鈴木其一

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鈴木 其一(すずき きいつ、男性、寛政8年(1796年4月 - 安政5年9月10日1858年10月16日))は、江戸時代後期の絵師。江戸琳派の祖・酒井抱一の弟子で、その最も著名な事実上の後継者である。もと姓は山本。通称、為三郎、諱は元長、字は子淵。其一は号で、別号に薈々、菁々、必庵、錫雲、祝琳、為三堂、鶯巣、元阿など。

近代に通じる都会的洗練化と理知的な装飾性が際立ち、近代日本画の先駆的な絵師だと位置づけられる。

目次

[編集] 伝記

[編集] 生い立ち

江戸中橋(現在のブリヂストン美術館周辺)で、近江出身の紫染めを創始したと言われる紺屋の息子として生まれる(中野其明編『増補尾形略流印譜』)。後の其一の豊かな色彩感覚は、紺屋という出自によるものだと考えられる。子供の頃から抱一に弟子入りし、文化10年(1813年)18歳で内弟子になっている。文化14年(1817年)酒井家の家臣で抱一の付き人を勤め、其一にとっては兄弟子であった鈴木蠣潭(れいたん、通称・藤兵衛)が狂犬病で急死してしまい、抱一の取り持ちで、其一は蠣潭の姉りよと結婚し婿養子として鈴木家の家督を継いだ。この時鈴木家の家禄は、13人扶持から一気に10倍以上の150人扶持に増やされており、抱一の其一に対する期待と信頼を窺わせるが、りよは子持ちで其一より少なくとも5歳以上年が離れており、抱一が其一に婿養子を受け入れさせるための手管とも考えられる。

[編集] 画風準備期・草体落款時代

年記がある其一の作品は極めて少ないが、落款の変遷から画風展開を追うのが普通である。抱一在世中は、抱一から譲られた号である「庭拍子」、または「其一筆」とだけ記す草書落款である。この時期は、抱一の住居「雨華庵」の筋向いに住み、身の回りの世話をしながら彼に学び、個性を顕わにしていく画風準備期とされる。ミシガン大学所蔵の「抱一書状巻」によると、其一はしばしば師の代筆を担当したらしく、抱一作品の中には其一筆と酷似した物も見られる[1]。抱一からは、茶道俳諧も学び、「鴬巣」の俳号をもち、亀田鵬斎大田南畝らと交わり、彼らの讃をもつ初期作品も少なくない。文政8年(1825年西村貌庵著し抱一が序を寄せた『花街漫録』の挿絵を描いており、他にも10点ほどの版本挿絵が知られる。

[編集] 画風高揚期・噲々(かいかい)落款時代

文政11年(1829年)抱一死後、願い出て一代絵師となり、5人扶持・絵具料5両を受け、剃髪。当時の人名録や伝記資料を追う限り、其一が転居した形跡はなく、終生この地で雨華庵を継いだ酒井鶯蒲鶯一らを見守っていたと考えられる。天保3年(1832年)絵具料を改定、9人扶持となる。翌年京都土佐家への絵画修業を名目に50日の休暇を申し出て、2月から11月にかけて西遊する。この時の日記『癸巳酉遊日記』が、京都大学附属図書館谷村文庫に残されている[2]。其一は、古い社寺を訪ね回り古書画の学習に励むなかで師の影響を脱し、独自の先鋭で近代的な画風へ転換していく。落款も「噲々其一筆」などと記す、いわゆる噲々落款に改め、この後10年程用いた。「噲々」とは『詩経』小雅が出典で、「寛く明らかなさま」「快いさま」を意味する。天保12年(1841年)から弘化3年(1846年)にかけて、抱一が出版した『光琳百図』の版木が焼けてしまったため、其一が複製して再出版している。その制作過程における、宗達や光琳作品の図様や構成法の再学習は、この後の画風に影響を与えたと見られる。天保13年(1842年)の『広益諸家人名録』には其一ではなく、息子守一の名が記されており、この頃既に家督を譲っていたと思われる。

