量子統計力学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

量子統計力学 (りょうしとうけいりきがく, Quantum statistical mechanics) とは量子力学的なを扱う統計力学の手法。統計力学の基礎づけは量子力学に拠っているため、広義には統計力学一般を意味し、狭義には古典近似を用いないモデルを指す。対義語は古典統計力学。

古典統計力学と量子統計力学[編集]

量子統計力学に対し、古典力学に従う統計力学を特に古典統計力学という。例えば、常温付近での不活性気体の統計力学は、最も簡単には分子相互作用のない理想気体モデルがあり、相互作用のあるモデルでは、二体間ポテンシャル剛体球ポテンシャル (hard sphere potential) にカッツ・ポテンシャル (Kac potential) を加えたものや、レナード-ジョーンズ・ポテンシャル (Lennard-Jones potential) で近似するモデルがあるが、いずれにせよ古典近似による古典統計力学でよい。このことは、気体分子の統計ボルツマン分布 (Boltzmann distribution) に従い、その速度分布がマクスウェル-ボルツマン分布 (Maxwell-Boltzmann distribution) になることによって保証される。 ほとんどすべての場合、気体や液体は、原子間ないし分子間相互作用を与えてしまえば、そのポテンシャルの下で古典力学に従う原子ないし分子の集団として扱ってよい。すなわち、物質の多くの現象は古典論に基いて説明することができる。 これに対し、金属内の伝導電子や液体金属の電子集団、真性半導体内の電子や正孔の集団は、量子統計力学によって記述されなければならない。また、超流動ないしその近くでの 4He の集団や、1 K 前後より低温での液体 3He なども、量子統計力学による記述を必要とする。 ただしこのことは、それらの系に対して直ちに古典統計力学が無力になることを意味しない。例えば、金属結晶中の電気伝導は古典的な自由電子気体モデル (ドルーデ・モデル, Drude model) によって部分的に説明され、オームの法則 (Ohm's law) やホール効果 (Hall effect)、ヴィーデマン=フランツ則 (Wiedemann-Franz law) は古典的な現象として理解することができる。

背景[編集]

熱放射・空洞放射[編集]

量子統計力学が物理学の世界に初めて登場したのは1900年、今日ではプランクの法則 (Planck's law) として知られる、マックス・プランク (Max Planck) による熱放射の理論で、これは実に量子力学が現在のような形式で認識される以前のことであった (光電効果ハインリッヒ・ヘルツ (Heinrich Hertz) によって発見されたのが1887年アルベルト・アインシュタイン (Albert Einstein) の光量子仮説による説明が1905年1924年ルイ・ド・ブロイ (Louis de Broglie) による物質波のアイデアに基づいて、ヴェルナー・ハイゼンベルク (Werner Heisenberg) による行列力学1925年に発表、エルヴィン・シュレーディンガー (Erwin Schrödinger) による波動力学1926年に発表された。同年、シュレーディンガーは波動力学と行列力学が等価な理論であることを示している。また、ハイゼンベルクによる不確定性原理の発見は1927年の事である)。 空洞の中に閉じ込められて、空洞の壁と熱平衡になっている電磁場に古典統計力学を適用すると、エネルギー等分配の法則により、各単色光成分が、平均としてはいずれもk BT なるエネルギーを持つことになる。ここでk B =R/N Aボルツマン定数 (Boltzmann constant)、すなわち気体定数Rアボガドロ定数 (Avogadro constant)N Aを表し、T は壁の熱力学的温度を表す。しかしこれでは空洞内の電磁波スペクトル分布がまったく実験と合わないばかりか、電磁場は無限に自由度を持っているため、空洞内のエネルギーも熱容量も無限大になってしまう。 量子論では、振動数 \nu の単色光成分のとりうるエネルギーの値が h\nu整数倍に限られるので、この成分のエネルギーの平均値は h\nu/(e^{\beta h\nu}-1) となる。ここで、\beta=(k_{\rm B}T)^{-1}逆温度、また hプランク定数である。これで分かるように、高い振動数 h\nu \gg k_{\rm B}T \ (\beta h\nu \gg 1) の電磁波は、古典統計力学の記述から著しく外れる。

格子振動[編集]

同様な問題は、固体内の格子振動でも見られる。古典統計力学によると、線形近似の下で、各原子が平均して 3k BT だけのエネルギーをもつことになるので、固体の比熱は 1 mol あたり 3R ということになるが、低温になるにつれて、実際の比熱はこれより著しく小さくなり、絶縁体結晶の例では、比熱が低温では温度の 3 乗T 3 に比例していることが知られている。これも格子振動を量子化することによって見事に説明される。

ボース粒子・フェルミ粒子[編集]

電磁場のフォトンや、格子振動のフォノンのように、量子数の一定でない問題と異なり、液体ヘリウム 4 (4He) のように粒子数が保存されるボース粒子の集団の場合、極低温ではボース・アインシュタイン凝縮が起こることも量子統計力学の特徴のひとつである。

多粒子系や格子振動などの問題で、古典統計力学ならばマクスウェル・ボルツマン分布が登場するところをすべて、フェルミ粒子系の場合(電子や3He)はフェルミ分布に、ボース粒子系の場合はボース分布にすり替えただけで、量子統計になると思っても大ざっぱな用は足りる。

熱力学[編集]

系の力学構造と平衡状態熱力学とを結びつけているのは、ボルツマンの原理 S=k_{\rm B}\ln W である。S は系のエントロピー、 ln は自然対数を表す。量子統計力学ではWエネルギー固有値EE + ΔE の間にある量子状態の総数である (ただしE は系全体の内部エネルギーにほぼ等しく、ΔE は充分小さいものとする)。ボルツマンの原理により、平衡状態でのエントロピーが決して負にならないことは明らかである。 また系の基底状態が極めて大きな(巨視的な数の)縮退をもっていない限り、E が最低値をとれば、自由度一つあたりのエントロピーはゼロになるはずである。これが熱力学第三法則であり、量子統計力学ではまったく自然に理解される。これに対し古典統計力学では、エントロピーの値そのものを確定することができず、第三法則も説明できない。

