炭谷銀仁朗
| 埼玉西武ライオンズ #27 | |
|---|---|
ミットを構える炭谷
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| 基本情報 | |
| 国籍 | |
| 出身地 | 京都府京都市左京区 |
| 生年月日 | 1987年7月19日(24歳) |
| 身長 体重 |
180cm 93kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 捕手 |
| プロ入り | 2005年 高校生ドラフト1巡目 |
| 初出場 | 2006年3月25日 |
| 年俸 | 3,200万円(2012年) |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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炭谷 銀仁朗(すみたに ぎんじろう、1987年7月19日 - )は、埼玉西武ライオンズに所属するプロ野球選手(捕手)。愛称は「銀ちゃん」。
なお「朗」の字は、ヘンが一画多い「良」になる表記が正しい。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] プロ入り前
野球は小学校から始める。当初は左翼手だったが強肩を買われて捕手に転向した。以後中学3年生までは投手も兼任したが、高校入学後は捕手で勝負をかける決意をした[1]。
強肩・強打・体を張ったブロックや、勇気のあるショートバウンド捕り、極端なオープンスタンスからの豪快な打撃等を持ち味に活躍。高校通算本塁打数は48本。2005年の全国高校野球選手権大会京都府大会では満塁でも敬遠されている。高校2年の時は、当時の平安の絶対的エースで1年先輩だった服部大輔(日大~日立製作所)の変化球を捕れなかったことから三塁手に転向させられたが、懸命な努力で3年時に再び捕手となった。3年の夏は京都大会準決勝でその年甲子園で準優勝した京都外大西に2-3で惜敗し甲子園出場はならなかった。
2005年の高校生ドラフトで西武ライオンズから1巡目指名を受けて入団。
[編集] プロ入り後
プロ1年目の2006年、キャンプから頭角を現し、オープン戦では2本塁打、5割近い盗塁阻止率を記録したため、谷繁元信以来17年ぶりとなる高卒新人捕手の開幕一軍、更には3月25日の対オリックス戦では谷本稔以来、51年ぶりとなる高卒ルーキー捕手の開幕戦スタメンデビュー、飯田幸夫以来40年ぶりとなるパ・リーグ高卒新人開幕スタメンまで果たした。この開幕戦で7回に中堅へ安打を放ったが、高卒新人が開幕戦で安打を放ったのは、立浪和義以来2リーグ分裂後4人目であった。翌3月26日の開幕第2戦では19歳の涌井秀章とバッテリーを組み、初勝利。これは1989年の横浜大洋ホエールズの石井忠徳・谷繁バッテリー以来17年ぶりとなる10代バッテリーでの勝利であった。同月29日の対ソフトバンク戦(北九州市民球場)では、2回表にD.J.カラスコからプロ初本塁打となる満塁本塁打を放った。高卒新人がルーキーイヤーに満塁本塁打を記録したのは清原和博以来20年ぶりで、かつ高卒新人捕手としては史上初の快挙であった。同試合の6回表には2号本塁打を放ち、松井秀喜以来となる高卒新人の1試合2本塁打も記録した。しかし、その後は打率.160と不振に陥り、リード面においても課題を指摘されたことから、5月以降細川亨に正捕手の座を奪われ、5月12日に一軍登録を抹消された。6月6日に一軍へ復帰すると同日の試合で即スタメン起用され先制点を挙げるなど活躍し、再び一軍に定着した。同日の勝利投手は10代コンビの涌井であり、以降は涌井の先発時のみスタメンという起用法が続いた。シーズン終盤には細川のケガによる離脱により再び先発マスクを被ることが多くなった。
2007年、登録名を本名の「炭谷銀仁朗(スコアボード表記は『炭谷』)」から「銀仁朗」に変更。開幕は二軍で迎えたものの、二軍で打率.325を残し、守備でも安定した活躍を見せて5月30日に一軍昇格。しばらくは二番手捕手として扱われ出場機会に恵まれなかったが、9月はほぼ全試合に出場した。しかし、打率.174に終わり、安打数の2倍以上の三振を喫した。
2008年は、出場が46試合と前年度よりも増えた反面、64打数の半分近くで三振を喫するなど打撃面における課題は克服されず、細川の正捕手としての立場を脅かすには至らなかった。同年の日本シリーズでは控え捕手として出場選手登録された。第5戦の2回裏、細川が一塁ベースに滑り込んだ際右肩を脱臼し負傷交代したため、代走として日本シリーズ初出場を果たし、残りの2試合ではいずれも先発出場した。
