軍服 (ドイツ国防軍陸軍)

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1939年10月5日、ワルシャワで戦勝パレードするドイツ国防軍陸軍

本稿ではドイツ国防軍(Wehrmacht, ヴェーアマハト)の陸軍(Heer, ヘーア)の軍服について記述する。

はじめに[編集]

古今東西様々なミリタリールックがあるが、その中でもとりわけ人気が高いのが第二次世界大戦時のドイツの軍服である[1]。それはドイツ人の「制服信仰」と卓越した職人技が組み合わさって生み出され、優れた機能美があると評価される[2][3]

その第二次大戦ドイツ軍服の中でも雛型ともいうべきものがドイツ国防軍陸軍の軍服であろう。ドイツ軍服の魅力の一つでもあるが、ドイツ軍服は非常にバラエティーに富んでいることで知られている[1]。陸軍一つとってもその種類は非常に多い。灼熱の砂漠から極寒の地まで広大な領域の戦場で戦うことを余儀なくされたドイツ軍は、地形にあった軍服を次々と作らねばならなかった。通常野戦服を基本にして様々な軍服軍帽徽章防寒着などが作られた。戦車兵突撃砲兵などは通常野戦服から大きく離れた独自の軍服を持った。

本稿ではまず様々な兵科や戦場で幅広く使用された通常の野戦服・軍帽・徽章・装備などについて解説し、その後特定の兵科・戦場・場合においてのみ使用された物を解説する。

ドイツ軍では下士官兵士は支給された軍服を着用し、将校は規定に沿った軍服を自分で仕立てるのが普通であった。そのために将校は被服手当を受けていた[4][# 1]

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通常の野戦服[編集]

支給野戦服[編集]

M36野戦服を着る第18騎兵連隊 (de) の騎兵を描いた絵

1933年にナチ党政権が誕生すると新しい野戦服 (Feldbluse) が検討され、いくつかの改良を経たのち、1935年9月5日にM36野戦服[# 2]が制定された[7][8][9]フィールドグレー色(Feldgrau)を基調とした軍服であり、襟と肩章の部分だけダークグリーン色だった[8][10]。襟は閉じても開襟でもよかった[10]。前ボタンは5つ、波型のふた付きプリーツポケットが上下左右に4つ付いており、右ポケットの上部には鷲章が付いていた[8][11]

ズボンははじめストーングレー色で上着と少し色が違っていたのだが、後にこのズボンは廃止されて上着と同じフィールドグレー色になった[12]。ズボンには左右にふたのない切り込みポケット、さらにお尻の右部分に大きいポケットが付いていた[8][13]。また前部右側には懐中時計用の小さなポケット(フォブ・ポケット)が付いていた[8][11]。ズボンのウエスト部分の後ろ側にはバックル付きの布バンドがついており、これでズボンを締めた[8][11]。またサスペンダー(ズボン吊り)が用いられ、それを止めるためのボタンがウエスト部分に付いている[8]。初期のズボンは後のズボンに見られるような裾の絞りはなく、正式なブーツや靴に合わせられていた[8][13]

戦争が長期化するにつれて野戦服の生産工程の簡略化がすすめられ、1940年には襟と肩章が服と同じフィールドグレー色の野戦服が作られるようになった。これをM40野戦服と呼ぶことがある[14]

さらに1943年にはポケットにプリーツが無くなり、またポケットのふたが波型ではなく四角形になった野戦服の製造が開始された[8][15]。これをM43野戦服と呼ぶこともある[16]。ボタンは一つ増えて6個になっている[16][17]。襟は閉じても開襟でもよいが、1943年に襟付きシャツが制定されたので開けることが多くなった。この襟付きシャツはそれ以前のシャツに代わって導入された物で、かぶって着るシャツであり、袖は長いが袖口をボタンで絞り込めるようになっていた[18]。夏場などはこのシャツに肩章を取り付けて過ごす場合も多かったという[18]

戦況の悪化でウール不足が深刻化し、1943年から1944年頃になるとレーヨンの混紡率が高くなり、保温機能が悪化した[8][15]。素材の変化でM43野戦服の頃からフィールドグレーというよりグレーブラウンに似た色になっていった[8][19]

1944年には更なる生産工程の簡略化のためM44野戦服が登場した。これはもはやドイツ軍というより英軍の野戦服「バトルドレス」 (en) に似た形状になった。丈が短くされて下ポケットが消滅し、襟も開襟で着るのが普通になった[20][21]。またこれまで下士官は襟廻りにトレッセという縁取りを入れて兵と区別されていたのだが、M44ではそれが廃止され、兵士か下士官かの違いは肩章のみで判別するようになった[21]。しかし前ボタンはM43の6つが維持された[22]。服の素材もますます劣悪となり、スパンレーヨンにわずかに再生ウールが入ってるだけになり、その色はますますグレーブラウンになっていき、この色は「フェルトグラウ(フィールドグレー)44」と呼ばれた[20][23]

靴ははじめ全員に黒革のブーツが支給されており、それがシュタールヘルムと並んでドイツ軍の特徴であった[24]。しかし1942年ころからブーツの不足が始まり、他の国と同じ編上靴ゲートルというスタイルが一般的になっていった[20]。ドイツの戦況悪化につれて兵士のゲートル・編上靴率があがっていったので「退却ゲートル」などと呼ばれたという[19]

将校の野戦服[編集]

将校支給品のM36野戦服のような制服を洋服屋で自ら仕立てて着用するのが基本であった。M36と規格の上で違う点としては袖の部分に折りカフスが付いていること、襟が高いこと、襟章のドッペルリッツェンがより精巧な事、ベルトを止めるホックが付いていなかったことなどがある[4][25]。折りカフスは命令書などを挟むのに使われていたという[25]。素材は一般に支給軍服より良い物が使われていることが多く、ドスキンというラシャ地で作る者が多かった[4]。ただ消耗を避けるために野戦では将校も支給品の野戦服を着用するのが一般的で、オーダーメイド野戦服は後方勤務の場合に使用されることが多かった[6]

将校は下衣としてフィールドグレーのシャツと黒いネクタイを締めていたが、当初将校は襟を閉じるものとされていたためネクタイは見えなかった。しかし1943年にネクタイが見えるよう開襟にして着用することが許可された(とはいっても開襟にする者はほとんどいなかったようである)[6][4]

ズボンは当初乗馬ズボンをはく者が多かったが、後にはストレートのズボンが多くなった。参謀将校は将官と同様にズボン(乗馬ズボン・ストレートズボン問わず)の側面部分に赤い棒線2本の側章を入れることが許されていた。これは参謀将校は将官に準ずる扱いを受けていた事を意味している[26]

将校の軍服はオーダーメイドであるから変化は少ないはずだが、やはり戦況悪化の影響を受けた。たとえばズボンは大戦前期には乗馬ズボンと乗馬ブーツを着用していることが多かったが、1944年12月には前線以外ではストレートズボンと編上靴というスタイルが許された[27]。また将校は皮手袋を着用することになっていたが、それもやがて着用しなくてよいことになった[27]。また下衣がフィールドグレーのシャツに黒ネクタイであれば開襟が許可されていたが、フィールドグレイのシャツが入手困難になってきたため1944年には別の色のシャツでもネクタイとの組み合わせによって開襟着用が許可されるようになった[27][4]

将官の野戦服[編集]

将校の中でも将官はとりわけ高級感漂う軍服を仕立てた[28]

