趙建徳

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術陽王 趙建徳
南越
第5代王
王朝 南越
在位期間 前112年 - 前111年
姓・諱 趙建徳
生年 不詳
没年 元鼎6年(前111年
明王

趙 建徳(ちょう けんとく、ベトナム語: Triệu Kiến Đức)は、南越の第5代(最後の)王。即位前は術陽侯に封ぜられていたことから、術陽王と称される。

生涯[編集]

明王趙嬰斉の庶長子として生まれた。元鼎5年(紀元前112年)、相の呂嘉が兵を起こして哀王趙興と樛太后を殺害すると、南越王として擁立された。呂嘉は韓千秋らの軍を殲滅した。

元鼎6年(紀元前111年)、漢の伏波将軍路博徳と楼船将軍楊僕武帝の命を受けて派遣された。路博徳は桂陽を出て匯水を下り、楊僕は豫章を出て横浦を下った。漢の諸軍は番禺で合流して城を包囲した。漢軍は南越軍を破って、城を焼き払った。術陽王と呂嘉は海上に逃れたが、路博徳の部下に捕らえられた。ここに南越国は滅んだ。

参考文献[編集]

先代
哀王
南越の第5代
前112年 - 前111年
次代
滅亡