2009年、背番号を37から2に変更。これは師匠と仰ぐ城島健司と同じ番号を付けたいとする本人の希望によるものであった。同シーズンは細川のケガによる長期離脱もあって正捕手として起用され、自己最多の112試合に出場した。チーム最多の14犠打を決め、盗塁阻止率はリーグ2位の.333を記録した。課題とされる打撃についても打率.220と自己最高の成績を残したものの、代打を送られた回数は46回と両リーグ最多であった。同年オフには涌井と共に最優秀バッテリー賞に選ばれ、初のタイトルを受賞。選考会議においてはソフトバンクの杉内俊哉・田上秀則バッテリーを推す評議員も多く、決選投票でも3対3と意見が分かれたが、最後は選考委員会の司会であった中畑清の「投手との共同作業である盗塁阻止率(.462)を評価したい。若い銀仁朗の今後の活躍に期待して」という意見が決め手となり涌井・銀仁朗バッテリーが受賞することとなった。。
2010年、3月7日のオープン戦(対阪神戦)において、内野ゴロを放ち一塁へ駆け込んだ際に左足を負傷し途中退場。当初は「大腿骨の骨挫傷」と診断されていたが、再検査の結果「左ひざ内側半月板損傷および左前十字靱帯断裂」であることが判明した。ほぼ1年を棒に振る形となったものの、本人曰く「自分でもびっくりするぐらい早い」回復で9月29日に一軍登録され、公式戦最終戦とクライマックスシリーズ1stステージ第1戦の計2試合に出場した。
2011年、前年オフに細川がFA権を行使し、ソフトバンクへ移籍したため、正捕手争いの一番手として期待され、開幕戦から出場。途中で怪我で戦線離脱し、一時スタメンの座を今期途中加入の星孝典に奪われることもあったが、自身最多の122試合に出場した。12月6日、背番号27への変更と登録名が炭谷となることが発表された。[2]
[編集] プレースタイル
打率が2割台に到達したことは2009、2011年シーズンのみであることから明らかなように打撃面に課題を抱えるものの、守備では強肩を武器として高い盗塁阻止率を記録している。また、捕手としては足も速く、一塁到達タイムはチームメイトの中島裕之よりも速い4.25秒を記録している[3]。
西武では新人合同自主トレの一環として西武園競輪場での競輪トレーニングが毎年行われているが、銀仁朗は新人であった2006年以外にも2007年・2011年の2度にわたって同トレーニングに飛び入りで参加している。2007年は1000mを1分25秒台で走って球団記録を樹立し、2011年は1分24秒台を記録して自らの持つ球団記録を更新した。高校時代は坂道を自転車通学していたため、強靭な足腰はこのときに作り上げられたものであるという。
[編集] 人物
名前の「銀仁朗」は本宮ひろ志の漫画「硬派銀次郎」から付けられた。しかし「ギンジロウ」といえば最近は「ミナミの帝王」(原作:天王寺大、作画:郷力也)の主人公・萬田銀次郎の方が有名であるため、高校時代のあだ名は「トイチの萬田」だったという。
小学生時代には水泳選手として活躍、バタフライでジュニアオリンピックに出場。後に野球に転向したが、この水泳経験が強肩の一因になったとも評価されている。
長く球界を代表する捕手として活躍した北海道日本ハムファイターズ監督の梨田昌孝が同じく元捕手の伊東勤と談笑しているとき、「私が新人のころはあんなに堂々としていなかった」と名指しで褒められたことがある。
入団後はパチンコにはまっているらしく、2007年の秋季キャンプでは期間中にプラス35万円の収支を残したほか、2008年の春季キャンプでもプラス15万円と勝負強さを見せている[4]。
登場曲は2006年シーズン当初は『ターミネーターのテーマ』を使っていて、その後は蒲田行進曲を使用していた。これは前述の通り、愛称が「銀ちゃん」である事が由来と思われる。2007年シーズンからは近藤真彦の『ギンギラギンにさりげなく』に変更した。これは「自らの名を連呼するようなサビが気に入った」ことが由来らしい(ちなみに『ギンギラギンにさりげなく』が発売された時点では銀仁朗はまだ生まれていない)。さらに2009年からは、湘南乃風の『SHOW TIME』を使用している。サビの部分の「打て、打て、打て、打て、打て」は西武のホーム側応援席全体で合唱されるなど、名物登場曲のひとつとして定着しつつある。
現在の西武では数少ない、応援歌に前奏をもつ選手。「銀仁朗!銀仁朗!炭谷銀仁朗!」のコールを二度繰り返したあと前奏に入り、さらに「銀仁朗銀仁朗銀仁朗!」とコールを入れた後に応援歌に入る、リズム感の良いものである。なお、同曲は本来「汎用選手の代打テーマ」として使用する予定で制作されたものであったが、結局銀仁朗専用の応援歌に変更されたという経緯を有する。
