貴田孫兵衛

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貴田 孫兵衛(きだ まごべえ、生没年不詳)は、 戦国時代の武将で、加藤清正の家臣。実名は「統治」ともされるが不詳。

俗に「加藤十六将」の一人とされる。九百余石を知行していたといい、文禄・慶長の役には鉄炮衆四十名を率いて従軍した。『清正記』は加藤軍のオランカイ(満州)攻めの際に討死したとしているが、その後も清正の書状に貴田孫兵衛の名があるためこれは誤伝らしい。その最期は不明であるが、孫兵衛の一族は、加藤家改易後細川藩士となっている。後述するように、孫兵衛は毛谷村六助の名で有名であるが、史実と伝説との区別が必要である。

豪傑毛谷村六助と論介伝説[編集]

江戸時代の軍記本『豊臣鎮西軍記』に、貴田孫兵衛は前名を毛谷村六助といい、女の仇討ちを助太刀したという物語が載せられ、これが天明年間に人形浄瑠璃『彦山権現誓助剣』として上演されて人気を博し、後には歌舞伎の演目にもなり、大正時代には映画化もされている。更に1960年代に韓国の民間伝承論介伝説と結び付けられ、晋州城で殺されたことにされたが、もちろん史実ではない。大分県中津市には木田孫兵衛(毛谷村六助)の墓なるものがあり地元ではこの地で62歳で亡くなったと伝えているが、歌舞伎等で有名になった後に作られたものである可能性もある。

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