分配関数Z対数をとることによって得られるヘルムホルツの自由エネルギーF = -β-1lnZ は、相互作用があって複雑な多粒子系の場合でも、古典統計力学では運動エネルギーからの寄与が分離して、これだけはまったく一般的に簡単な表式で与えられてしまう。 ハミルトニアン

\hat{H}(\{\mathbf{p}_i\},\{\mathbf{x}_i\})= \hat{K}(\{\mathbf{p}_i\}) + \hat{\Phi}(\{\mathbf{x}_i\}),

の運動エネルギー項Kポテンシャル・エネルギーΦ交換可能ならば、指数関数 \exp\{-\beta\hat{H}\} は指数関数の積 \exp\{-\beta\hat{K}\}\exp\{-\beta\hat{\Phi}\} に分離することができる (ベイカー-キャンベル-ハウスドルフの公式 Baker-Campbell-Hausdorff formula を用いる[1][2])。 不確定性関係より、両者は可換ではないが、交換関係の寄与は充分高温 (β が充分小さい) ならば無視できるため、可換だと思える。指数関数の積に書き直すことができれば、あとは通常の数と同様に扱えるため、ヘルムホルツの自由エネルギーを、運動エネルギーによる部分とポテンシャル・エネルギーによる部分とに分離することができる。

Z(\beta)=\frac{1}{N!}\left(\frac{2\pi m}{h^{2}\beta}\right)^{3N/2}\int\prod_{i=1}^{N} d^{3}\mathbf{x}_i e^{-\beta\Phi(\{\mathbf{x}_i\})}
F(\beta)=-\beta^{-1}\left\{\frac{3N}{2}\ln\left(\frac{2\pi m}{h^{2}\beta}\right) - \ln(N!) + \ln\left(\int\prod_{i=1}^{N} d^{3}\mathbf{x}_i e^{-\beta\Phi(\{\mathbf{x}_i\})}\right) \right\}

このような古典近似とは別に、場の量子論におけるファインマン・ダイアグラムと同様の摂動計算によって、量子系の自由エネルギーの近似を得ることができる。

量子状態[編集]

量子力学において、対象とする系の完全な情報が得られている場合には、系の状態はヒルベルト空間における状態ベクトル |\Psi\rangle によって表される。このとき物理量 f期待値\langle\Psi|f|\Psi\rangle から得られる。

それに対し通常の量子統計力学では、系のひとつのマクロ状態に対応する量子状態は極めて多数あるのであって、物理量 f の期待値は、f\rho のヒルベルト空間における対角和 {\rm Tr}\{f\rho\} によって与えられると考える。これは、複数のエネルギー固有状態に対するアンサンブル平均を与える。 しかし、適切な変換を施すことで、期待値がアンサンブル平均に漸近するような部分ヒルベルト空間上の純粋状態 (Thermal Pure Quantum state, TPQ) が得られることが知られている[3][4][5]

エルゴード仮説[編集]

問題を簡単化して、孤立系を考える。任意の初期条件 (例外はあっても、位相空間内での測度はゼロの点に限られている) から出発した力学的について、物理量 f の長時間平均 \bar{f} が、f の観測値であると仮定してしまうと問題の数学性は明確になる。これはエルゴード問題といわれている。孤立した力学系の保存量はエネルギーだけであるという仮定の下では、\bar{f} が位相空間内の等エネルギー面 (constant-energy surface) 上での f の平均値に等しくなることが証明されている。量子統計力学では、これほど後退したエルゴード定理すら確立されていない。問題をさらにもっと後退させて、ジョン・フォン・ノイマン (John von Neumann) やヴォルフガング・パウリ (Wolfgang Pauli) が、量子統計力学のエルゴード問題を論じたこともあったが、あまりに後退させたためにいささか同義語反復の感がある。量子統計力学のエルゴード問題はほとんどまったく未発展のままである。 上記のエルゴード仮説 (Ergodic hypothesis) が統計物理学の力学による基礎づけにどれほど有効であるかは疑問視されている。長時間平均 \bar{f} がアンサンブル平均 \langle f \rangle に一致するため、すなわち時間平均の積分がほとんどすべての状態を取り尽くすためには、特殊な場合を除いて、非現実的なほど長い時間をかけなければならず、実際に物理量 f を観測する時間を遥かに超えてしまうことが指摘されている。また、等重率の原理が成り立つこと、言い替えればボルツマンの公式が成り立つことを仮定すると、それぞれの観測から得られる物理量 f の測定値は、系の内部エネルギーから大きく外れないため、測定の際に長時間平均をとることは必要なくなることも示されている[6]

参考文献[編集]

  1. ^ 黒木玄, Baker-Campbell-Hausdorffの公式の証明 (PDF)
  2. ^ 富谷昭夫, Campbell-Baker-Hausdorff 公式の導出 (PDF)
  3. ^ Sho Sugiura and Akira Shimizu, Canonical Thermal Pure Quantum State , (2013)
  4. ^ 杉浦祥, 有限温度における熱的な量子純粋状態 , 情報統計力学の最前線 - 情報と揺らぎの制御の物理学を目指して, 2012年
  5. ^ 清水明, 杉浦祥, 量子純粋状態による統計力学の定式化 , 特集/発展する統計力学|その新しい姿を探る, 2013年
  6. ^ 田崎晴明 『統計力学 I』 培風館2008年ISBN 978-4-563-02437-6