また規格の上でも大佐以下の将校とは明確な違いがあった。将官は赤の地に金のアラベスク模様が描かれたラーリシュ・シュティッケライという襟章を着用し、また右胸鷲章や服のボタンなどが金色になっていた[28][29]。将官のかぶる軍帽のパイピングや顎紐やボタンや刺繍帽章も金色であった[30]制帽の金属の帽章類ははじめ大佐以下と同じ銀色だったが、これも1942年11月16日以降には金に変更された[31]

ズボンは基本的に乗馬ズボンをはき、約3センチの赤い側章が2本入っていた(ランパッセン)[30][28][26]

将官ともなると勤務が長期間に及んでいるため、ヴァイマル共和政時代の国軍(Reichswehr, ライヒスヴェーア)の軍服に国防軍(ヴェーアマハト)の徽章を付けただけの軍服を着ている者が多かった。国軍時代の軍服やオーストリア併合後にドイツ軍に吸収された旧オーストリア軍の軍服について国防軍は着用を禁止していなかったためである[28]。国軍時代の野戦服は前ボタンが8個ついており、また腰のポケットが切り込みになっているため外見からして判別が付く[28]

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正装[編集]

礼服[編集]

礼服(Waffenrock)は式典などの公式行事や外出着として着用する軍服である[32]。国軍時代から礼服は存在していたが、1935年6月29日に陸軍総司令部はドイツ国防軍用の礼服を生産することを認可した。将校は出来る限り早く新礼服を仕立てるべきとされ、また下士官は1935年中、兵士は1936年中に支給されることとなった[33]。ただし国軍時代の旧礼服も着潰すまで着用することが認められていた[33]

旧礼服との違いとしてはポケットが外されたこと、袖のカフスに粉飾が施されたこと、背部にひれ状の粉飾が付けられたことがある[33]。旧礼服と同じ特徴としては前ボタンが8個であること、襟章のドッペルリッツェンが通常の野戦服より派手で台布も兵科色になっていること、前立てや襟の縁取りなどに幅2ミリの兵科色のパイピングが付いていることがある[33][34]。礼服のデザインは基本的に将校も下士官・兵士も同じだが、下士官・兵士用は銃剣をベルトからつるすことがあるため、ウェストの部分の後部左側にホックが付いており[33]、また下士官の場合はカフスに銀モールの白い縁取り(トレッセ)が付いている[32]。礼服の上着は野戦服と同じフィールドグレー色であったが、ズボンは暗いグレー色で兵科を示す縦線が側面部分に入っていた。ただ将校の場合は乗馬ズボンをはく場合もあった[35]

礼服着用の際の将校は飾緒を右肩に着用した。また下士官兵士であっても「射撃優等用飾緒」を授与されている者はそれを着用することができた[35]。「射撃優等用飾緒」は12等級存在し、バッジの違いや「ドングリ」の数で等級が分かるようになっていた[35]。さらに軍楽隊である場合には肩飾り「シュヴァルベンネスター」 (de) を付ける[33]。また、帯刀は将校のみだが[35]、騎兵下士官はサーベルを佩いてていた[36]

1940年2月に戦時中限定の軍服規定として礼服は停止され、代わりに通常の野戦服が礼服としても使用できるようになり、この際に帯刀できるようになった。ただし飾緒や礼装ベルトなどの着用は禁じられていた[35]

準礼服[編集]

将校のみ礼服と野戦服の間の準礼服のような軍服も仕立てた。これは1937年7月にオプションの服として採用された[37]

基本的には野戦服と同じだが、礼服と同様に派手なドッペルリッツェンが兵科色の台布に貼り付けてあり、また前立てや襟の縁取りなどに幅2ミリの兵科色のパイピングが付いていた[38]。準礼服の場合も将校は軍刀を帯刀する[35]

夏季準礼服[編集]

将校のみ更に夏用の白い軍服も仕立てた。この白軍服は1937年7月9日に制定された準礼装的な軍服である。4月1日から9月30日までの期間に着用することができ、将校クラブの集会や気軽なパーティーの礼装、外出着などとして着用された。襟章がなく、ボタンや右胸の金属の鷲章も着脱式になっている。夏の制服ということで洗濯が多いと想定され、洗濯が楽なようにとのコンセプトで作られている[35]

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コート[編集]

オーバーコート[編集]

ドイツ軍の基本的な防寒具はオーバーコート (Mantel) である。将校と下士官・兵士でデザイン上の大きな違いはない。素材や細部に個人差が見られる程度である[39]

オーバーコートの前ボタンは6個のボタンがダブルになっている[40]。背中の腰部分には2個のボタンで止めるハーフベルトが付いており、そこからプリーツ(のちセンターベント)が下に伸びていた[41]。コートには襟章は付けず、肩章と袖章のみを付けた[39][42]。素材はウールであることが多かった[40]

1934年制定の支給オーバーコートは襟の部分だけダークグリーンだったが、野戦服と同様に1940年からコート全体がフィールドグレー色で統一された[40][43][44]。1942年に新しい支給オーバーコートが採用されたが、これは1941年から1942年にかけてのロシアでの厳寒の経験を踏まえて襟を大きくし、顔の下半分を隠せるようにしていた[44]。また両脇にスリット・ポケットが加えられていた[41][45]。また動きやすいように背中のプリーツがセンターベント(切り込み)になり、必要ならボタンで留める仕様となった[44]

大佐以下は襟を閉じてコートを着用するが、将官は開襟でコートを着用した。陸軍将官のオーバーコートの下襟の内側はカーマインレッド色であり、それを外部に見せつけるように開襟した[31][46]

革のコート[編集]

将校の中には革や毛皮のコートを独自にオーダーメイドして着用する者も多かった[47][31]。この場合でも将官は開襟、大佐以下は襟を閉じて着用する原則は同じである。ただし正規のオーバーコートと異なり、将官の場合であっても下襟の裏側を赤くすることはなかった。

オートバイ兵コート[編集]

オートバイ兵コート (Kradschutzmantel) はオートバイ兵が着用するコートである。ゴム引き布のコートになっており、裾を足の周りに巻きつけることができ、オートバイにまたがりやすくなっている[48]。襟はストラップとボタンで立てることができる[49]熱帯地方のオートバイ兵コートの素材はゴム引き布ではなくコットンが使われた[48]

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軍帽[編集]

制帽[編集]

ドイツ国防軍陸軍の正式な軍帽が制帽 (Schirmmütze) である。制帽には顎紐章、円形章(コカルデ)が付いており、円形章の周りを柏葉が取り囲んでいるデザインになっている[50]。大佐以下は帽子のトップ周りとバンド(円形章が入っている帯の部分)の上下に兵科色のパイピングが入っているが[50]、将官は金色であった[46]。顎紐は将官が金、大佐以下の将校が銀、下士官兵士は黒い革であった[51]。鷲章と円形章ははじめ全階級で銀色だったが、将官のみ1942年11月16日以降に金色になっている[52]

戦前は兵士から将校までパレードや外出の場合にはこの制帽をかぶるのが基本であった。しかし戦時中には制帽をかぶるのは基本的には将校だけであり、野戦で下士官、まして兵士が制帽をかぶるのはまれであったという[53][54]

将校はオーダーメイドなので将校制帽にも個人差が見られる。軍の規格に沿っていないクラッシュキャップ風になっている制帽も数多く存在した(顎紐がなかったもの、ふにゃふにゃしているもの、鷲章・円形章・柏葉章などが金属ではなく刺繍されていたもの)[55]。正規のトップの高い制帽は「ザッテルフォルム(Sattelform)」と呼ばれていた[56]

クラッシュキャップ[編集]

