谷公士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
谷 公士(たに まさひと、1940年(昭和15年)8月7日 - )は、日本の元郵政官僚。石川県出身。郵政事務次官、人事院総裁等を歴任。
[編集] 略歴
- 金沢大学附属高等学校卒業
- 東京大学法学部II類卒業
- 1963年(昭和38年)9月23日: 昭和38年度国家公務員採用上級(甲種)試験(区分・法律)合格
- 1964年(昭和39年):郵政省入省
- 1978年(昭和53年)7月11日: 郵政大臣官房文書課調査官
- 1979年(昭和54年)7月14日: 関東郵政局人事部長
- 1980年(昭和55年)7月1日: 内閣法制局第二部参事官
- 1985年(昭和60年)7月1日: 郵政省電気通信局電気通信事業部監理課長
- 1987年(昭和62年)6月19日: 郵政省電気通信局総務課長
- 1988年(昭和63年)6月10日: 郵政大臣官房文書課長
- 1989年(平成元年)6月30日: 郵政大臣官房審議官
- 1991年(平成3年)6月4日: 郵政大臣官房人事部長
- 1992年(平成4年)6月23日: 郵政大臣官房総務審議官
- 1994年(平成6年)7月1日: 郵政省貯金局長
- 1995年(平成7年)6月21日: 郵政大臣官房長
- 1996年(平成8年)7月1日: 郵政省電気通信局長
- 1998年(平成10年)6月19日: 郵政事務次官
- 2001年(平成13年)1月5日: 依願退官
- 2001年(平成13年): 財団法人マルチメディア振興センター理事長
- 2001年(平成13年): 財団法人郵便貯金振興会理事長
- 2001年(平成13年): 財団法人日本データ通信協会理事長
- 2003年(平成15年): JSAT株式会社取締役会長
- 2004年(平成16年)4月5日: 人事官
- 2006年(平成18年)4月12日: 人事院総裁
- 2008年(平成20年)4月4日: 任期満了
- 2008年(平成20年)4月8日: 人事官・人事院総裁(再任)
- 2009年(平成21年)9月11日:人事官・人事院総裁を辞職
[編集] 公務員制度改革を巡って
2009年、公務員制度改革を巡って麻生太郎内閣と人事院総裁として対立した。2009年2月3日、麻生太郎が本部長を務める国家公務員制度改革推進本部は、「公務員制度改革に係る「工程表」について」を決定し、3月31日には「工程表」にもとづく国家公務員法改正案が閣議決定された。この内閣の動きについて谷は会見で、「政府案は公務員制度改革基本法の範囲を超えている。(公務員は全体の奉仕者とする)日本国憲法第15条に由来する重要な機能が果たせなくなり、労働基本権制約の代償機能も損なわれると強く懸念する」と指摘し、人事院の意見が取り入れられなかったことに対し遺憾の意を表明した[1]。「内閣人事・行政管理局」に級別定数、採用試験、研修を移管することは改革基本法の枠外であるとし、とりわけ級別定数の問題は公務員の労働基本権制約に対する人事院の代償機能を損なうものであると政府案を批判した。また、自ら人事院担当記者や各紙論説委員に対して説明を何度も行い、積極的に改革案に反対する人事院の見解を発信したとされる。[2]。
谷と折衝した甘利明大臣は谷の態度を不遜であると記者に話し[2]、自民党選対副委員長の菅義偉は総裁辞任を求めた[3]。フジテレビが2月5日に行った世論調査にでは、「麻生総理が本部長として主催する公務員制度改革の会議に欠席した谷公士人事院総裁は辞任すべきだと思いますか」との質問し、44%が「辞任すべき」と答えた[4]。谷はこれらの辞任の声に対して「当面辞めるつもりない」と回答した[5]。
2009年9月に政権交代を機に人事院総裁を辞任した。
[編集] 脚注
- ^ 「人事院反対のまま『工程表』決定――政府公務員制度改革本部」『人事院反対のまま「工程表」決定 政府公務員制度改革本部 - MSN産経ニュース』産経デジタル、2009年2月3日。
- ^ a b 谷人事院総裁「ミスター渡り」の異名 メディア操作し組織防衛2ページ目(産経新聞2009年2月3日)
- ^ 自民党:人事院総裁の辞任要求…菅選対副委員長(毎日新聞2009年1月31日)
- ^ あなたは解散時期について、どう考えますか。(フジテレビ放送『新報道2001』2009年2月5日)
- ^ 人事院総裁:「当面は辞めるつもりない」公務員改革巡り(毎日新聞2009年2月2日)
|
|
|