趙敬

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趙 敬(ちょう けい)は、宗室の祖。廟号翼祖(よくそ)。順祖珽(てい)中国語版の男子。太祖太宗の祖父。

宋史』によると、末に涿3州の刺史を歴任したという[1]が未詳。任官以前に瀛州清苑県(現中華人民共和国河北省保定市、宋代の保州保塞県)の劉昌(りゅうしょう)に人柄を見込まれて息女の婿に迎えられていたと伝え[2]、その劉氏との間に太祖、太宗の父弘殷(こういん)中国語版(宣祖)を成した。

年未詳であるが忌日は4月12日で、後周顕徳年間(954年 - 960年)に左驍衛(ぎょうえい)上将軍中国語版を追贈、太祖が宋を興した建隆元年(同960年)に簡恭皇帝(かんきょうこうてい)とされ、幽州に山陵が営まれて定陵(ていりょう)と名付けられた[3]。その後、真宗景徳元年(1004年)に京師に近い河南県に改葬され、大中祥符5年(1012年)には簡恭睿徳皇帝(かんきょうえいとくこうてい)と追号された[4]。なお、真宗の崩御後の乾興元年(1022年)に真宗の陵名を永定陵と定めるに際して、陵名は靖陵(せいりょう)と改称されている[5]

ちなみに、妻劉氏は簡穆皇后(かんぼくこうごう)と諡され、夫妻が居したと伝える保塞県は「(宋の)皇家の故郷」とされた[6]

脚注[編集]

  1. ^ 巻1本紀第1(太祖1)。
  2. ^ 蘇舜欽「内園使連州刺史知代州劉公墓志」(『蘇学士集』巻14所収)。
  3. ^ 李攸『宋朝事実』巻1祖宗世次翼祖条。諡号と陵名は翰林学士竇儼の撰定。
  4. ^ 李前掲書。
  5. ^ 李燾『続資治通鑑長編』巻99、真宗乾興元年7月戊寅条。
  6. ^ 蘇前掲志。