将校が制帽の代わりに用いた戦闘用の略帽である。「クラッシュキャップ」(Crusher cap)は俗称であり、正式名称は「野戦帽」(Feldmütze)である。後に支給を廃されたので「旧式野戦帽」(Feldmütze älterer Art)と名付けられた。制帽に似た形状だが、中に形状を保つワイヤーが入っていないため、ふにゃふにゃしている。また顎紐がなく、顎紐を留めるためのボタンもない。鷲章・円形章・柏葉章も金属ではなく刺繍だった。兵科色がトップ周りとバンド部に入っているのは制帽と同じである[57][58]

1934年に制定されるも1938年に支給が廃止された。しかし持ち運びに便利であることから、前線では下士官以上の者がオーダーメイドしてよく使用していた[57]

略帽[編集]

全ドイツ軍人が制帽の代わりに用いた戦闘用の折り返し型の略帽である。このような折り返し帽はドイツに限らず他国にも多く見られる[59]。正式名称はクラッシュキャップと同じく「野戦帽」(Feldmütze)であった。逆さにすると船のような形なので「小船」(Schiffchen)という愛称があった。日本では一般に略帽と呼ばれている[60]

略帽には下士官・兵士用の1934年型と将校用の1938年型があった。将校用のは旧野戦帽(上記のクラッシュキャップ)に代わる物としての導入である。略帽の基本的なデザインは下士官兵士用も将校用も同じだが、将校用は頭部にアルミ糸で縁取りが付けられており、よりスマートなデザインだった[61]。帽子正面にはクラウン部分に鷲章、折り返し部分に円形章がついており、円形章を逆Vの字で囲むように兵科色のパイピングが二本入っている[61]

1942年には略帽の形状が改良された。最大の違いは折り返し部分が前面で2個のボタンによって留められ、寒い時には折り返し部分を降ろして耳などを保護できるようになった点である[54][62]。ボタンの部分にあった円形章はクラウン部分に移され、逆Vの字のパイピングは廃止された[61][62]

さらに1943年にはそれにバイザーを付けた規格帽が登場して取って代わられることとなった[59]

規格帽[編集]

大戦後期、恐らくシュタールヘルムに次いでドイツ兵に多く被られていたのがこの統一規格野戦帽(Einheitsfeldmütze)である[23][59]。異なる規格の陸軍、空軍、SSの略帽を統一する形で1943年6月11日に制定された[63]。日本では規格帽と呼ばれることが多い。1943年に制定されたためM43帽とも呼ばれる[64]。1943年以降上記の略帽に取って代わった野戦帽である。

山岳部隊が使用した山岳帽北アフリカで使用されたバイザー付き略帽が兵たちから非常に好評だったため、この型の帽子を全軍に支給するために1942年型略帽にバイザーを付ける形で開発された[23]。山岳帽や1942年型略帽と同様に折り返し部分の前部に2個のボタンがついており、これを外して折り返しを垂れ下げることで耳を寒さから保護することができた[61][59][65]

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シュタールヘルム(鉄兜)[編集]

ドイツ軍人を象徴する防具がこの鉄兜、シュタールヘルム(Stahlhelm)である。国防軍は1935年6月25日にM35シュタールヘルムを制定した[66]。それまでに使われていた第一次世界大戦時のM16やM18よりも軽量化されてデザイン的にも洗練された[66]。もっとも西方電撃戦ぐらいまでの頃には一次大戦時のシュタールヘルムが依然として用いられていたという[43]

シュタールヘルムは国防軍、SS、警察で共通であり、貼り付けるデカールのみが異なった。国防軍のシュタールヘルムのデカールは右側にドイツ帝国以来の「黒白赤(シュヴァルツ=ヴァイス=ロート)」(de)の国家色、左側には鷲章が貼り付けられていた。しかし迷彩効果を優先して、国家色デカールは1940年3月21日、鷲章は1943年8月23日に外すよう命令が出された[66]

1935年型は空気穴がヘルメット本体と別パーツになっているが、40年型以降は一体化されてプレス加工になった。また材質がモリブデン鋼からマンガン・シリコン鋼に変更された[43]。ついで1942年7月6日には更なる工程の簡素化が行われ、これまでヘルメットの縁が中に折り曲げられていたのが、縁を少しだけ外側にそらすだけの1942年型が生まれるようになった[43]。3つのシュタールヘルムの違いについてはここが詳しい。

1942年以降にはカムフラージュ用の編み目状の紐やワイヤーを支給されてシュタールヘルムに結び付ける者が増えた。紐はそれそのものがカモフラージュ用として支給されていた[67]。一方ワイヤーはそれに草や葉などを指すために取り付けていた[68]。こうした物が導入される以前はパン袋のストラップをシュタールヘルムに取り付けてそこに草や葉などを差し込んでいた[69]

また1942年から1943年にかけて陸軍はシュタールヘルム用の迷彩カバーを採用し、以降迷彩カバーを付けたシュタールヘルムもみられるようになる[70]

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装備品[編集]

ドイツ兵が携帯する様々な装備品はベルトとY字型サスペンダーに連結して留めた[71]

ベルト[編集]

ベルトは将校下士官兵士で大きく分かれる。下士官兵士は長方形バックルの付いた黒いベルト、将校は2本爪バックルの茶色ベルトを使用することが多かった。将校の茶色ベルトはサイズ調整用の穴が2列に開けられている。対して下士官兵士のベルトはベルトの一端にバックルに引っ掛けるフックが付いていた[72]

下士官兵士用のベルトのバックルにはプロイセン時代からの格言「神は我らと共に (GOTT MIT UNS)」という文字が鷲の周りを取り囲むように刻まれている。一方将校にも礼装用やアフリカ軍団使用のベルトに丸型バックルの付いた物があったが、このバックルには文字は刻まれておらず、かわりに鷲の周りを柏葉が取り囲んでいるデザインになっていた(将校丸型バックルはhttp://www.quanonline.com で詳しく見られる)。SSでは将校の丸型ベルトにも下士官兵士の四角いバックルにも「忠誠こそ我が名誉(Meine Ehre heißt Treue)」という文字が刻まれており、ヒトラー個人への忠誠を陸軍よりも強く打ち出していた。

初期のベルトには右肩から斜革たすき状に付けられていたが、これは1940年から使用されなくなった[4]

Y字型サスペンダー[編集]

1939年にこのY字になっているベルト・サスペンダー(Koppeltragegestell)が導入された。一義的にはリュックサックを背負うための物であったが、ベルトに取り付けた重い装備の重量を両肩に分散させる意図もあった[73]

Y字といっても2股に分かれた後、さらに2股に分かれている。つまり4股になっている。Y字の下先端にはフックが付いており、まずこれを背中に垂らしてベルトにひっかける。Yの字の2本の両先端は肩の上を経由して前ベルトのDリングに止める。さらに分枝のストラップは脇の下を通してリュックサックやAフレームのフックにひっかけて留めた[71]。リュックサックやAフレームをつけていない場合、前の部分に垂れ下げることになる[74]

銃弾やマガジンのポーチ[編集]

小銃の銃弾や短機関銃マガジンを入れるポーチ類はベルトとY字型サスペンダーに繋げることによってベルト前部の左右に留めた。

モーゼル小銃用の弾薬ポーチは一次大戦の時と同じものが使用された。ポーチは3つの弾薬箱が並んで構成されており、1箱につきKar98kの7.92mm弾の5連クリップを2個収納できた。すなわち1箱に弾薬10発、1つの弾薬ポーチにつき30個の弾薬を入れることができた。この弾薬ポーチは通常2個支給されたが、砲兵部隊など弾薬をあまり使わない部隊は1個のみだった。2個の弾薬ポーチに弾薬を60個いっぱいに入れた場合、2キロ以上の重さになるという。ポーチの背面にはベルトに止めるためのベルト通しのループとサスペンダーの金具に止めるためのD型のリングが付いていた[75]