[編集] 画風円熟期・菁々(せいせい)落款時代

弘化元年(1844年)頃からは、「菁々其一」と号を改めた菁々落款に変わる。「菁々」も『詩経』小雅にあり、「盛んなさま」「茂盛なさま」を指し、転じて人材を育成することを意味する。明らかに光琳の号「青々」も踏まえており、この改号には、師抱一を飛び越えて光琳を射程としつつ、次なる段階に進み、自ら後進を育てようと目論む其一の意欲が窺える。その作風は再び琳派の伝統に回帰する一方で、其一の個性的造形性が更に純化する傾向が混在したまま完成度を高め、ある種の幻想的な画趣を帯びるようになった。ただし、晩年には工房作とおぼしき其一らしからぬ凡庸な作品が少なからず残り、師・抱一と同様、其一も弟子に代作させたと見られる。また、酒井忠学に嫁いだ徳川家斉の娘喜代姫の厚遇により、酒井家の医師格、つまり御用絵師となり別に30人扶持を賜ったとする説がある。安政5年、63歳で没する。死因は当時流行したコレラともいわれる。法名は菁々院元譽其一居士。浄土宗浅草松葉町正法寺に葬られたが、同寺は関東大震災中野区沼袋に移転し、其一の墓もそこに現存している。

[編集] 作風と系譜

高い描写力に裏打ちされた明快な色彩と構図、驚きや面白みを潜ませる機知的な趣向は、敢えて余情を配するかのような理知的な画風を特徴付けている。琳派の掉尾を飾るとも評されるが、美人画風俗画などの単に琳派や抱一様式に収まらない、個性的な要素を多く含んでいる。描き方も、本来は仏画に用いる技法である表具にも絵を施す「絵描装(描表装)」をしばしば用い、本紙の絵に多様なデザインを取り合わせ、時に本紙の中に侵入するだまし絵のような効果を与えている。こうした肉筆画の一方、其一は狂歌本挿絵や狂歌摺物、団扇絵版錦絵千代紙といった版下絵の仕事も積極的にこなしている。

雅趣豊かな抱一の作風とは対照的に、硬質で野卑とも言うべき感覚を盛り込んだ其一の作品は、長く国内の評価が低迷し、作品の流失と研究の立ち遅れを余儀なくされた。しかし、近年の所謂「奇想の絵師」達の評価見直しが進むに連れて、琳派史上に異彩を放つ絵師として注目を集めつつある。平成20年(2008年東京国立博物館で開かれた『大琳派展』では、宗達・光琳・抱一に並んで其一も大きく取り上げられ、琳派第4の大家として認知されつつある。

息子に、同じく琳派の絵師となった長男鈴木守一、起立工商会社で細密な図案を多く残した次男鈴木誠一がいるが、絵師としては父に及ばなかった。弟子に村越其栄市川其融稲垣其達中野其明中野其豊村松其翠、など。また、幕末明初の絵師・河鍋暁斎は其一の次女を最初の妻にしている。これは其一の長女が、暁斎の父と同じ御茶の水定火消の与力海津某に嫁いでおり、その縁によるものだったというが[3]、共に本来の画域以外にも関心を示す姿勢を持っていたことは共通している。

[編集] 代表作

『朝顔図屏風』左隻

[編集] 草体落款時代

[編集] 噲々其一時代

[編集] 菁々其一時代

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 青楓朱楓図屏風(個人蔵、六曲一双)や、十二ヶ月花鳥図屏風(香雪美術館蔵、六曲一双)などがその可能性を指摘されている(前者は玉蟲敏子『都市のなかの絵 酒井抱一の絵事とその遺響』 ブリュッケ、2004年。後者は小林忠 『日本の美術463 酒井抱一と江戸琳派の美学』至文堂、41頁)。
  2. ^ 原本は明治14年に火災で焼失。谷村文庫本は糸源なる人物が写した本を、息子守一が更に写した重模本。
  3. ^ 飯島虚心『河鍋暁斎翁伝』、『日本芸術名著選3 河鍋暁斎翁伝』ぺりかん社として復刊、1984年。

[編集] 参考資料

論文
  • 高橋佳奈 「鈴木其一『癸巳西遊日記』解題」、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部美術史研究室 『美術史論叢』22号所収、2006年
  • 横山九実子 「鈴木其一考─伝記及び造形上の諸問題─」、『美術史』136号所収、1994年
  • 竹内美沙子 「其一私論 落款編年と琳派回帰」、展覧会図録 『特別展 琳派 美の継承─宗達・光琳・抱一・其一』所収 名古屋市博物館、1994年
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