鈴鹿御前

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歌川国芳画『東海道五十三対 土山』 左より鈴鹿山の鬼神、鈴鹿御前、坂上田村麻呂

鈴鹿御前(すずかごぜん)は、室町時代の紀行文『耕雲紀行』や御伽草子『田村の草子』などの物語に登場する伝説上の女性。立烏帽子(たてえぼし)、鈴鹿権現、鈴鹿姫ともいう。伝承によって、女盗賊、天女鬼女であったりとその正体や描写は様々であるが、室町時代以降の伝承はそのほとんどが坂上田村麻呂退治譚と関連している。

平安時代から盗賊が横行し、鬼の棲家として伝えられる三重・滋賀県境の鈴鹿山に棲んでいたとされる。盗賊として描かれる際には立烏帽子と呼ばれることが多い。

伝承の形成[編集]

鈴鹿山の立烏帽子の名は、承久の乱前後に成立したと見られる『保元物語』にあらわれる。そこでは、伊賀の武士山田是行の祖父行季が立烏帽子を捕縛したとされる[1]。また『弘長元年(1261年)公卿勅使記』では、鈴鹿山のうち凶徒の立つところとして西山口を挙げ、「昔立烏帽子在所ノ辺也。件ノ立烏帽子崇神社者、鈴鹿姫坐。路頭之北辺也」と注す[2]。ここでは盗賊の名が立烏帽子であり、鈴鹿姫はその崇敬した社の女神として現れる。そして立烏帽子を女性とする描写も、鎌倉時代の文献にははっきりとした形では残っていない[注釈 1]

この盗賊立烏帽子と鈴鹿姫が同一視され、田村将軍の英雄譚に組み込まれるのは室町時代と考えられる[3]14世紀に成立する『太平記』巻三十二において、田村将軍と鈴鹿ノ御前の剣合の記事が見られ、応永25年(1418年)の足利義持の伊勢参宮に随行した花山院長親の著になる『耕雲紀行』では、当時の鈴鹿山の様子が記されている。その昔勇を誇った鈴鹿姫が国を煩わし、田村丸によって討伐されたが、そのさい身に着けていた立烏帽子を山に投げ上げた。これが石となって残り、今では麓に社を建て巫女が祀るという[4][注釈 2]

鈴鹿姫を祀る社は、坂下宿片山神社にあたると考えられている[注釈 3]南北朝時代以後、鈴鹿山の麓にある坂下では伊勢参宮の盛行を受けて宿場が整備され、往来の増加する中で、旅人を守護する存在として鈴鹿姫=立烏帽子が認識されるようになっていく[注釈 4]。鈴鹿姫への信仰は江戸時代まで続き、延享3年(1746年)の明細帳(徳川林政史研究所蔵)では坂下宿の氏神を鈴鹿大明神とし[5]、幕府代官や伊勢亀山藩主の寄進を受けている[6]。当時さまざまな説が流布していたらしく、万治2年(1659年)ごろの成立とされる『東海道名所記』では、鈴鹿御前が「天せう太神(天照大神)の御母」と言いならわされていたことを記している[7]

鈴鹿御前の物語[編集]

現在一般に流布する鈴鹿御前の伝説は、その多くを室町時代後期に成立した『鈴鹿の草子』『田村の草子』や、江戸時代に東北地方で盛んであった奥浄瑠璃『田村三代記』の諸本に負っている。鈴鹿御前は都への年貢・御物を奪い取る盗賊として登場し、田村の将軍俊宗[注釈 5]が討伐を命じられる。ところが2人は夫婦仲になってしまい、娘まで儲ける。紆余曲折を経るが、俊宗の武勇と鈴鹿御前の神通力 によって悪事の高丸や大嶽丸といった鬼神は退治され、鈴鹿は天命により25歳で死ぬものの、俊宗が冥土へ乗り込んで奪い返し、2人は幸せに暮らす、というのが大筋である。ただし、写本刊本はそれぞれに本文に異同が見られ、鈴鹿御前の位置づけも異なる。

『鈴鹿の草子』『田村の草子』の描写[編集]