短機関銃用のマガジンポーチも存在する。ポーチは3つのマガジン収納箱が並んで構成されており、つまりポーチ1つに付き3つの予備マガジンを入れておくことができた。マガジンポーチの裏側もベルト通しのためのループとサスペンダーにつなげるD型リングがついていた[75]。ドイツは短機関銃を生み出したが、その支給が一般的だったわけではなく、下士官や小隊長の将校クラスにとどまっていたようである[75]

ふくろ類[編集]

ドイツ軍には第一次世界大戦の時以来のリュックサック(Tornister)があり、そこに様々な生活必需品を入れて行軍した。しかし戦闘に不向きとされ、1938年に戦闘バッグ(Gefechtsgepäck)が導入された。これは必要最低限の装備だけを携帯することをコンセプトに作られていた。バッグはAの形をした布製のフレーム(Aフレーム)に包んで携帯する。Aフレームは上下左右に4か所の金属フックが付いており、Y字型サスペンダーに取り付けることができた。飯盒と迷彩ポンチョはAフレームに取り付け、戦闘バッグ内には下着、非常食、ポンチョ用支柱とピンを収納するというのが一般的なスタイルであった[76]

更にパン袋(Brotbeutel)という小さな袋がある。この中にはパンなどの食糧や身の回りの品々を収納した。パン袋ははじめはフィールド・グレー色だったが、後にオリーブ・グリーン色に変更された。パン袋の上の方にはDフック、下の方には革のループが付いており、この二つを使って水筒と飯盒を取り付けることができた[77][78]。また付属のストラップを使用することでショルダー・バッグにすることもできた[77]

飯盒と水筒[編集]

全てのドイツ兵の必需品に飯盒 (Kochgeschirr) がある。これは製(初期はアルミ)の箱とふたから成り、箱は食器、ふたは折り畳み式ハンドルを下すことでフライパンになる仕様だった。飯盒はリュックサックかパン袋、Aフレームのいずれかに取り付けて携帯する。また水を入れる容器として水筒(Feldflasche)がある。水筒はアルミ製で表面はフェルトでおおわれていた。水筒のふたがコップ代わりとなる。水筒はパン袋に取り付けた[79]

ガスマスク[編集]

第二次大戦時には戦争での毒ガス使用ジュネーヴ議定書によって禁じられていたが、連合軍がいつ使用してくるか分からなかったため、ドイツ軍兵士たちはガスマスクの支給を受けて常時携帯していた。結局この大戦で毒ガスが使用されることはなく、ガスマスクが耐ガス防具として使用されることはなかった。しかしながら耐ガス以外の目的でガスマスクが着用された例はあった。シールドがない初期型のパンツァーシュレックの耐火防護マスクとしての使用[80][81]、東部戦線での防寒マスクとしての使用などである[82]

ガスマスクには1930年型(ゴム引き布製)と1938年型(ゴム製)の2種類があり、いずれもキャニスター(吸収缶)をマスクに取り付ける直結式であった。ガスマスクとして以外の使用の場合はキャニスターは外して使用する[82]

ガスマスクを携行するためのコンテナも一緒に支給された。これは鉄製の筒のような形状であった。ガスマスクとコンテナあわせて重量は2キロほどであった[82]。また毒ガスが空中散布された場合に備えてガスケープも支給されていた。ガスケープは専用の袋の中に収納し、その袋はコンテナに巻き付けるかコンテナのストラップに取り付けて携帯した[83]

迷彩ポンチョ[編集]

1931年に制定された迷彩柄のポンチョ (Zeltbahn) である。通常は雨具として利用したり、ポンチョを何枚か合わせてテントを作るためのものである[84][85]。ポンチョをテントにするためのピンとポールは布製のケースに入れてリュックサックかAフレーム・バッグに入れて携帯した[86]。迷彩ははじめスプリンター・パターンと呼ばれる直線的な迷彩が多かったが、後にウォーターパターンと呼ばれるぼかしタイプの迷彩が増えた[84][87]

陸軍の迷彩ポンチョはテント以外にも様々に利用された。代表的な使い方が迷彩服としての使用である。陸軍の迷彩の使用はこの迷彩ポンチョやシュタールヘルムの迷彩カバースナイパーと装甲擲弾兵に使用された迷彩スモック、一部の防寒着などに限られており、迷彩服の一般的な支給はされなかった(一方武装SSは迷彩服に力を入れ、ほぼ全兵士に迷彩服を支給していた)。そのため陸軍兵士で迷彩服が欲しい者は迷彩ポンチョを迷彩服の代わりとして使用したのである[70]。それ以外にはポンチョ数枚を使ってワラなどを包み、浮力を得て渡河用の橋に利用したなどの例もある[86]

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徽章[編集]

鷲章[編集]

鷲章 (Adler) はナチス・ドイツの国章 (Hoheitszeichen) である。軍服の右胸や軍帽のトップにこれが貼り付けられていた[88]。鷲章は国軍時代、いまだパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領が最高司令官だった頃の1934年2月25日に付けるよう命じられたものである[89]

陸軍において右胸鷲章は、ダークグリーンの台布の上に刺繍されていた。兵士・下士官は白やグレーの糸で、大佐以下の将校は銀モールで、将官たる将校は金モールで刺繍されていた[90]。しかしやがて支給軍服の台布はダークグリーンではなく、服と同じフィールドグレーになっていった[91]。また刺繍ではなく染めつけただけの物も増え、1944年からは鷲の形に切り取る労力が惜しまれて三角形の台布になった[22][20]

軍帽の鷲章も基本的には右胸鷲章と同様である。しかし制帽の鷲章だけは金属製であった[89]。ただ制帽のところで前述したが、将校は制帽をオーダーメイドしていたので個人差があり、台布に鷲を刺繍している将校制帽も多く見られる。

襟章[編集]

ドイツ陸軍において襟章 (Kragenspiegel) は上級将校(将官)、中級・下級将校(大佐から少尉)、下士官、兵士という4段階の大雑把な区別をするための物である。細かい階級は肩章によって示された。これは親衛隊とは逆である(一般親衛隊は肩章で将官、佐官、尉官、下士官、兵士という5段階の大雑把な区別をし、襟章で細かい階級を示した。ただし武装親衛隊では陸軍の肩章が使われたので肩章でも細かい階級が分かり二重表示になっていた)[92]

将官の襟章は赤地の上に金モールラーリシュ・シュティッケライ (de) と呼ばれるデザインが描かれている。アラベスクとも呼ばれるこのデザインはもともとプロイセン陸軍 (de) のユニフォームの飾りで使用されていた物であり、1900年からプロイセン軍の将官襟章として使用されるようになったものである。もともとは将官と元帥は同じラリシュ・シュティッケライだったが、1941年4月3日に元帥用にラーリシュ・シュティッケライを長くした襟章が制定された[93]

大佐以下の襟章にはダーク・グリーン地にドッペルリッツェン (Doppellitzen) という並行した2本の線のデザインが刺繍されている。個々の一本の線はリッツェ(Litze)という。リッツェを二つ合わせてドッペルリッツェンである[94]。これは19世紀に近衛部隊やエリート部隊が襟に付けていたというデザインがモデルとなっており、国軍(ライヒスヴェーア)時代に将官以外の全てのドイツ軍人の襟章として定められたものであった。はじめリッツェの中央に兵科色のストライプが入れられていたが、1940年以降の支給軍服ではそれが廃止された(ただし将校は軍服を独自にオーダーメイドしたのでその後もリッツェの中に兵科色のストライプを入れていることが多かった)[95]