2011年、左肩を手術した片岡易之に見舞いの花を送ったが、「岸谷銀二朗」という誤字で花が届いてしまった。しかも、炭→岸・仁→二というミスが起こっているのにも関わらず1番分かりにくい「朗(上記のとおり一般的な『朗』とは異なる字)」は合っていた。
[編集] 詳細情報
[編集] 年度別打撃成績
| 年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 2006 | 西武 | 54 | 146 | 138 | 10 | 25 | 4 | 1 | 3 | 40 | 14 | 0 | 0 | 6 | 0 | 2 | 0 | 0 | 33 | 6 | .181 | .193 | .290 | .483 |
| 2007 | 28 | 50 | 46 | 3 | 8 | 1 | 1 | 1 | 14 | 7 | 0 | 0 | 1 | 1 | 2 | 0 | 0 | 19 | 0 | .174 | .204 | .304 | .508 | |
| 2008 | 46 | 68 | 64 | 5 | 8 | 4 | 0 | 0 | 12 | 5 | 0 | 1 | 1 | 1 | 2 | 0 | 0 | 30 | 0 | .125 | .149 | .188 | .337 | |
| 2009 | 112 | 306 | 273 | 22 | 60 | 15 | 0 | 3 | 84 | 25 | 1 | 0 | 14 | 3 | 15 | 1 | 1 | 75 | 5 | .220 | .260 | .308 | .568 | |
| 2010 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
| 2011 | 122 | 365 | 317 | 20 | 69 | 7 | 1 | 2 | 84 | 22 | 4 | 1 | 33 | 3 | 11 | 0 | 1 | 79 | 6 | .218 | .244 | .265 | .509 | |
| 通算:6年 | 363 | 936 | 839 | 60 | 170 | 31 | 3 | 9 | 234 | 73 | 5 | 2 | 55 | 8 | 32 | 1 | 2 | 236 | 17 | .203 | .232 | .279 | .511 | |
- 2011年度シーズン終了時
[編集] 表彰
- 最優秀バッテリー賞:1回 (2009年、投手:涌井秀章)※捕手が21歳での受賞記録、バッテリー平均年齢21.5歳の記録はいずれも最年少記録。最年少捕手の従来の記録は、1999年の城島健司(22歳)だった。最年少バッテリーの従来記録は、1995年の平井正史(19歳)と中嶋聡(26歳)の平均年齢22.5歳だった。年齢は、いずれもその年の開幕時点での年齢である。
[編集] 記録
- 初出場・初先発出場:2006年3月25日、対オリックス・バファローズ1回戦(インボイスSEIBUドーム)、8番・捕手として先発出場
- 初安打:同上、7回裏に川越英隆から中前安打
- 初本塁打・初打点:2006年3月29日、対福岡ソフトバンクホークス2回戦(北九州市民球場)、2回表にD.J.カラスコから左越満塁本塁打
- 初盗塁:2009年7月16日、対東北楽天ゴールデンイーグルス12回戦(西武ドーム)、3回裏に二盗(投手:長谷部康平、捕手:中谷仁)
[編集] 背番号
- 37 (2006年 - 2008年)
- 2 (2009年 - 2011年)
- 27 (2012年 - )
[編集] 登録名
- 炭谷 銀仁朗(すみたに ぎんじろう)(2006年、2012年 - )
- 銀仁朗(ぎんじろう)(2007年 - 2011年)
[編集] 脚注
- ^ 「現役の皆さんに聞きました キャッチャーの魅力を教えてください」 『週刊ベースボール』2009年6月1日号、ベースボール・マガジン社、2009年、雑誌20441-6/1、20-21頁。
- ^ 12/6 登録名・背番号変更のお知らせ 埼玉西武ライオンズオフィシャルサイト
- ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2010』 アスペクトムック、2010年、384頁。ISBN 978-4-7572-1744-7。
- ^ 東京スポーツ 2008年2月25日付紙面より。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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