郭欽 (新)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

郭 欽(かく きん)は、中国代の武将。

事跡[編集]

姓名 郭欽
時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 〔不詳〕
本貫・出身地等 〔不詳〕
職官 戊己校尉〔新〕→九虎将軍〔新〕
爵位・号等 侯〔更始帝〕
陣営・所属等 王莽更始帝
家族・一族 〔不詳〕

王莽配下の将軍。天鳳3年(16年)、新の五威将王駿焉耆国を討伐したが、配下の西域兵に離反され、敗死した。戊己校尉の地位に在った郭欽は、このとき別に軍を率いており、王駿戦死後に焉耆国に到達した。焉耆国の軍が帰還していなかったため、郭欽は焉耆国の老幼を殺して、軍を率いて本土へ帰還した。

地皇4年(23年)秋、析県(弘農郡)で蜂起した鄧曄于匡を討伐するために、郭欽は王莽から「九虎将軍」の一人に任命される。九虎将軍は家族を王莽に人質にとられ、首都を警備する精鋭部隊を率いていたが、王莽は自らの財貨を惜しみ、九虎将軍の部隊の兵士にはわずか4千銭しか支給せず、士気は低調であった。郭欽は他の将軍たちとともに、回谿(弘農郡華陰県)の要衝を守備したが、鄧曄・于匡の前に大敗してしまう。

この結果、九虎将軍のうち王況史熊は自害して果て、四虎は逃亡して姿をくらました。残る三虎の郭欽・陳翬・成重は、敗残兵を取りまとめ、賞都大尹王欽とともに京師倉(華陰県の北)を守備した。王莽が殺害され、新が滅亡したと聞くと、郭欽は王欽とともに更始帝に降伏した。更始帝はこれを義とし、2人は侯に封じられた。

以後、郭欽の行方は不明である。

参考文献[編集]

  • 漢書』巻96下列伝66下西域伝下
    • 同巻99中列伝69中王莽伝中
    • 同巻99下列伝69下王莽伝下

関連項目[編集]