将校用と下士官・兵士用で若干ドッペルリッツェンのデザインが異なっていた。将校のドッペルリッツェンの方が精巧である。将校用は銀モールでドッペルリッツェンが刺繍されていたが、下士官・兵士用はシルバーグレーの機械織りだった[89]。下士官と兵士はドッペルリッツェンのデザインは同じだが、下士官の場合は襟周りにトレッセ(Tresse)という白い縁取りを入れられており、これによって兵士と区別された(M44野戦服ではトレッセが廃止されている)[21]

戦車兵の軍服のところで後述するが戦車兵のみは例外であって彼らは独自の髑髏の襟章を使用していた。またドッペルリッツェンのデザインが特殊な兵科としては参謀将校、主計将校、従軍聖職者などがある[96]。参謀将校はギザギザの入った特別なドッペルリッツェンを付けていた[97]

肩章[編集]

ドイツ陸軍の軍服には両肩に肩章 (Schulterklappen) が付く。兵士、下士官、尉官佐官、将官で下地が大きく異なり、細かい階級はその上に付いた星の数で判別する(兵士のみは全階級に星がなく、袖章で細かい階級を示した。また元帥は星ではなく交差した元帥杖が付いていた)[98]。肩章の縁取りは兵科色で彩られていた[99]。はじめ肩章に連隊番号が付いていたが、防諜上の理由から廃止された[100]

兵科色[編集]

軍帽のパイピング、肩章の縁取りやリッツェの中には兵科色 (Waffen-farben) がついていた。また礼服や準礼服では襟の縁取りやドッペルリッツェンの台布、前立てなどにも兵科色がついた。主な兵科色は次の通り[101][102][103]。ドイツ陸軍の将官は本来的に全ての兵科に通じた「全般将校(Generaloffizier)」であるからして、参謀将校(Generalstabsoffizier)と同じカーマインレッドを使用した。

ホワイト:歩兵 ピンク:装甲・対戦車 ブライトレッド:砲兵 カーマインレッド:参謀将校
ダークレッド:獣医 オレンジ:憲兵 ゴールデンイエロー:騎兵 レモンイエロー:通信
グラスグリーン:装甲擲弾兵 ライトグリーン:山岳猟兵 ダークグリーン:陸軍行政官 ライトブルー:輸送部隊
コーンフラワーブルー:医療 バイオレット:従軍司祭 ライトグレー:宣伝部隊 ブラック:工兵

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戦車兵の軍服[編集]

黒服[編集]

1940年フランスIV号戦車の戦車軍曹

各国において戦車の搭乗員には特殊なユニフォームがあった。しかし多くの国では戦車兵軍服は基本的に他の兵科の軍服と同じであり、細部が異なるのみだった。そんな中でドイツの戦車兵だけは他の兵科の軍服と全く異なる独特な黒い軍服を着用した[104]

ドイツ軍の戦車兵軍服 (Panzerjacke) は1934年11月17日に「輸送部隊」軍服(ドイツに戦車の保有を禁じたヴェルサイユ条約に配慮して)の名目で制定された[105]。軍服の色が黒く、トーテンコップ髑髏)の襟章を使っているのが特徴的である。この黒服と髑髏の徽章はプロイセン軍の第1近衛軽騎兵連隊(de)と第2近衛軽騎兵連隊(de)の伝統を引き継いだものといわれ、エリート意識を持たせる目的があったという[106][107][108]。実際に当初戦車兵たちは「新しい黒騎兵」の異名を取ったという[108]

この軍服のもう一つの目的は狭い戦車の中でも活動しやすくすることだった[109]。戦車内の器物に引っ掛かることがないよう配慮がなされており、前ボタンは9つのボタンから成るダブルボタンであるが、うち6つが隠しボタンになっていた[110]。また肩章が浮き上がらぬよう戦車兵の肩章はボタン留めだけでなく厳重に軍服に貼り付けることが多かった[108]。黒い軍服というのもエリート意識を持たせるためだけでなく、油のしみを目立たせにくくするという実利的な目的もあったと言われている[108]

戦車兵は下着としてグレーのシャツに黒いネクタイを締めた[110][111][# 3]。上着である黒軍服は開襟で着用し、シャツとネクタイを外部に見せた。

戦車兵のズボンは上着と同様に黒色であり、隠れベルトになっていた。左右に波型のふた付きのポケットが斜めについており、懐中時計用のフォブ・ポケットや尻の右側のポケットも付いていた[110][112]。ズボンの裾はボタン留めにでき、またひもで縛ることもできた[112]

戦車兵の黒軍服は基本的に戦車の中のみで着用し、戦車外では通常のフィールドグレイの野戦服で行動することが義務付けられていた[104]。ただ陸軍総司令部(OKH)は違反に対する取り締まりは行わなかったので、1940年以降には搭乗時以外にも戦車軍服を着用する戦車兵が多く見られるようになった[112]。あまりに無意味となったこの規制は1942年に正式に廃された[113]

将官が戦車兵黒服を着用する場合、ラリシュ・シュティッケライの襟章を使わずに髑髏の物を使う。また将官はズボンに赤い線2本を入れるのが通常だが、戦車兵黒服の場合はこれが入らない。ただ鷲章は野戦服の場合と同様に将官を示す金色となる。

黒服以外の着用[編集]

制服の消耗を抑えるため、1942年には黒軍服の上に着るつなぎ (Overalls) が支給されたが、これは用を足すのが大変なので兵たちに好まれなかったという[112][114][87]

1942年から戦車軍服と似た形状のリード・グリーン色のデニムの作業着・夏服が着用されるようになる。これは前部左側に大きなポケットが加えられていた[115][116][108]。1944年になると黒軍服を着用してる者は少なくなり、夏用デニム作業着の着用が一般的になっていた[117]

一方迷彩ポンチョなどで迷彩戦車服を作って着用する者もいたが、これは陸軍の正式なものではなかった[112][87]

戦車兵の軍帽[編集]

戦車兵は始め黒いベレー帽をかぶっていた。これはフェルト、もしくはラバースポンジで作られており、頭をぶつけた時に頭部を保護することを目的としていた。しかし帽子がかさばるため狭い戦車の中ではかえって邪魔であり、兵からは不人気だったらしい[118][119]。またベレー帽はヘッドフォンの着用に不都合であったため、規則違反してフィールドグレーの野戦服の略帽をかぶる者が増えた(初期の戦車は無線を積んでいなかったのでヘッドフォンの着用を想定せずに制服のデザインをしていた)[120][118][119]

こうした事態を受けて1940年3月に戦車兵用の黒い略帽が制定された[61][121]。1941年1月には正式にベレー帽の廃止命令が出たが、38(t)戦車の搭乗員など一部ではベレー帽の着用が続けられたという[118]

ついで1943年に規格帽が制定されると戦車兵用にその黒色の物が支給されるようになった[115]。ボタンの色は下士官兵士が黒課フィールドグレー、将校が銀であった[122]

将校の場合は仕立てたクラッシュキャップを着用している場合も多かった[123]

トーテンコップ(髑髏)の襟章[編集]

戦車兵は平行四辺形の黒い台布の上に銀色の金属のトーテンコップ(髑髏)をピンで取り付けた襟章を着用していた[124]。トーテンコップは黒い軍服と同様にプロイセン軍の近衛騎兵連隊の伝統を引き継ぐものである。

