近藤達児

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近藤達児

近藤 達児(こんどう たつじ、1875年明治8年)10月9日[1] - 1931年昭和6年)9月22日[2])は、衆議院議員立憲国民党革新倶楽部立憲政友会)、弁護士

経歴[編集]

福島県安達郡二本松町に旧二本松藩典医近藤玄貞の二男として生まれる[1]京華中学校第四高等学校を経て、1909年(明治42年)に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した[1]。在学中の1906年(明治39年)に大日本輸出羽二重株式会社を設立して常務取締役に就任し、また渋川起業株式会社取締役にも就いていた[3]。しかし卒業した後は職を辞して、1910年(明治43年)に弁護士を開業し、また大学院で会社法を研究した[3]

日本橋区会議員、同議長、東京市会議員を経て、1917年大正6年)の第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第14回衆議院議員総選挙でも再選され、帝都復興院評議員に任命された[2]。その後、1925年(大正14年)の補欠選挙に出馬し、三選を果たした[4]1927年(昭和2年)には議会乱闘事件に関与したとして傷害の容疑で起訴、同年12月16日に罰金五十円の判決を受ける[5]1930年(昭和5年)、東京市疑獄事件(板舟権疑惑・京成電車疑獄事件等)で公判に付されたが[6]、判決前に死去したため公訴棄却となった[7]

その他、日本医学専門学校(現在の日本医科大学)理事を務めた。

著書[編集]

  • 『新支那旅行記 附-孫文移霊祭之記』(田口書店、1929年)

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『大正人名辞典』1535ページ
  2. ^ a b 『衆議院議員略歴』
  3. ^ a b 『日本弁護士総覧』
  4. ^ 『官報』第3966号、大正14年11月12日
  5. ^ 暴行十代議士に有罪判決『東京日日新聞』昭和2年12月17日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p240 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  6. ^ 『昭和6年 時事年鑑』時事新報社、1930年、p.411。
  7. ^ 『昭和8年 時事年鑑』時事新報社、1932年、p.380。

参考文献[編集]

  • 『日本弁護士総覧 第二巻』東京法曹会、1912年。 
  • 五十嵐栄吉『大正人名辞典』東洋新報社、1917年。 
  • 『第一回乃至第二十回総選挙 衆議院議員略歴』衆議院事務局、1940年。