室町時代後期の古写本[8]では、鈴鹿山中にある金銀で飾られた御殿に住む、16~18歳の美貌の天人とされる。十二単に袴を踏みしだく優美な女房姿だが、田村の将軍俊宗が剣を投げるや少しもあわてず、立烏帽子を目深に被り鎧を着けた姿に変化し、厳物造りの太刀をぬいて投げ合わせる武勇の持ち主である。俊宗を相手に剣合わせして一歩も引かず、御所を守る十万余騎の官兵に誰何もさせずに通り抜ける神通力、さらには大とうれん・しょうとうれん・けんみょうれんの三振りの宝剣を操り、「あくじのたか丸」や「大たけ」の討伐でも俊宗を導くなど、田村将軍をしのぐ存在感を示す[注釈 6]。また、情と勅命との板挟みとなった俊宗の裏切りに、その立場を思いやりあえて犠牲になることを決意したり、娘の小りんに対して細やかな愛情を見せるなど、情愛の深い献身的な女性として描写されている。

いっぽう流布本『田村の草子』の祖本となる寛永ごろの古活字本[9]では、鈴鹿山で往来を妨げたのは鬼神大たけ丸となっており、鈴鹿御前は山麓に住む天女とされる。立烏帽子の盗賊・武装のイメージは薄れ、烏帽子は着けず、玉の簪をさし水干に緋袴という出で立ちである。鈴鹿御前は俊宗と契りを交わし、言い寄る大たけ丸から大とうれん・小とうれんの剣 を騙し取ってその討伐に力を貸す。

『田村三代記』の描写[編集]

『鈴鹿の草子』とその底流を同じくする『田村三代記』は、語り物の特色として多くの異本が存在するが、鈴鹿御前に関する筋書きはおおむね同様である。ただし、『鈴鹿の草子』に見られる登場人物の微妙な心理や葛藤の描写は省かれ、鬼神退治の活劇を主とする内容となっている[10]。鈴鹿御前の名は「立烏帽子」とのみ呼ばれ、その出自も天竺より鈴鹿山に降臨した第四天魔王の娘とする。日本を魔国とするための同盟者を求めて奥州の大嶽丸に求婚するが返事はなく、やがて田村将軍利仁と夫婦となり、共に高丸や大嶽丸を退治する。

物語の影響[編集]

鈴鹿御前=立烏帽子にまつわる物語は、その舞台となった土地に浸透し、鈴鹿山周辺の鏡岩・旧田村社・片山神社・土山の田村神社などの伝承に足跡を残し[11]、また東北地方においても『田村三代記』の影響を受けて各地の社寺縁起や本地譚に取り入れられた[12]

鈴鹿御前の宝剣[編集]

鈴鹿御前は三振りの宝剣「大とうれん(大通連)」「小とうれん(小通連)」「けんみょうれん(顕明連)」を持っていたとされる。このうち大とうれんは文殊の智剣(または化身)とされ、『鈴鹿の草子』では三尺一寸の厳物造りの太刀である。けんみょうれんについては、これを朝日にあてれば三千大千世界を見通すことが出来るという。鬼神を討ち果たしたのち天命を悟った鈴鹿御前は、大とうれん・小とうれんを俊宗に贈り、けんみょうれんを娘小りんに遺した[注釈 7]。渡辺本『田村三代記』によれば、田村将軍の得た大通連・小通連は、やがて田村に暇乞いして天に登り黒金と化した。これを用いて箱根山の小鍛冶があざ丸・しし丸・友切丸の三振りの太刀を打ったという[13]

その他の伝説[編集]

  • 御伽草子『立烏帽子』によれば、鈴鹿山の悪鬼「悪黒王」の妻であったが、討伐に来た田村の五郎利成と矢文を交わして計略により悪黒王を討たせ、田村とめでたく結ばれたという[14]
  • 天明5年(1785年)湯沢に滞在した菅江真澄が土地の老人から聞いた話では、松岡の切畑山(現秋田県湯沢市内)に「あくる王」という鬼がおり、その妻立烏帽子は鬼の術で夜ごと鈴鹿山から通っていたが、夫婦ともに田村利仁に斬られたという[15]
  • 祇園祭の山鉾のひとつ「鈴鹿山」は、鈴鹿御前が「悪摩」、或いは鈴鹿山の鬼「立ゑぼし」を退治した伝承に基づくという[16]

鈴鹿御前が登場する作品[編集]

関連項目[編集]

  • 鈴鹿流 - 薙刀術の流派。片山神社の鳥居横に「鈴鹿流薙刀術発祥之地」と彫られた石碑が建つ[17]

注釈[編集]