髑髏の徽章は戦車兵軍服が定められる以前からSSで用いられてきたが、1934年にこの戦車兵の髑髏の襟章が制定されるとSSの髑髏の徽章は下顎が追加された独自の形に変更させられ、下顎がないプロイセン伝統の髑髏は戦車兵のみが使用することになった。ただ一部の戦車兵に規則違反でSSの髑髏(SSの軍帽用)を襟章に流用する者があったという[125]

襟章の周りには兵科色が入っていたが、基本的には装甲部隊のピンクである。ただ例外として第24装甲師団 (de) はゴールデンイエローを使用した。この装甲師団は騎兵師団を沿革としていたため特別に騎兵のゴールデンイエローの兵科色を使用することを許されていた[108]。また兵科色のパイピングは上襟の縁にも入っていた(1942年に廃止)[126]

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突撃砲兵の軍服[編集]

1930年代後半、突撃砲兵用の軍服が制定された。基本的に戦車兵の軍服と同型だったが、突撃砲兵は戦車兵より車外に出ることが多いため、黒色ではなくフィールドグレー色になっていた[7][127][128]

襟章にはドッペルリッツェンが使われることが多かったが、初めのうちは髑髏も使用された[129]。しかし1943年1月に突撃砲兵は髑髏の襟章を使う事を禁止され、ドッペルリッツェンに統一された[128]。しかし突撃砲兵のドッペルリッツェンの台布は戦車兵の髑髏の襟章に使われる平行四辺形の物であった[130]。襟章の周りに兵科色のパイピングが入っているのも戦車兵の襟章と同じであり、突撃砲兵には砲兵を示す赤が入っていた[131]。しかし突撃砲兵の制服は新編成の装甲擲弾兵など他の部隊にも流用されたため、結果として様々な襟章や兵科色が付けられる事になった[131][127]

野戦服と同様に戦況の悪化でウールの使用量が減らされ、レーヨンの混紡率が増えていき、1943年ごろにはフィールドグレーというよりグレーブラウン色っぽくなっていった。戦車兵の黒服ズボンの場合と異なり、突撃砲兵のズボンは将官の場合には二本の赤線が入った[128]

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スナイパーと装甲擲弾兵の迷彩スモック[編集]

迷彩ポンチョのところで触れたが、陸軍では武装SSと異なり、迷彩スモックや迷彩服は原則として支給されなかった。しかし例外としてスナイパー装甲擲弾兵の一部の部隊には迷彩スモックが支給された。

この迷彩スモックは薄いコットン製で、襟開きにボタンはなく、左右7対の紐穴の間を通した紐で止める[132]。スモックの腰の部分には紐が通っており、これを引くことでウエスト部分を絞ることができた[132]。フードが付いており、このフードには顔ベールが付いており、これで顔の部分をカムフラージュすることができた[132]

迷彩スモックはもともとスナイパー用に開発されて支給されていた物である[57]。しかし1943年のクルスクの戦いの頃、装甲擲弾兵師団「グロースドイッチュラント」にも支給された[133]。以降、装甲擲弾兵部隊への支給が始まったが、すべての装甲擲弾兵部隊に行きわたったわけではなく、支給は極めて限定的だった[133]

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山岳部隊の軍服[編集]

ヨーロッパの国々を分け隔てる山岳を越えて進軍するための部隊が山岳部隊である。いわば山岳のスペシャリスト、一種の特殊部隊である[134]。そのため彼らは一般の兵科とは若干異なった特殊な軍服や装備を着用した。

山岳部隊は上着については通常のフィールドグレーの野戦服を支給されていた。山岳部隊独特のものとして山岳帽ズボンと登山靴防寒着エーデルヴァイス章などがあった。

山岳部隊のズボンと登山靴[編集]

山岳部隊のズボンは通常の野戦服のそれとは異なる物を使用した。山岳部隊のズボンは足を動かしやすいよう裁断がゆったりとしていた[135]。ズボンの下端が紐で絞れるようになっており、登山靴に裾を入れやすくなっていた[91]。また尻や脚の部分が補強布で強化されていた[91]。ポケットについては通常野戦服とほぼ同じである。山岳部隊のズボンは初めスレート・グレー(en)色でフィールドグレー色の上着と色が異なったが、開戦後にはフィールドグレー色で統一された[135]

一般兵は長靴(戦争後期には編上靴が多いが)だけを支給されたが、山岳部隊はそれに加えて登山靴を支給された。登山靴は茶色か黒の上質の皮が使われていた[135]。7つの穴に革紐を通して結ぶタイプの靴で上部はフィールドグレーの布で補強されている。靴の裏にはたくさんの金属製のがうたれており、その周りにはアイゼン(滑り止め金具)が付いていた[91][135]。ただし将校については登山靴もオーダーメイドするのが通常だったので個人差がみられる[135]

登山靴を着用する場合にはゲートルを合わせるが[135]、一般的な短ゲートル(半脚絆)だけでなく、古典的な巻きゲートル(巻脚絆)も使用されており、これは下士官兵のみならず将校も同様であった。

山岳部隊の防寒着[編集]

山岳部隊には独自の防寒着が制定されていた。ヴィントヤッケ (Windjacke) とヴィントブルーゼ (Windbluse) である。

ヴィントヤッケは一次大戦の時の山岳部隊で使われた物の流れを汲んでおり、オリーブ・グレー色のキャラコ製のショート・オーバーコートであった。1列4個のダブルの前ボタンになっている。左右の腰にふた付きプリーツポケットがあり、また両脇に内袋式のふた付きポケットが付いている[136]。ヴィントヤッケに装着する徽章は肩章のみであるが、これは初めから付いているわけではなく着脱式になっている。基本的にはエーデルヴァイス章も付けなかった[137]。迷彩服のヴィントヤッケも見られるが、これは迷彩ポンチョで作られた物であり、軍の正規の物ではない[137]。1942年版ヴィントブルーゼが登場するとヴィントヤッケは使われなくなっていったという[137]

ヴィントブルーゼは表がグレー、裏が白になっているリバーシブル式の頭からかぶるタイプのジャケットである。またフードが付いているのが特徴である。1938年型と1942年型がある。1938年型は胸ポケットが二つで、右胸ポケットの上に鷲章が付いている[136]。一方1942年型は胸ポケットが3つあり、鷲章は付けない[136]。また襟元の紐を隠せるようになっている[136]。また背中側の裾に股下を通すストラップが付けられていた[138]

山岳帽[編集]

山岳部隊は独自の山岳帽 (Bergmütze) を着用した。一次大戦でオーストリア陸軍が使用した物がモデルになっているという[139]

しばしば1943年制定の規格帽(M43帽)と混同されるが基本的に別物である(山岳帽をモデルにして全軍用に作ったのが規格帽である)[140][139]。山岳帽は規格帽よりも唾が短く、またクラウン部分の前面が高くなっている。また素材も山岳帽の方が良い物であることが多かった[134]

前面に折り返しを結ぶ2個のボタンが付いており、これをはずして折り返しで耳を保護することができた[140][141]。帽子の前面には鷲章と円形章がT字型のダークグリーン台布の上に貼り付けられていた[142]。また山岳帽の左側面にエーデルヴァイス章が付けられていた[141]

山岳部隊用の装備品[編集]

山岳部隊は通常のリュックサック通常の水筒よりも大きなリュックサックと水筒を支給されていた。それ以外にも山岳部隊には特殊な装備が支給されていた。ピッケル、靴の底に貼り付ける10本爪の氷雪用アイゼン、スチールエッジスキー四角錐型のテントなどの登山用装備であった[139]

