道上伯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索

道上伯(みちがみ はく、1912年10月21日 - 2002年8月4日)は、日本出身の柔道家である。身長173センチメートル

目次

[編集] 来歴

[編集] エピソード

  • 柔道の試合においては生涯無敗を誇った。学生時代のみならず、指導者として海外で臨んだ様々な試合においても、一度も敗戦していない。1953年(昭和28年)11月にクーベルタンスタジアムで行われた試合では、フランスを代表する強豪10名と連続して対戦し、わずか6分30秒、たった13回技を掛けたのみで10人抜きを達成している。
  • 柔道初段を取得したのは昭和2年だが、実は1926年(大正15年)の時点で、既に昇段審査を通過していた。しかし、13歳という当時としては異例の若さでの合格だった為、試験官の一存によりこの時点での昇段は見送られ、15歳の誕生日を迎えた時に、改めて正式に初段の段位を与えられた。
  • 1930年(昭和5年)、アメリカ渡航の夢を抱き、誰にも告げずに八幡浜から出奔。およそ五ヶ月間大阪府に滞在した後、貨物船に乗り込み船員として働いていた。それからしばらくして実家に連れ戻されるが、八幡浜商業学校への復学が認められなかった為、吉田中学校へ転入する事となった。
  • 武道専門学校2年時、稽古中の事故で右膝靭帯を切断。この時の後遺症により、道上の右膝は生涯、90度以下には曲がらなくなった。現存する道上の稽古・指導時の写真にも、右膝を曲げているものは一枚もない。
  • 戦後、東亜同文書院の閉校に伴って失職していた時期に、柔道整復師の免許を取得している。その後、上海から引き上げてきた資金を基に水産会社を設立し、渡仏までは社長として経営に当たっていた。
  • 指導者としての道上は、アントン・ヘーシンクを育てた事で知られている。1955年(昭和30年)にオランダを訪れた際、当時建設作業員だった20歳のヘーシンクの才能を見出し、柔道の技術だけでなく、筋力トレーニングをはじめとする先鋭的な体力作りの手法を教授。その結果ヘーシンクは、1961年(昭和36年)の世界柔道選手権大会無差別級に優勝し、1964年(昭和39年)の東京オリンピック柔道無差別級でも金メダルを獲得、日本柔道界に計り知れない衝撃をもたらした。
  • 柔道だけでなく、空手にも造詣が深かった。1983年(昭和58年)には、全日本空手道連盟七段位を取得している。但し、空手家としての道上の実績は不明である。
  • 生前は、戦後主流となったスポーツ柔道に異を唱え、1963年(昭和38年)に『文藝春秋』に寄稿した『講道館柔道への爆弾宣言』を初めとして、事あるごとに講道館に対し批判的な発言を繰り返していた。加えて拠点を海外に持ち、日本国内での活動が皆無に等しかった事もあって、日本での知名度は極めて低く、各国柔道界の顧問を務めるなど確かな実績を残しているにも関わらず、国内で話題に取り上げられる事は非常に少ない。

[編集] 参考文献


[編集] 外部リンク

個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス