鄭松

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鄭松(チン・ドゥン、ベトナム語:Trịnh Tùng、1550年 - 1623年)は、ベトナム黎朝の権臣、東京鄭氏の二代目当主。

初代当主鄭検の次男。1570年、鄭検は薨去し、長男の鄭檜が家督を継いだ。しかし、鄭檜が才能を有せず。これを好機と見て、莫敬典莫朝軍隊を率いて南下し、黎朝を討伐した。鄭檜が酒色に耽って、大敗を喫する。鄭松は家督の座を奪われ、莫朝軍隊を撃退した。黎朝により「長郡公、左相、節制各処水歩諸營」を封ぜらた。1573年には英宗を殺害し、その第5子である世宗を擁立した。

1592年、鄭松は昇龍(現・ハノイ)を攻略、莫朝の皇帝・莫茂洽を殺害した。ここに黎朝の再興が実現した。莫黎戦争を通じて、黎朝の実権は完全に鄭松により掌握された。1599年、自らは平安王と称して、黎朝から「都元帥、総国政、尚父」を加号される。

世宗が崩御すると敬宗を擁立する。1619年、敬宗は次第に権力を強大化させる鄭松を恐れ、万郡公鄭椿(鄭松の次男)などを集めてクーデターを起こそうとし、鄭松の戦象を銃撃した。ただし鄭松は事前に発覚し、敬宗を縊殺神宗を擁立している。

1623年、鄭松が重病に陥ると、鄭椿の反乱が起こった。世子鄭梉清化(現・タインホア省タインホア市)に脱出し、神宗を拉致して、鄭椿を討伐した。鄭椿は捕らえられ、凌遅刑を処された。この頃、鄭松は急死した。成祖の廟号を追贈られ、恭正寛和哲大王とされた。

経歴[編集]

  • 初めて福良侯の封号を受ける。
  • 1570年、「左相、節制各処水歩諸營」に任官。封号を長郡公と改める。
  • 1571年、太尉に加封。
  • 1574年、都將に加封、総内外平章軍国重事に兼務。
  • 1599年、「都元帥総国政」に昇叙し、平安王の封号を改め、尚父の称号を受ける。
  • 1623年、薨去。

家族[編集]

参考文献[編集]

先代:
鄭検
ベトナムの副王
黎朝東京鄭氏の当主)
1570年 - 1623年
次代:
鄭梉