  1. ^ ほぼ同時代に成立した『古今著聞集』巻十二には、「昔こそ鈴鹿山の女盗人とて言ひ伝へたるに」との記述が見られるが、これが立烏帽子を示すものか定かでない。
  2. ^ 鈴鹿峠付近に、三重県指定の天然記念物「鈴鹿山の鏡岩(鏡肌)」がある。また、応永31年(1424年)の『室町殿伊勢参宮記』にも、「鈴鹿姫と申す小社の前に、人々祓などし侍るなれば、しばし立よりて、心の中の法楽ばかりに、彼たてえぼしの名石の根元もふしぎにおぼえ侍て、すずかひめおもき罪をばあらためてかたみの石も神となるめり」とある。
  3. ^ 宝暦11年(1761年)に編纂された『三国地誌』「鈴鹿神祠」の項に引く片山神社の社伝では、もと三子山にあり瀬織津姫・伊吹戸主・速佐須良姫の三神を祭っていた片山神社が、寛永16年(1639年)に倭姫命を祭る鈴鹿社に遷し四神を合わせて一社としたとする。
  4. ^ 奈良絵本『すずか』に「すゝかのたてゑほしは、すゝかのこんけん(権現)といはゝれて、とうかいたう(東海道)のしゆこ(守護)神となり、ゆきゝのたひ(旅)人の身にかはりてまもり給ふ」との記述がある。小林幸夫「大蛇の裔・田村将軍」(『在地伝承の世界【東日本】』三弥井書店、1999年)
  5. ^ 田村の将軍の名は、物語によって俊宗・利仁・利成などとされ一定しない。
  6. ^ 『鈴鹿の草子』の末尾は、「しゆしやうさいと(衆生済度)の、御はうべん(方便)、なりければ、すゝかをしん(信)せん人は、かならす、しよくわん(所願)、しやうしゆ(成就)、したまふへし もしすゝか、御い(居)り候わすは、日本は、おにのせかいとなるへし、この事、よく/\、御きゝ候て、すゝかへ、御まいり、有へく候、あなかしこ/\」と締めくくられる。これは『鈴鹿の草子』のうち、鈴鹿御前の登場する後半部分が、元は鈴鹿社の縁起談であった事を示している。『耕雲紀行』に記された巫女の存在を併せると、室町期の鈴鹿の巫女による唱導が窺える。
  7. ^ 『田村三代記』では、大通連・小通連を内裏へ納め、剣明剣を娘正林に遺したとする。『田村の草子』では、この三剣は天竺「まかた国」の阿修羅王が鬼神大たけ丸に与えたものとする。いずれも大とうれんを文殊の剣とする所は同様である。

参照元[編集]

  1. ^ 坂詰力治・大村達郎・関明子・池原陽斉編『半井本 保元物語 本文・校異・訓釈編』(笠間書院、2010年)
  2. ^ 「公卿勅使記」(『神道大系 神宮編3』)
  3. ^ IT版『亀山市史』通史編第4章
  4. ^ 「耕雲紀行」(『神宮参拝記大成 大神宮叢書』臨川書店、1971年)
  5. ^ 下中邦彦『三重県の地名 日本歴史地名大系24』(平凡社、1983年)「坂下村」の項。
  6. ^ 「九九五集」篠山資友社領寄進状写・松平清匡神領寄進状写(『三重県史』資料編近世1)
  7. ^ 浅井了意「東海道名所記」(富士昭雄校訂代表『東海道名所記/東海道分間絵図』国書刊行会〈叢書江戸文庫〉、2002年)
  8. ^ 「鈴鹿の草子」(『室町時代物語大成 第7』)、「田村の草子(仮題)」(『室町時代物語大成 補遺2』)
  9. ^ 「田村の草子」(『室町時代物語大成 第9』)
  10. ^ 「田村三代記」(『仙台叢書 第12巻』)
  11. ^ 大川吉崇『鈴鹿山系の伝承と歴史』(新人物往来社、1979年)
  12. ^ 阿部幹男『東北の田村語り』(三弥井書店、2004年)
  13. ^ 「田村三代記 全」(阿部幹男『東北の田村語り』付録)
  14. ^ 徳田和夫『お伽草子事典』(東京堂出版、2002年)「立烏帽子」の項。
  15. ^ 「小野のふるさと」(『菅江真澄全集 1』未来社、1976年)
  16. ^ 宝暦7年(1757年)刊「祇園会細記」(真弓常忠編『祇園信仰事典』戎光祥出版、2002年)
  17. ^ 児玉幸多監修『東海道五十三次を歩く〈5〉四日市~鈴鹿峠琵琶湖~三条大橋 』(講談社、1999年)

外部リンク[編集]