塔頭・吉祥院は、仁和寺が荘園領家である浜中荘(濱中荘)の荘務を委任されていたことから、浜中荘がまとめた田数目録などの文献のなかには往事の長保寺の伽藍の規模を考察する上での貴重な資料となる記載も多い。浜中荘はこの長保寺を中心にして平安時代末から室町時代にかけて栄えていた [1]

交通アクセス[編集]

周辺情報[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]