エーデルヴァイス章[編集]

ドイツ山岳部隊を象徴するのがエーデルヴァイス章である。エーデルヴァイス(セイヨウウスユキソウ)とはアルプス山脈に咲く高山植物である。1939年5月の命令により山岳部隊は右上腕部と山岳帽の左側面にエーデルヴァイスをかたどったエーデルヴァイス章を付けることになった[143][141]

袖章のエーデルヴァイス章はダークグリーンの台布の中心にエーデルヴァイスを刺繍し、その周りをロープハーケンの刺繍が取り囲むデザインになっていた[144]。一方帽子のエーデルヴァイス章は金属でできており、白色金属の上に花弁の部分にあたる別パーツの黄色金属を取り付けたデザインになっている[143]。帽子のエーデルヴァイス章には制帽用と山岳帽用の二種類がある。制帽用は花だけだが、山岳帽用は茎や葉の部分もデザインされている[143]

また山岳ガイドの資格を持つ者はエーデルヴァイスをかたどった勲章「山岳指導者(Bergführer,ベルクフューラー)」章を授与された。この勲章は右胸に佩用することになっていたが、左胸に着用している者も見られる[144]

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東部戦線用の軍服[編集]

1941年12月、ロシアの雪と悪路に進軍を阻まれるドイツ軍。しかも兵士たちが普通のオーバーコートを着用しており、特別な防寒着を着用していない

1941年6月にバルバロッサ作戦が発動され、ドイツ軍はソ連領へ侵攻を開始した。夏・秋と快進撃を続け、首都モスクワ目前まで迫ったドイツ軍だったが、1941年から1942年にかけての冬の厳寒で進軍が停止してしまった。最初の冬を迎える前のドイツ軍はロシアの厳寒を見くびっており、特別な防寒着を用意していなかった[127][40]。ろくに道路が舗装されていないロシアの悪路のため補給も十分ではなかった[40][145]。戦闘による欠落より凍傷やそれによる疾患で欠落する兵士の方が多くなるという始末になった[40]。かくしてドイツ軍は1942年以降に冬の東部戦線用の防寒着や防寒具を本格的に開発していくことになる[45]

東部戦線の防寒野戦服[編集]

ロシアの冬の厳寒の初体験により1942年にオーバーコートのデザインに変更が加えられたことは前述した。しかし、それだけでは不十分であり東部戦線用にヴィンターアンツーク(Winteranzug)という防寒野戦服が制定されることになった[45]。これはレーヨンとウールが詰められているリバーシブル型のジャケットとズボンであり、通常の野戦服の上から着用した[146]

ヴィンターアンツークのジャケットの前ボタンのすぐ横には縦に細長いふたが付いており、ボタンで留めた後、隙間から風が入ってこないようにするためにふたをその上から重ねてボタンで留めるという二重留めになっていた[146]。ジャケットの腰の部分の左右にはふた付きの切れ込みポケットが付いており、頭部にはフードが付いていた[146]。ウエスト部分には内蔵された布ベルト、フードと裾の部分には引き紐が入っており絞ることができた[146][147]

ヴィンターアンツークのズボンの前部にも前ボタンが付いており、ジャケットと同様二重留めになっている[148]。ズボンの裾はブーツに押し込むかブーツの上にかぶせて裾の部分の紐で結んでとめた。ズボン自体は着脱式のサスペンダーを使用して留めた[148][149]

ヴィンターアンツークのジャケットとズボンはともにリバーシブル型であり、反転着用ができた。初期に生産された物は表がフィールドグレー、裏が真っ白な雪中迷彩になっていたが、後に表は迷彩柄に変更された。陸軍はスプリンターパターンとウォーターパターンという2種類の迷彩を使用していた[146]。武装SSも同じヴィンターアンツークを使用していたが、彼らの迷彩のパターンは陸軍のものとは異なり、より種類が多く、また精巧だった[150]

また、ソ連軍も白い雪中迷彩の防寒着を着ていたので遠距離からでは友軍か敵軍か識別するのが困難なことが多かったという。そのためヴィンターアンツークを着るドイツ兵たちはジャケットの上腕部に味方を識別できる目印などを毎日変えて付けた[151][152][146]

防寒服とはいってもヴィンターアンツークにはウールは1割未満しか入っていなかったため保温機能はさほどよくなかった[149]

その他の防寒装備[編集]

東部戦線で不可欠になっていたのがコプフシュッツァー (Kopfschützer) と呼ばれたウールニット頭巾である。これは頭からかぶって使用したり、あるいは首の所までさげてスカーフとして使用した[153]

東部戦線用のブーツも導入された。通常のブーツよりも寒さを防げるようにフェルトと革を組み合わせて作られている[154]。靴底には滑り止めとして革製の円板が複数付いていた[154]

ソ連軍の防寒帽を真似て毛皮帽 (Pelzmützen) という軍帽も作成された。これはウール製の帽子の両サイドに毛皮を付けている帽子で、必要とあればこの毛皮の部分を下して耳当てにすることができた[153]

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北アフリカ戦線の軍服[編集]

1941年から1943年にかけてドイツアフリカ軍団をはじめとする北アフリカ派遣軍は、エルヴィン・ロンメル元帥の指揮のもとに北アフリカで英米軍と激戦を繰り広げた。いわゆる北アフリカ戦線である。北アフリカの厳しい気候のもとに戦うドイツ軍はコットン製の独自の熱帯用の軍服を着用した。とはいってもこの熱帯用軍服はもともと北アフリカ戦線のために制定されたわけではなかった(北アフリカ戦線はドイツ軍にとってイタリア軍の敗北の尻拭いで急遽参戦することになった戦線である)。1940年末に地中海における作戦行動を想定して開発されたものであった[155][156]。したがってここで紹介する熱帯軍服は北アフリカに限らずヨーロッパ南部など他の酷暑の場所でも用いられていた。ヨーロッパ北部においてさえ幾つかの部隊が夏季用制服として使用したという[157]

熱帯野戦服[編集]

熱帯野戦服の素材はコットンであり、色はオリーブドラブ色だった[155][158]。しかし灼熱のアフリカでは洗濯を繰り返す必要があったため、色が落ちやすく、白色に近くなるまで使いこまれたものも少なくはなかったという[158][156]。開襟して着用する[156]。前ボタンは5つ、ふた付きプリーツポケットが4つついていた(プリーツは1943年に廃止されている)。ロンメル元帥など一部を除いて熱帯野戦服には将校、下士官、兵士による違いはなかった[158]。戦車兵も黒服ではなく熱帯野戦服を着用し、上襟にドッペルリッツェン、下襟に髑髏の徽章を付けた[156][159][160]。熱帯野戦服の襟章に台布はなく、ドッペルリッツェンや髑髏の襟章はそのまま付けられていた。ドッペルリッツェンはライトブルー色だった。一方右胸鷲章はキツネ色の台布の上に貼り付けられていた[158]

北アフリカ戦線に従軍した者には独自の袖章の授与があった。2ヶ月間北アフリカ戦線に従軍した者には "AFRIKAKOPPS" の袖章が授与された[161]。さらに1943年1月には6カ月以上の従軍者、もしくは北アフリカ戦線で負傷した者に対して文字の左右にヤシの木がデザインされた "AFRIKA" の袖章が与えられるようになった[162]

熱帯野戦服のズボンには半ズボン、長ズボン、乗馬ズボンの3種類あった[161][163]。通常の野戦服と同様に乗馬ズボンは主に将校たちがはいていた[164]。通常の野戦服のズボンは後部と両脇についたバックル付きのストラップで調整してサスペンダー(ズボン吊り)で吊るしていたが、熱帯野戦服のズボンはベルトが内蔵されていてズボン吊りを使用しなくてもズボンが下がらないようになっていた[160][163]。しかしサスペンダーも使用できるようになっていた[165]。この方式は後に通常の野戦服のズボンにも導入された[163]

