趙バツ
| 本来の表記は「趙眜」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。 |
| 趙眜 | |
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| 南越 | |
| 2王 | |
趙眜陵墓より出土した絲褛玉衣
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| 王朝 | 南越 |
| 在位期間 | 前137年 - 前122年 |
| 姓・諱 | 趙眜(または趙胡) |
| 諡号 | 文王、文帝[1] |
| 生年 | 不詳 |
| 没年 | 前122年 |
| 陵墓 | 南越王墓 |
趙 眜(ちょう ばつ)は、南越の第2代の王。趙佗の孫である。陵墓が現在の広州市象崗山にあり、南越王墓と称されている。
目次 |
生涯 [編集]
前137年(前漢建元4年)、初代南越王である趙佗が薨去した。薨去時100歳を超す高齢であったことからその息子はすでに死去しており、孫の趙昧が王位を継承した。
前135年、閩越王鄒郢が南越へ侵攻する事件が発生した。王位を継承して間もない趙眜は民心が不安定であったことから、前漢武帝に上書し、閩越による南越攻撃を伝え、同時に漢朝による事件の処理を上奏した。武帝はこの上奏に応え、王恢、韓安国を派遣し閩越討伐を計画した。しかし漢軍が南嶺を越える前に閩越王弟の余善は叛乱を起こし、鄒郢を殺害し前漢朝に帰順し、軍事行動は停止された。
武帝はその後余善立を新たな閩越王に封じ、中大夫厳助を南越に派遣し事件の善後策を講じた。これに深い感謝した趙眜は事件の処理が完了した後に自ら前漢に入朝し武帝に謁見すると厳助に伝えると同時に太子の趙嬰斉を前漢に送り宿衛とさせた。
厳助が帰国すると、武帝により漢朝にとどめ置かれ、南越が亡国となることを恐れた南越の大臣は趙佗の遺訓を以って趙昧に対し入朝中止を要請する。この要請を容れた趙昧は病気を理由に入朝を拒絶した。
前122年、趙眜が重病となると、太子の趙嬰斉をの帰国を前漢朝に上奏、薨去後は趙嬰斉により王位が継承された。
陵墓 [編集]
趙眜薨去後、南越国都城番禺の西北(現在の広州市象崗山)に陵墓が築かれた。1983年、工事中に偶然発見され、南越王墓と称された。陵墓内からは1000点を越える副葬品が発見され、嶺南地区で最大規模の陵墓となっている。1988年には西漢南越王博物館が建築され、出土品が保存、展示されている。
『史記』の記述について [編集]
『史記』では南越第2代王を趙胡と記録しているが、南越王墓より趙眜の玉印及び文帝行璽の金印が発掘されると、その姓名は趙眜が正しいものであることが確認された。
関連項目 [編集]
脚註 [編集]
外部リンク [編集]
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