鄭道伝

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鄭道伝
各種表記
ハングル 정도전
漢字 鄭道傳
発音 チョン ドジョン
日本語読み: てい どうでん
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鄭道伝(チョン・ドジョン、1342年 - 1398年)は、高麗末期から朝鮮王朝初期の政治家、学者。号は三峰(サンボン)。

出生[編集]

鄭道伝の故郷である忠清北道丹陽郡には彼の出生にまつわる話が伝わっている。刑部尙書・鄭云敬は占い師に10年後に結婚をすれば生まれた子は宰相になるであろうと予言された。鄭云敬はその予言を信じて10年間金剛山で修養をした。そして家に戻る途中、にわかに雨に降られ、島潭三峰の草庵に止宿した。其処で禹氏の少女に出会い、鄭云敬はその少女を娶った。そして生まれたのが鄭道伝であるという。

朝鮮建国の功臣[編集]

父である鄭云敬の友李穡を師として学問を学んだ。1360年科挙に合格して1363年官吏となるが、1375年、権臣李仁任などの親元拜明の政策に反対したために流刑に処される。1377年、流刑生活が終わって学問研究と教育に携り、1388年李成桂(のちの太祖)の幕僚となる。

1389年昌王を廃して恭譲王を擁立すると功臣として封ぜられるが、1391年再び流刑に処された。1392年釈放されるが、その年4月に李成桂が遊猟中に落馬して負傷するという事件が起こった。うしろだてである李成桂が療養中のすきに鄭夢周などが「家風が不浄で家系が不確かだ」(鄭道伝の母は奴婢と『朝鮮王朝実録』に書かれている)と弾劾して、3度流刑に処された。李芳遠(のちの太宗)が鄭夢周を暗殺すると釈放されて、その年7月17日李成桂を王に推戴した。

権力の頂点から逆賊へ[編集]

朝鮮王朝が建国された直後、すべての権限は鄭道伝に集中した。その権力は国王である太祖を凌ぐとさえ言われるほどだった。彼は開国一等功臣と認定を受けて、門下侍郎賛成事、判都評議使司事、判戸曹事、判尚瑞司事、普門閣太学士、知経筵芸文春秋館事、判義興三軍府事など、ほとんどすべての要職を兼職または歴任した。漢城遷都の以後、宮と宗廟の位置と称号、門の称号を定め、『朝鮮経国典』を著わして法制等の基礎を作った。『仏氏雑弁』を著わして崇儒抑仏政策の理論的基礎を確立した。

軍事的には「義興三軍府」の司令官として軍制を改革し、高麗後期にほとんど私兵化した軍隊を段階的に革罷して帰属させた。また陣法を新たに作り、軍事たちに厳格に徹底させた。このような軍事政策は建国直後から推進された。短期的には国防力を強化させることが目的だったが、長期的には有事の際にに対抗するのが目的だった。

頂点にあった鄭道伝は「劉邦張良を利用して王朝を創業したのではない。むしろ張良が劉邦を利用して王朝を創業したのである。」と言って、太祖と自分の関係を劉邦と張良の関係になぞらえた。政治的には個人である国王が全ての実権を握るよりも、宰相を中心とした士大夫が軍事、財政、人事などを掌握し政治をリードすべきであると主張した。そのため強力な王権こそ社会の安定をもたらすと考える李芳遠(太宗)と対立した。太祖は繼妃康氏との間に生まれた、当時わずか11歳の末息子、芳碩を太子に指名し、政権樹立に功績があった芳遠を遠ざけた。明を刺激するであろう遼東出兵を計画したが、1398年政敵であった芳遠に暗殺された(第一次王子の乱)。鄭道伝の辞世の句は「操存省察兩加功、不負聖賢卷中、三十年來勤苦業、松亭一醉竟成空」である。

再評価[編集]

李芳遠の政敵だったことから長い間反逆者として扱われた。しかし1791年、鄭道伝の学問を再評価した正祖の命で、彼の文集である『三峰集』が再刊行された。 1865年興宣大院君景福宮を重建しながら、漢陽の設計者である鄭道伝の勳爵を回復させ、1870年「文憲」という諡号を受けた。

2005年盧武鉉大統領はKBS(韓国放送公社)の番組に出演し「鄭道伝を見習いたい」と語った。

関連項目[編集]