熱帯服の下に着るシャツもコットン製だが、上着と色が少し異なりオリーブグリーン色だった[163]。日中は上着なしで着用することも多かったため、肩に肩章をつけられるようになっていた[163]

北アフリカでは固定的な規則よりも個人的な着心地の良さの方が重視されていたため他の戦域に比べると服装の自由がかなり認められており、正規の物ではない鹵獲品などを装着することも多かったという[159][166]

熱帯用の軍帽[編集]

熱帯地方特有の軍帽に熱帯ヘルメットがある。コルクの帽体に布をかぶせた物である[167]シュタールヘルムと同様に右側には鷲章が、左側に国家色のデカールが入っていた[168]。しかし熱帯ヘルメットは耐破片能力がなく、かつかさばるために次第に使われなくなっていった[168]

かわって使われるようになったのがコットン製略帽であり、これにはヨーロッパでつかわれていたのと同型の物とバイザーが付けられた物の二種類あった。前者は主に戦車兵が使い、後者はそれ以外の兵たちが使った。このバイザー付き略帽は山岳部隊の山岳帽をモデルにした物であったが、兵たちに好評であり、後に山岳帽とともに規格帽(M43帽)のモデルとなる[166][155]

シュタールヘルムも用いられたが、これはヨーロッパでつかわれていた物と形状の違いはなく、色をサンドカラーに塗料しただけである[168]

熱帯関連の軍帽は熱発散効果を狙って帽子の中に赤い布が貼ってあった[161]

熱帯用のオーバーコート[編集]

砂漠は温度差が激しく日中は猛暑だが、夜は非常に冷える。従ってオーバーコートは必須であった[169][170]。デザインは通常のオーバーコートと同じであり、砂漠用に色がカーキ色になっていただけである[169]

通常のフィールドグレーのオーバーコートは将官用は下襟が赤くなっているのが特徴だったが、熱帯用オーバーコートの場合はそれがなくカーキ色で統一されていた[169]

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外国人部隊の軍服[編集]

ソ連イギリスなどから過酷な支配を受けている地域の住民たちの中には反ソや反スターリン、反英を共通項にしてドイツ国防軍陸軍に従軍する者たちもいた。彼らも基本的にドイツ軍の野戦服を着用していたが、判別できるよう特殊な徽章をつけていた。たとえば反スターリン派のソ連兵捕虜で構成されたロシア解放軍では軍帽にロシア国旗の赤と白と青を基調とした帽章を付け、また独特な襟章や肩章をつけ、左腕の袖にはロシア語のロシア解放軍(:Русская Освободительная Армия)の略であるРОАの文字の入った×印の袖章を付けていた[171]

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陸軍女性補助員たちの制服[編集]

ドイツ国防軍に女性は入隊できず、開戦当初女性は軍務にノータッチだった。しかし大戦中期以降には後方勤務の男性を出来る限り前線に送るため陸軍・海軍・空軍・SS・警察いずれでも女性補助隊 (de:Helferinnen) が導入された。女性補助員は戦闘には参加せず後方任務のみを行うと定められていた。1940年10月に通信女性補助隊が結成され、それを皮切りに後方任務を行う女性補助隊が続々と結成された[# 4]

陸軍の女性補助員には、グレーのウール製背広とスカート、グレーもしくは白のブラウスと黒いネクタイが支給された。背広の前ボタンは一列2個のダブルボタンになっている。内袋式の胸ポケットが付いており、右胸ポケットのふたには鷲章が入っていた[173]。1944年には材料不足により背広が簡略化された。背広の前ボタンがシングルになり、またポケットは胸ポケットから腰ポケットになり、ポケットのふたに付いていたボタンがなくなった[174]

背広の左袖の部分には袖章を付けた。所属する女性補助隊の名称と階級を示すためである[# 5]。この袖章は1944年11月29日に三軍すべての女性補助隊が国防軍女性補助隊に改組され彼女たちの階級が細かく制定されたのを機に大きく変更された[175]。それ以外に通信女性補助員の場合は黒ネクタイや左上腕部に通信隊を示すブリッツ(雷光)章を入れた。このブリッツ章のために彼女らは「ブリッツメートヒェン(de:Blitzmädchen, カミナリ嬢)」と呼ばれていたという[174]

帽子は略帽に似た物を支給されたが、男性軍人達が着用する略帽は円形章が付いているのに対して、女性補助員の略帽にはこれが付かず、鷲章だけが付いていた[173]。指導員階級の女性補助員は帽子に銀コードのパイピングを付けていた[175]

防寒着としてグレーのオーバーコートも支給されていた。オーバーコートは一列4個のダブルボタンになっており、ボタンなしのふた付き腰ポケットが左右に付いている。背部は男性軍人のオーバーコートと同様に裾から腰までにかけて切り込みが入っており、長方形の調整バックル付きのハーフベルトが付いていた[174]

作業用スモックも支給された。上記の制服は外出着として着用し、日常勤務にはこのスモックを着ることが多かったようである。スモックは6個の前ボタンで、右胸に鷲章が入っている。ポケットは付いていない物が多かったという。襟に取り外し式の白い襟ライナーを付ける者もいたようである[176]

また彼女たちには革製ハンドバッグが支給されていた[173]。占領地で勤務にあたる女性補助員には派手な格好やアクセサリーは禁止されており、最低限のメイクのみが許された[173]

注釈[編集]

  1. ^ しかし新米の下級将校などはあまり資金に余裕がなくオーダーメイドの費用を出し惜しんだり、またオーダーメイドしても消耗を避けるために野戦などでは使用を避ける傾向が強かった。そのため支給軍服に将校の徽章を付けただけの物も多く見られる[5][6]
  2. ^ Mとは「Model」の略である。1935年に制定されたのでM35野戦服とするのが自然と思われるが、日本や英語圏の国ではM36野戦服と呼びならわすのが通例となっている[7]
  3. ^ ただし襟元に佩用する騎士鉄十字章騎士戦功十字章の受章者はネクタイの着用義務はなかった[87]
  4. ^ 女性補助隊には通信女性補助隊の他にドイツ兵の福利厚生に携わる福利厚生女性補助隊、陸軍の各地の司令部で事務をこなす本部付女性補助隊、掃除や炊飯などを担当する雑役女性補助隊、陸軍の乗馬訓練学校で働いていた調馬女性補助隊などがある。1944年11月29日に三軍のすべての女性補助隊は国防軍女性補助隊(de:Wehrmachthelferinnen)として統合された[172]
  5. ^ 女性補助員には特有の階級が存在した。はじめ各女性補助隊ごとに階級制度は別々だったが、1944年11月29日に全ての女性補助隊が国防軍女性補助隊に統合されると階級制度も統一された。その階級をみてみると下から女性補助員 (Helferin)、上級女性補助員 (Oberhelferin)、高級女性補助員 (Haupthelferin)、軍務女性指導員 (Truppführerin)、上級軍務女性指導員 (Obertruppführerin)、業務女性指導員 (Dienstführerin)、上級業務女性指導員 (Oberdienstführerin)、高級業務女性指導員 (Hauptdienstführerin)、本部付女性指導員 (Stabsführerin)、上級本部付女性指導員 (Oberstabsführerin) となっている[175]

出典[編集]

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参考文献[編集]

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関連項目[編集]